※マジ男とシーフ子に萌えてみよう
※マジ男×シフ子 ラブコメ
※2002/06/29 β時代
いい天気だ。
空は青く晴れわたり、陽射しは少し暑いほど。
王都プロンテラは今日もにぎわっている。
露店が威勢のいい声をあげる中央通りを横にそれると、一休みしたい人々のためにベンチやカフェが並ぶ。
石畳の上に置かれたテーブルを囲む人々は、買い物帰りの奥さんや昼下がりを楽しむ職人のおじさん、そして冒険者たち。
喧騒は流れ者たちにも平等だ。
「おひさ~、元気そうねー。」
木陰のテーブルから快活そうな声が飛ぶ。
つややかな黒髪を高い位置で結った軽装の女シーフだ。
呼び止められたのは、並みの男にはつらそうな太い両手剣を肩にかついだ女剣士。
彼女は声の主を振り向くと懐かしげに目を細めた。
「ああ、久しぶりだな。相変わらずの小悪党稼業か」
「そっちこそぼったくり傭兵続けてんでしょ」
「ぬかせ」
女剣士は小気味よい笑い声を立てると、テーブルに近寄りあいていた席に座った。
カプラバンドのウェイトレスにアイスアップルティーを注文すると、彼女は視線をすべらせる。
「そちらの方は?」
「ん?これ?」
これ呼ばわりされたのはシーフの隣に座っている魔法士。
ローブに身を包んでいるひょろりと背の高い青年だ。
「はじめまして」
間延びした声で挨拶すると、彼はぺこんと頭を下げた。
「新しい相棒か?」
「うん、そう。二ヶ月前イズルートで拾ったやつよ。
あんまり使えないんだけどね~」
シーフの容赦の無い説明に剣士はおもわず魔法士を見たが、彼はにこにこと笑っている。
「ほっとくとすぐ瀕死になるから、しょうがなく面倒見てやってるってわけよ。
まったくこの年でおもりするはめになるとは思わなかったわ、しかも自分より年上の野郎なんだから」
以前組んで仕事をしたときから口の悪いやつだとは思っていたが、何も自分の相棒にそこまで言わなくてもいいだろう。
そう剣士は思ったが、黙っておくことにした。
魔法士がそんなシーフを面白そうに見ているからだ。
「まあ、なんせ初めて会ったときも、ヒドラに絡まれて泣きそうになってたのよ。どれだけ使えないかわかるってもんでしょ?
こないだも……」
シーフは大仰な身振りでお手上げのポーズをとりながら言いつのる。
あいかわらず隣の魔法士はにこにこ笑っていて、止める気はない様子。
やれやれ、長くなりそうだ。
剣士は足を組むと椅子に深く腰かけなおした。
アップルティーはまだこない。
+++++
さかのぼること2ヶ月。シーフはバイラン島の洞窟にいた。
バイラン島はイズルート沖に浮かぶ無人島、船のほかに通行手段は何もない。
そんな僻地へなぜわざわざやってきたかといえば…。
「はあ…。遠いなあ、お宝…」
シーフはたったいま仕留めたばかりのバドンの甲羅の上に腰をかけた。
ゾンビ化した巨大魚がゆうらりと泳ぐ様を横目で見ながら、赤ポーションを取り出して唇を湿し、短剣の無事を確認する。
もともとこの洞窟、古い時代にはプロンテラ王家の財宝保管所のひとつだった。
しかし場所が不便なのと、海水が侵入したため役に立たなくなりつつあったところに、津波が襲ってきてもともと少なかった住民は全滅。
そこへ海からはモンスターが、陸からは財宝目当ての冒険者が押し寄せて、いまではどこに出しても恥ずかしくない立派なダンジョンになってしまった。
ご多分にもれず彼女も財宝目当ての冒険者のひとり。
予定では得意のダブルアタックでさっくりと奥まで侵入し、宝石や装身具をかき集めてとっととおさらばのはずだったのだが。
硬い甲羅に覆われたモンスターは予想以上にしぶとく、愛用の短剣は既に輝きがにぶりはじめている。
荷物袋はカニのはさみやヒドラの触手など、収集商人しか喜ばなさそうなものがみっちりとつまって重い。捨てられない自分の貧乏性が憎い。
くわえて潮臭く、じめじめした洞窟。陰鬱な気分。
最後に太陽を見たのは3日前。
「あ~あ、一攫千金のはずが!
…まあ、そううまくいくはずないか…。
でも、ここまで来て手ぶらで帰るのもしゃくよね…」
せめてもうちょっと金目のものがないかなぁ~」
携帯してきた食料も後がない。
あと少しだけねばって、それでもダメなら街に戻ろう。
残りの赤ポーションを飲み干すと、彼女は立ち上がった。
そのとき。
「ソウルスト…痛ッ!」
岩陰から聞こえてきた悲鳴に、シーフは敏捷に反応した。
今のは魔法士、それも先制攻撃に失敗した様子だ。
一撃必殺と書くとかっこいいが、彼らはそれ以外に道がない。
そして失敗した魔法士ほど悲惨かつ間抜けなものはない。
視界をさえぎる大岩の上に飛び乗ると、案の定ヒドラに絡まれて悪戦苦闘している魔法士の姿があった。
しかも攻撃を仕掛けていた最中を狙われたらしく、甲羅まで真っ赤にして怒り狂ったバドンがハサミのような爪をふりあげて魔法士に襲い掛かっている。
これは恩を売るチャンス!
