2人でコーヒーを



(何故、私はココにいるのだろうか…)

御剣は、やや手持ち無沙汰気味にベッドに腰掛けていた。
この部屋には、相変わらずあまりモノがない。フローリングの床には何も敷かれていないし、ソファもクッションもない。
この時期に床に直接座る気にはとてもなれず、仕方なくベッドに腰を降ろしている。
コーヒーの香りに包まれた部屋の中で。




「よォ、検事サン、美味いコーヒーを飲ませてやろうか…?」

突然現れた男は、そんな言葉で誘ってきた。
そのままドコに連れて行くかと思えば、何度か来た事のある、その男の部屋だった。

この部屋の主である男は、キッチンの方で何やらやっているようだった。
特にやることもなく、ただ座っていた御剣は、立ちあがり、そちらに向かった。

「さっきから、アナタは一体何をやって…」

そこで言葉を止めた。
てっきりまたコーヒーを点てているかと思っていたが、キッチンに立つ神乃木は、エプロンまで着けてフライパンを手に、何やら料理を始めていた。

「……アナタはコーヒー以外も口にするのか」

意外な光景に思わず呟くと、神乃木がおかしそうに振り返った。

「オイオイ…ボウヤはオレを何だと思ってるんだい?」

だが、いつもコーヒーばかりで、それ以外を進んで腹に入れようとしているところは見たコトがなかったのだ。







いつだったか随分と昔、まだ彼が仮面を着けていなかった頃、偶然神乃木と昼食を取る機会があったが、その時もコーヒーばかり煽っていた。
怪訝に思った御剣がそれを問いただしたが、

「…クッ…、いいかいボウヤ、人間には器ってモンがある。…オレはその器を、コーヒーの深い漆黒の闇で満たしてェ。ただ、それだけのコトさ…」

などと返された。

「神乃木荘龍、その…意味が…よく分からないのだが」

「メシを食うと、腹がふくれちまって、その分美味いコーヒーを楽しめなくなるからな」

「食事くらい、ちゃんと食べないか!!」

聞けば、神乃木は夜くらいしか、マトモに食事を取らないのだと言う。
確かに、普段あれだけの量のコーヒーをガブ飲みしてれば、腹は空かないのかも知れないが…。
それを聞いて、御剣はひどく頭を痛めたものだ。

(胃は壊れないのか、この男は!)

ついでにその状態で、あの体つきを維持していられるのも、ひどくナゾだった。
オマケに星影弁護士事務所で年二回行われる健康診断では、事務所一健康だと太鼓判を押されているとも言う。

(その事務所の健康診断とやらは、ザルに違いない)

おかげで誰も神乃木の不摂生については何も言えない。健康に気を使ってるようには、とてもじゃないが見えないし、もしかしたら、どこかでデータの改ざんでもしているのかも知れないが、そして、それくらいやりかねない胡散臭い男ではあるが。
見た目は確かに、イヤと言うほど元気だ。

…元気だったのだ。







6年前あれほど言っても、全く聞かなかった男は、今、キッチンでフライパンを振っている。
ひとりでこの部屋に住んでいる神乃木が、自炊くらいしていても、何ら不思議はないのだが。それどころか…。

(普通のコトの筈、なのだがな…)

それでも、ため息が出た。
やりきれないような気分で神乃木の背を見つめていると、不意に腕を引かれた。一瞬バランスを崩しかけたトコロに、アタマを押さえられて、そのままぐしゃぐしゃと掻き回された。

「なッ!?」

思い切り髪の毛を乱してから、ソレは離れていった。

「いきなり何をする!神乃木荘龍!!」

この男は、基本的に唐突なのだが、いい加減ソレにも慣れたかと思っていたが、今のは流石に不意を突かれた。

「さあな?」

ポンポンと頭を叩き、またガスレンジに向う。

「後ろに立たれていると妙に落ち着かねえんでな…。イイ子にして待ってたら、極上のコーヒーをオゴってやるぜ、ボウヤ?」

「…向こうに行っていろとでも言うのか」

「ひとりじゃ寂しいかい?」

「…………」

「隣になら、いてもいいぜ?」

御剣はもう一度ため息をついた。何となく、気がそがれた。
それでも一応、楽しそうにフライパンを振る男の横に移動する。

「ところで…先程から気になっていたのだが、アナタは一体何を作っているのだ?」

「コーヒー、だぜ」

「………………何?」

覗きこむと、フライパンの中で色良くなり始めた豆が、炒られていた。

「まあ、ホームローストってヤツさ」

「…マサカとは思うが…わざわざ、焙煎から始めているのだろうか?」

「コーヒーってヤツは、手間をかけてやれば、その分魅力的なカオを見せてくれるんだぜ。手を掛ければ掛けるほど、な。男ってヤツは、手がかかるオンナにほど、惹かれちまうモンなのさ」

「………」

(…この男のコーヒー好きは、イヤと言うほど理解していたツモリだったが)

訪ねてきた相手に出すコーヒーを、いきなり焙煎から始めるような物好きは、滅多にいない。酔狂にもホドがある。というより…。

(料理ではなかったのか!!)

