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指先が、触れ合う。 幾多の戦いを越えてきた、節くれ立ち乾いた男らしい指先と、綺麗に手入れされ、舞うように動く指先が、アッシュトレイの縁でそっと重なった。 「……失礼しました」 整った指先を持つ青年は、世の女達を魅了せずに置かない深く甘やかな声で、それでもトレイからは指を離さないまま自分の非礼を詫びた。 「いや、気にするな」 男らしい指先を持つ男の方は苦笑しつつトレイから指を離し、スーツのポケットから煙草を取り出して口に咥える。と、すぐに隣からライターに点された火が差し出された。 男は慣れた様子でその先に火を移すと、美味そうに一服目を吸い込む。 「いつも、済まんな」 「いえ……お気になさらず」 自分が好きでしていることですから、と相手に聞こえないよう小さく呟いて、青年はふわりと微笑んだ。 「お前に点けられると、殊更美味く感じるのは気のせいかな」 クックッと、男は咽喉の奥で笑いながら目を細めて青年を見る。 「相変わらず口説き上手ですね。……つい、その気にさせられそうになる」 男の意味ありげな視線を受けて青年が僅かに身を捩り、くすぐったそうに笑った。 「神室町ナンバーワンが褒めてくれるのなら、満更でもないということか」 煙草の端を指先で叩きながら灰を落とし、男が口の端を上げる。まるでその動きに合わせたかのように、煙草の火がじり、と音を立てて燃えた。 「スターダストに移られますか? 柏木さんなら、すぐにトップになれそうだ」 「お前こそその気にさせるな、一輝。……このトシと外見で、今更ホストが勤まるわけ無かろう」 「またそんな事を……。柏木さんに夢中にならない人間がいるものですか」 「一輝、冗談も過ぎると嫌味になるぞ。……最も、お前のその声で、微笑みながら言われて怒れる人間もそうは居まいが」 (貴方というひとは……) まただ、と一輝は思った。 自分の本気など疾うの昔に見通されている筈なのに、そんなこと会話の端にでも触れず、優しく一定の距離を置かれてしまう。その辺りにいるホストなどより余程人あしらいが上手く、相手を怒らせず、悲しませない適切な距離を保ちながら、何故か自分の方ばかりが口説かれている錯覚に陥ってしまうのだ。 (……酷いひとだ、あなたは) 柏木は自分の心の中も、その一部すら見せてはいないのに、相手にしたほうは何故か自分の覆い隠した本心まで丸裸にされている気がする。今の自分は、たまたまホストという職業から上手く受け流しも出来るけれど、なまじの人間ではこの人にひとたまりもないだろう、と一輝は思う。―――受け流しながら、例えこの気持ちが知られているにせよ、揺れ動く本心を隠すのにも必死だというのに。 この想いをきちんと言葉にして伝えたわけではないけれど、柏木へ向ける自分の視線や言葉、振る舞いなどの端々から、恐らく本人には知れてしまっているだろうと一輝は思う。それでも、柏木は普段そんなことを言葉の端にさえ見せることなく振る舞いながら、時折ふと思い出したかのように、一輝を喜ばせるような言葉や態度を見せることで、柏木への想いを断ち切らせようとしないのだ。 (あなたの唯一になろうなんて……なれるとさえ思わないけど) それでも、決まった相手も居らず、様子見と称して幾度も閉店後のスターダストを訪れては、自分と二人だけの酒宴を楽しんでいるらしい柏木の姿を見れば、自分がこの人の「傍に居ることを許されている」事実に、一輝はほんの少しだけ優越感を持ってしまう。普段「二代目」としての立場で会う時とは違う、リラックスした素の柏木を見られるこの機会を、一輝は何よりも大切なものとして守ってきたから。 