「助太刀するわ!」
きらりと打算に目を光らせた彼女は、短剣をかまえると岩から飛び降りた。
一閃、バドンはハサミの継ぎ目を断たれ、そのまさかりに似た爪を失った。
目にもとまらぬ速さで短剣が走り、何度も腹に短剣を叩き込まれたバドンはくずれおちる。
そのまま彼女は魔法士に絡まる触手を切り落とし、ヒドラめがけて疾走する。
突然獲物の感覚を失ったことに驚き、残りの触手を集めて本体を守ろうとする魔物。
しかしシーフはヒドラの防御が終わる前に、その触手の根元へ短剣を突き刺し、なぎ払った。
切り落とされた触手が、濡れた音をたてて岩場に散乱する。苦悶するヒドラ。
彼女はさらにやわらかい本体に短剣をつきたて、十文字に切り裂く。
ぱっくりと開いた傷口から、海水とも体液ともつかないべとべとした液体が噴出し、ヒドラは徐々に縮んでいった。
「ご無事ですか?」
彼女はバドンの近くに転がっていた青いジェムストーンを拾うと、にっこりと微笑みながら振り返った。が。
「ごめんー…よかったら助けて…」
魔法士はまたもやヒドラに絡まれていた。
「もちろんですよ!」
内心舌打ちしながらシーフはヒドラを手早く片付ける。
「だいじょうぶですか?」
「…どうもありがとう」
魔法士は気まずそうに赤面し、ローブをはたくと足早に立ち去ろうとした。
しかしあわてたシーフが声をかけようとするより早く。
「いた!いたたた!」
3匹目のヒドラに引っかかる。
さらにその音を聞きつけたポイズンスポアがわらわら寄ってくる。
「あーもー!なにやってんの!」
ひ弱な魔法士のこと、あっというまに昇天してしまうのは間違いない。
そうなれば自分にも被害が及ぶし、何より売った恩のもとが取れない。
こうなったら何匹倒そうが同じ。
「……高いわよ」
そう一人ごちると、シーフは短剣を握りなおし、紫色のキノコに向かって駆けだした。「岩陰を歩くときにはね、周囲に気をつけたほうがいいですよ」
「そうだね…ご忠告ありがとう」
毒キノコに集団でしばかれ、磯にへたりこんだ魔法士を岩棚の上にひっぱりあげて、シーフの戦闘は終わった。
荒い息をついて自分も座り込み、体力の回復を待つ。
しばらくして魔法士が体を起こし、自分のポケットをさぐって眉をしかめた。
「あのさ。青ジェム見なかった?」
「え?」
「青い煙水晶みたいな石を見なかったかい?
道具袋がやぶれてなくなってるんだ」
『ち…こいつのものだったか』
上位魔法素の媒介として魔法士らに重宝されるジェムストーン、お宝には程遠いが売ればいい金になる。
「拾いましたよ。これでしょう?」
青みがかった不透明な石を彼に渡すと、魔法士はうれしそうに笑ってありがとうといった。
知らないふりをしてもよかったが、とりあえず信用させておくに越したことはない。
疲れのせいで無遠慮な視線で、シーフは彼の姿を値踏みする。
少し汚れてはいるが、典型的な魔法士のローブ。
背は高いが体つきは貧弱なほう。
見た目は温和で人がよさげだ。
自分の魔術の成果を試すためにやってきた、頭でっかちのマジシャンといったところか。
『まったく迷惑なのよ。観光気分で来られちゃさあ。
せめて自分で自分のケツが拭けるようになってから来いってーのよ。
あんまり金も持ってないみたいだし。豚引いたかな、これは』
さりとてまったくの無一文というわけでもあるまい。
さて、何かよこせと脅しつけるか、赤ポを高値で売りつけようか、それとも身ぐるみ剥ぐべきか。
目の前のシーフがそう考えていることなど露知らず、魔法士はローブにはりついた触手を取りのぞこうとかがんだ。
その時ローブの合わせ目から、きらりと光るものがのぞいた。
『今のは…ひょっとしてお宝のブローチ?』
思わず乗り出しそうになる自分を押さえたが、視線を感じたのか魔法士が顔を上げる。
「なんだい?」
「え?いえいえ、お手伝いしましょうかって。おほほほ」
「だいじょうぶだよ、ありがとう」
こめかみに冷や汗を感じながら、シーフはぱたぱたと手を振った。
『あれが王室の宝物の一部、聖司祭に祝福されたブローチだとしたら。
…今時価でどれくらいだっけ?
少なくともしばらく遊んで暮らせるのはたしかよね。
だとしたら身ぐるみ剥いで強奪するのが一番?
あ、でも一撃でも魔法食らえばこっちが死んじゃうわけよね。
いっしょに行動して隙を見てゲットとか、うん、いいかも。
だけどこいつと組んだら先に私がストレスで死にそう…。
あ~でも、ブローチ欲しいーブローチ欲しいーブローチ欲しいー!』
打算のそろばんを高速ではじくも、なかなか答えは出ない。
彼はシーフを不思議そうに見つめたが、微笑んで流すことにしたらしくまたかがみこんだ。
合わせ目からちらちらと見え隠れする金色の光。
シーフはついに誘惑に屈した。
「ねえ…よろしければ私と組んで探索しません?」
「え?」
「だから、私とパーティーを組んでみませんかって」
「んー……」
「ほら、私の力は先ほど見たとおりでしょう?
でも魔法士のあなたほど威力のある攻撃はないから、
囲まれるとつらいのは同じなんです。
だからいっしょに行動するとお互い何かと得だと思うんです。
それにひとりでいると寂しくて…ね?」
最後の「ね?」で小首をかしげ、意味ありげな微笑を浮かべて見せる。
ついでにぬばたま色の黒髪を指先でもてあそびつつ、不自然にならない程度に胸の谷間を強調する。
何人もの男を誘惑してきた自慢の体。
おかあちゃん、美人に産んでくれてありがとう。
だが張り合いのないことに、彼はこりこりと指先で頬を掻くだけで無言のまま。
「あの…どうなんですか?」
「え?」
「だからパーティー組むんですか組まないんですかっ!」
「いや、君と組むのは僕も歓迎なんだけどさあ」
「じゃあ問題ないじゃないですか、なんでしぶるんですか?」
「だって僕、そろそろ街に帰ろうと思ってるから」
「街に…?」
「ああ、イズルートへ。いろいろ補充もしたいし。それでもいいならOKだけど」
なるほど、この魔法士も満身創痍。いったん引きあげるほうが賢明だ。
それに外敵のいない街なら、安全に行動をともにできる。
当然このとぼけた男のブローチを手に入れる機会も増えることだし、消耗品も心もとなくなっていたところ、渡りに船とはこのことか。
にんまりと唇の両端を吊り上げたくなるのを我慢し、爽やかにうなづいた。
「けっこうです、私も街へ戻ろうと思ってたところですから。
それじゃ、これからよろしくお願いしますね!」
差し出した右手を、魔法士は照れくさそうに握った。
痩せて骨ばっているが、暖かい手だった。
+++++
「いらっしゃいませ~!イズルートへようこそですわ~♪」
中央通の露店街には、今日もハイテンションなカプラ姉さんの声が響く。
港町イズルートは王都へ続く街道沿いに位置し、陸路と海路を結んで南からの物品が流れ込む貿易都市。
街は規模こそ小さいものの、熱気と人が集中し、行き交う人と商人たちの熱くて激しいかけひきは、王都のそれとタメを張る。
