ココからは大人の時間



検事局から持ち帰った資料をパラパラとめくる。
事件の概要はすでにアタマに入れてある。明日の方針もすでに決まっている。

後は…成歩堂の出方次第、だろう。
案外、それが一番ヤッカイなのだが。

いきあたりばったりのようにも見えるあの男の弁護は、時として予想だにしない方向に転がるコトがある。
いかに御剣が完璧に、布陣を敷いたとしてもだ。
おそらく、成歩堂自身にも予想外のコトなのだろう。

……だからこそ、ヤッカイなのだ。

ギリギリの所まで追いこんでも、ホンの僅かな綻びから反撃してくる友人を、時折羨ましく感じるコトがある。
実際、一度だけ体験した弁護士は、その時証言台に立ったもう1人の友人のせいか、ひどく胃の痛むモノだったが、それでも……そう悪くはなかった。
無論、検事としての自分を後悔しているワケではないが。

それは、ともかくとしてだ。
こめかみを押さえながら、御剣は隣の男を睨みつけた。

「…神乃木荘龍、先ほどから、アナタは何をしているのだ?」

「…見て分からねえかい?」

ソファに座り資料を読む御剣の隣に、神乃木は腰掛けている。その男がカップを手にしているのは、いつものコトなので、今更気にもならない。
問題は、空いている方の手が、御剣の肩に回ってきているコトだ。
ヒトによりかかって資料を覗きこんできている。何をしているように見えるかと言われれば、邪魔をしているようにしか見えない。

「…ジャマなのだが」

「集中力が足りてねえんじゃねえか、検事サン?」

「それから、大事な資料を勝手に見ないで貰いたいのだがな」

「ソイツはオレが見ても、意味がねえモンだぜ」

「…アナタから、成歩堂に漏れると、何かと困るのだが」

「カップに受け止めた闇…ソイツをこぼしちまうのは、ヤボ、だぜ。オトコの勝負に水を差すようなマネはしねえさ」

つまらねえからな、とカップを煽る。

前々から感じていたコトだが、神乃木は法廷に姿を現さないワリには、ミョーにソレを把握しているような節がある。もしや、ドコからか見ているのだろうか。まあ、成歩堂の事務所にも記録は残されているだろうが。

時折、気まぐれのように成歩堂と一緒に事件現場を見に来ているこの男が、一体何を考えているのか、御剣には未だによく分からない。
特に同行の弁護士に水を送るでもなく、わざわざポットまで持参して、後ろでニヤニヤと含むコトありげに見ている神乃木は、相当成歩堂のプレッシャーになっているようだ。裁判でもないのに、成歩堂が冷や汗をかいているのをよく見かける。

この男が、成歩堂に手を貸すツモリがサラサラないのは、分かったが…。

「何も、私のジャマはしなくてもいいのではないか?」

「…コーヒーってのは飲んでみるまでは、決してホントの味は分からねえモンさ。最高の豆を用意して、最高のバリスタの手で点てたとしても、ソイツが必ず最高のコーヒーになるとは限らねえ。…ただ、そうするコトで、少しでも最高のコーヒーに近付けるコトはできる」

「……つまり、何が言いたいのだ、アナタは?」

「今日アンタができるコトはソコまでってコトさ。ジュンビが整っちまったなら、あとはボウヤのすべきコトは…」

「休むコト、か」

「違うな」

御剣の手から資料の束を取り上げ、それを軽く振って笑った。

「コイビトは、いつまでもほっとくモンじゃねえぜ、ボウヤ?」

「…明日は裁判なのだが」

憮然としながら御剣が資料を奪い返すと、神乃木は肩をすくめた。

「デキる男は、公私を分けるモンさ。違うかい?」

「残念だが、私はそれほど器用ではない。…アナタがどんな時にもコーヒーを忘れられないようにな」

「…オレはいつだって、法廷のコーヒーとプライベートのコーヒーの区別はつけてたぜ」

「……私には延々飲んでいるようにしか見えないが」

「違うさ」

ニヤリと笑うと、神乃木はカップの中身を一口煽った。
そして御剣の肩を掴むと、ぐっと引き寄せ、唇を合わせてくる。

「!」

少し熱い苦味のある味を、繋いだ唇から流し込まれ、それはすぐに離れた。

「…コイツが、仕事の味さ」

「…」

「そしてコイツが…」

神乃木がもう一度、コーヒーを口に含む。
そうして、その唇がもう一度触れ合わされる。
御剣の口内に、先程と全く同じ味が広がる。当たり前だ、同じカップのコーヒーなのだから。何ら変わるハズもない。

