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(やっぱり俺は、我慢がきかねえタチらしい) 自嘲するように内心で呟きながら、伊達は額についた返り血を手の甲でぐいと拭う。つい先ほど練武場で浴びたそれはまだ暖かく、湿って乾いてさえいなかった。 人体をざくりと切り裂くように穂先が埋まり、肉を弾き、血管を切り裂いてゆくあの感触が手に蘇る。嗅ぎ覚えのある血の香に刺激されてか、久しぶりに伊達の血がざわめいた。 (それにしても、つまらねえ真似をしたもんだぜ) あの地獄からたった一人生還して覇極流を修めた後、伊達は己を買い取った男に仕え、表には出ることのない裏の「仕事」を請け負っていた。既に自分の正確な年齢も、元の名すら覚えては居ないが、恐らく歳から言えば十二・三歳ででもあっただろう頃、丁度別件の「仕事」で伊達が三面拳と共に出ていた時、雇い主が死んだ。他殺だった。 今となればもう、どんな顔をしていたかさえ定かでない雇い主に対する唯一の記憶は、伊達へ「伊達臣人」という名を与えてくれたことだけだ。謂われを聞いたその時は何を指しているのか全く意味が解らなかったが、後になって納得した。 「date-omit」、すなわち「日付―――過去を除外した者」。 『除外データ、の方がらしいかも知れないが、データでは名字に成り難いからな、いっそ伊達、でそう読ませればより「日本人らし」かろうが』 そう言って笑った男は、あの絶望の淵へ入る以前についての記憶一切を失った自分が、本来は日本国籍を持つ者だということを知っていたのだろう。伊達に残された「嘗ての自分」の欠片は、そうして知らされた「己が日本人である」というただそれだけしかなかった。 過去も記憶もなく、そして今雇い主を無くした孤児―――更には生ける殺人機械でもある―――など、本来ならばそのまま打ち棄てられ、何処なりと野垂れ死にしても仕方がなかった筈だが、伊達の修めた覇極流と、三面拳の一人・月光の極めたチャク家流拳法との連なる縁によって、伊達は三面拳と共に三面寺へ滞在することを許された。 今にして思えば、九十九の屍を踏み越えてから初めて人間らしい生活を送った日々だった。拳法・武技の修行場として、また一方で山号寺号を冠し仏教寺院としての意味合いを色濃く持った三面寺では、戒律・規律の類は厳格に定められており、一般人が傍から見る限り、決して楽な居場所では無かった。だが、どれほど過酷な修行であろうと、伊達が覇極流に預けられた頃と比べてそう変わり映えはしなかったし、ましてや己一人必死で生き抜いたあの日々を思えば、この世のどんな場所であっても、真っ当な人間の食物があり、闇夜に目を懲らし、気を張り詰めながら敵襲を警戒せずに居られるだけで充分だったのだ。 そうして一年余りが過ぎたころ、三面寺と覇極流首脳陣の中でどのような話し合いが行われたのかは知れぬが、恐らく伊達が日本人であることから、普通の、とは言えないまでも、所謂「学生生活」を経験すべきとの結論が出されたのだろう。詳細な理由は不明なまま、その年の晩秋に伊達は、とある伝手を辿って日本の私塾へ編入させられることとなった。 編入前に一通りの筆記試験と、何よりも重要であったらしい塾長との面接があり、そのどちらについても伊達は造作なく通過したものの、それ故に何やら解らない「筆頭」などと言う面倒な役職を押しつけられたことにだけは閉口した。伊達の編入が決まってすぐ、三面拳は自分たちも伊達と共に在りたいと入塾を望んだが、何分にも当時の世相と、旅券や査証についての手続きが順調に行かなかったせいもあり、三人は新年度からの合流と言うことで話は着いたようだった。 