人ごみをかきわけかきわけ、ようやっと喧騒から逃れたシーフは、たった今抜けた人ごみをふりかえり、ため息をついた。
「…またつかまってるわよ。ほんっとこりないわねー…」
人ごみの片隅、かわいげな顔立ちの金髪商人に、丁寧っぽい口調で長いローブのすそをつかまれ、いりもしない雑貨を売りつけられそうになっているのは、先ほどパートナーになったばかりの魔法士。
良く言えばやさしげ、悪く言えばぼんやりした性格そのままの印象のせいか、さっきから押し売りに狙われてばかりだ。
「ちょっとちょっと!あんた私のパートナーに何してくれんのよ!」
ローブをつかんだ手をおさえ、シーフは押し売り商人をギロリにらみつける。
「ぅるっさいわねー。こんなぼんくらがそんなに大事なら首輪つけて歩けば?」
金髪の商人はぷっと頬を膨らませ、先ほどまでの態度とはうって変わったぞんざいな口調で口汚くののしって、新たな獲物を見つけだしカートを引っ張っていった。
「お客サマー♪こちらの商品なんていかがでしょうw
とってもいいものなんですよー?ね、見るだけでいいからwww」
ご丁寧にぶりっ子ポーズなど取りながら、純朴そうな剣士の腕に次々と雑貨を押し付ける。
いやはや商魂たくましい。
「…ったく、よーやるわ。
いーい?この辺で荒かせぎしてるやつは、ナイトメアの目を余裕でひっこ抜くようなやつばっかりなんだから、もうちょっと気をつけてって言ってんでしょ?」
「そうだね、次こそは気をつけるよ」
今日だけで何度このやり取りをしたことか。
もう敬語を使う気力もない。
それでも人ごみでもみくちゃにされたローブをなおす魔法士の、妙にのほほんとした顔を見ていると、怒るのも馬鹿らしくなってしまうから始末に終えない。
『あーあ、やっぱり失敗だったかなあ~…。
いやいや、ブローチを手に入れるまでの辛抱よ、あたし!』
気合を入れなおすと魔法士の胸元を見る。
魅惑の輝きは今はローブに隠されて見えない。
まだスリにはあっていないようで、ほっと胸をなでおろす。
ミサーマーケットの広場に出れば、さすがに人でごったがえすことはない。
てきとうな場所に腰をおろし、買いだめで膨れた荷物袋を脇へ置く。
「さーて、これからどうする?もう日もだいぶ傾いてるけど」
手作りアクセサリーの露店を興味深げに眺めていた魔法士は、シーフをふりかえって宿を取ることを提案した。
「そうだなあ、久しぶりにベッドで寝たいな。硬い岩の上で仮眠を取るだけだったし」
「OK、そうしましょ。部屋はシングルふたつ?それともツイン?」
「えっと…」
魔法士は財布を取り出すと難しい顔をした。
シーフも自分のがまぐちを開いて、おもむろに閉める。
シングルふたつ、取れなくはないがあとあとつらい微妙な懐具合。
無用な出費は避けたいところだ。
とはいえほぼ初対面の男と二人きりの宿というのも……。
思案していると魔法士が、くせの強い茶色の髪をかしかし掻きながらこう言った。
「……ツインでいいかい?」
『ほーら来た来た来た!もう絶対言うと思った!
こいつひょろいくせにそっちだけは人並みなわけ?
あーでも男ってこんなもんよね。
だからおかあちゃんも苦労したのよね~。
けどあたしはそうそう思い通りにはさせないからね!』
などという内心の葛藤はさておき、シーフはにっこりわらっていいですよと答えた。
ふかふかのベッドは確かに魅力的だったから。
もちろん代金は魔法士持ちだ。夕食後にちょっと出てくると言って魔法士は姿を消した。
湯あがり、満腹のシーフはひさしぶりに満ち足りた気分でベッドに寝転んだ。
「あああ、この柔らかさ。この肌触り。この白さ、この清潔さ!
やっぱり街はいいわ~あ。ダンジョンなんかとはくらべものになんないわ~」
暗くて汚い洞窟や、死の恐怖そのもののモンスターや、重い荷物からの開放感。
思わず掛け布団を抱きかかえて、何度も無意味に寝返りをうつ。
「あ、そうそう。エロ野郎対策しとかなきゃ」
ふたつ並んだベッドの間にあるサイドテーブルを、彼女は持ち上げて自分と入り口の間に置いた。
サイドテーブルの上にはメンテナンスと称して短剣をおいておく。
自分が使うのは入り口の側のベッドだから、何かあったらすぐ逃げ出せる寸法だ。
裏街道を歩んできた分、だましだまされの経験は多い。
たかがお宝目当ての即席パーティー相手に、体をくれてやる気はさらさらなかった。
荷物はすぐに手に取れるように一箇所にまとめ、服装もバスローブから寝苦しくない程度の軽装に戻して準備が完了したところに、ノックの音が聞こえた。
「入っていい?」
「どうぞー」
ドアを開けて魔法士が入ってくる、シーフはベッドに座りなおした。
「いやあ、夜だってのに相変わらずのひとごみだねえ」
「ええ、イズルートは王都以上に眠らないから」
そうみたいだねと笑った彼は、部屋の隅を見て首をかしげた。
「えっと、ここにあった僕の荷物は?」
「それならあちらのベッドのほうにまとめときましたよ」
窓とベッドのあいまに魔法士の荷物はあった。
入り口からはちょうど死角になって見えないところだ。
これもまた彼を奥のベッドに誘導するための作戦のひとつ。
魔法士はあっさりとひっかかったようで、荷物を確認すると自分のベッドに腰かけた。
そして再び首をかしげる。
「あれ、サイドテーブルは?」
「こっちです。武器の点検をするのにお借りしてます」
「なんでわざわざそっちに?」
「明かりが近いですし、眠る時、利き手側に武器がないと落ちつかなくて」
「ふーん。武器ってそれ?ずいぶん年代物のようだけど」
魔法士はサイドテーブルの上の短剣を指さした。
見た目は普通のスティレットだ。
ただ、店売りのものよりつかが幅広にとってあり、手を保護するように湾曲している。刀身はぶあつく若干幅広で、持ち手にしっかりと固定されており、見るからに堅牢で頼りがいのありそうな代物だった。
「母の形見なの」
彼女はいとしそうに短剣を手に取った。
「父が母に求婚するときに、有り金はたいて作ったものらしいわ。
ほんとかどうかは知らないけど。
でも、母はこれに命を預けてた。
今は私が預けてる」
「ふぅん」
魔法士はあごに手をやって興味深そうに短剣を見た。
「短剣は僕も持ってる」
「そうなの?意外ね。マジシャンは自分の手を汚さない職業と思ってたけど」
「そうでもないさ」
肩をすくめて言う彼女に苦笑をもらすと、魔法士はローブのすそをめくり、右の太ももに鞘ごと巻きつけてある小刀を見せた。
「護身用だよ。もっとも、これを抜くときにはもう後が無いんだけど」
「あんまり使えなさそうだけど?」
「お守りみたいなもんだからね。君と同じ、もらい物」
つかのあたりにアメジストの宝玉が埋め込まれた古風な小刀だった。
ちらりと見た感じでは武器としてよりも、美術品としての価値のほうが高そうだ。
その感想は魔法士が手放さない杖に関しても同じだった。
先端に赤い宝玉が埋め込まれ、複雑な幾何学文様が描かれた黄金の縁取りが施されている。
「そっちの杖のほうも、殴りつけたら折れちゃいそうじゃない?
