物語は始まらない |
…迎えが来た。 俺は10年ぶりに会った旧友に向け、酒を掲げた。 重力を狂わせながら近づいてくる、大きな波動。その存在に、空気が、いや空間自体が揺らいでいる。 徐々に激しくなっていく風の中、俺は奴の息子を迎えに行くために踵を返した。 返したのだが…。 動けん。 まるで何かに引き留められているようだった。 怪訝に振り返るが、もちろんそこには何もなく、ただ巨大な水球がぐんぐんと近づいてくるのが見えた。 もう一度動こうとするが、やはり動けない。まさか、重力の狂いに巻き込まれたか? その間にもそれは勢いを増して、距離を詰めてきている。まっすぐ、こちらに向かってくる。 ちょっと…待て。 このままでは遠からず轢かれる。いや、すぐにでも。 藻掻いているうちに、頭上に影が落ちた。見上げると、視界に収まらないくらい圧倒的な質量の、かつての友の姿。 あまりの巨大さに、ぞっと背筋が冷える。 …殺される。 「ジェクトッ!!」 無駄だとは分かっていたが、堪らずその名を呼んだ。しかし…。 「ぎゅうう〜ん」 …まさか、返事をされてしまうとは思わなかった。 シンは俺のすぐ直前で止まっていた。 体は相変わらず固まったかのように動けないが、確かめるために、ゆっくりと自分の手を握りしめ、そしてほどく。 ああ、どうやら重力からは解放されたらしい。ただ、先程の恐怖が未だ体中に残っていて、体を硬直させている。 俺は時間をかけて体をほぐし、息をついた。シンはそんな俺を、じっと待っていた。 「…ジェクト」 「ぎゅう」 ちゃんと返事が返ってくる。 「分かるんだな」 手を伸ばしてみる。触れた瞬間、思わず身がすくんだが、それを押し殺して、撫でる。 つい先程まで水球に包まれていたためか、せわしなく水が滴っていて、冷たい。 「俺を引き留めたのは、あんただな。何故だ?」 「ぎゅお〜ぐあ〜ぎょお〜」 「…悪いが、分からん」 僅かながらの寂しさと共に、首を振る。 それが見えたのか、それとも俺の声が聞こえたか、シンは俺の体にすり寄ってきた。 ぼたぼたと水が降り注いで、あっという間に全身濡らされてしまう。 俺から見ると巨大すぎて、ほとんど一面の壁にしか見えないそれに、おそらく手加減はしているのだと思うが、それでもすり寄られると体ごと持って行かれそうになる。 「おい、よせジェクト。落ちる…!」 途端に足元の鉄骨の感覚が消える。ずるりと瞬間的に視界が下がった。 「!」 慌てて俺は、目の前のシンにしがみついた。 濡れていて滑る。それに両腕を使って全身ですがりつく。掴み所がなくて、今にも落ちそうだ。 「こら、ジェクト!」 俺が抗議すると、奴は楽しそうに鳴いた。 こいつのそんな声を、かつてよく聞いた気がする。 俺をからかうような声。そのたびに俺はムキになって、よくあんたに突っかかったな…。 「俺で遊ぶな」 昔と同じように抗議するが、その声は自分でも分かるくらいに、トゲがなかった。 しがみついた手に力を込めて、全身でもたれかかる。 頬に当たる感触は、まるでは虫類のようだった。ざらざらとして、ひどく冷たい。 俺の知っている感触とは、随分違うが、それでも…これは、あんたなんだな。 どれくらいそうしていたのか、いや、ほんの2、3分だったのかも知れない。 俺は驚くほどにそっと、元に立っていた鉄骨の上に降ろされた。 何となく体を起こすのが面倒で、寝転がったまま見上げると、一面の黒い影。大きすぎて、どこまでが夜空で、どこからがあんたなのかも分からないが。 上から水が滴って、降り注いできて、雨に打たれているようだと思った。降ってきた水が目の中に入って、軽い刺激に目を閉じ、開いてから、ふと違和感を思える。 先程より影が近いような…。 自分の遠近感のなさは自覚しているので、体を起こし、手を伸ばして確認してみる。が、すぐに手が触れて、それは思っていたよりもずっと近くにいたことが分かった。 いや、それどころか、だんだんと手が押し返されてきて、もはや確かめるまでもなく、目前にまで迫ってきている。 「おい!」 俺を挟むつもりか。いや、それよりも潰れる方が先だろう。 この際、鉄骨から落ちて逃れようかと考えたが、それもすでに遅く、俺はろくに動けもしないほどの狭い空間の中で足掻いた。 「何のつもりだ!ジェクト!!」 叫ぶと、またすり寄られた。 「ぎゅうん?」 何だ、その鳴き声は! およそスピラの脅威らしからぬ声だ。なだめているのか、からかっているのか分からない、この声にも嫌というほど聞き覚えがある。 どんな顔で言っているかまで、容易く想像が付く。こいつが、こういう声を出すときは、大抵その後、俺を…。 ……無茶だ。 無理だ、潰れる。破裂する。いくら俺でも四散する。 相変わらず、楽しそうにすり寄られているが、俺からすると、動く壁に挟まれているとしか思えず、もはや何が何やら分からん。 鉄骨と、巨大な壁の間でろくに動くこともできず、物理的にも精神的にも圧迫されて、もう、いつ自分の体がへしゃげるかと思うと、気が気じゃない。 鮫肌というか、何というか。ざりざりと削れるかと思うほど全身を擦られながら、俺はこの馬鹿から託された息子のことを思った。 ――すまんティーダ、俺はもう、お前のことを守ってやれんかもしれん…。 そして、かつての俺の主であり、何よりも友であったあの方を思った。 ――ブラスカ様、何も成せなかった俺を許して下さい。 それから。 ――ジェクト、あんたは…。 俺は思いつく限りの罵声を、目と鼻の先にある壁めがけて浴びせ続けた。 全く!挟まれているから、殴れないのが残念なくらいだ! 「あんたは本当に、大馬鹿だよ!!」 「きゅう」 「嬉しそうな声を出すな!!!」 その日、ザナルカンドは襲われなかった。 替わりに何が襲われていたかは…体裁が悪くて、とても言えない。 END |