けれど、飽くまでもこの店の後ろ盾として存在する柏木と、ホストクラブのオーナーとして存在する一輝の立ち位置は、互いの身分を考えれば極道とホストが近寄れる限界を示してもいた。 親しげな、それでいて一線を画した距離。互いに座る椅子は隣でも、そこには決して越えることの出来ない線があって、そこで自分と柏木とがはっきり分かたれてしまうことを一輝は知っている。 (だから今は、このままでいい。……柏木さんの隣に、居させて貰えるのなら) 「……一輝、どうした?」 深い物思いに沈んだらしい一輝の表情に、柏木が心配そうな声音で呼び掛けた。 「いえ、何でもありません、柏木さん」 「そうか、随分深く考え事をしているから、邪魔するのもどうかと思ったんだが……あまりに深刻な表情を浮かべるからな、流石に心配になった」 憂いが深く重いものになればなるほど、表に出すまいと薄い微笑みが仮面のように一輝の顔を覆うことを、本人は恐らく知らないだろうと柏木は思う。そして、それを指摘したところでそれを剥がすのはなかなか困難だということも。 「ご心配をお掛けしてすみません。……大丈夫ですよ。お気になさらず」 「ならば、いい」 「ええ」 何事もなかったかのように表情を「いつもの一輝」に戻し、空になりかけたタンブラーを取ると、いつもと同じように柏木が丁度好む濃さの水割りを作ってみせる。 「……どうぞ」 優雅な指先の動きで差し出されるそれを見たとき、きっと一輝の指先は今、緊張で冷たくなっているのだろうと柏木は思った。柏木の前では本心を押し隠すのが上手い彼の、うそつきな唇よりも雄弁に内心を語る存在があることを教えてやったら、一輝自身は果たしてどんな顔をするのだろう、と。 (目は口ほどに、とはよく言ったものだ) 普通の人間では決して気付くまい。磨き上げられた黒耀の如き一輝の瞳が、感情の動きに従い深くなったり淡くなったりすることに。どんなに涼やかな目元で綺麗な言葉ばかりを並べようと、その瞳の奥には人一倍熱い想いが息を潜めている。 元居たホストクラブでトップになろうとしていた頃や、その店から独立し、自分の店を創るのだ、と自分に語っていたあの頃。大人しく優しい表情で微笑む一輝の、目の奥に秘めた強い光を柏木は幾度と無く見てきたのだから。 (他人はともかく、俺を欺せはしない、一輝) 今の一輝が、何を考えていたのか……本当は何を求めているのか。風間に命じられてからこの方、一番近くで一輝を見続けてきた自分には解ってしまう。彼自身は無意識であろうが、時折焦がれるように熱く渇仰する眼差しで、自分を見ている瞬間が幾度もあったことを。だからこそ、この綺麗で素直じゃない生き物から本当の言葉を語らせたくて焦らしてきたのに、隠す事を当たり前のように身につけた一輝には、自分の本心を押し殺す癖が付いてしまっていた。 (言えないのなら、言わせてやる。……欲しいものが何なのか。自分が本当は何を求めているのかを) そう決めて今日ここへ柏木が訪れたことを、一輝はまだ知らないまま。 「……ああ、氷がもう無いですね、取ってきます」 物問いたげな柏木の視線から無意識のうちに逃れようとしたのか、一輝がアイスペールを持って席を立った。 ―――仕掛けるなら、今。 1階にあるバーカウンターの奥から一輝が氷を満たして戻ると、疲れていたところへ飲んだ僅かな酒が睡魔を呼んだらしく、柏木はソファへ凭れかかるようにして小さく寝息を立てていた。深い夜色の、全てを見通すように鋭くも優しい柏木の眼差しが、今は瞼に隠れ穏やかな寝顔ばかりが覗いている。 「柏木さん」 「ジャケットが皺になりますよ」と一輝が声を掛けるが、眠りに落ちた柏木の耳に届いた様子は無い。 「お疲れなんですね……」 何時何処であろうと警戒を緩めることのない柏木が、如何に閉店後の店内に二人きりとはいえ、深く眠る姿に一輝は微かな感動を覚えた。 (ここでなら眠っても良いと、思ってくれたんだ) 神経を尖らせなくても大丈夫だと、この店ならば信用に値すると思ってくれたその事実が唯、嬉しくて。 「男の膝枕なんか、申し訳なくて出来ないけど……」 一輝はそう呟きながら、ソファの端に置いてあったクッションを柏木の背にあてがって躰を倒し、ソファへ横たえようとする。その合間に、失礼かとは思ったがジャケットへも手を伸ばし、柏木の穏やかな眠りに障らぬようゆっくりと時間を掛けて袖を抜いた。一輝は脱がせたジャケットをハンガーに掛け、丁寧にブラシを掛けてから傍らのスタンドに吊るした後、柏木が飲みかけだった酒のグラスなどを階下のバーカウンターへ下げる。 (ほんの僅かな間でしかなくても、せめてゆっくりと休んでくれたら) そう願いながら、一輝はフロアを歩む足音にまで気を配りつつ、控え室から持ってきたブランケットを柏木の邪魔にならないよう広げて掛けた。 ブランケットの端を肩まで被せるように引き上げながら、一輝は初めて見る柏木の寝顔をそっと覗き込む。 (そういえば、この傷……) 初めて会ったときから既に古い傷だった、柏木の顔の中心部を横に一本走る痕。それが如何なる状況下で、どのようにして彼へ付けられたものかは知らないけれど、目にほど近いこんな場所を斬りつけられてなお、このひとは怯まず戦ったのだろうと一輝は思う。こんな場所を斬り付けられようとも、その誇り高く強い眼差しは臆することなく相手へ向かい、最後には柏木が勝利する形で終わったに違いない筈だ。 (でなければ、こんな風には誇れない) 言うなれば相手に背を向けず戦った証―――所謂この「向こう傷」は、今の一輝からすればこの痕がない柏木の顔など、想像したくとも出来ないほど「彼」というひとそのものの証明でもあった。 「だけど……やっぱり勿体ない、な」 この痕がなければ、このひとにどれだけの人間が群がるのだろう。所謂端正な、という顔立ちでは無いけれど、男らしく整った顔とこの優しく毅い眼差し、そしてひとを引き寄せずにはいられない暖かな包容力が、どれだけの人間の心を掴むだろうかと、一輝はそれを思わずに居られなかった。 (でも、今の柏木さんだから) この痕があるこのひとだからこそ、こうして自分が傍に居ることを許して貰えるのかも知れないと一輝は思う。傷のない柏木の傍には数多の美貌を誇る女性が集まって、自分などその端近にすら寄せて貰えない可能性だってあるのだから。 「今のあなたで良かった、と言ったら、笑いますか?」 一輝の憂いなど知る由もなく、その言葉を向けられた相手は穏やかな寝息を立てるばかり。その余りに深い眠りに、普段押し殺している一輝の欲が、僅かに顔を覗かせた。 (柏木さん、済みません) ―――どうしても触れたい。……この頬に、この痕に、指先で触れて感じたい。 柏木の持つその毅さを「触れることで分けて貰えるかも知れない」と、自分が馬鹿げたことを考えているのは十分に解っているけれど。 ……でも。 (あなたに、触れさせて下さい) 心の中で幾度も柏木に謝りながら、一輝はその整った指先で柏木の頬に―――傷跡に触れて、辿る。傷のせいで引き攣れて薄くなった皮膚の感触と、その下で暖かく血の通った肌と―――嗅ぎ慣れた柏木の、煙草の匂い。 その匂いを感じた途端、何故かぞくりと一輝の背が粟立った。 「……柏木、さん」 それは、一輝自身予想し得なかったほどの自然さで、ごく当たり前の行為ででもあるかのように、己の唇が柏木の傷痕に近付いてゆき、そして―――ひと筋の痕を食むようになぞる。 その、瞬間。 「……誘ってるのか、一輝」 低い声と共に、すっかり寝入っているとばかり思っていた柏木の腕が、屈み込んでいた一輝の腰と手首を掴んで己の躯へ引き寄せる。 「柏木、さんっ……!?」 突然体勢を崩され、バランスを失った一輝が柏木の上に倒れ込む。