いや、一応、料理は料理だろうが。あまり聞きたくはないが、念の為に聞いてみる。

「アナタは、その…ちゃんと食事はしているのか?」

「ああ、してるぜ、…夜だけな。前に言わなかったかい?」

「食事くらい、ちゃんと食べろと言っただろう!!!」

叱りつけると、神乃木は楽しそうに笑った。

「…ボウヤにソイツを言われるのも、久しぶりだな」

「………ッ」

一瞬、胸に何か詰まったような感覚を覚えた。
この目の前の男が、昔とは違うコトを、不意に突き付けられる瞬間がある。
ワケの分からない物言いも、ヒトを食ったような笑い方も、まるで変わってはいないというのに。

「…ボウヤ」

黙り込んだ御剣に、神乃木が声をかける。声に顔を上げると、急に口に掌を押し付けられた。

「…むっ、グッ!?」

口に何か入れられたようで、思わずソレを噛んでしまい、とたんに口内に広がった苦さにむせる。

「なッ、何だコレは!?」

「どうだい、炒りたてのコーヒーの味は?」

うっかり噛み砕いてしまったコーヒー豆のゴロゴロした感触と、口内の水分を根こそぎ吸い取られるような苦味に咳き込みながらも、ソレを飲み込み、神乃木を睨み付ける。

「不味い!!」

「ソイツは残念だぜ」

神乃木は、笑いながら自分の口にも豆を放り込み、味を確かめると火を止めた。
御剣にはサッパリ分からないが、あの味でいいらしい。あの苦味のカタマリとしか言いようのない物体を、ピーナッツでも食べるようにかじり、フツーに飲み込んでいる神乃木が、全く信じられないが。

「知ってるかい?苦味ってヤツは、味覚の中でも分かるようになるまでは時間がかかるモンなんだぜ、…早く苦味の分かるオトナになりな、ボウヤ」

「…………」

口の中がまだザリザリする。
舌の根元にカケラが残っているらしく、チクチクと痛い。そして、苦い。

ニヤニヤと笑う男の姿が妙に癪に触り、そのネクタイを掴み、引き寄せ、彼の笑みを塞いだ。
ついでに飲み下しそこねたカケラを、神乃木の口内に舌で押しやる。そのザラッとした異物にも驚く様子もなく、神乃木はソレを飲み下した。

素直に嚥下する神乃木に、丁寧に口内に残っていたコーヒーを全て飲ませているうちに、じっとりとした温かな感触に酔い始める。
ぐらりと頭を占めていくこの酩酊感が、単なる酸素の不足によるものだというコトは、よく分かっているが。それでも、舌先に感じる柔らかい中は、心地よかった。

が、ふいにおでこを押され、引き剥がされた。

「そこまでだボウヤ…、これ以上は…焦げちまうぜ?」

「火は止めた筈だ」

「…余熱があるのさ」

神乃木はフライパンを取り上げると、濡れた布巾の上に置く。急激に水分が蒸発する音を聞きながら、シンクに寄りかかった。
そして、長いキスで上がった呼吸を静めるように、深く息を吐いた。それは、酒気を払う仕草に似ていた。

「それで…もう余熱は冷めたのだろうか」

「まあ、当面はな」

「…アナタは」

後ろ手にシンクを掴んでいた神乃木の手に、自分の手を重ねる。

「…アナタは、どうなのだ?」

重ねた手に力を入れると、神乃木が薄く笑いを浮かべた。

「アンタの火は、そんなにヤワじゃねえだろう?このまま…くすぶった火でオレを焦らし続けるかい?それとも…」

シンクと自身の体で、神乃木を挟み込む。

「私は…ハンパなコトはしない」

「イイ子だ」

顔を寄せて、軽く音を立てて唇を吸う。それから、もう一度深く交わった。







キスを交わしながら、ゆっくりと神乃木を床に座らせると、小さく不満げな声を上げた。

「…冷てェ」

御剣も膝をつくと、確かに冷たい。足元からギョッとするほど冷える。

「…前から思っていたが、何か床に敷く気はないのか、アナタは?」

「オレには熱いコイビトがいるんでな、ソレで充分だぜ」

(…この男は、コーヒーで暖を取るから、カフェイン中毒になるんだと思うのだが)

床に付いていた手を取ると、神乃木の手はひどく冷えていた。
手の甲に何度かキスを落とし、手を捕らえたまま腰を抱き、引き寄せる。そして、シャツのボタンに手を掛け、少し考えて、外すのを止めた。
代わりに手を、服の間に滑り込ませ、ソロリと腹を撫でた。

「…脱がさねえのかい?」

「アナタが冷えているからな」

耳元で笑う声が聞こえる。

「……熱くなるまでの間だ。アナタが熱くなれば、遠慮なく脱がさせてもらう」

何となく憮然として答えるが、神乃木は笑ったままだ。

「まあ、頑張ってくれよ、お優しい検事サン?」

「…………」

ソレには答えず、服に腕を潜り込ませて、手探りで見つけた乳首をつまんで軽く捻ってやった。

「…ッ」

息を詰めて、ようやく笑うのを止めた神乃木の耳に顔を寄せる。
ふちに唇を触れさせてみると、耳も冷えている。
唇を辿らせ、暖めるように熱い息を吹き込むと、神乃木が肩をすくめ、また軽く笑った。