あんまり実戦向きには見えないけど」
「いいや、こっちは完全に戦闘用だよ。普通の武器と扱い方が違うだけさ」
「ふーん?」
「これにはアーデオルク構造をもったヘマタイトを使って照合回路が書き込んであって、先端の高純度ジェムストーンを媒介に低位の次元反転を模擬的に行い、非召喚魔法素を並列処理して物理世界に送信するんだ」
「………は?」
「え~っと……これを持ってると魔法の威力が上がります。OK?」
「あ…うん…たぶん…」
「なんでかって言うと魔法は一般に干渉界と非干渉界の境界面に…」
「はいはいはいそこまで!ストップストップストップ!」
自慢じゃないが彼女は一般教養と呼ばれる神学書に死力を尽くして取り組むも、8ページでダウンした輝かしい過去の持ち主だ。
聞いたこともない(理解しようとも思わない)単語の羅列にさっそく頭痛がはじまっていた。
「あたしが悪かった!だから講釈は勘弁!」
「君、何かトラウマでもあるのかい?」
「ないわよ…」
唇を突きだし憮然とした表情のシーフ。
じつは指摘どおりのあんな過去やこんな過去があるが秘密だ。
『は!違う!なごんでる場合じゃない!ブローチブローチ!』
くすくす笑う魔法士の胸元からちらりと金色の光がこぼれ、当初の目的を思い出し我に返る。
冷静になって考えてみれば、目的の品と同室で一晩すごすことになる。
さすがに脱衣所に乗り込んで着衣をあさるわけにはいかないが、寝るときまではローブをまとっていないはず。
いっそのこと誘惑して自主的に服を脱いでもらったところで、後頭部に一撃くれてやったほうが人目にもつかなくて良いかもしれない。
相手は見るからにひ弱だし、力と俊敏さで負ける気はしない。
ふむ、その方向で行くか…。
「ねえ…?」
彼女はいくぶん声のトーンを落として彼に呼びかけた。
「明日からはまた、バイラン島のダンジョンを目指すんでしょう?」
「そうだね、君が望むなら」
「私たち、パートナーなんですから…もっとお互いに信頼しあうべきと思いません?」
ベッドの上で魅力的なラインの足をくみかえ、少しうつむきかげんで魔法士を見つめる。
むきだしのふとももが薄暗いランプの下でほの白く光った。
「信頼ね」
「そう、信頼」
沈黙が落ちた。
見つめあったままの二人。
ちりちりと蝋が燃える音がする。
灯心が揺らめき、壁にうつったふたつの影がざわめく。
「あ、そうそう忘れてた」
唐突に魔法士はそう言い放つと、ごそごそとポケットを探り始めた。
盛大に肩透かしをくらって脱力するシーフ。
『こ…この男ひょっとして天然?』
先ほどとは違う種類の頭痛を感じてこめかみをおさえる。
「はい、これ」
声をかけられてしぶしぶ顔を上げると、目の前に魔法士の手のひらが差し出されていた。
そこには青みがかった石をヘッドにしたペンダントがあった。
記憶の中のものよりも小さくカットされて、透明度が増している。
ランプの照り返しを受けて、それは静かな蒼に輝いていた。
「これってあなたのブルージェムじゃ…」
「さっき露店でさ、加工してもらったんだ。身につけててくれないか」
信頼の証としてねと、魔法士は微笑んだ。
その笑みはかすかに憂いを帯びていた。
なんとなく気おされて、シーフはペンダントを受け取った。
『……護符とか言って売り飛ばせばそこそこ金にはなるか。
ま、ブローチほどじゃないけどさ』
手の中の石を見つめながら、だから受け取ったんだと、彼女は自分に言い聞かせた。
魔法士が立ち上がる気配がする。
反射的に見上げた。
いまさらのように、彼の背が高いことに気づく。
ついでに案外整った顔立ちだとか、やさしい目をしてるとか。
そんなどうでもいいはずのことまで。
「風呂に行ってくるよ」
穏やかな声でそういわれて、彼女はこくんとうなづく。
鼓動がほんのすこし、早まった。
何も言えずに彼を見送る。
「ああ、それと……」
ドアを開いたところで彼はふりかえった。
「君、何かたくらんでる時敬語になる癖、なおしたほうがいいよ」
「……!!」
シーフが投げつけた枕は、言うと同時に閉められたドアに当たった。
「あ、あのやろお~~~ぉ…」
ドアの向こうから押し殺した笑い声が聞こえてきてよけいに腹が立つ。
ひょっとすると一筋縄じゃいかないかもしれないと、シーフははじめて弱気になった。
+++++
海水がひたひたと岩肌を洗うバイランダンジョン。
洞窟内は進むにつれて潮の量が増し、体を塩水に浸しながら進むはめになる。
フジツボと藻がこびりついた岩棚はすべりやすく、一歩踏み出すごとに細心の注意を払わねばならない。
在りし日のおもかげを残す大型の燭台が、気まぐれな冒険者たちの都合でともされ、消されるおかげで、洞窟内は時に蒸し暑く、時に肌寒い。
そして密度の高い暗闇から姿を現すのは、冒険者の血肉を求めて徘徊する魔物たち。
だが最奥から指輪のひとつでも持ち出せば、それは死の危険を冒すに足る富をもたらす。
富を、あるいは栄誉を求める者にとっては、願ってもない宝の山。
だが欲に迷って命を散らした者も数知れない。
ここにもひとり、今まさに死の毒牙にかかろうとしているものがいた。
「ふにゃあああ~~~~~ん!
