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「……さあ行こう、一馬」 そう言って差し出された大きな掌に恐る恐る触れ、しっかりと握り返されたあの日から、自分の全ては始まったのだと思う。 ある日、出かけて行った父さんがそのまま戻って来ず、気がつくと俺はいつも面倒を見てくれていた隣のおばさんに黒い服を着せられ、花に埋もれて、何度呼び掛けても目を覚まさない、冷たい父さんの顔を見た時、初めて本当の「死」というものに直面した。 それまで、何度も何度も、父さんが酔っぱらう度に自分を抱き上げ、『一馬、俺が死んでもお前は強いから、独りでも生きて行けるな?』と言い聞かせられた言葉を思い出す。俺はその時、『男は強いものだ、お前も男だから、父さんのように強く生きるんだぞ』と教えられていたから、大人と子供の区別さえつかず、父さんへ「大丈夫、おれは男だからちゃんとひとりでも生きていくよ」と、言葉の意味も解らないままに約束したことを覚えている。 ―――けど、もし本当に父さんが死んでしまったなら、俺は男だから、強く、独りで生きていかなきゃならないから。敢えて誰も「そのこと」を口には出さなかったけれど、俺はちゃんと父さんが死んだことを教えて欲しくて、ずっと傍にいてくれたおばさんに尋ねたんだ。 「おばさん、父さんは死んだの?」 俺の質問に、おばさんは一瞬驚いたように固まってしまったが、何も解らない子供がどうにかして現状を理解しようと問い掛けた言葉に思えたのだろう。困ったように笑いながら、「そうよ、だから一馬くんが送ってあげなくちゃね」と言葉少なに答えてくれただけだった。 何故か悲しそうに笑うおばさんの顔を見てしまうと、それ以上「どうして?」とか「なぜ?」と問い掛けることが出来ず、俺はただ口を噤むしかなかった。 『可哀想に、あんな小さな子が一人で……』 『母親は離婚して、出て行ってしまったんだっけ?』 『じゃああの子、どうするの? 桐生さん親戚づきあいは無いって言ってたよねえ』 『まあ仕事が仕事だから、いずれこうなることは解ってたけど……それにしたって、ねえ』 『で結局、誰が引き取るの?』 『知らないわよ。誰か仲間とかいるんじゃない?』 ―――火葬場で、父さんが焼かれるのを待っている間、自分が何となく周りに避けられていることだけは解った。 昨日のお通夜の前、俺が何度か見たことのある父さんの友達、というおじさんが何人も来て、父さんを骨にしたら、葬儀はあっちでやった方がいいとか、墓は建ててやるから安心しろとか、代金は全部は組で持とうとか、当時の俺にはよく解らないことを色々言って決めていったけど、この先俺がどうなるのかとか、どうしたら良いのかとか、そう言うことを教えてくれるひとは誰一人としていなかった。 その後、おじさん達のうち一人が隣のおばさんに会いたいと言ったので、おばさんの家に行って話をしたけれど、話の途中でおばさんが泣き出したものだから、俺はその部屋から出されてしまった。 『一馬くんが嫌とか、そう言う訳じゃないんです。……でも、あのひとが居ない今、よく似てるあの子の顔を見ているのが辛い……』 ―――今なら、解る。 俺がずっとおばさん、と呼んでいたひとは当時30半ばくらいで、恐らく父さんと男女の関係にあったらしいこと。だからこそ、俺の面倒をこまめに見てくれていたけれど、父さんが死んで改めて二人の関係を言えばただの隣人で、口約束で籍の話が出ていたとしても今更どうしようもないこととか、戸籍上赤の他人のおれを、父さんも居ない状態で引き取って育てられるほどの経済力が無かったのだということも。 そして、話し合いが済んで、おじさん達が一旦引き取った後からずっと、俺と必要以上の話をしなくなったおばさんの姿をみて、俺は何となく感じ取らざるを得なかった。 俺は、本当に独りになってしまった。 火葬場の待合室でも、俺を遠巻きに見ながらこそこそと噂話をするばかりの大人達から離れて表へ出たとき、晴れ上がった青い空に、父さんを焼く煙がすうっと上がっては消えていくのが見えた。 『一馬、俺が死んでもお前は強いから、独りでも生きて行けるな?』 ―――ああそうだ、約束したんだよね、父さん。 