一輝の顔が丁度柏木の肩口に埋まるように抱き寄せられ、その肌の温もりに触れて一輝の全身がカッと熱くなった。 「え、あ……す、すみません、柏木さん!」 一輝は慌てて己が身を離そうと試みるが、自分とはそう体格に差がないはずの柏木から、どうしても逃れることが出来ない。 「……は、離して、下さい…っ」 柏木に捕まれた腕が、抱かれている腰が、触れ合っている場所全てが恐ろしい早さで脈動しており、このままの体勢を続けるとあらぬことまで考えてしまいそうで、一輝は必死になって柏木の腕から逃れようと身を捩る。 「触られたのは俺の方だ、一輝。……誘ったんだろう?」 柏木の唇が抱き寄せた一輝の耳元に触れて、囁くように低い吐息混じりの声が鼓膜を拍った。 「違…そんなつもり、じゃ……」 「なら、何故俺の傷跡に触れた? ……しかも、唇で」 ただでさえ弱いこのひとの声を、酒のせいで熱くなった吐息と共に耳奥へ響かせられて、一輝の脳髄が痺れたようにその動きを鈍らせる。 「すみま……せ、ん……」 「詫びなど聞いていない。何故触れた、と聞いているんだ。……答えろ、一輝」 腕を掴んでいたはずの柏木の手が、一輝の後頭部に回ってもう片方の耳と首筋に触れた。その指先の冷たさで、一輝は自分の躰がどれほどの熱を持っているのか改めて教えられる。 「っ、あ……ぁ……!」 言葉にならず一輝は僅かに首を振るも、弱々しい動きは却って柏木の情欲を煽り立てるばかりだった。 「一輝」 「……嫌、です……」 濡れたように光る黒耀はあんなにも雄弁だというのに、こんなところばかり強情な一輝の、目を閉じて逃れようとする素振りすら甘やかな誘いにしか見えず、柏木は一輝に気付かれぬよう指先でその肌をなぞる。そしてその思惑通り、一輝自身は無自覚にせよ、柏木の躰に触れている「その場所」が、僅かずつだが確実にその熱を上げてきていた。 「躰が熱いな、一輝。……まるで欲情してるようだ」 「……っ!」 びくりと躰を震わせ、一輝はソファの座面に両腕をついて躰を離そうと試みたが、柏木の腕はそれを許さず、後頭部を抱え込むように抱き締める。耳朶に触れるか触れぬかの距離で動く柏木の唇が、吐息の熱が、一輝の理性を少しずつ溶かすように囁く。 「……一輝」 「柏木、さん……」 いっそこのまま溶かされてしまえたら、と思わぬでもない。触れられる場所全てが熱く、体温が自分でもおかしいほどに欲情して高まっているのが解る。このまま柏木の手で全身を撫でられ、言葉に、彼の熱に翻弄されながら絶頂を迎えることが出来たら、それはどんなに心地よく、幸せな瞬間だろうかと一輝は思う。 けれど、このひとと一度きりとはいえそんな関係になってから、後に平静な顔で今まで通りの二人を演じることなど、今の一輝には不可能としか思えなかった。 (手に入れたら、失うのが怖くなる。……一度でも知ってしまえば、忘れられなくなる……!) 手に入れ、己のものと確信した後誰かに奪われるくらいなら、最初から知らない方が幸せだから。 「お願い、です……から……っ…!」 あなたの熱さを、教えないで。 「……解った。では、もうこれ以上触らん」 そう言って柏木は手を離し、触れていた一輝の躰をそっとソファへずらす。一輝は高められた欲望の熱ゆえにか、躰に力を込めることが出来ず、そのままずるずると床に滑り落ちた。 「あ、ぁ……!」 直前まで触れていた熱から突然放り出され、剥き出しだった首筋や胸元の熱を冷ますように、空調の風が一輝の熱い体表をすうと撫でる。襟元や袖口から入り込んでくる風の冷たさに、一輝は思わず身を震わせた。 (寒い……) 先程まで触れていた柏木の躰がどれほど温かく、また自分の体温がこんなにも高くなっていたのか、その風に思い知らされるようで、一輝はその熱から離れた喪失感におののく。