中国から日本へ来ることについて、伊達が何か特別な感慨を持っていたかと言えばそれは本当に僅かなものでしかない。今更「自分の肉親を捜したい」とか、「己の縁を辿って本当の自分が誰なのか知りたい」などとは全く思っていないからだ。今更過去の己を見つけ出し再会を果たしたところで、その自分が送るはずだった人生などへ戻れる筈がないことを、本能的に悟っていたせいもあったろうか。 伊達にとっての記憶は今ここにいる自分、「伊達臣人」自身のものであって、「伊達臣人」たる以前の己になりたいとも、またなれるとも思っては居ない。伊達自身の人生は、「伊達」以前―――あの地へ至る以前の、取り戻すべくも無い過去の己と、あの地より生還し、今ここへ息づいている自分との間で確かに二分されてしまったのだから。 だが、記憶さえ朧な己の「生まれ育った国と、その地で生きる人を知りたい」という、有るか無きかほど微かな欲求を満足させるための代償としてこの日々があるならば、仕方ないと思うことにした。そうでもなければ堪えきれぬほど、この平和呆けした安全な国では、伊達自身が生きるための根源とも言うべき闘争本能を、日々鈍らせてまで滞在する理由が見つからなかったからだ。 何か己の血を沸き立たせるような戦闘が、一つや二つあるならばいざ知らず、血腥いのは三号の上層部のみで、先だってその三号生との大きな戦を終え、残り滓ばかりで著しく戦力の落ちたこの面々では、話にならぬ事この上なかった。 名ばかりの「筆頭」とは言え、率いるには弱兵ばかり、それでもまだ本人たちの意気軒昂であればどうにかできただろう。だが、先の戦で余程懲りたのだろう、牙を抜かれ、身を縮め、息を潜めるように暮らしている他の一号生を見やれば、この先の展開など火を見るよりも明らかで、それ故に伊達は、ここへ大人しく滞在する理由を見つけられずにいた。 ―――だから、これは起きるべくして起きた事件だったのだ。 今回の件とて、伊達は誰かを庇おうなどという殊勝な考えの基に起きたわけではない。言うなれば伊達は、単にこの平穏に「倦んで」いたのだ。事ある毎に聞く先の三号との戦は、選ばれた八名のうち数人が勝ち目など無いと解っていながら、果敢に挑み果てて行ったという様子ひとつ、伝え聞くばかりで誰一人正確な情報を持つものは居ない。伝聞でしか話す者のない物語は、殆どと言って良い程語り手の勝手な解釈や誇張が含まれてしまう。現場を見たものが居らぬ中でただ三号生の恐ろしさ、残忍さばかりを大仰に騒ぎ立て、居もしない影に怯えて暮らしているような一号生達の現状が、伊達には無性に腹立たしくて仕方がなかった。 (見てきたように、とはこういう事かよ) 死にたくないから、痛い目には遭いたくないから、語られた言葉を鵜呑みにして、疑問を抱くこともなく従順に支配され、その言いなりになって行く。異論を唱えることや反論すら無く、ただひたすら己の保身に汲々としているこの姿が、音に聞こえし「男塾」一号生として全うすべき姿勢とはとても思えなかった。 (だからといって、俺に何ができた) この状況を共に語る相手も、心を許すような存在さえ誰一人無く、身体を衰えさせず、技を忘れぬ為の鍛錬ならば欠かさず行いはしたものの、伊達自身の本質は、戦の中でこそ磨き育てられる類のものであるが故に、戦のない日々などは徒に気力を消耗するばかりでしかない。せめて、伝え聞くばかりであった先の戦に自分が加われたならと思いはするが、既に終わった話では如何ともしようがなく、伊達はただ鬱々とした日を送っていたのだ。 (信頼に足る将……三面拳さえ此処に在れば) 伊達はあの三人に対し、自分が精神的に依存していたとは思っては居なかったが、せめてこの場に三面拳が居たならば、結果は違っていただろうと思う。堪えるにせよ、止めるにせよ、此程までに自分が焦燥させられずに済んだ筈だった。 己と同質の者が居ない孤独は、予想以上に伊達の精神を疲弊させていた。伊達の貌に傷を付けたあの男が「自分は教官なのだ」という理由ゆえに、塾生へ向かって振り上げた拳を下ろさぬわけには行かなかったのだとしても、そうして打たれた者が唯々諾々として相手に従わねばならぬ、という道理は、そのときの伊達の中には無かった。勝者こそが、強者こそが生き残るあの奈落で、唯一生き残ってきた己の存在こそがその道理故の結果なのだから。 だからこそ―――本当に些細な切欠で伊達の導火線に火は点され、この「事件」は起きてしまったのだ。 練武場から塾の敷地を出で、伊達は寮へ向かって人気のない路地を走っていた。この事件がいずれ中国へ伝わるとして、戻るにせよこのまま国内に身を潜めるにせよ、間もなく来日するはずの三人を待ってからの行動になるであろうし、そのためには当座を凌ぐための物資や通貨が必要だったからだ。 (……あいつらに、なんと言おう) 伊達は己の行動が間違っていたとは思わぬし、それに関しては三面拳が己を責めはしないだろうということも解っている。だが、結果として男塾を捨てねばならぬ羽目に陥ったことは、紛れもない事実であった。 寮へ向かい足早に小道を走り抜ける自身の鼻腔へ、死人以外の血の気配が漂って、伊達はふと足をとめる。 (……ん…?) 血の匂いと共に、何とも言い難いむず痒さをも感じて、伊達は己の頬へ手を伸ばした。 「……ああ」 それは驚くほどでもない、自分自身の頬から流れた血の感触だった。先程伊達によって命を落とした教官から、六忘面痕なぞと言われて片頬ごとに三条、計六条の傷を負わされた。その切り裂かれた部分から、未だ止まらぬ血がじわじわと滲んでいる。 (六忘、ってぇと……智と悌はあるってか。笑わせやがる) 無論、教官を弑逆した自分の行いは間違いなく不忠者の謗りを免れまいと伊達は思う。だが、もともと持っていなかったものか、いつの間にやら失われたものかは知らねど、これまでの己の過去を思えば六忘などで済まされたそのことが、伊達にとっては既に笑い話としか思えなかった。 (下手すりゃ人間以下、畜生あたりの扱いだろうがよ) 九十九の屍を踏みしめ、唯一の生者として残った存在が、今更真っ当な扱いを受けたいなどと望む筈も無い。汚泥を這いずり回り、血で喉の乾きを潤し、時には―――空腹の余り屍肉すらも口にしたあの地獄を知れば、己を人間扱いできるはずがない。 (二つっきり残したりなんざしねぇで、いっそ八本付けりゃあ良かったものを) そうなれば自分は本当に、「ひと」では無く成れた―――自分をひとに戻してくれたあの三人さえもを忘れて。 通りすがりの公園で、伊達は頭から水を被って顔に付いた返り血を洗い流すと、濡れて乱れた髪はそのまま、人目に付きやすい学ランもついでに部屋へ脱ぎ捨てようと思い立つ。 未だ「事件」が伝わっては居ないらしい寮の、開け放たれたままになっている二階の窓から内部へ入り込んで私服に着替え、必要最低限の荷物だけを懐に捩じ込むと、伊達は何もかもを振り捨てるかのようにその場から立ち上がった。 「……行くか」 寮を出、伊達は三面拳が着くまでの間、入国直後に一時だけ滞在したことのある三面寺縁の寺へ身を寄せようと、微かな記憶を頼りに人気のない道を探して歩き始める。 