「…くすぐってえよ」

ついでに舌を差し込んでみるが、それもくすぐったいらしく、押しのけられた。
仕方なく、服に差し入れた手を背に回し、さするように撫で回す。
が、やはりくすぐったいらしく、笑いながら逃げられる。

「…何なのだ、アナタは」

ここまで来ているのだから、気がないというワケでもないだろうが。
感度はとりあえず悪くないようだが、こうも笑われていると、やりにくいコト、この上ない。

「…前は良さそうだった筈だが?」

「アンタ…、フレーバーコーヒーって飲んだコトあるかい?アレはな、炒りたてでもすぐには飲めねえんだ。香りを馴染ませるのに、時間がかかる。寝かせて、馴染ませて、ようやくコーヒーに上手く香りが乗るのさ」

「ようするにアナタは何が言いたいのだ」

「まあ、焦るなってコトさ」

(……ヒトコトで済むなら、最初からそうして欲しいのだがな)

逃げる内に、すっかり壁に寄りかかってしまってくつろいでいる神乃木を、これ以上逃げられないように手をつき、御剣の体で囲う。
首筋の髪を払って、ソコにキスを落とす。
そのままなぞるように舌を辿らせる。顎の辺りまで舌を滑らせると、神乃木が身をよじらせた。
肩を掴んで、神乃木の体を留め、丹念に舌でくすぐる。

笑っていた男が、やがて笑みを消すまで。余裕を少しずつ、失くし始めるまで。
笑いではなく肩をピクリと引きつらせて、こもったような吐息を漏らし始めるまで。
ゆっくりと、じっくりと。

彼の体に手を回し、彼が笑った部分を撫で回しても、神乃木はもう逃げなかった。
耳を咥えながら神乃木のネクタイをくつろげていると、軽く首元を引かれた。

「……ボウヤは、脱がねえのかい?」

「ソレは、脱いで欲しいという事だろうか」

「…さっきから、ボウヤのヒラヒラが当たってくすぐってえんでな」

神乃木は御剣のソレで遊んでいる。クルクルと触る手先は、解きたそうにしているようにも見えた。

「それに…ハンパなコトはしねえんだろ?なァ、検事サン」

「…悪いが、分からない。……もう少し、分かりやすい言葉でねだるんだな」

スルリと、神乃木の手が頬に昇ってくる。
しっとりと濡れたキスをされ、寄りかかられる。重みをかけてくるその体を抱きしめると、耳元に吐息と共に囁かれた。

「足りねえんだよ…アンタが、な。……そう言えば、くれるかい?」

「…モチロンだ」








不思議と、少し冷たかった部屋が、心なしか暖まっているような気がした。
まだ、体が冷め切っていないせいかも知れないが。

服を整えていると、コト、と音を立てて、御剣の目の前にカップが置かれた。
先程、神乃木がローストしていたモノだろう。

「誰かサンのおかげで、炒りたて、とはまあ言えなくなっちまったがな」

それでも、挽いたばかりの香りが部屋には溢れている。
結局、この部屋には座る場所はベッドしかなく、御剣は再びソコに腰掛けていた。
今はコーヒーを点てて戻ってきた神乃木も、隣に座っているが。
ベッドのサイドに置かれたコーヒーを取り上げ、口を付ける。

「…極上の味、だろ?」

(……感想を言う前に、いきなり決め付けないで貰いたいのだがな…)

だが、確かにソレは…美味しかった。

「ああ…、いい味だ」

そして、嗅ぐまでもなく広がる香りは、確かに心地いい。
ノドを通る温かな感触に、ホッと息を付いていると、神乃木の視線がコチラに向いているのが分かった。
相変わらず、その口元には笑みが浮かんでいたが、それはいつもよりも幾分柔らかくて、嬉しそうにも見えた。
ソレを見て、ふと急に気恥ずかしいような感情がよぎったのは、気のせいだと思うが。

「それで……、アナタはどうして、私をココに連れてきたのだ?」

「単にオレが美味いコーヒーを飲みたかったから、だぜ」

「……」

「美味いコーヒーを入れるコツ、ってヤツさ。…不思議なモンでな、自分が飲むために入れるよりも、誰かの為に入れるのが一番、上手くできる」

「………」

御剣は手の中の、カップに揺れる黒い波を見つめた。

「そうだな…私もコーヒーを美味しく楽しむ方法というのを、ヒトツ、知っている」

「……何だい?」

「誰かと一緒に、飲むコトだ」

神乃木はもう一度笑って、カップを上げた。
それに、御剣もカップを合わせる。

軽く音が鳴って、2人で少し遅い乾杯をした。



この、コーヒーの香りに包まれた部屋の中で。






END








逆裁INDEX / TOP