闇の中 |
成歩堂は、事務所を見上げてため息をついた。 ビルの一角、成歩堂弁護士事務所の窓、そこには灯りはともっていない。 今日は裁判も終わり、真宵も先程駅まで送っていった。だから事務所に誰もいないのは当然なのだが。 時折、思い出したように灯りが点いている事がある。 そんな時に事務所に帰ると、一応所長である筈の成歩堂よりも圧倒的な存在感と迫力を出しながら、偉そうにしてる彼がいたりするのだが。 依頼人が来ていると、まず彼が所長に間違えられる。タマにしか来ないワリに、まるで主のように馴染んでいる。まあ、彼はどこにいても、ただいるだけで、その空間を独自の空気に変えてしまうのだが。 (最近、来ないな…神乃木さん) 電話をかけてもまず繋がらないし、メールを送ってもあまり返事もくれない。タマに返事をくれても、メールもいつもの調子で打ってくるので、まず意味が分からない。 メールの時くらい、コーヒーの例え話はしなくてもいいと思うのだが。 (まあ……神乃木さんだしな…) そのまま帰ろうかとも思ったが、今日は忙しくてチャーリー君にまだ水をあげていない事を思い出し、事務所に上がる。 そして、ドアを開けた時、ふわりとソレが香った。 コーヒーの香りだ。 (神乃木さん…!?) 部屋に残る香りに、とっさに辺りを見回す。 そして、真っ暗な部屋の一角に赤くぼーっと光るモノを見つけた。 (……わ、分かりやすいな……) 暗い事務所の中をあちこちぶつけながら、その光を頼りに進む。そうして近づいて、ソファで寝ている彼を見つけた。 ソファの前のテーブルには、コーヒーメーカーとカップが置いてある。サーバーには、もうコーヒーは残っていない。 前に春美と真宵が、神乃木のコーヒーを飲んで夜寝られなくなったと言っていたが、あれほど濃いめのブラックをガブ飲みしていても神乃木にはそんなコトは関係ないらしく、その寝息は穏やかだ。 仮面の光のおかげで、これほど暗い中でも神乃木の顔がよく見える。少し目に眩しいくらいに。 手を伸ばし、そっと仮面を外してみると、どういう原理なのか、赤い光は消えた。 あまり見せてくれない彼の寝顔を見てみたかったのだが、赤い光に目が慣れていたせいか、暗くてよく見えない。暗がりの中に見える神乃木の輪郭を頼りに頬に触れる。 ざりざりとした感触が手に当たって、ヒゲがあるのが分かる。ヒゲをなぞっているうちに唇を見つけ、ソコにも指を辿らせていると、いきなり指先を舐められた。 「ぎゃあああああッ!?」 「…うるせえぜ、成歩堂」 驚いて指を引っ込めると、神乃木がゆっくりと体を起こした。例の長身でソファにムリヤリ寝ていたせいか、ゴキゴキと首を鳴らしている。首の後ろをさすりながら、神乃木は成歩堂に顔を向けた。 「…で、久しぶりだってのに、弁護士サンはイキナリ夜這いかい?」 「…ま、まだ、ナニもやってません…」 「まだ、ねえ?」 見えないが、多分、神乃木はニヤニヤとしている。見えなくても分かる。 と、肩を掴まれて急に引き寄せられた。 トンガリ頭を胸元に抱えられる。神乃木が顔を寄せたらしく、おでこに息がかかる。 「神乃木さん?」 「…クッ、弁護士サンは今日の裁判も崖っぷちだったらしいな」 「ぼ、傍聴してたんですか?」 「見なくても分かるさ。アンタが汗臭えからな。香りってヤツは、時には、目で見るよりもずっと伝えてくれるモンだぜ。ソイツが香り高いブレンドなら尚更、な」 確かに、今日もさんざん法廷で冷や汗をかかされた。 成歩堂は冤罪なら確かにギリギリながらも無罪を勝ち取るが、余りの崖っぷちぶりに依頼人の寿命も確実に削り取ると噂されている。神乃木に千尋の後継者として認められたものの、未だにギリギリの弁護しか出来ない自分を歯がゆく思う。 そして神乃木は、自身の罪を裁いた法廷以来、法廷に姿を現した事はなかった。 時々事務所に現れ、時には現場検証にもついて来る事もあるが、法廷には決して足を踏み入れない。 一度そのことを神乃木に聞いた事があったが、いつものように笑って返された。 「…オレはもう飲み干しちまったのさ、法廷でのアツイ最後の1杯をな。極上の1杯ってのは、いつだって2度とは味わえねえモンなんだぜ?」 神乃木は、罪を裁かれたあの法廷でもカップを手にしていたが、判決を告げられたあの時、中身を飲み干して言った言葉を思い出した。 「今まで…この法廷で一体何杯のコーヒーを煽ってきたのか、もう覚えちゃあいねえが…。コイツが、オレがココで味わう最後の1杯、だぜ」 それが神乃木の決めたルールなら、彼はもう2度と法廷を傍聴することすらもないのだろう。 千尋を継いだと言うのなら、その弁護を神乃木に見てもらいたかったが。 まだ、ようやく追いつけたところだろうが、この先、崖っぷちではなくなった時に、その姿を彼に胸を張って見せたい。いつか、必ず。 と、ふいに頭を撫でられた。 そうして、おでこに柔らかく唇の感触が当たる。ついでにぺロリとソコを舐められた。 