「おい、そこのお前」 暢気そうな言葉とは裏腹に、突然振り下ろされた剣圧が空気を破る。 「……赤石!」 ある意味では予想通りの追っ手だった。「教官殺し」という衝撃的な言葉の前では、如何に武道自慢の男塾教官連と言えど、己の命は惜しかろう。となれば自然、塾生たちが追っ手として徴用されるのが当然の筈だ。 だが、三号の主立ったメンバーは現在遠征の途にあり、残るは一号に対しあらゆる優先権限をもつ二号生のみとなる中で、伊達という稀代の一号筆頭に対抗し得る技術と精神力、そしてこの状況を面白がれるほどの狂気を持ち合わせている男と言えば、この赤石剛次くらいしか存在しなかった。 「伊達……とか言ったな。反抗にしても、随分とお痛が過ぎやしねぇか?」 周囲を圧倒する雰囲気を纏った二号生筆頭の男が、周囲の沈黙を破り伊達の眼前に姿を現す。居合いのように一度空気を断ち、その後鞘へと収められた刀を担いで、とん、とんと緩やかに調子を取りながら、少しずつ伊達との距離を狭めてくる。 首を傾げ、片目を眇めながら伊達へと歩み寄ってくる赤石の特徴とも言うべき白髪が背後の傾いた陽に照らされ、返り血を浴びたかのように朱く染まっていた。 「……これはこれは二号生筆頭殿。わざわざお見送り戴き恐悦至極。にしても、随分と物騒な出で立ちで」 慇懃無礼をそのまま形にしたような態度を見せつつも、伊達は不自然すぎるほどの自然体で己との距離を詰めてくる目の前の男に対し、己の警戒を極限まで引き上げる。 「人一人殺したってえ割には、びびってねぇなぁ貴様。……ひょっとして、経験者か」 「……さぁ、どうだかな」 言葉ではそうと答えず言外に肯定したつもりの返事が、果たして目の前にいるこの男へ伝わったのかどうか甚だ疑問ではあったが、伊達は腰裏に忍ばせた槍へそっと手を伸ばした。 筆頭同士とは言え、途中編入してきた身では今まで改めて互いに紹介し合うことなど有り得るはずもなく、名前やその為人についての話ばかりを伝え聞くものの、互いにはまともに一面識さえないまま、この場に臨んでしまった。 「……待てや、ここで闘り合うんじゃ場所が悪ぃ。……ついて来い」 微かな、だがはっきりとした伊達の闘気が兆したことを読み取ったのか、赤石は伊達にそれだけ言って背を向け、先に立って歩き始める。本来自分が置かれた状況を思えば、この時伊達はわざわざ赤石について行かねばならぬ義理はなく、この場から逃げ去り行方を眩ませてしまえば良かったのだ。 しかし、伊達に対する赤石の行動が既に追っ手としての常軌を逸していたが故に、伊達はこの男から逃れる機会を永久に失ってしまった。 (こいつ、本気で俺と殺り合おうってのか……?) 伊達にせよ赤石にせよ、これから対峙しようという人間の力量を知らず、恐らくは自分と同等か、もしかすればそれ以上かもしれぬ実力の持ち主と戦おうというのは、余程の命知らずか「死狂い」でしかない。この時の赤石に、伊達は己と同じ血の匂いでも感じ取ったものか、誘われるままその背を追って歩んだ。 ―――それが、新たな「伊達臣人(じぶん)」への始まりだったとは知らずに。 夕日が残照を残してその身を地へ沈めた道を、二人は常に一定の距離を保ちながら五分ほどを進む。鬱蒼と生い茂る木々が張り出し、壊れかけた石塀の連なる小路地へ折れると、やがて見えてきた石塀の途切れから赤石は躊躇いもなく敷地内へと入って行き、伊達もその後に続いた。 冬枯れた野草が風に揺れる野を掻き分けて進んだ先には、常在するものも訪なう者さえ無い、寂れきった寺があった。 「まだ廃寺になっちゃあいねえが、遠くっから通いの坊主しか来ねえような寺だ。