―――未だ放たれぬ中心の熱が、行き場を探してそこに止まったまま。 柏木は何事もなかったかのようにソファへ座り直すと、テーブルの上に置いたままの煙草へ手を伸ばし、一本を口に咥える。火を点け深く吸い込むと、傍らの一輝へちらりと一瞥をくれながら深く吐き出した。 「いつまで、そこへ座っている気だ?」 深い夜色の視線は真っ直ぐに一輝を見据えたまま、ひどく優しい声が鼓膜を打つ。一輝はその眼差しを直視することが出来ず、ふいと顔を背けた。 「す、すみま、せん……」 立たなければと思うのに、膝に、躰に力が入らない。躰の中心で小さく、だが確実に熱を持って息づくそこが、未だ解放を求めてこの先を渇望していることを、柏木に知られたくない。 「一輝、俺は喉が渇いたんだが……」 ついさっきまでの出来事がまるで幻でもあったかのように、柏木が告げる。微睡に落ちる直前の、あの瞬間から何一つ変わらない日常を続けさせようとしてか、「いつも通りの柏木」が「いつも通りの一輝」へ「いつもと同じ酒」を要求していた。 (自分で選んだんだ、立たなきゃ……!) そもそもの原因は、一輝自身の邪な想いが起こした行動のせい。柏木はその想いに気付き、望みを叶えてくれようとしただけだ。けれど自分はそこから先へ踏み込まれることを拒み、内心を暴露することから逃げたというのに、柏木は何一つ変わらずに自分へ接しようとしてくれている。 「……い、今、お持ちします」 一輝は床へついた両腕に必死で力を込めて膝をついた。一瞬でも気を抜けば、その場に崩れ落ちそうなほどがくがく震えている自分の躰がいっそ可笑しいほどだ。微かに熱を主張する部分を柏木の視線から隠すように背を向け、一輝は漸く立ち上がった。 (全く、頑固な……) 震える膝を必死で押し隠して立ち上がりはしたものの、後ろから見るうなじが、耳元が朱に染まって、一輝が確実に欲情していることを柏木へ知らせている。両腕で手すりに掴まりながら、一歩ずつ階段を下りようとする強情な後ろ姿に、柏木は一輝へ聞こえないように小さな溜息を漏らした。 少しずつ歩む自分の背中へ、柏木が放つ痛いほどの視線を感じる。 (……ちゃんと、歩かなきゃ……) 一歩、また一歩。普段の舞うように優雅な足取りからはほど遠く、無様で覚束ない歩みで一輝が階段を下りてゆく。 柏木がずっと、自分を見ている。 視線が、自分を侵してゆくのが解る。 ……けれど、その眼差しに射られて熱くなる恥知らずな自分を、これ以上柏木に晒すわけにはいかない。 まるで永遠のように長く続いているのではないかと思った階段が、あと二段ほどで終わるというそのとき、一瞬安堵した一輝の中で、張りつめた緊張の糸がとうとう堪えきれずに弾け飛んだ。 「……っ!」 一輝の危うい足つきが不意に階段を踏み外し、残り二段を滑り落ちるようにして、身体が床へ倒れ込む。 「一輝!」 自分の身に何が起きたのか、一輝には全く解らなかった。自分の身体がバランスを失って一瞬宙に放り出された後、何か堅いものにぶつかるような衝撃を感じた。 「……っ、……」 「一輝、大丈夫か!?」 何が起きているのだろう、と思った。 ほんの僅か、記憶が混濁したのだろうか。足を踏み外した驚きの後、堅く冷たい床に転がっているとばかり思っていた自分の身体が、何故か暖かく柔らかい、柏木の両腕に抱かれている。 「頭は打ってないな? ……俺が解るか、一輝」 「か…しわぎ、さん……?」 「どこか痛む部分はないか? 骨は大丈夫そうだが……」 こういった確認に慣れた柏木の手が、探るように一輝の身体へ触れる。 「あ…っ…!」 優しい柏木の掌に触れられて、忘れようとしていた身体の熱が過剰反応した。柏木に触れられた場所から発熱して行くように、一輝の全身がどくどくと脈打っている。 「大丈夫です! 俺は、大丈夫ですから……!」 