俺は男だから、父さんとの約束通り、ひとりで生きて行かなくちゃ。 俺は強いから……ひとりで、ちゃんと。 父さんの上っていった空を見上げて、それだけをただ思っていたそのとき。 「……お前が、”かずま”か」 傍に怖いひとを二人くらい連れた、優しそうな目のおじさんが俺に声を掛けて来た。 「……うん。おじさんは、だれ?」 「お前のお父さんの知り合いでな、お父さんが亡くなったって聞いたから挨拶に来たんだ。 ……そういえばかずまのお母さんは、どうしたんだ?」 「知らない。父さんは「リコンした」って言ってたけど、俺にお母さんはずっと居ない」 「……そうか。じゃあ、かずまはこの先、どこへ行くか決まっているのか?」 「どこって、どういうこと?」 「例えば、親戚のおじさんとか、おばさんとか……父さんのお兄さんとか、お姉さんとか、そう言うひとのところで暮らすとか、言われていないのか?」 「そんなひと、知らない。うちには誰も来なかったし、おれはずっと父さんと二人っきりで、たまに父さんの友達が遊びに来たりしたけど、昨日来て、話したあとはずっと会ってない。 どこへ行くかなんてわからないけど、おれは父さんと約束したから。男だから、ひとりでもちゃんと生きて行くって」 「……そうか……。かずまは、偉いな」 「偉いかどうか何てわかんないけど、父さんとそう約束したんだから、俺は独りでも生きていくんだ」 おじさんは突然しゃがみ込んで俺の顔を覗き込むと、片手で自分の目のあたりを押さえ、もう片手で俺の頭をそっと撫でる。 父さんにもずっとされなかったそんなことを、初めて会った知らないおじさんにされたというのに、俺は何故か怒ることが出来なくて、そしておじさんの掌があまりに暖かくて大きかったから、ちょっと恥ずかしいけどこのまま撫でていてほしいななんて、そんなことを少しだけ考えてしまっていた。 「いや、男らしく、泣かずにお父さんを見送ってるじゃないか。お父さんとの約束も憶えて、独りでちゃんと生きていこうとしてる。……かずまは、偉い」 「……おじさん、わかんないよ」 おじさんが、少し震える声でそう言いながら俺の頭をなで続けて、少しが経った。 「……悪かったな。くしゃくしゃにしちまった。 なぁかずま、かずまは、おじさんと一緒に来る気はないか?」 「おじさんと? ……どうして?」 「お前のお父さんは、親戚――さっきも言ったけど、お兄さんやお姉さんとのつきあいが無かったらしくてな、お前を引き取ってくれるひとがどうも居ないらしいんだ」 そんな風に言われた途端、昨日のおばさんと友達のおじさん達との話を思い出し、誰にも欲しがられない自分のことを考えて、俺は急に腹が立ってくるのを止められなかった。 「……別に、居なくてもいいって言ったろ? おれは、ひとりでちゃんと生きていく!」 見捨てられたのだ、と思いたくなかった。 自分が誰にも必要とされない困った存在なのだと、思いたくなかった。……だから。 「おじさんなんかに心配されなくても大丈夫だ! おれは、父さんと約束したんだから!」 「そうだなぁ。確かにかずまは強い子だし、独りでも生きていけるかも知れない。でもな、子供は18歳になるまで、大人の誰かが責任を持って見なくちゃいけない、って言う決まりがあるんだ」 「何だよ―――そんな決まり、おれは知らない! 一体誰がそんなこと決めたんだ?」 「誰なぁ……誰かって言えば大人たちの代表だな。それで、その決まりを守らない大人は、警察に連れて行かれてしまうんだ。 なぁかずま、おじさんはかずまのお父さんと知り合いだったから、かずまのことを知らない振りをしてしまうと、警察に捕まってしまうんだよ。だからおじさんを助けると思って、一緒に来てくれないか?」 「……おじさんを、助ける?」 「そうだ。かずまは強いから、おじさんが困ったら助けてくれるだろう?」 「おじさんも、警察が怖いのか?」 「怖いさ。『かずまのようなよい子をどうして放っておいたんだ!』って叱られるのはとても嫌だ。……だから、おじさんと一緒に来ないか? おじさんにはかずまが必要なんだ」 ―――何も、解らなかった。 本当は何を言われているのか、本当に彼が、自分を必要としてくれたかどうかなんて、何一つ解りはしなかった。 