こんなことにはうってつけだろうがよ」 小さな街灯がぼんやりと周囲を照らす下で、逆光の故にか真っ黒な影のようになった赤石が口を開く。 「そうだな、寺なら埋める場所にも事欠かねえ」 宵闇に目を閉じ、視界に頼らず赤石の気配だけを探ろうとする伊達は、それでも言葉だけは憎まれ口をたたいて見せる。 「……言いやがる。埋けられてえ場所があんなら、言って逝けや」 人を食ったような伊達の台詞へ不敵な笑みを浮かべると、赤石は背に負う斬岩剣をすらりと抜き放った。 「じゃあ始めるとするか、脱走者狩りをなァ!」 途端、その両眼から灼熱の焔かと見えるほどの闘気を放ちながら踏み込んできた赤石の刀が、伊達の首筋を掠める。 「…ッ!」 その一刀を薄皮一枚で躱した伊達は、赤石が最初の一撃が己の頸動脈を狙い済ましてきたことに気づき、久方ぶりに戦で滾って来る己の血を感じた。 伊達は腰裏のベルトに止めた蛇轍槍を外して手槍の長さに組むと、再び上方から振り下ろされた斬撃を、地で一転して避ける。 「なかなかやるなぁ、貴様。……俺の一太刀目を躱せる人間は、そう多かねえ」 「こっちにも大人しく斬られてやる義理は無ぇからな。……いくぜ!」 言い終えぬうち、伊達は繰り出した穂先を自在に操りながら、赤石の技量とその刀の間合いを読む。 普通の日本刀とほぼ同じ刃渡りであるそれは、名工の手によって鍛え上げられた業物であろうと推測できるものの、あれだけの刃風を起こす赤石の振りには、完全について行けるとは到底思えなかった。 (あの勢いへまともに打ち合えば、あっという間にこっちの穂先がイカレちまう。多少長丁場にはなろうが、この男の剣圧に、いずれ恐らく刀の方が持たなくなるに違いねえ。その隙さえ狙えれば……) 敢えて手槍の長さに止めたが為、伊達が本来得意とすべき長槍の間合いでは無かったが、その神業ともいうべき技倆と隙を見せない突きに、赤石は僅かだが追い詰められつつあるように見えた。 「……まさか、逃げるばかりが得意とか言うなよな、センパイ」 「ほざけ!」 一際大きな伊達の突きを赤石は地に片手をついて回避すると、そのまま伊達へ向けて足払いをかける。 赤石の体躯からは想像できぬほど早い廻し蹴りに、伊達は瞬時に地を蹴って避け、続けざま上半身を薙ぐように打ち込まれた白刃を、前髪一房を犠牲にして逃れる。 久しぶりに、一瞬の油断もならぬ闘いだった。隙を見せれば、その瞬間に赤石は容赦なく打ち掛かり、この首を落とすに相違ないと思えるほどの手練れだった。 「てめえ、化け物か……」 実戦から遠ざかって久しかった伊達の息が、探り合うこの闘いで消耗したのか、少しずつ上がり始める。覇極流を極めてからこの方、己とここまで長時間拮抗して闘えた相手は、殆ど居なかった。目の前にいる男に、むざむざ自分が倒されるとは全く思いはしなかったが、一分の隙さえも見せられぬ事だけは解った。 ―――久しぶりに味わう感覚だった。 赤石の強靱な体力と気迫、倒さぬ限りは決して尽きぬであろうこの戦闘意欲が恐ろしく、だがそれが途方もなく己の血を沸き立たせる。赤石か自分のいずれどちらかが果てて終わらねばならぬ闘いである筈なのに、何故かいつまでもこの時間が続いて欲しいとさえ思った。……そしてそれは、赤石も同じであるようだった。 「面白ぇなあ。今までよくもまあ、こんだけの能力隠してくれてたもんだぜ。……全く面白え。……あの下衆教官に感謝しねえとな」 咽喉の奥でくくっと押し殺したように笑いながら、赤石が愉快そうに目を眇める。 「そんなに感謝したけりゃあの世でやってやれ!」 