寒月夜













 不意に、夜の底が動いた。

 如何に鍛え上げられた躰とはいえ、素肌を晒して眠るには未だ早すぎる睦月の夜。
 大寒を間近に控えたある夜、障子越しに差し込む月明かりが微かに赤石の頬を照らす。その冷たく、凍り付く霜夜のような光が殊更に眩しかったという訳ではないが、瞼を貫くような明るさに照らされて微かに意識が浮上しかけていた折、赤石は喉の渇きを覚えてうっそりと体を起こした。

 中秋の名月には月見のための人が集まるのも道理と思える程、月明かりが殊更に美しく差し込むよう作られたこの離れには、常夜の人工光というものが殆ど存在していない。差し込む月光が明るければ明るいように、暗ければ暗いなりに、月齢で変わる光量すら趣に変えて見せるため、わざと明かりは最小限に抑えたのだ、とこの屋の主が語っていたのを思い出す。最も、当人にとっては夜の暗闇こそが己の味方であり、明るい日の元など存在するのもぞっとする、というような生活が長かった故にか、時折闇の中で己の本性を思い出すためにこの離れを造った、というのも強ち嘘ではない話なのかも知れなかったが。
 年末、年始と赤石が一年で一番多忙な時期を過ごし、久方ぶりの再会に猛る情動を抑えることすら忘れ、餓えかつえた獣のように互いを求めたのが初更。欲し、求められるままにその身を抱き貫き、精も根も尽き果て、伊達が声すら嗄らせて半ば気絶するように寝入ったのが夜半過ぎのことだった。

 こうなった切っ掛けはといえば、十数年ほど前、言葉一つ交わさずに己が表舞台と一度縁を切ったとき、この男の中に決して消すことの出来ない傷を負わせたのが始まりといえばそうなるのだろう。孤高を好み、塾内で一・二を争うほどの勇猛さで知られたこの男が、たった一つ己の存在など失うことを恐れるはずもなく、己が身一つ消えたところでさほどの衝撃では無かろうと、表から消える影響を過小評価したのが赤石の大きな間違いだった。
 幼少期の記憶全てを失うほどの過酷な生命闘争へと追い遣られ、百人のうち一人だけが生き残るという生き地獄を超えて残った存在は、一歩間違えば精神異常の大量殺戮者としての道を踏み出しても可笑しくないほどだった。そうして出会ったあの塾内で互いを対等と認め、生と死の、正と異の狭間で相手の存在故に死に狂ったけだもの達は、群れはしなくともを互いを生きる欲求の対象として据えたが為に、片方が失われ戦が終結を迎え始めた途端、もう片方は己が存在意義を見失い、精神の均衡を崩し始めたのだから。
 正気と狂気のふちで辛うじて留まっている、堅く強い鎧に覆われたこころの一番奥で、僅かに残っていた柔らかな部分へ、赤石が二度と消えることのない「己」という存在を刻んだことに気づかず、その全てを握り潰して消えようとした己の誤算が、「伊達の眼差し」という目に見える罪の形となって現れるのが、毎年この時期だった。
(それでも、忘れ去られるよりは、いい)
 全く見も知らぬ、あかの他人を見るかのような。
 あれほどまでに熱く、射るような眼差しで己を見、隙あらば素手でさえ襲いかかり刃を咬ませ、血を見るほどの仕合となったことも珍しくなかった。そんな闘争心の固まりのようだった男の目が、暗く重い深淵を形にしたように淀み、焦点すらまともに結ぶことなく、ただ唯緩慢な精神の死を迎えようとしていた。久方ぶりの再会を控え遠くから顔を窺っただけだというのに、その時垣間見たあの眼差しを思い出すだけで、大抵のものを恐れぬ赤石の背にすら戦慄が走るほどの昏さだった。あのような昏さはあってはならない眼差しだった。赤石がした自分勝手の結果故と解ってはいるが、あの伊達だけは、もう二度と見たくなかった。