助け上げてくれた柏木へ、出来る限り礼を失しないよう自然な体勢で離れたいと思うのだが、そんな一輝の思惑など疾うに察しているらしく、柏木は一輝を抱き締める腕の力を緩めるどころか、さらに強くしてきた。 「何処が大丈夫なものか……。これ以上我を張るのは止せ、一輝。今だって無理をして歩くから、こうしてバランスを失う」 優しく、この上なく優しく柏木から言われて、一輝の心は躍り上がるばかりなのに、どうしても理性がそれを許さない。痛みより何より、柏木にみっともない所を晒してしまうのが嫌だった。これ以上自分の恥ずべき部分を見られてしまう訳にはいかなかった。 「無理なんか……! 大丈夫です、お願いですから、柏木さん……!」 眼を、合わせられない。 何時でも明るさの途切れぬ神室町の夜空などよりなお暗く、深い夜色をした柏木の眼差しが自分を真っ直ぐに見つめていることが解るのに、この浅ましい自分の欲を透けて見られてしまうのが恐ろしく、一輝は顔を上げることが出来なかった。 あまりにも頑なな一輝の態度に、柏木は呆れたように小さな溜息を漏らすと、顔を伏せたままの一輝を抱き直し、片手でその顎と頬を捉える。 「一輝」 柏木の指先に触れられ、名をも呼ばれて、一輝の全身が打たれたように竦んだ。 「一輝、顔を上げろ」 「……っ……!」 小さく抵抗するように首を振るけれど、柏木はそれを許さぬかのように、一輝の顔へ触れた指先へ力を込める。 「……一輝」 柏木の指が、熱が、声が、一輝の理性を侵して行く。 「か、しわぎ、さ……」 「俺が、嫌いか?」 思いがけぬ柏木からの問いに、一輝が必死で首を振った。 「違います! 貴方を嫌いだなんて、そんなこと……!!」 「では、顔を上げろ。……でなければ、先程の言葉を嘘と受け止めて、もう二度とお前には会わないようにするぞ」 「そんな……!」 どうしてこんな酷い脅しを、と一輝は思った。柏木の性格は、これまで付き合ってきた自分ならば良く知っているが、その言葉に二言は決して無い。柏木が「二度と会わない」と言ったならば、自分は本当に再び逢うことが叶わなくなってしまう。 正直な自分の本心を明かせば、このひとの熱を知りたい、このひとのものになりたいとは思う。けれど、一度この温もりを、その奥に秘められた熱を知ってなお離れられるほど本当の自分は割り切りの良い性格ではないからこそ、必死でこうして留めているのに、どうして柏木はこんなにも残酷なやり方で、自分を手に入れさせようとするのだろう。 「ひど、い……」 じわりと、一輝の眦に涙が滲む。こんな酷いひとに焦がれた自分が悔しく、哀しいとさえ思うのに、こうして抱かれている腕があまりにも心地よくて、嬉しいから。 「ああ、知っている。……だが、こうでもしなければお前は素直にならん」 浅ましい自分の欲が、恥ずべき己の本心がここまで柏木を追い詰めたのだと解ってはいるけれど、それでもあと少し、この欲望を突き付けないで居て欲しかった。もう少しの間だけでいいから、幸せな夢を見ていたかった。 「一輝」 柏木の声が、一輝の名を呼ぶ。この声が、己の理性を融かし、全身を支配する。 「顔を、上げろ」 最期の僅かな抵抗も為す術無く破られて、一輝の眼差しが柏木を見つめた。 深い夜色と、涙に彩られた黒耀が交差する。互いの瞳に映し出された互いの姿を認めた瞬間、一輝はもうこれ以上己を偽れないことを悟るしか無かった。潤む黒耀が、全て受け入れるかのように降りてきた瞼へ秘められる。柏木の親指が小さく口を開かせるように一輝の口元を捉えると、微かに熱い吐息が零れた。 「かし……」 柏木は、己の名を最期まで呼ばせる隙を与えなかった。饒舌でうそつきな一輝の唇を己のそれで塞ぎ、逃れようとする舌を捉える。近くて遠い互いの間を埋めるかのように、唇で、舌で、頬に触れる互いの指先で、言葉にならない想いを綴る。