言葉と共に、伊達は手槍の長さに留めていた蛇轍槍を一瞬にして元の長さに伸長させると、赤石の心臓めがけて渾身の一撃を突いた。 「食らうか!」 赤石は半身を退いて突きを躱すと、伊達に出来た一瞬の空隙を衝いて、戻ろうとする槍の穂先を素手で掴み、己の方へ引き寄せる。 「必殺、ってえやつか? どうやら避けられたのは初めてだったらしいな」 「くそ、離せ…っ!」 研ぎ澄まされた刃が掌を切り裂くのにも構わず、赤石は引き寄せる力を緩めるどころかなお一層増して、伊達との距離を詰めた。 (一体何なんだ、こいつ……!) 初めて見切られた。手元で伸縮するこの突きは、最初から手槍のみの長さで戦ってしまえば、突然手元から伸びたような錯覚を起こすために、殆どの人間が躱せず、致命傷を負ってしまう。目標を暗殺するか、または相手の戦闘意欲を削ぐという目的には充分有効な手段だったのだ。 「……それならそれでショックも解るが、その分……」 (しまった―――) そう伊達が考えた一瞬のち、赤石はぐい、と無造作に片手を伸ばすと、伊達の襟髪を引っ掴み傍らの木へ投げ飛ばす。堅い幹に当たって一瞬息の詰まった伊達の鳩尾を、赤石は斬岩剣の柄頭で思い切り打った。 「っ、ぐ……!」 意識は失わぬ程度に、だが確実に戦闘意欲だけを削ぐように打たれ、伊達の息が一瞬止まる。幾ら隙を衝かれたとは言え、伊達にとってこの程度の打撃で戦闘意欲を喪失するはずもなかったが、敢えて刃では突いてこなかった赤石の思惑を知ろうと、身動きの取れない「ふり」を試みた。 「しかし、随分男前にされたもんじゃねぇか……ようやく被ってた猫引っ剥がしたからか?」 赤石は刀をおさめると、その上体を被せるようにして伊達の顔を上から覗き込み、腕を顎に押しつけて伊達の顔を上向かせた。 「……ぐずぐずしてねぇで、殺るんならさっさと殺らねぇか」 咽喉元に押しつけられた腕のせいで、言葉にならない声を発して答えると、赤石は伊達の下顎を掌で覆うように掴む。それを阻止すべく蹴り上げた足は、赤石の膝に止められてその目的を果たせなかった。 「伊達よ、やんちゃも程々にしとけや。……うっかり手が滑って殺しちまうだろうが」 煌々と光る赤石の瞳の奥に、並の人間ならば見つけることさえ不可能な「死狂い」の気配を感じて、伊達は一瞬目を見開く。 (まさか、こいつも……?) 見るもの全てを焼き尽くしかねないほどに熱く、剣呑な光を湛えた赤石の視線が、己の奥に押し隠した実体を透かし見ようとしているようで、伊達は初めて他人の視線を恐ろしいと感じた。 「目ぇ、逸らすな」 己から視線を外そうと顔を背けかけた伊達の頬をぐいと掴むと、赤石は無理矢理自分の方を向かせる。その際、右頬最上段の傷に赤石の右手拇指が触れ、今まで忘れていた痛みを一瞬蘇らせたのか、伊達の表情が僅かな苦痛に染まった。 「……っ……!」 これまで全く余裕を失わなかった伊達がようやく表情を変えたことが気に入ったのか、赤石は興がって伊達の頬を掴む指先に力を込めた。 「……く…ぅ……」 赤石の指先が、ぐしゃりと血の乾きかけた皮膚を破りながら、刀で筋をつけられただけだった伊達の傷を更に深く抉る。 右の最上段を拇指が、左の三筋最上段に食指、中段を高高指、下段へ紅差指がそれぞれ食い込んでゆき、単なる切創で済む筈だったそれが指先に裂かれることで、再構築されるべき細胞の形を無理矢理変えてゆく。傷口から滴る血はまるで赤石の指先から零れ出ているかのように流れ落ち、伊達の頬を伝い首筋へと滴った。 「ッア……ぁ……」 赤石の指先が熱いのか、伊達の血が熱いのか。ぽたり、と肌を打つ血の滴が異様な熱を持っているように感じられて、伊達は微かに身を震わせる。