 記憶にこびりついて離れない、と一度だけ恨み言のように桃から語られたことがある。

 己が不在の間、伊達を現世へ縛り付けるかのように、桃を含む数人が代わる代わる赤石の不在を埋めるため、虚ろになった伊達の眼差しを、こころを塞ごうと躍起になっていた頃。日々薄らいでゆく「赤石」の記憶を留める術を持たず、静かに、気配もなく壊れ朽ちてゆく伊達が、時折襲い来る「赤石に関する記憶」との鬩ぎ合いの中で漏らした声や、また声にすらならぬ赤石を呼ぶ息の音が、唇のかたちが、そして何よりもその眼差しが余りにも空虚で、喜怒哀楽全てを失ったかのような伊達の姿が己の目に、耳に焼き付いて離れぬと語ったことがあった。視線は確かに桃を見、指先が触れているのは己の肌だと解るのに、抱き締めた伊達の目に映り、音にならぬ声で呼ぶのは「赤石剛次」そのひとだけだったと。
 だが、それは伊達がかなしく儚いほど弱いものへ成り下がったという訳ではなかった。伊達のこころのなかで、余人の手によって一番奥に潜まされ、本人すらあることを忘れていた小さな想い――情とでも呼ぶべき柔らかなものがあったことを、伊達自身が初めて知ったがための戸惑いであり、その存在が行き場を無くし、消えようとして消せきれず至った状況であったから。
 伊達の心奥で育った柔らかな「情」――友に対するものでも、愛とつくものでもなく、ただその人に惹かれる想い、その存在に対し喚起されるものをそう呼ぶのだろう――は、取り返しがつかなくなるほどに凍てつき、砕け散る直前に赤石との再会を果たし、再び注がれる想いがあって蘇り今に至る。
 そうして越えてきた数年間だが、毎年正月の開けたこの時期だけは、普段皮肉屋で知られる伊達もその様子を欠片すら見せる気配が無かった。小正月間近、どんなに前触れ無く赤石がここを訪れようとも、その瞬間から「情」の発露も顕わにこの奥庭へと引っ込んでしまい、三日ほどは全く表へ出ることなく赤石を求め、餓え乾いたそれを満たす行為で必死になるのが常だからだ。その濃密な三日間が過ぎてしまえば、また普段通りの無愛想で可愛げのない伊達が姿を現すのだが、伊達自身が己の心中を言葉に出すことは決して無いものの、眼差しが、指先が、声が、気配全てで己が餓え乾いていることを伝え、満たされようと必死に手を伸ばしてくる風情は、赤石にしても決して悪いものではなかった。
 先ほどまで己を襲っていたその感情を思い出し、再び蘇らせた喉の渇きと、それ以上に空腹にも似た本能の欲求を覚えて赤石は喉を鳴らした。
 燠火から一気に燃え上がりかけた情欲の熱を一度だけ頭を振って追い払うと、赤石は枕元へ備え付けてある水差しへと手を伸ばし、そっと布団から抜け出して上半身を起こす。特別誂えの五布布団は大の男二人を包み込んでまだあまりあるほどだったが、隣で目を覚まさぬままの伊達の肩が剥き出しになっていることに気付き、首筋までくるみこむように掛け布団を引き上げた。
 再会を果たして間もない頃の伊達は、眠ることすら忘れ、意識を失いきらずに体を休めることにばかり長けていたように思う。そんな相手が気を失うほど、欲を暴き想いも露わに追い詰めて啼かせ眠らせるこの時にだけ、幾分かやつれた青白い頬を見せて眠る姿を見せた。
 その頃と同じように、今も意識を失って静かに眠る伊達の姿は、早々見かけるものではないだけに、まるで魂の抜け殻のような姿にさえ映ることがある。無意識のうちに気配すら消した、あまりにも穏やかなその寝姿に、こいつはこの状態で果たして生きているものなのだろうか、と赤石はふと疑問を抱いた。
 莫迦げた妄想だと、脳の大部分では嘲笑うような色すら浮かべてそう言っているはずなのに、これほどまでに静謐で生色のうすい眠り方をするような男だったか、と降って湧いたような疑いは消えるどころか、ますます強くなって赤石の脳内を侵す。
 赤石は脳から命ぜられる欲求のまま、強い柄糸に擦られ堅くなった掌でなく、皮膚の薄い手の甲を、薄く繊細な壊れ物にでも触れるように、嘗て己が抉った三条の傷跡の上へあてた。
「……」
 先ほどまでかいていた汗が未だ乾ききらぬのか、いつもよりも幾分か湿り、体奥に孕む熱の存在を知らしめるような温もりが、周囲よりも薄い傷跡の皮膚から赤石の手の甲へと伝わって来る。それは確かに息づき、そこへ存在するよく知った生体の温もりだった。
「…ぅ……?」
 如何な深い眠りであっても、流石にひとの温もりに触れてまで眠り続けることは不可能だったのか、深潭とした眠りの底から、伊達の意識が微かに浮上する。己に触れている相手が誰なのか知っているからか、伊達が急に目を開き飛び起きることは無かった。
「…あか、し……?」
 滅多に拝めるものではない、覚醒に惑う伊達の姿。長くはないが、密度の濃い睫が僅かに動いて意識が浮上しかかっていることを知らせている。赤石はその目蓋を片手で覆って、掌をくすぐるように触れる睫へ微かに口角を上げながら、伊達を再び眠りにつかせた。
「まだ夜中だ。寝てろ」
 こくり、と小さく頷く気配。浅くなりかけた吐息を、もう一度すうと深く吸い込む音が赤石の耳へ届く。微かに漏れ聞こえてくる呼吸が、伊達の眠っているときのそれに変わったことを確かめ、赤石は水差しを取り上げ一気に中の水を飲み干すと、失った熱を取り戻しに己も布団へと潜り込む。
 傍らに在る温もりをそっと引き寄せて抱き込み、意識を深く沈めながら、赤石は常にない自分の行動を、存外悪くねぇなと密やかに微笑った。









<寒月夜 了>    







<寒月夜:後書きめいたもの>(反転でお願いします)


今回は珍しく赤石→伊達っぽくなりました。剛次さんに一体何が。

普段どちらかというと伊達の方が色々思っては隠していそうですが、剛次さんもなかなかどうして伊達のことを考えることもあるのですよ、と思ったらこんな文章になりました。剛次さんは一旦嵌ると存外甘やかしーになりそうな予感がします。しかし何故うちの伊達はこうも毎回アレなのか……。もう少し図々しく猛々しいドライな伊達を書いてみたいなあとは思うんですが、どうにも上手くいきません。ちぇ。

そうそう、時間軸的には前回のJ×伊達のあと、年が明けた頃の様子です。
だいたいクリスマス付近に天皇誕生日、年明けが一般参賀なので、年末から年始に掛けて予定が詰まりまくってる方と逢うには小正月付近が一番妥当かなと思いました。本来なら2月11日に紀元節があるのでいっそそこまで引っ張ろうかとも思ったんですが、それでは余りに伊達が可哀想かと思い、途中で一旦逢わせようと思った次第。表には出しませんが剛次さんに密かに甘える伊達が可愛くて好きです。←きっと同士は居ない。

何か感想などありましたらお寄せ戴ければ幸いです。



書きたかったテーマ:
赤石の思い入れ・奥底にあるやわらかなこころ・伊達の寝顔、あたり。






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