それまで、どれほど堪えていたか、どれほど求めていたのかを何よりも雄弁に語る眼差しが、時折開いては交差し、また閉じられて熱を上げる。 「…っふ、ぁ……」 それまで押しとどめてきた熱の奔流が、僅かに開いた唇の端から吐息と共に漏れる。その熱がどれほど一輝の内面を焦がしてきたのかを思えば、それは驚くほどの灼熱だった。 絡み合う舌が、重なり合う唇が漸く満足したかのように離れ、力の抜けた一輝の身体が柏木の両腕に預けられる。長かった口付けの故にか、ふっくりと充血した一輝の唇がさらなる行為を煽るかのように、艶やかに濡れて柏木を誘っていた。 「柏木、さん……?」 熱に、欲情に潤んだ黒耀が本人さえも無意識の媚態となって柏木を見つめる。その先の行為をねだるかのように、一輝が柏木の背へ腕を伸ばした。 「……随分と、積極的だな……?」 先ほどまでの恥じらいを忘れたのか、熱に浮かされたような一輝の行動に柏木が咽喉の奥で低く笑う。一輝の、誘うように大きくはだけられたシャツの襟元に唇で触れ、柏木は薄く骨の浮いた肌を軽く吸い上げた。 「っ、あ、ぁ!!」 びくりと一輝の全身がおののいて、柏木の背を掴む手に力が籠もる。シャツでぎりぎり隠れるか隠れないかの場所へ柏木はもう一度キスを落とすと、今度は小さく、だが確実に痕跡が残るように歯を立てた。 「痛っ……!!」 予想外の痛みに、一輝の眦からほとりと滴が落ちる。じわりと血が滲むほどに強く噛まれたそれは、口付けの熱に酔うばかりだった一輝の意識を、覚醒へと促すかのような行為だった。 「このまま傾れ込むんじゃ、酔った勢いで抱いたようで、芸が無さ過ぎるだろう?」 先ほどまでの激しさを忘れたかのような、あくまでも冷静さを失わぬ声で柏木が呟いた。 「え……?」 優しく抱き締める腕はそのままで、柏木の深い夜色の瞳が一輝を見下ろす。 「……どうして、今じゃ駄目なんですか……?」 先の行為を望むこの言葉が、どうしようもなく浅ましいと思っていたのがつい先ほどなのに、今の一輝にはそれすらも遠い過去のように、置き去りにされた熱を厭って問うた。 「……口付けまでは簡単だ。勢いで幾らでも出来る。 ……だが、この先はそうも行かない。いまこの熱に浮かされるようにお前を抱いて、この一度だけで単なる気の迷いでした、と言わせたくは無いからな、お前の逃げ道を塞がせて貰うことにする」 「……っ……!」 暴かれた。 今この場で抱かれてしまえば、一時の熱に惑わされた振りをして、後でどんな苦しい思いをしようと諦められる、そう思って理性から目を背けたのに、柏木は自分のそんな浅い思慮など疾うに見越して、決して逃げられぬよう先回りをされてしまった。 諦めることも、逃げることももう、許して貰えない。 じくじくと微かな痛みを訴える傷口が、疼くように熱を保つ。柏木の触れた場所が、熱を持って広がってゆこうとしているのに、焦らされた身体が、温もりを失った喪失感に哀しんでいた。 「いいか一輝、その傷口が完全に塞がるまで、一週間。その間に、本気で俺のものになる覚悟をしろ。一週間後にその時がきたら―――もう、待ったも嫌も無しだ。泣こうと喚こうと、お前を抱く」 柏木の声が、一輝の身体中に響いてゆく。この上なく優しい声で、この上ないほど残酷なことを言われている筈なのに、形のないこの束縛が、歓喜の色を纏ってどうしようもないほど一輝の心を震わせる。 「今更この熱を忘れることなど、出来ないだろう? ……逃がしはしない。時間はまだ、充分にあるからな……一輝」 柏木の熱に、声に侵蝕され、既に自分のものではなくなりつつある身体を抱いて、一輝は一度俯いた後、潤む黒耀を柏木に向けた。 「……もう二度と、離さないでくださるのなら」 ―――あなたの唯一に、ならせて下さい。 <了> |