その震えを感じ取ったのか、赤石が咽喉の奥からひくい笑いを漏らした。 「衝動とは言え、教官殺しまでしたてめぇがまさか、怖くて震えてるって訳じゃ無えだろうなぁ?」 違うに決まってる、と答えたくとも、声は赤石の掌に封じられて言葉にならない。いっそこの手に噛み付けば真意を伝えることが出来るだろうかと考えて、伊達は一瞬目を細めた。 「馬鹿な考えは起こさねぇ方がいい。そのツラ、二目と見られねぇようになっちまうぞ」 にやりと禍々しい笑みを浮かべて、赤石は指先を染めた伊達の血を舌で拭う。赤黒く酸化して固まりかけた血と、奥から滲んだばかりの鮮紅色が混ざり合いながら、赤石の口元が伊達の血で赤く彩られた。 (こいつも、人食い、だ……) 人を食料としてとらえるそれではなく、精神を食い尽くす意味での「人食い」。戦う相手の戦闘意欲をそのまま己の生命力に変えてゆく、戦うことでしか満たされない、「死狂い」という生き物を、伊達は初めて自分以外に見つけた、と思った。 「あんな下衆野郎なんぞのつけた傷なんかじゃ無ぇ、俺を忘れられねぇよう、きっちり痕を上書きしてやる。……俺と続きを戦り合う時が必ず来るように、な」 そう言って、赤石は伊達の右の下二段の傷へも再び指を添えると、指先を押し込み傷口を拡げた。 自身の傷を「二度と消えぬ痕にするため抉られる」などという、非人間的行為をされているにも関わらず、あまりにも愉しそうに赤石が嗤うから、伊達はいっそその指先へ己の血が染み込み、二度と消えぬ跡になってしまえばいい、とさえ思った。 「あ、あ……」 痛みが神経を刺激するよりも、この声が、約束が頬の傷痕を灼いてゆくようで、伊達の精神をこの上なく昂ぶらせる。 「今は殺しやしねえ。時を変えようと、場所を変えようと、てめえとは必ず闘り合うことになる。俺やてめえのように、闘いの中でしか生きられねえ種類の人間ってのが居るんだ、面白えことにな」 「……そんなこと、解るか……、っん!!」 それへ抗弁しようと伊達が僅かに口を開いた途端、まるで反論を封じるかのように、頬を捉えていた赤石の拇指が伊達の口腔へ侵入り込み、ぐ、と舌根を押さえつけた。 「解るんだよ。てめえが闘いを放棄した時ってなァつまり、てめえが俺に真っ二つにされた時だけだ。それ以外では有り得ねえ。 だから安心して生きてていいぜ。……てめえぶち殺すのァ、俺だけでいい」 (畜生……!) 歓喜に、心が震えた。―――この男と、再び闘える。手加減も、容赦もなく。 絶望の奈落より一人この世へ戻されてすぐ、己が本当の「ひと」であることを自覚できず、野生の獣のように戦っていたあの頃。ただ本能の赴くままに襲い掛かり闘うことを許されず、「正しい殺人技」を仕込まれるために預けられた過去。「ひと」であろう、「ひと」であろうと心がけてきた日々、暖かさや優しさを教えてくれた三人との出会いもあり、伊達は己が本当の「ひと」に成れたと思った瞬間もあった。 だが、所詮己が九十九の屍を食らい付くし、たった一人残ったものである以上、「ひと」と名乗るもおこがましい存在であることなど、自分が一番良く解っている。どんなに教えられ、「ひと」のふりを上手くできるようになろうとも、所詮己は「人食い」であり、「死狂い」の「ひとでなし」でしかないのだから。 (……やっと、解った) そんな自分が、嘗ての「自分」が在った国へ来たからと、無理に「ひと」であろうと努めたが為に、己の本性は無理矢理隠し押し殺されて、伊達本人すら知らぬ間に潰されて歪んでしまった。それがカタチを変えて吹き出したのが、偶々今日であったと言うだけの話だったのだ。 