誰か助けてーぇえええええ!」
4匹のポイズンスポアに電車ごっこよろしく追いかけられているのは、イズルートカプラ前で露店…はまだ出せないので道行く人をつかまえて街頭販売を行っている女商人。
ボブの金髪に柔らかそうな白い肌、ぷっくりした唇にくりっとしたよく動く瞳がじつに愛らしい。
「ちょっと~~おぉ!こんだけいるのに誰も助けてくれないわけ!?
ケチ!ケチ!ドケチ!あたしちゃんかわいそうーー!」
しかしはみ出るほどのルート品をつめこんだバッグと、ごつい両手斧をつかんで海水を蹴散らし猛スピードで走る姿は、同性の冒険者を固まらせ、異性の冒険者を半分ひかせている。
残りの半分は助けようとしたが、その頃には彼女は走り去っているので、うしろ姿を眺めて途方にくれるが関の山。
後にはかにニッパやべと液がてんてんと。
「いや~~んこんなとこで死にたくな~~い!
まだダイヤの指輪もミンクのコートもいい男も豪邸も、なんにも買ってないのにーーー!」
拝金主義丸出しの辞世の句を絶叫しながら全力疾走、入り組んだ洞窟内の何度目かの角を曲がった。
と、突然視界に魔法士とシーフの姿が。
「ちょっとどい…!」
全部言い終わる前に、そのままの勢いで二人に突っ込んだ。
三者三様の悲鳴があがり、派手な音がして水しぶきがはねる。
しばし遅れてぴょこたんぴょこたんやってくるポイズンスポア。
あわてた商人は魔物から逃れようと手足をばたつかせた。
ついでに海水をしこたま飲み込み、むせかえっておぼれかける。
無我夢中でしおっからい水を掻いていると、突然襟首を捕まえられて半身を持ち上げられた。
「ぶはーーーーーーーーーーー!!!!」
急に楽になった体に、胸いっぱい空気を吸い込んでは吐き出していた彼女だったが、背後からこづかれてやっとまわりを見回した。
座り込んでいるのはひざにも満たない浅瀬、自分の後ろにはあきれた顔の女シーフ、一歩離れたところに立っているのはのほほんとした男魔法士。
そして海水に溶けて消えていくポイズンスポアの骸。
「ほええ…」
まだ海水のせいでにじむ視界をごしごしこすると、ぼやけた焦点が定まってきた。
同時に自分を助けた(であろう)ふたりの姿がはっきりと目にうつる。
瞬間、素手アコよりも早く商人は力いっぱいシーフを指さした。
「あんた、あの時の横槍女!」
「……あらそ、命の恩人に対してその態度は何?」
もとから不機嫌そうなシーフの表情が、危険域一歩手前まで険悪になる。
「ま~そのへんで。お互い怪我もないようだし、いいんじゃないかい?」
一触即発の雰囲気に、魔法士ののんびりした声が助け舟を出す。
「あんたね~。押し売り助けても、ああいいことしましたって気分にゃならないわよ」
「でも僕らがやらなきゃキノコはこっちにも襲い掛かってきただろうし、複数の魔物を相手に、服が濡れたのとぶつかったとこが少し痛むだけで済んだんだから良しとしようよ」
「あんたのお人よしさかげんには、いいかげん呆れるわ」
シーフは嘆息すると、商人を早く行けとあごで追いやった。
が、商人は立ち上がるともみ手せんばかりの勢いでシーフにすりよってきた。
「ありがとうございましたー♪
毒キノコ一瞬でやっつけちゃうなんてすごいですね~。つよ~い、かっこいい~w
それであの~、もし良かったら、あたしちゃんも連れてってもらえないでショーか?」
シーフはあんぐりと口をあけると烈火のごとく怒り出した。
「なにふざけたこと抜かしてんのよ!
あんたみたいな蝙蝠信用できるわけないじゃない!
たわごとはラリってから言えっての!」
「ちぇ~、ダメか。やっぱケチはいつでもケチねー」
「ああ?人が下手に出てりゃ!」
「はい、そのへんで~。あんまり大声出すと魔物が寄ってくるよ~?」
リアルバウト5秒前の女二人も恐ろしいが、それを前にして柳に風の魔法士も別な意味で怖い。
魔法士はぱたぱたと手を振って、二人の間に割って入る。
その胸元からこぼれる金色の照り返し。
目にした商人の顔が見る見るうちに興奮に包まれていく。
「や~んごめんなさい、マジシャン様&おねーさまぁ~!
あたしちゃんすっごい悪い子でしたー反省してますぅw
だからお願い、連れてってくださぁい!
あたしちゃんの持ってるお芋とか赤ぽとか売ってあげますからぁ☆」
『ち!このアマ、ブローチに気づきやがったか…!』
目をらんらんと輝かせつつ魔法士のローブをつかむ商人は、さっきとは段違いの熱意で同行を求めてくる。
明らかに自分と同じブローチ狙い。
「ね~お願いしますぅ、マジシャン様ぁ!
あたしちゃん非力だし、誰も助けてくれないし、魔物だらけで怖いんですぅ。
街に戻ったら代売りしたげますぅ。あ、黄ポもつけますぅ~w
連れてってくれたらあたしちゃん、マジ様の言うことなぁんだって聞いちゃいますぅ!」
シーフは商人を絞め殺してやりたい衝動にかられたがかろうじて抑えた。
やれ、やってしまえ、という天の声は無視した。
だがそれ以上に腹立たしいのは、当然拒否すると思った魔法士が、困った顔のまま黙りこくっていることだ。
そのあいだも商人の彼女のおねがいw攻撃は続く。
魔法士がちらちらとすまなさそうにシーフを見はじめる。
「あんたさあ、まさかそのバカ連れてく気?」
「んー……そのまさかだったら…どうする?」
「却下!絶対却下!」
「えぇ~ひどいですぅおねーさまん」
「誰がいつおまえの姉貴になった!
とにかく、あたしは反対よ。
絶対足引っ張るに決まってるじゃない」
(ブローチ取られちゃうかもだし!)
「でも…この子ほっといたらほんとに死んじゃうと思う。
そういうのってあんまり気分良くないからさ……」
「やーんさすがマジ様♪わかってらっしゃるぅw」
平行線の議論は20分ほど続いた。
だんだんと口数少なくなる魔法士に非難がましいまなざしを送られて、シーフはとうとう根負けした。
「あー、もう!そんなに来たけりゃ、かってについて来れば?
