アツイ日




現場に着いた御剣を出迎えたのは、いつも通りの糸鋸刑事だった。
相変わらずの見慣れた薄汚れたコート姿…には今更何も言うつもりもない。ただし、いい加減、初夏と言ってもいいこの気温の中でなければの話だが。

「刑事、…暑くないのか、君は」

「自分はいつでも、燃えてるッス!!」

「……」

本人は暑くないらしい。ハタから見ると、暑苦しい事この上ないのだが。

「御剣検事、何か飲み物でも買ってくるッスか!?」

「ああ…そうだな、頼むとしよう」

バタバタと嬉しげに走っていく刑事を見送って、何となくため息をつきながら、捜査員が慌しく走り回る現場を見渡す。
相変わらず、この国は事件が多い。帰国して来たばかりだと言うのに、その足で現場に駆り出されるほどに。
そして、これほど法廷を重ねているというのに、未だに求める理想の裁判には、遠い。
思わず首を振ると、なにやら熱いものが目の前に差し出された。
見ると、この暑い中だと言うのに、よりによってホットのコーヒーだった。

「刑事…キサマは…」

「……オイオイ、オレが刑事サンに見えるかい?」

どこかで聞いたような調子で話し掛けられ、耳を疑いながら見ると、そこには色んな意味で伝説となった、元検事だった男が立っていた。

「……な!!か、神乃木荘龍!?」

「よォ、久しぶりだな、検事サン」

「な、何故、キサマがこんな所にいるのだ!!」

狼狽しながら突き付けた指の先で、神乃木はゆっくりとカップを持ち上げた。

「……どんなにウマイ豆があったとしても、器具がなきゃあ、決してコーヒーは点てられねえ。どんなコーヒーにだって…」

「後にしてもらおう!!」

何やら言いかける神乃木の腕を引っつかむと、強引に物影に連れ込んだ。

「オイオイ…せっかちなボウヤ、どうかと思うぜ?」

かなりの勢いで連れ込まれたにも関わらず、カップからコーヒーをこぼした様子もなく、いつも通りの不敵な笑い顔の神乃木の胸倉を掴み上げる。

「何故、キサマがここにいる!キサマは今、執行猶予中の身のハズだ!」

「成歩堂の付き添いってヤツさ」

「成歩堂の……」

神乃木は、成歩堂の弁護の結果、執行猶予を付けられた。
以来、時折、ふらりと成歩堂の事務所に現れては、無意味にコーヒーを飲んで帰って行ったり、真宵が担当している会計などの処理を手伝ったりしているらしい。
そうして、事務所にかかってきた電話に成歩堂のモノマネをしながら出ては、勝手に仕事を受けたりもするらしい。
おかげで成歩堂は、最近いつも忙しそうにしている。
それが、この男なりの礼のつもりなのか、ただ単に面白がってやってるだけなのかは、分からない。もしかしたら、その両方なのかも知れないが。

「分かったら、手を離してくれねえかい?」

「…アナタは、事件現場を一人でフラフラしないほうがいいだろう。成歩堂はどこだ?」

「さあな、大方例の刑事を捕まえて、いろいろ聞き出しているトコロじゃねえか」

また、あの刑事は成歩堂に乗せられて、情報をタレ流しているのだろうか。御剣は痛むこめかみを押さえた。

「アナタは一緒に聞き出さないのか?」

「オレは、トンガリ弁護士に協力するツモリはねえぜ」

付き添いで来たと言う言葉を、いきなり覆す発言に、御剣は眉間のしわをますます深くした。

「……では何故、ここにいるのだ?」

「そうだな…帰国したばかりだってのに、相変わらずムズかしい面ぶらさげてる天才検事に、コーヒーをオゴってやりに来たってのは、どうだい?」

言って、御剣にカップを差し出した。
カップからは、この暑さの中では凶悪なほどの湯気が立ち昇っている。見ているだけで、汗が出そうだ。成歩堂ではあるまいし、汗をダラダラと流す羽目にはなりたくない。

