「すっかり遅くなっちゃったな…」 成歩堂は暗い夜空を見上げた。もうすぐ春だと言うのに、空に向けて吐いた息はやはり白い。 ソレに気付くと、思い出したように、ぶるっと体が震えた。そういえば、少し冷える。 ここしばらく珍しく裁判が立て込んでいて、何とか片付いたものの、後処理にも追われていた。 忙しいのは確かにありがたいが、職業柄ソレを喜んでいいモノか悪いモノか、今ひとつ分からない。 それでも、終わったと言う感触は随分とキモチを軽くしてくれる。 道すがら、夜道に灯る光に誘われるように、自販機で缶コーヒーを買う。 飲んでみると、ノドを通る温かさにホッとしたが、薄い気がして、何となく物足りなかった。 そういえば、いつか、神乃木に言われたコトがある。 「気をつけるんだな、ボウヤ。嗜好品、特にコーヒーってヤツはな…クセになるんだぜ?一度、ウマイと感じた味は、なかなか忘れられないモンさ」 (…神乃木さんが言うと、やたらと説得力あるな…) その時は、そう思っただけだが、確かにソレは本当らしい。 今はもっと濃くて深みのあるブレンドが欲しかった。…彼の、神乃木のブレンドが。 あれからも、神乃木は相変わらずの調子だった。時々、事務所に現れたり、気まぐれのように成歩堂の部屋に来てみたりだ。 別に、キーを渡したコトで、彼を繋ごうと思ったわけではない。 それでも、ほんの少しだけ、神乃木が現れる頻度が上がった気がする。単に会える場所が増えたからかも知れないけれど。 気のせいか、神乃木は難しい裁判の後や最中によく現れるようだった。 だからと言って、特にアドバイスなどをくれるワケでもない。現れるだけだ。だが、裁判のコトをミョーに把握しているような節がある。 神乃木の意図は、分からない。ただ、おそらく量っているのだと思う。弁護士としての成歩堂龍一を。前の、敵意を持って見ていた時とはまた、違う方法で。 弁護士として、検事として、法廷を見てきた彼に、一体、自分はどう映っているんだろうか。 仮面の向こうにいる彼に。 とりあえず、タマにはギリギリまで追い詰められることなく、勝ってみたいけれど。 そんなコトを考えているうちに家に着いた。 ドアの前で鍵を取り出しながら、ふと思う。 (来てるかな…神乃木さん) しばらく忙しかったが、神乃木は現れなかった。だから、もしかしたらそろそろ来るのかも知れない。 少しだけ期待しながらドアを開くと、中はいつも通り薄暗かったが、それよりも香りがした。 まだ手に残っていた缶コーヒーの中身よりも強く香る、濃くて、芳ばしい深みのあるブレンドの香りだ。 よく知った、いつも神乃木が身に纏っている、あの香りだ。 (神乃木さん!) 靴を脱ぐのももどかしく、急いで明かりを点けて、彼の姿を探す。 そして、…見つけた。 神乃木は、うっかり引きっぱなしのまま出掛けてしまった布団の中で眠っていた。 眠る彼を起こしてしまわないように静かに近付いて、そっとその枕元に腰を降ろす。 小さな寝息を立てる神乃木はいつもの仮面を外していて、胸元に置いた手の中に、ソレは握られていた。 …それはいいのだが。 布団から出ている、剥きだしの肩と胸元が気になる…。 (……マサカとは思うけど…、ハダカじゃないよな?神乃木さん…) 何となく不安に駆られて見回すと、神乃木はコレで案外几帳面なトコロがあって、服はハンガーに掛けられ、残りはキレイに畳まれていた。その中にはスラックスも見える。 「………」 (…マサカ、なあ…) 遅くなったから、先に寝てしまったんだろう。服もシワになると困るから、脱いでいるだけだと思う。…多分、それだけだろう。 いくらなんでも、ヒトのウチでいきなりスッ裸で寝てたりはしない…と思う、けど。 (…神乃木さんだからなあ) このヒトはホントにいつまで経っても、よく分からない。 ゆっくりと近付いて、彼の寝顔を覗き込む。気配にはいつも聡いのに、今は眠ったままだ。布団ごしのゆるやかに上下する胸元の動きも、規則正しい。 安らいだように眠る顔は、珍しいくらいに無防備で…。 (――誘ってると、思いますよ?) そーっと顔を近づけてみる。 僅かに開いた口元から、寝息が聞こえる。こんなに近づいてみても、目を覚まさない。 ほとんどもう、目と鼻の先だというのに。 もう少しだけ、あとほんの少し近付くだけで、簡単に触れてしまうのに。 そうして、唇を触れ合わせようとした時、いきなりチリン、と音が鳴った。 「!?」 ギクリと顔を離し、見ると、枕元に置いてあった例のキーが、何かの拍子で布団から滑り落ちたらしかった。 (た、タイミングが良すぎるぞ…) 一気に跳ね上がった動悸を抑えつつ、チラッと神乃木に視線を送ってみる。 が、その前に伸びてきた手に、ぐっとアタマを掴まれた。 「……よォ、オイタはいけねえな、ボウヤ…?」 固定するように掴まれて、ニヤリと笑いかけてくる神乃木の顔が見えた。 マトモに正面から覗きこまれるような形になって、それでも見えてはいないと思うが、何となく気まずい気分で笑い返す。 「その…おはようございます」 「…ああ」 固定されたアタマをぐいっと引き寄せられ、唇に柔らかい感触が触れた。 「!」 ソレは、軽く重ねただけで、すぐに離れていった。 「かっ、神乃木さん…?」 「キスするんじゃ、なかったのかい…?」 (…確かにそうだけど…、でも…ぼくから、したかったんだけどなあ…) まだ眠気が残っているのか、気だるげに首を振ってから神乃木は体を起こした。 それを手伝おうとして、思わずギョッとする。 起こした神乃木の体からは、布団がずり落ちていて、とりあえず上半身には何も着けていない事は分かった。 と言うか、久しぶりに見る、このヒトの裸は目の毒以外、何物でもない。そんなモノをいきなり見せられたら、胃にも心臓にも悪い。 元からなのか褐色の、蛍光灯の光りが映りこんだ滑らかそうな肌。よく知ったその感触を、やたらとリアルに掌に思い出してしまい、にわかにこみ上げる感情をぐっと飲み込んだ。 (せ…せめて、下着は着けててくれえ!!) 成歩堂は、冬だというのに冷や汗を流しながら、誰にともなく願った。 思わず目を逸らすが、その成歩堂の頬に、スッと手が沿えられた。 指の腹で、柔らかく撫でられる。 「…冷えちまってるな」 いつもは冷たい神乃木の手だが、さっきまで外にいた成歩堂にはソレが温かく感じられた。 彼の指先から、じわりと肌に温かみが染みとおってくるような気がした。 「ええ…帰ったばかりですから…」 「そうだな……お帰り、ボウヤ」 「……!」 一瞬、息が詰まった。 「何だい?」 「いえ、……ただいま」 くしゃくしゃっとアタマを撫でられる。何となく、くすぐったいような気分だった。 こんな風に家で誰かに迎えられるのは、随分と久しぶりだ。 こんな風に誰かがいる家に帰るのは、こんな感覚だったのかと思う。 頬を撫でる神乃木の手を捕まえて、ぎゅっと握る。手の中の感触は、やはりじんわりと温かかった。 「さて…氷を落としたコーヒーみてえに冷えちまってるボウヤに、あったかいのをオゴってやらないとな」 そう言って離れようとする神乃木の手を、もう一度握り締める。温かなその手を逃がしたくなかった。 「あの…もう少しこうしてちゃ、いけませんか?」 神乃木はクッと笑うと、空いた方の手で、成歩堂の唇を辿った。 「…冷たいカップに熱いコーヒーを注いでも、美味くは飲めねえさ。…極上の味を楽しむためには、先にカップを温めておくコト、だぜ?」 (………相変わらず、よく分からないな…) 意味を訊ねたかったが、唇をユルユルとこそばせるように動く神乃木の指先を邪魔する気になれなかった。 そっと、剥きだしのままの彼の腰に手を伸ばす。 指の先が触れたとたん、神乃木が大きく身じろぎし、振り払われた。 「冷てェ」 腰を引く神乃木を、もう一度指先でチョンと突付いてみる。 本当に冷たいらしく、すぐさまパンと手を叩き落とされる。何となくムキになって何度も触れようとするが、虫でも落とすようにパンパン払われて、最後には指を握られた。 「オイ…アンタの人差し指は法廷で使いな」 「使いましたよ」 「クッ…、そうだな」 「…」 (やっぱり…知ってるみたいだな、神乃木さん…) こんな風に裁判後に現れる彼は、いつだって何も聞かないし、言わない。 だが、神乃木が現れるようになってから、棚でホコリを被っていた筈の事務所のファイルが不思議とキレイになっているような気がする。 前からあったモノだけでなく、最近の資料もいつのまにか見やすくファイリングされている。…モチロン、ソレが彼の仕業とは限らないけれど。 それでも、繋いだ手に力を込める。 不意に、神乃木が肩を震わせた。流石にハダカでは寒いのかも知れない。 繋いだ手をぐっと引いて神乃木を引き寄せ、そのまま覆うように彼を抱きしめた。 「オイ…、アンタ…オレにコーヒーを入れさせねえツモリかい?」 「タマにはいいじゃないですか」 「悪いが…オレは主義はカンタンに変えねえコトに決めてる。目覚めには極上のコーヒー…ソイツがオレのルールだぜ?」 名残惜しかったが大人しく手を離すと、神乃木はニヤニヤと笑いながら体を起こす。