ただし、あたしはあんたが死にかけても助けやしないからね!」
言い捨ててシーフはさっさと歩き出した。
その後をこおどりしながらついていく商人。
追いかける魔法士の足どりは、幾分ひきずるようにみえた。洞窟が深まるにつれて足場は悪くなり、高位の魔物もちらほらと姿を見せ始める。
そんななか、案の定彼女は足手まといだった。
戦闘にはまったく参加せず、こぼれたアイテムをかたっぱしから拾い集めるばかり。
そのくせ無意味に先走ってマルクに猛然と追いかけられ、ついでにオボンヌの尻尾を踏んづけたり。
そのたびに悲鳴をあげて逃げまわり、ふたりに助けられている。
彼女が倒れれば自分にも被害がおよぶから、結局手を貸さざるをえないのがまたしゃくにさわった。
「まったく、抵抗ぐらいしなさいよ。なさけないわねー」
「あのね~、あたしちゃんがまともに戦って勝てるわけないじゃん。
そんなこともわかんないわけー?ばっかじゃない?
あ、マジ様お疲れ様ですぅ~ありがとうございましたw」
商人は疲れた顔の魔法士に抱きついた。
「えへへ~マジ様はあたしちゃんの命の恩人です~ぅ♪
とってもとってもうれし~です~ぅwww」
「ちょっとちょっと、なにやってんの」
なれなれしさを装って魔法士の胸元を狙う商人を、シーフは襟首つかんで引き剥がした。
「ち、なに邪魔してくれんのよ。もうちょっとだったのに」
「やかましい、おまえにブローチは渡さん」
小声でけん制しあうと、シーフは商人を離した。
大胆な行動に出れないと悟りはしたようだが、魔法士のそばを離れる様子はない。
彼の興味を引こうとなにかと話しかける商人と、それを特にやめさせない魔法士。
『なによなによ。さっきからあたし、はずれひいてばかりじゃん。
バカ女は逃げるしか能がないし、あいつだって殴られたらおしまいだし。
結局魔物倒してるのあたしがメインじゃない。
なのにあんたは礼のひとつも言わないし、黙りこくってるし、バカ女は注意しないし。
どーせあんたもお姫様を助けるナイトにあこがれる、そこいらの男と変わりないんでしょ!』
やつあたられたタラフロッグが間抜けな悲鳴をあげてつぶれたのを確認すると、無意識のうちにかみしめていたせいでひりつく唇を舌先で潤す。
なんだかのどの奥がごつごつしてきて、シーフはふたりから顔をそむけた。
背中越しに商人の彼女の、かんだかい笑い声が聞こえてきて耳ざわりだ。
いらつくのはブローチが手に入らないからで、洞窟がじめじめ不快だからで、魔物がだんだん手ごわくなってくるからで、あのバカ商人がむかつくからで。
ほかに理由なんてない、はず。
「ほら、いつまでつったってんの。行くよ」
シーフは魔法士と目をあわせないようにしながら歩きだす。
置いていかれまいとあわてた商人が、浅瀬を踏んで小走りに近寄ってくる。
だが肝心の魔法士の気配がしない。
またヒドラに絡まれたかと彼女が振り返るのと、彼がその場へくずれるように座りこんだのが同時だった。
「どうしたの!?」
駆けよって彼に触れ、シーフははじかれたように手を引っ込めた。
熱い。
「なによあんた、ひどい熱じゃない!なんで言わなかったのよ!」
「えぇ!?マジ様お熱なんですかぁ!?」
すっとんきょうな声をあげる商人を無視して魔法士の隣にしゃがむ。
浅い息を吐く彼は自分で自分を抱きかかえるようにして、襲い来る悪寒に耐えている。
「どうしよう、こんな洞窟の奥で…。ちょっと商人のあんた、熱さましかなにか持ってない?」
「えぇええぇ?傷薬ならいっぱいありますけどーぉ。そゆのはちょっと~」
「ええい、役に立たないわね!え~っと、何か代わりになるものは…」
シーフが思案していると、魔法士がかすれた声で大丈夫とつぶやいた。
「これのどこがだいじょうぶだってのよ、顔真っ青じゃない」
「大丈夫だってば…、ちょっと休んでりゃ…すぐなおるから…」
「嘘つき!そんなとこで見栄はらないでよ!あんたがいないと困るのよ!?
無理して倒れてみんなそろって化け物のエサなんて冗談じゃない!」
魔法士は苦しげな息の下で薄く笑うと、長いマントの内側をまさぐった。
いくつもある裏ポケットから、青い粉末の入った小瓶を取りだす。
「これ…、地面に撒いてくれ…。気休めだけど…魔物避けになる…」
「ええ~?それ、もしかして祝福済みのジェムですかーぁ?」
「…ん、そう…」
「や~ん、初めて見たですぅ!見せて貸してさわらせてくださぁ~い!」
「悠長なこと言ってんじゃないわよ、さっさと撒いて結界敷いといて!あと野営の準備!」
「なんであたしちゃんが~ぁ」
「つべこべ言うな!」
シーフはこびんを商人に投げつけると、魔法士を抱き起こして乾いた岩だなに横たえた。
じっとりと脂汗が浮いた彼の額を清潔な布でぬぐう。
「…ごめん……」
熱と悪寒を押し殺して、魔法士がシーフに詫びる。
「大丈夫だから…ほんとに……すぐなおるから…」
「はいはい、わかったからじっとしてなさい。
けど、いったいどうしたわけ?まさか毒にやられたとか?」
ちがう、ただたんに疲れただけだと、魔法士は答えた。
自嘲を添えて。
「そう、具合が悪いなら言ってくれればよかったのに」
「……きみ、怒ってたし」
はいはいごめんなさいねと軽く流しつつ、シーフは唇をかんだ。
黙ってたんじゃない、しゃべれなかったんだ。
たぶん言い争ってるときには、もう調子が悪かった。
あの女が入ってからは、ほとんど休みもせずに魔法連射してたし。
冷たい水、ころころ変わる気温、戦いの緊張。
なんで気づこうとしなかったんだろう、あたしはパートナーなのに。
知らずうつむいた横顔を、魔法士は優しい目で見つめた。
「君のせいじゃない…気にやむな…」
「……ありがと」
「ガキの頃から…こうなんだ…。疲れがたまると…すぐ体に出る…」
「そっか、大変ね」
「そんなに大変じゃない…もう慣れたし……。
けど……自分で自分の体が…思いどおりにならないのは……」
…………………………やっぱりちょっと……………………………………くやしい。
独り言のようにぽつんとつぶやく。
目元を腕で隠しているから、彼の表情はうかがえない。