「…いや、結構だ」

「検事サンには、地獄のマグマのようにアツくて、そして噴き出すススのように黒くて苦いコーヒーは、お気に召さねえかい?」

やたらと暑苦しい形容詞も、やめてもらいたいのだが。
だが、神乃木は熱いカップを片手に、涼しい顔をしている。それどころか、立ち昇る熱い湯気を楽しげに味わっている。

思えばこの男に会うのは、随分と久しぶりだった。
最後に彼と会ったのは、神乃木の裁判の時だった。この男が犯した罪を裁くための、法廷以来だ。
その時も、釘を刺しておいたにも拘らず、やはり今のようにカップを手にしていた。
あの裁判を御剣は忘れないだろう。…色々なイミで。

「…相変わらずだな、アナタは」

彼が検事をしていた頃、検事局で彼がカップを離すのは、トイレに行く時と寝る時だけだと噂が立ったらしいが、あながち間違いではないのかも知れない。
ついでに言うと、彼が弁護士だった6年前にも同様の噂が立った事があった。

「………」

「コーヒーを飲む前から、苦いカオ、だぜ。検事サン」

「…ああ、かも知れんな」

そう、神乃木弁護士は、あの当時から、ひどく悪目立ちしていた。
それは決して、法廷でコーヒーをどこからともなく出すからでもなく、法廷でコーヒーをガブ飲みするからでもなく。…いや、ひとまずコーヒーのコト全てを抜きにしてもだ。
…6年と言う歳月は決して短い物ではない。その間に、彼は忘れ去られていた。
例え名を変えようと、仮面を付けようと、髪の色しか違わないというのに、彼の正体に気付くものは誰もいなかった。
ふと、御剣の中にやりきれないような感情がよぎった時、遠くの方から誰かに呼ばれたのに気が付いた。

「御剣検事〜〜〜!!」

…あの無駄にデカイ声は、糸鋸刑事だ。

「検事〜〜〜!!どこ行ったッスか〜〜!?飲み物買ってきたッスよ〜〜!!」

見ると、デカイ声を張り上げながら、キョロキョロと御剣をあちこち探し回っている。

「呼ばれてるぜ?」

そう言いながら、神乃木は声の方に親指を向ける。

「オイ、刑事……、ッ!?」

カップを上げて糸鋸に声をかけようとする神乃木に、御剣は咄嗟に手を伸ばし、後ろから両手でその口を塞いだ。
そのまま神乃木を抱き込むようにして、2人で物陰に隠れて屈み込んだ。

「……」

「………」

「…………」

しばらくそのまま2人でじっとしていたが、やがて、口を塞いでいる手を、トントンと指先で叩かれた。少し覆っている手を緩めると、神乃木が静かに聞いた。

「……コイツは何のツモリだい?」

「アナタは執行猶予中の身だと言ったではないか。アナタがこんな所をフラフラと歩いているのを見られたら、…その、何かと面倒なのだ」

「捜査好きのウッカリ刑事に事件の関係者と間違えられる、かい?いいんじゃねえか、…オレは別に構わねえぜ」

「コッチは構うのだ!!」

思わず叫んでから慌てて辺りをうかがう。
幸い、糸鋸刑事は気が付かなかったようだ。今だけは刑事のウッカリぶりに、感謝しておく。
御剣の掌の下で、神乃木が笑ったのが分かった。

「クッ、アンタのアツイ判決…、もう一回食らうのも悪くねえかもな」

「……私はもう、アナタの裁判はしたくない」

「オイオイ、つれねえな、ヒラヒラ検事サンはよォ」

これ以上何か言い出す前に、御剣は神乃木の口をもう一度強く塞いだ。

しかし、この暑い中で2人で密着していると、暑苦しい。
神乃木は割と体温の低い方らしく、顔に当てた手は最初冷たくて案外心地よかったが、掌に時折かかる息が生暖かい。それに、御剣の体温がだんだん移ってきたのか、触れてる肌が熱くなってきている。
そして、何よりも神乃木の持っているカップから上がる湯気が、やたらと暑苦しい。
たまらず御剣が汗ばみ始めると、ジメッとした感覚までが加わって、本当に暑い。暑苦しい。
オマケに、さっきから掌に神乃木のヒゲがあたって、チクチクと痛い。