伊達は今この瞬間、生まれて初めて己が生きていることを愉しい、と思った。腥いほどの血臭と、気を抜けば死ぬほど激烈な戦闘の中でしか生きられないような人間が、自分以外に居たことが希有ですらあったのに、その中でしか満たされない「欲」を初めて感じてしまった。 闘いを止めてから後、己と対峙しても、硝子玉のように虚無感ばかりを湛えていた伊達の瞳へ、微かな生気―――狂気の色が映り込んだことに気付き、赤石は伊達の舌を押さえる手を緩め、口元を歪めて笑う。 「いいか、てめえのような人間が満たされるのは、闘ってる時だけだ。他に何してようと、決して満たされはしねえ―――闘いだけが、生きてる証になる」 ……だから。 「終わらせねえ……こんなままじゃ、終われねえ……!」 ここで終わりなどではない。どちらかがここで死ぬこともあってはならない。 絞り出すような声でそう答えた伊達へ、赤石は満足げな声で答えた。 「やっと観念したかよ、伊達。……いいか、これは俺とてめえの賭けだ。どっちが最終的に生き残るかっていうな。この先いつ何処で何してようと、おれはてめえに会えば斬る。……その頬の傷ァ目印にな。覚えとけよ」 「おう。……いつでも来いや」 この傷を。切傷などではなく、赤石の指に抉られたこの傷を、再戦の証拠に。 伊達は、本来ならば屈辱の記憶しか残らぬはずだったこの傷を、再戦の約定として赤石から新たにされるのならば、そう悪くもないと思った自分に驚いた。 「さて、いい加減逃げねぇと本気でヤバいぜ、伊達よ。三号の下っ端が出てきやがった」 「ああ、そうだな」 そう言えば己は逃亡者であったのだと、今更のように思い出す。ちらほらと周囲に感じはじめた新たな追っ手の気配へ、伊達も微かに眉をひそめた。 「次に逢うのがいつになんのかは解らねぇが、それまでつまんねえ生き方も死に様も晒しやがるんじゃねぇぞ、伊達。……ろくでもねぇ真似しやがったら、叩き斬りに行くからな」 伊達を押さえつけていた力を緩め、赤石は伊達がきちんと己の足で立ち、身動きできることを確かめるかのように身体を離す。 「心配いらねぇよ、センパイ。次に会う時は、ド胆抜くほどの目に遭わせてやる」 伊達は心配無用とでも言いたげに、落とした愛槍をつま先で引っかけて拾い上げ肩に負った。 「精々楽しみにしててやらぁ。……じゃあな」 赤石はそれまで纏っていた狂気の陰を一切感じさせぬ、普段通りの「赤石」に戻って笑い、伊達から踵を返す。伊達は、その無防備すぎる背に一矢報いてやりたいと一瞬考えたが、そうするが早いか、あの刀が抜き打ちに己を叩き斬るであろうと考えて、今はその衝動をやり過ごした。 悠々と歩み去る赤石の背が、完全に宵闇の向こう側へ消えるまで見送ると、伊達は瞬時に己の気配を断って、全くの逆方向へ走り出す。 (次だ。次こそは完全に殺る。あの白髪、てめえの血で赤く染め直してやるぜ……赤石よ) 今この期に及んで、伊達は己が「ひと」であろうとすることを無理に捨て去ろうとまでは思わなかった。それを捨て去っても許される場所が、この地上にたった一つだけ見付かったのだ。 己の本性を剥き出しにして存在することを認め、望み、その姿で在ることを求めてくる人間が唯一存在した。次に闘うとき、あの極限下を思い出せるように。「ひと」であることを忘れ、ただの「死狂い」へ一瞬にして変われるようにならなければ。 ―――頬の傷が受ける風を心地よく感じながら、伊達は初めて、己がこの国に来られたことを嬉しいと思った。 2月15日。過去の無い「ひと」の、新たな記録が開始された日。 <二残:DATE:02.15.:了> |