だが今彼が耐えているのは熱と悪寒だけではないことに、彼女は気づいていた。
『自分で自分の体が思いどおりにならない、か…。想像もつかないけど…。
あたし、病気なんて子どもの頃にひいた風邪くらいだし…』
そこまで思いにふけって、はたと彼女はひざを打った。
「ちょっとあんた!青ハーブ持ってない?」
「ほへ?」
ひとりでさっさと火をおこし、バッグから取り出したなべにカニの爪を放り込んで煮込む商人へ声をかける。
「持ってるけどぉ?」
「ひとつちょうだい、今すぐ」
「はいはい~。500zね」
「金取る気!?」
「あたしちゃん、商人だもーん」
舌打ちするとシーフは500z取り出して商人に放り投げた。
「やん、あたしちゃんのおかねー!」
岩棚に散らばった硬貨を拾う商人を横目に、放置されたバッグを手早く開けて中から青ハーブと黄ハーブ、ついでに緑ハーブもいくつか失敬する。
続いて乾いた岩の上に布を敷き、その上でハーブをむしって短剣の柄で小刻みに叩き潰し始めた。
「あぁー!他のも取ってるじゃない!うそつきー!」
「金なら後で払うわよ、いいから黙ってて」
「なによもー、人のもの勝手に取るなんて。これだからシーフってのは…」
言ってろバーカとうそぶきつつ、彼女は葉が原形をなくすまでほぐしていく。
薬も買えなかったあの頃、病気の自分に母が作ってくれた自家製の熱さまし。
効果のほどはわからないが、ないよりはましだろう。
手頃なところで切り上げて布をくるりと照る照る坊主のように巻き、容器を用意してそのうえでぎゅっとしぼった。
布から濃い緑色をした液体が容器の中にしたたり落ちる。
シーフはそれをぐったりした魔法士の口元に寄せた。
「飲んで、ちょっと苦いけど」
だが高熱のため意識が遠のいている魔法士に、彼女の声は聞こえていなかった。
『しかたない……』
しばらく迷ったあと、シーフは覚悟を決めて商人をふりかえる。
「あんたしばらく向こうむいてて」
「ほぇ?」
「100zやるから」
「前払い」
「ほらよ」
「やーん!投げるの禁止ー!」
力いっぱい遠投した銀貨めがけて商人が走っていく。
それを確認するとシーフは薬を口に含み、少しの躊躇のあと魔法士の唇に触れる。
はねる鼓動を抑えながら熱く乾いた唇を舌でこじ開け、彼がむせないように細心の注意を払って薬を飲ませる。
時間にすればほんの数秒、なのにひどく長く感じた。
男に触れるのはこれが初めてじゃない。
経験は多いほうだと思う。
なのに気恥ずかしいのはどうしてなのか。
熱がうつったわけでもないのに頬が熱い。
「ふーーん、なるほどね」
背後から聞こえた声に、シーフは表情を硬くしてふりかえる。
いつのまに戻ったのか、両手を腰にあてた商人が立っていた。
「ブローチめあてかと思ったらーぁ、男めあてだったんだー?」
「な、なによいきなり…」
声がのどに絡まった。
自分がブローチ狙いでここまでやってきたのは確かだ。
だがそれを隣で眠る魔法士に聞かれたらと思うとひやりとした。
やっと寝息が穏やかになってきたのに。
唇を笑いの形にゆがませる商人をにらみつけるが、そのていどで臆するような彼女ではない。
「ねえねえ、ちょっと取引しない?」
「どういうこと?」
「そいついまへばってるじゃん?
ふたりしてブローチかっぱらってほったらかしとけば、あとは魔物が始末してくれるでしょぉ?
そういうのどぉ?分け前は半々でいいから」
「……ふざけたこと言ってくれるじゃない」
「そーぉ?なかなか現実的な、いい手段だと思うけどぉ?」
商人は肩をすくめてやれやれとばかりに首を振った。
「魔物に守られたお宝よりは、目の前のブローチのほうが簡単なのは確かでしょ。
どうせあんたもそのつもりでいるくせに、シーフがなにを躊躇してるわけ?
あ、それともぉ~、情がうつっちゃったとかぁ~?キャハ☆」
ひきつったシーフの顔をおもしろそうに眺め、商人はなおも言いつのる。
「いいじゃん、とっとと奪っちゃいなよ。
あんたがやらないなら、代わりにあたしちゃんがやってあげるけどぉ?」
「…べつにいいけど、あたしがあんたを殺して、ブローチ独りじめにしちゃうかもよ?」
「ああ、その時はそいつ起こして、みんなあんたのせいにしとくから安心よ」
あんたにこの男は殺せないでしょぉ?
言外にそう匂わせて商人はシーフの顔をうかがう。
ぱちぱちと炎のはぜる音が響く。
濡れた岩肌が水面からの照り返しをうつしてねとりと光る。
続く沈黙にいらついた商人が、早くしなさいよとつま先で地を叩く。
だがシーフは息をひそめ、腰の短剣に手を添えて身を硬くしている。
胸から下げた青い石のペンダントが、鼓動のように静かにゆれている。
首の後ろがちりちりと、痛い。
数多の経験が教える。
魔物がいる、と。
+++++
ぴくんと、魔法士の腕が動く。
それを見た商人があせったのか近づいてくる。
「早くしなさいよぉ。そいつ目ぇさましちゃうでしょ~?」
「……つくづくおめでたいやつね、気づかないわけ?」
「なにを?」
「囲まれたわよ」
はじかれたように商人があたりを見まわす。
ひとつ、ふたつ、みっつ、さらにもうひとつ。あっちからもひとつ。
波間から見え隠れする背びれたち。
岩の向こうから聞こえるかすかなうなり声。
しめった空気が獰猛な息づかいに満ちていく。
「え…うそ…あはは、冗談でしょ?そぉでしょ?」
「……ひとつ聞くけど。あんた、魔よけのジェム全部使い切ったんでしょうね?」
視線をそらした商人は、ぎゅっと自分のバッグを押さえる。
「ケチったのね、そんなことだろうと思った。
結界から中途半端に気配がもれだしたから、向こうさんも警戒して数集めてくれちゃったじゃない」
シーフはひざを立てた姿勢のままで、魔法士の腕を強くにぎる。
とっくに目をさましていたのか、魔法士は半身を起こすと杖を手にとった。
だがその顔は蒼白で、お世辞にも万全とは言いがたい。
彼女はそんな魔法士をかばうように前に立ちながら左右へ視線を走らせる。
右はぽかりと大きな空間があき、流れ込む水の中からいくつもの背びれがのぞいている。