でも、例え嘘でもいい、ここに、自分を必要としてくれるひとがいる。自分を、欲しがってくれるひとがいる。 ……そう思うと、何故だか、涙が止まらなかった。―――止めることが、出来なかった。 突然ぽろぽろと涙を零し始めた子供に、おじさんが狼狽える。 「かずま、おじさんとくるのは嫌か?」 「……ううん、嫌じゃない」 「じゃぁ、どっか痛いのか? 大丈夫か?」 「痛くない。……大丈夫、だけど……なんか、とまんない、んだ」 「そうか。……偉かったな、かずま」 おじさんは泣き続ける俺を抱きしめると、またあの大きく温かい手で俺の頭を何度も、何度も撫でた。 このひとは、泣けなかった俺の気持ちを解ってくれた。 欲しがられない子供を、必要だと言ってくれた。 思えば思うほど涙は止まらなくて、しゃくり上げる俺の背中を宥めるようにさするこの暖かさを、きっとずっと忘れない、と思った。 なかなか止まらなかった涙が漸く止んで、渡されたハンカチで顔を拭われたあと、おじさんに改めて尋ねられる。 「それで、どうする? かずま、おじさんと一緒に来るか?」 「……うん。行く」 「そうか、解った。じゃあ、このことは誰に言えばいいんだ?」 「おばさん……に、言えばいい……と、思う」 「そうか。誰がおばさんか、教えてくれるか?」 「うん」 そう言っておじさんは、待合室のある建物の方に向かって歩き出す。俺も後を追うのだけれど、大人のおじさんの歩く速さについて行けなくて、少し遅れかける。さっきまで傍にいてくれたおじさんの背中が少し遠くなって、もしかしたら俺はこのまま置いて行かれるんじゃないかと怖くなって、何故かその場に立ち止まってしまった。 後ろから付いてきていた足音が聞こえなくなって、おじさんは気付いたのだろう。俺の居場所を確認するかのように、立ち止まって振り返る。 「どうした、かずま?」 「……おじさんの歩くのが、早いから……置いて行かれるかと、思った」 「すまん。歩幅の違いを忘れてた。おじさんはかずまを置いていったりはしないさ。だって、さっき約束しただろう? 『おじさんを助けてくれる』って。 ……さあ、おいで」 おじさんのあの手が、俺の居る方に向かって差し出される。 頭を撫でて、背中をさすってくれた、あの暖かく大きな手。 本当に、この大きな手を掴んでいいのか解らなくて、恐る恐るだったけれど、そっと……その指に触れた。 「……さあ行こう、かずま」 おじさんの大きい手が、俺のまだ小さい手をぎゅっと握りしめる。その力強さに何故だかとても嬉しくなって、おじさんの顔を見上げると、おじさんも優しく笑いながら、俺の顔を見下ろしていた。 「……あぁ、そういえばかずまの字は、どう書くんだ?」 今度は俺の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩きながらおじさんが言う。 「こう……一、と馬で、一馬」 指先で空中に字を書いてみせると、おじさんも同じように指で俺の名前の字を書いた。 「一馬、でかずま、か。……良い名前だな。龍の名前だ」 「龍の、名前?」 「そう。馬の一番大きなものは、龍と呼ばれるんだ。普通見ることは出来ないけど、誰よりも強い生き物だ。……お前のお父さんは、強くなって欲しくて、そんな名前をつけたんだろうな」 「だれよりも強い、生き物」 「ああ。一馬は、これからもお父さんとの約束を守って、強く生きないとな。おじさんもそうなれるように応援する」 「うん! おれ早く大きく、強くなって、おじさんが困ったときにはもっとちゃんと助けられるようになるよ」 「……ああ。困ったら、また助けて貰うことにするよ。一馬」 ―――本当はこの人がどんなに悪い人でも、俺を必要としてくれる限り、ずっとついて行こうと思った。 誰にも欲しがられなかった子供を必要だと言ってくれた。 泣きたくて、泣けなかった気持ちを解って一緒に泣いてくれ―――そしてあの暖かい手を差し伸べ、連れ出してくれたのは、あの人だった。 いつも先にいるようで、気がつくと傍に居てくれたあの人がいたから、俺はここまで生きて来れた。 親っさん。 あなたの手が―――あなたが、好きでした。 <了> |