飲み下し、文句を言ってやろうと顔を引くが、神乃木はそれを押さえ込み、角度を変え、ぬるりと舌を差し入れてきた。
生ヌルいソレは御剣の舌を拾い上げ、しっとりと絡みついてくる。
濡れた感触で撫でられ、舌先で突付かれ、吸い上げられ、腰の辺りにミョーにくすぐったいような感覚が湧く。顎をザラリと引っかく彼のヒゲの感触が、よりくすぐったさを増す。

深く交わった口内で、濡れた音と低い吐息が聞こえる。いやにその音がアタマの中心に響いて聞こえ、それを追うウチにいつの間にか、御剣の方が彼の舌を絡め取っていた。
そして、そのコトに気付いたのは、何かが床に散らばる音によってだった。

バサバサと足元で広がる音に、ハッとする。
慌ててその男を引き剥がそうとして、両腕を回し抱きすくめていたのが、むしろ自分の方だったコトにも気付き、やたらと苦い気分になる。
見ると、ソファの下には、御剣が持っていた筈の資料がバラ撒かれている。手にしていたソレをウッカリ、落としてしまったようだった。
一層苦々しい気分になり、こめかみにピリピリとした痛みを感じながら視線をやると、カップを手にした男の笑みにぶつかる。

「……それで、コレがプライベートの味なのだろうか?」

「…いいや」

神乃木は白い大振りのカップを翻し、改めてニッと笑った。

「仕事を忘れさせる味、だぜ?」

「………」

ふと、彼の手の白いカップの底に残る黒い波に目を止める。全て飲まされたかと思っていたが、僅かだが残っていたらしい。

「…この程度では、まだ私は仕事は忘れられないな」

「オカワリがいるかい、ボウヤ?」

「…ああ、貰おう」

神乃木の手から、カップを取り上げる。
そして、先程よりも随分とヌルくなっていたソレを口に含み、神乃木に飲ませる。
繋いだ口内に、苦味のある味が広がる。それはやはり同じカップのモノで、3度飲んだ今でも全く同じ味だったが。

それでも、この味が好きなのだと、感じた。
コレは……この男の味だ。

彼の中の芳ばしい風味を追いかけて、やがてソレを見失うまで、深く長いキスを交わす。
ふとした拍子に滑るように唇が離れ、息が上がっていたコトに気付く。神乃木もそれは同じらしく、弾む息を飲み込むと、長いため息をついた。

「……よォ、仕事は忘れられたかい?…検事サン」

低い声で囁くように問われる。最初に飲まされた、あのコーヒーの熱さが移ったような、熱のこもった声だ。

出し抜けに、カップを持っていた筈の指が随分と軽くなっているコトに気付く。
もしや落としたかと慌てて見るが、奪ったカップには、取っ手部分にかろうじて御剣の指が引っかかっていた。だが、マグカップの底には神乃木の手が添えられ、支えられていた。

「………」

この男は、どうあってもコーヒーのコトは忘れないらしい。実際、風呂だろうがベッドだろうが、ギリギリまでカップを離さない男ではあるが。
カップを持ち上げ、神乃木の手の中から抜き取り、手前の机に置く。

「…言った筈だ。アナタが決してコーヒーを忘れないように、私も切り離して考えるコトはできないとな」

ついでに床から書類を1枚拾い上げて、神乃木の胸に突き付ける。

「アナタからその情報が漏れては困るからな。アナタのカップがどれほど頑丈でも、漏れないカップなどありえないだろう。…だから」

言葉を切ると、御剣は目を逸らした。

「……明日の裁判まで、私と一緒にいてもらうとしよう」

「……」

顎に神乃木の指が触れ、くいっと顔を戻された。人差し指と親指で顎を固定されて、見た男の表情は、目の前でゆっくりと笑みに変わった。

「……殺し文句なら、目は逸らしちゃいけねえな、ボウヤ。……乗れねえだろ?」

神乃木は突き付けられた書類をつまみ、ひらりと振ってみせる。

「それで、検事サンは、オレをどうやって捕まえてくれるんだい…?」

「無論、アナタが帰れなくなる方法でだ」

言いながら彼の手をどけ、腰に手を回し、引き寄せる。
そうして捕まえて、口付けて、ゆっくりと交わっていく。

やがて、彼の指から紙が滑り落ち、床に小さな音を立てた。


ココからは、大人の時間。






END

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