何が嬉しくて、こんな風にしゃがみこんで、この男を後ろから抱えてなくてはならないのか。よくよく考えてみたら、御剣まで一緒に隠れるコトはないのではないかと思うが…、神乃木を野放しにすると、どんな面倒ゴトを起こされるか、まるで読めない。
ともかく抑えていないと、フラフラ何処かへ行かれてしまいそうだ。
暑いのをガマンして、ほとんど背中からおぶさるように神乃木の体を抱え直す。
暑苦しい。

(……い、一体、何の罰ゲームなのだ、コレは……)

こうなると、立ち昇るコーヒーの香りまでもが暑苦しく思えてくる。

と、ふと気付いた。
神乃木といるといつもソレが漂っているのが当たり前だったから失念していたが、よくよく考えてみれば、こんな所でコーヒーの香りがしているのは、明らかに不自然だろう。ココは事件の現場なのだから。
こんな所でコーヒー臭を撒き散らしていては、わざわざ物陰に隠れて汗ばんでいるイミが、まるでない。
御剣は神乃木の口を塞いでいた両手を外し、重々しく話しかけた。

「…神乃木荘龍」

「何だい?」

「…そのコーヒーを早く飲んでもらえないだろうか」

まさか、この男にこんなコトを言う日が来るとは思わなかったと、ため息をつく。
例の法廷では、証言台に立ったこの男に、散々逆のコトを言わされたものだが。
だが、振り返った神乃木の返事は予想外のものだった。

「ソイツは、できねえな」

「………なッ!?」

御剣は耳を疑い、神乃木を凝視したが、その神乃木はいつもの調子で笑みを浮かべながらコーヒーの香りを嗅いでいる。今にも飲み出しそうな様子に、やはり聞き間違いではないかと思った矢先、鼻先にカップを突き付けられた。

「言ったろ?コイツはアンタにオゴッてやるコーヒーだぜ。…オレはヒトのものを取っちまうほど、餓えちゃいないぜ?」

「……アナタには悪いが、今はそんな気分ではない。ソレはアナタが飲んでくれたまえ」

「いや、コイツはもう、オレのモンじゃあねえ。アンタのコイビトだぜ。……未練なんてヤツにすがるのは、オレはもう、止めたのさ。コイツは、アンタが飲んでくれ」

「…………」

からかうような口調の神乃木は、もはやソレを飲みそうにもない。

(いつもは、頼まなくてもガブ飲みしているモノを…。何故こんな時だけ、この男は…!)

ゾンビのような顔つきで神乃木を睨みつける。そして神乃木と御剣の間には、熱〜いマグカップがあり、御剣をひたすら汗ばませている。
いい加減、冷めても良さそうなものの、しかしこの気温の中、カップはなお強烈に熱気をたたえている。

「御剣検事〜〜〜!!!」

その時、また糸鋸の声が近づいてきた。
捜査好きのあの刑事は、まだ御剣を探していたらしい。いくら糸鋸と言えども、そう何度も何度もウッカリはしない…かも知れない。今度こそ、この辺りに漂っているコーヒーの香りに気付くかもしれない。
…ともかく、今見つかるわけにいかない。

御剣はしばらく呻いていたが、歯をぐっと噛み締めると、神乃木からカップを奪い取った。
そうして、一気に熱いソレを飲み下す。
喉元過ぎれば熱さを忘れる…なんてコトワザは大ウソだ。口内は熱いし、喉も熱いし、飲みきってしまえば、腹の奥底までグラグラと熱い。
この季節なのに、五臓六腑にまで染み渡る熱さだ。この季節に嬉しげにコレをガブ飲みしている神乃木の気が知れない。

(一体、何の罰ゲームなのだ、コレは!!)