そして立ち上がった神乃木は…。 「い、異議あり!!」 ほとんど叫びながら、慌てて神乃木を座らせる。 「神乃木さんッ!なッ、何で、…何で、……ハダカなんですか!!」 神乃木は、下も何も着ていなかった。 突然のコトに目のやりどころに困りつつ、大急ぎで着ていたコートを脱いで、神乃木の肩に羽織らせた。 マサカとは思っていたものの、実際に下着も何もないと本当に困る。…イロイロな意味で。 「オイオイ…今更じゃねえかい?」 (いきなり、ヒトの理性を試さないでくださいよ!!) さっきまで冷えていたにも関わらず、一気にかあっと熱くなってしまった気がする。おかしな汗がダラダラと流れるのが、自分でも分かった。 「と、とにかく……服くらい、いくらでも貸しますから、着ててください!」 「アンタのじゃ、ロクにサイズも合わねえさ。それに…オレはコーヒーはブラックで楽しむコトにしている。夜の闇に、邪魔な砂糖やミルクは、お呼びじゃねえのさ。寝る時は何も着ない、…ソイツがオレのルールだぜ」 「…で、でも、いつもは服を着て寝てるじゃないですか」 「……そうかい?」 神乃木はニヤニヤと笑ったままだ。 「…いつもアンタが、脱がしちまうだろう?」 「………ッ」 (だ、だから、理性を試さないで欲しいんだけどなあ…) コートを掛けたとはいえ、服の間からはチラチラと神乃木の肌が見える。 …ヘタに隠れている方が、余計に目のやりどころに困るのは気のせいだろうか。 とにかく、このままハダカでコーヒーを入れに行かれるのはマズイ。 成歩堂は、神乃木を何とか布団に留めながら、床に置いておいた缶コーヒーを拾った。 少しヌルくなったそれを口に含み、神乃木に口付ける。 いつもの苦いキスと違って、ソレは随分と甘かった。 「これで、…どうですか?」 「…話にならねえな、オレは極上のコーヒーと言った筈だ。マサカこんなモンでオレを引き止めるツモリじゃねえよなあ、成歩堂サンよォ…」 「なら、残りはぼくで満足させますよ」 「………」 成歩堂のコトバに、神乃木が軽く片眉を上げた。 「オレはコーヒーにはこだわるぜ?」 「知ってますよ」 「アンタの得意なハッタリも通じねえぜ?」 「……知ってます」 もう一度、甘いコーヒーと共に口付ける。重なる唇から流し込まれるソレを、神乃木は受け入れていた。 唇を離すと、とたんに「甘ったるい」と文句を言われる。成歩堂自身も、いつもと随分と違う味に違和感はあったが、ソレを最初に飲んだ時に感じた筈の物足りなさは、不思議となかった。 甘い後味を口内に感じながら、顎を通って首筋まで、肌をついばみ唇を辿らせる。 乾いた肌を舌で湿らせると、しっとりと柔らかみを帯びる。皮膚を口でつまみ上げて、軽く歯を使って挟みこむ。 柔らかい部分は歯でゆるく引っかくようにして、皮膚の薄い部分は舌先でつつくようにして。 耳を口に含むと、舌に彼のピアスが当たり、すり合わさってカチリと音を立てた。 音に反応してか身じろぎする神乃木を抑えるように首に手を沿えると、ぞっと肩を震わせ、手首を掴まれた。 「まだ冷たいですか?」 「…ああ」 (でも、クチだけじゃ…このままだと、とても…) 物足りない。 もっと彼に触れたかった。 冷えた指を持て余していると、掴まれた手に、不意に神乃木が唇を触れさせてくる。乾いた口先で手の甲をなぞられ、指先に辿り着いたところで、ぴ、と舐められる。 「か、神乃木さん!?」 驚いて手を引こうとするが、その前に指先が生暖かく湿った中に包まれる。じっとりと舌で絡みつかれ、爪の間まで緩く舐められて、腰の辺りにゾクゾクとした感触が走る。 柔らかくぬめった口内に咥えられて、吸い上げられる。思わずぐっと喉を鳴らすと、いつの間にか神乃木の両目がコチラを向いていた。 見上げてくる彼のその目に、ギクリと心音が跳ね上がった。光が映らない筈の彼の、それでも尚、圧力を感じる瞳。気のせいだとは分かっていても、まるで見据えられているような感覚に、ザワリと背筋がざわつく。 やがて神乃木は、ちゅっと吸ってから、捕らえていた指先を離した。 「……オレはアイスは好みじゃねえんでな。あったかくしてやろうと思ったが、…アツイ弁護士サンには、ソイツはどうやら必要ねえらしいな」 ゆっくりと笑う。 「汗だく、だぜ?」 神乃木に首を撫でられると、ジットリとその指先が滑った。 気が付くと、随分と汗をかいていたようだった。 というか、このヒトにはさっきから汗をかかされっぱなしだ。 (…どうしてこう…ヤラしいんだろうな、このヒトは……) ここまで!! |