「ぎ、ぎゃああああッ!?」 「オイオイ、近所迷惑じゃねえかい、弁護士サン」 神乃木の笑う声が頭の上で聞こえる。 (イチイチ読めないんですよ、アナタの行動は!!) 神乃木の行動はいつも唐突だ。舐められた場所が生緩くて、熱い。頭を掴まれ、がしがしと乱暴に撫でられる。 「アンタのカオ、塩っ辛いぜ」 「…そんなにぼく、汗臭いですか?」 「ああ、臭えな」 (よ、容赦ないな…) あちこち嗅いで確かめてみるが、自分ではよく分からない。もう鼻が慣れてしまっているのか、それとも神乃木のコーヒーの香りが強いからか。 暗い事務所の中はコーヒーの香りで満たされている。神乃木の服からは特に強く香る。 成歩堂は、神乃木の影を頼りに体を引き寄せ、顔を近づけた。 そして、彼の唇を舐めてみる。 「!」 予想通り、コーヒーの香りが一番ハッキリと分かる。 薄く開かれた唇に舌を差し入れて、濡れた中を舌でなぞる。 少し驚いたような彼から顔を離し、覗きこみながら笑ってみせた。 「神乃木さんは、コーヒーの味がしますよ」 「……クッ、違えねえ」 もう一度、彼のコーヒーの苦味を確かめようとしたが、それは神乃木に止められた。 顔を近づけたところを、ピンと指先でおでこを弾かれる。 「しょっぱいコーヒーってのは、お薦めしねえぜ?」 「ぼくは、それでも構いませんよ」 もう一度顔を近づけるが、今度は邪魔をされなかった。 片手で彼の頭を抱きこんで、唇を重ね、彼の舌を追う。厚ぼったい感触をたどり、舌に残ったコーヒーの苦味と酸味を確かめながら、根元の辺りをくすぐる。 時折、神乃木の低く呻く声と、嚥下するような音が聞こえる。それに、ひどく煽られた。 久しぶりに嗅ぐ、きついコーヒーの香りに酔ったようになりながら、彼の中を味わう。 唇を合わせたまま、彼をソファに横たわらせると、神乃木もまた成歩堂の背中を抱えて、片手で器用にするりとネクタイを外してくる。 シャツのボタンを外されながら、顔を離すと、暗がりの中、神乃木が笑っているのが何となく見えた。 「あちこち汗だくだぜ?成歩堂」 「……シャワー浴びてきましょうか?」 「オイオイ…アンタは熱いコーヒーをわざわざ冷ましてから飲むつもりかい?」 耳を引っ張られて、耳元で囁かれる。 「……熱くなっちまったオレを、ほったらかすようなマネはなし、だぜ」 「〜〜〜〜!!」 (ど、どうして、そんな事がポンポン口に出せるんだ…?) 思わず赤くなったのが自分でも分かった。メガネのない神乃木からは見えないだろうが、それでも何となく見透かされてる気がする。 「また汗臭くなってるぜ、ボウヤ?」 (やっぱり、見透かされてるな…) 多分、この人にはいつまでも敵わないのだろうけど。 両手で頭を抱き込まれ、そのまま撫でられる。 「だが…アンタのニオイ…嫌いじゃないぜ」 そっと目を上げると、暗くてやはりよく見えない。 彼がそれをどんな表情で言ったのか、見たかったが。そして、彼がそれをどんな目をして言ったのかを。 神乃木のコーヒーの香りに包まれながら、成歩堂はもう一度、彼にキスを落とした。 「なるほどくん!!なるほどくんってば!!」 「…ううーん?」 「なるほどくん!!」 いきなり、パチーンとほっぺたを叩かれた。 「いたた…」 目をチカチカさせながら起きると、真宵が覗きこんでいた。 「いきなり、何だよ…」 「こんなトコで寝てちゃ、ダメだよ」 「こんなトコ…?」 体を起こして見渡すと、事務所の中だ。ソファの上でムリヤリ寝てたせいか、体があちこち痛い。何だか、首も違えてる気がする。 昨夜の暗闇がウソのように、事務所の中は明るい光に包まれている。 ふと見ると、テーブルに置いてあった筈のカップも、コーヒーメーカーも消えている。 (神乃木さんは…?) いればすぐに分かる。あれだけ目立つ人なのだから。 だが、事務所のドコにも神乃木の姿はなさそうだった。 (じゃあ、昨日のアレは…) このソファの上にいた筈の神乃木を思い出す。暗くてよく見えなかったが、その肌触りも声も、ハッキリと感覚として残っている。 「ねえ、なるほどくん。昨日、もしかして神乃木さん来てたんじゃないかなあ」 「え」 「ううん、事務所のドアを開けた時、何となくコーヒーのニオイがした気がしたんだけど…。なるほどくん、会わなかった?」 事務所にはもう、コーヒーの香りは残っていない。昨日、闇の中であれほどきつく感じた香りも消えてしまっている。 ただ、その分自分が汗臭いのは、よく分かったが。 (…シャワー、浴びた方がいいな…) とりあえず、自分のニオイをなんとかしようと立ち上がり、視線を落として気付いた。 チャーリー君の鉢植えに水がたっぷりと注がれている。 結局、昨日水をあげるのを忘れていた筈なのに。 水をたっぷりと吸って生き生きとしたチャーリー君を見ながら、今度、この事務所に明かりが灯るのは、そしてコーヒーの香りで包まれるのはいつだろうと考えた。 それが、なるべく早いウチだといい。 END |