水分が入ったせいで、だらだらと一気に汗が噴き出す。

(……成歩堂か、私は……)

「汗だくだぜ、検事サン」

神乃木はニヤニヤと笑いながら、御剣の首根っこを掴んだ。
そのまま、何を思ったか、神乃木にネコのように首元を掴まれたまま、物影から連れ出される。

「か、神乃木荘龍!キサマ…ッ!」

「暑い日に熱いのを飲む。ソイツだって案外、いいモンだぜ。ただし、狭苦しい場所にこもってちゃあ、その良さも分かりゃしねえぜ」

ふと風が吹いた。
広い場所に出ると、風が当たり、御剣を心地よく冷やしてくれる。

「涼しいな…」

求めていた涼しい風に、思わず何もかも忘れ、目を閉じ、しばらくそれに身を任せる。
その間に、神乃木は御剣の襟首を離し、ポンと肩を叩いてから、ついでに手元のカップも持っていった。
何となく落ち着いてしまい、そのまま風に当たっていると、後ろから声を掛けられた。

「御剣検事!!探したッスよ!!」

「なッ!?」

聞きなれた糸鋸刑事のデカイ声に、ふいにハッと我に帰る。
ボーっとしている場合ではない!

(あの男を、早く何とかしなければ!!)

何を言い出されるか、分からない!いや、むしろこの刑事を黙らせた方が、この際早いかも知れない、と忙しく考えながら、慌てて辺りを見回す。
が、いくら見渡しても神乃木はどこにも見当たらず、殺気立ちながらキョロキョロする御剣の姿を、糸鋸刑事が不思議そうに眺めているだけだった。

「…………」

神乃木は、いつの間にか消えていた。

「検事…、どうかしたッスか?」

「……いや、何でもない」

何となく、ため息をついて、ふいに手の中の感触に気付く。
いつの間にやら、手にハンカチを握らされていた。見覚えのない柄のモノだ。ソレが誰の物かは、御剣にも何となく想像が付いた。
ソレにかすかにコーヒーの香りが残っていたからでは、ないが。
風に当たったおかげで随分と汗は引いていたが、とりあえず、ありがたく使わせてもらう事にしておく。

「ところで、御剣検事、明日の法廷の弁護士ッスけど…」

「……ああ、承知している。成歩堂だろう?」

「ええ!?もう知っていたッスか!流石ッス、凄いッス!!」

わざわざ、言いに来た男がいたのでな…と御剣は小さく呟いた。
結局、あの男は何をしに来たのか。本当にコーヒーを飲ませるだけで、帰って行ったが。
借りたハンカチを丁寧にたたみ直し、仕舞う。
…いずれ、返せばいい。その機会は、これから何度でもあるだろう。

「何か、イイ事でもあったッスか?」

ふいに糸鋸に聞かれ、驚く。

「なッ、何故そう思うのだ」

「何か、嬉しそうッス」

そう言いながらニカッと笑う糸鋸の方が、よほど嬉しそうだが。
しかし、バカな。ロクでもない目にはあったが、イイ事などあるものか。

「そッス、検事!コレ、飲み物買って来たッス!!」

思い出したように言いながら、糸鋸が楽しそうにジュース缶を差し出してくる。
ちょうどいい、さんざん神乃木に汗をかかされて、ノドが乾いていた所だった。

「……ああ、その、感謝する」

が、受け取って御剣はギョッとした。缶が熱い。
嫌な予感と共に確認してみると、ソレは何を思ったか、よりによって、あたたか〜い缶コーヒーだった。

「暑い日には、やっぱり熱い飲み物ッス!!」

満面の笑みで言う糸鋸に、御剣は低い声で呟いた。

「……刑事、キサマ……」






そうして、事件現場に鈍い殴る音が響いた。

「むぐう…み、御剣検事……、流石、キョーレツなパンチッス……」






END


















…とりあえず、神乃木さんを留置所から出しておこうと思って書いた話です。
で、グーゼン密着状態でドキッ!?みたいな内容にする予定だったんですが、不思議なほど色気のない展開になってしまいました。
最近やたらと暑いせいか、引きずられて話の内容も暑苦しく…。

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