左に目をやると浅瀬の向こうに岩壁がせばまっているところがあり、人一人が抜けられそうな細い通路につながっている。
少し距離はあるがあそこまでたどりつけば、魔物たちの総攻撃を受けなくて済みそうだ。
「左かな…」
「そうね、走れる?」
「なんとか」
「OK……行くわよ。せーの!」
濡れた大地を蹴って、藻と泥でぬかるむ浅瀬を踏んで、三人は走りだした。
はりつめた糸がぷつんと切れ、魔物たちが水底から跳ねあがる。
腐った血のようなオボンヌの髪が足を狙って地を走る。
マルクが装甲のような体を車輪の形に丸め、岩を削る勢いで後ろから迫ってくる。
ひとかかえもあるタラフロッグが体当たりしてきたのを紙一重で避け、はねまわるオボンヌの尻尾を跳びこして、三人は懸命に走った。
だが水を利とする魔物はすばやく、立ちふさがるように姿を現す。
短剣と魔法でけん制するも、しだいに壁際に追い込まれていく。
シーフがまっさきに細い通路に飛び込んだ。
しかしその後を追っていた商人を邪魔するように、通路の入り口にマルクが激突する。
「きゃぁあああああぁ!」
商人が避けようと身をひるがえしたまではよかったが、その隙をオボンヌに狙われて倒れる。
両の足首に暗赤色の髪が巻きつき、そのまま水辺へと引きずられる。
新鮮な肉のにおいに興奮した魔物が集まってくる。
恐慌におちいり喉も割れよと叫ぶ商人。
シーフは通路の中に押し入ろうとするマルクに苦戦を強いられている。
「ネイパームビート!」
魔法士の念術が炸裂し、商人の足を封じていた髪の毛が岩をえぐって爆発する。
解放された商人を助け起こし、彼女を背中にかばって通路側へ押しやる。
だが恐怖にかられた商人はしにものぐるいで魔法士にしがみついてくる。
「二人とも早く!こっち!」
マルクの首を切り飛ばし、シーフは二人を誘導しようとしたが、水辺からあがってくる魔物たちから通路の入り口を守るのに精一杯だ。
「ソウルストライク!」
魔法士はつづけざまに魔法を放ち、シーフに狙いをさだめて迫るマルクの軌道をそらしてオボンヌの群れに激突させる。
そして何を思ったか胸元のブローチをむしりとると、おびえきった商人につかませて彼女をシーフのもとへ突き飛ばした。
「……頼んだ」
怒号と悲鳴がまじる戦場で、奇妙に静かな魔法士の声が耳に届いた。
いやな予感が胸を走り、抱きとめた商人を通路に押し込むと、彼女は彼のもとへ走り寄ろうとした。
しかしそれを見越した魔法士の呪文のほうが早かった。
「セイフティーウォール!」
シーフの胸元から蒼い烈光がほとばしった。
澄んだ音がしてペンダントが砕け、通路の入り口に青みを帯びた光の壁が現れる。
静かに光る薄いカーテンのようなそれは、血に狂った魔物の攻撃を受けてもゆりかごの子どもをあやすようにゆれるだけだった。
「早く行けよ、そんなにもたないからさ」
いつもと同じ、のほほんとしたそのくせどこか悲しげな笑みと口調で。
それじゃあね、けっこう楽しかったよ、なんて言いながら。
「こっちだ化け物ども!」
水中に数条の雷光を落とし、魔物たちの注意を自分に向けると、彼は彼女に背を向けて走り出した。
傾いた柱に念を打ちこめば、地響きをあげて倒れたそれに数体の魔物がつぶされ、果てる。
赤や緑の臓物が跳ね、人とは違う色をした血液が海水にぼやけて消えていく。
左右から襲いかかるマルクの攻撃を避けて、ぱっくりとあけていたオボンヌの口に杖の先を叩き込み。
「ネイパームビート!」
壁に投げたざくろのようにオボンヌの頭部がはじける。
同士討ちをしむけながら身をかわし、息つくひまもなく魔法を連打する。
魔法士が腕を振り、呪文が発動するたびに、腹は裂け、胴はえぐられ、手足が飛ぶ。
血まみれのローブをはねあげ、念術と雷光を駆使して魔法士は戦う。
だが魔物の数は絶望的だった。
水の流れが血の匂いを運び、またも新手が呼び寄せられる。
まっくらな洞窟内をまろびつつ走る。
うしろを守るシーフのことも忘れ、商人は岩壁にぶつかりながら奥を目指す。
狭い通路はまがりくねって先が見えず、転んだひょうしに服にはりついた藻がじっとりと冷たい。
ときおりぼうと光るのは、岩にへばりついたヒカリゴケ。
金緑の弱い弱い光はいたずらに目を奪うばかりで灯りにもならない。
それでも背後にいるはずの魔物におびえ、追い立てられるように走りつづける。
聞こえるのはじぶんの荒い息、はりさけそうな心臓の音、水気を含んでびちゃびちゃ言う足音。
逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと……。
脳を埋めつくす死の恐怖。足音が岩壁に反響して見知らぬ誰かのそれに聞こえる。
鳥肌がたった。
息が苦しい。
耳の奥がきぃんと痛む。
ほおが異様にほてって、でも、肺の奥が凍っている。
恐怖なのか絶望なのかわからない叫びが、もう喉元までこみ上げている。
いくつめかわからない曲がり角をまがる。
そのとき、ぽかりと前がひらけた。
埃をかぶった燭台に、あかあかと火がもえている。
あるかなきかの風がふき、壁の上の影が揺れる。
乾いた平たい岩の上を走る割れ目を潮が流れるおだやかな音以外はなにも聞こえない。
誰もいない静かな一室。
「おっと!…あぶないわね、ぼさっとつったってんじゃないわよ」
追いついたシーフが、商人にぶつかりそうになって悪態をつく。
うつろな目でシーフを見上げた商人は、かすれた声で問うた。
「………たすかったの?」
「なんとかね、どこかのバカのおかげで」
そういうとシーフは短剣をさやから抜き放った。
「ここにいなさい。少しは安全みたいだから。あたしは、戻る」
「え…なんで?」
「加勢に行くのよ」
もう、間に合わないかもしれないけど。
シーフは、短剣を強くにぎりしめた。
「やだ……やだよ、おいてかないで。いっしょにいて!」
「心細いのはわかるけど、行かなきゃ」
「だって、あの数だよ?せめて誰か応援を…」
「あんたが呼んで来て。今戦えるのはあたしだけだから」
「やだ!また魔物が来たらどうすんの!?ひとりじゃむりだよぉ!」
シーフは人差し指を一本口にあて、鋭く商人をにらみつけた。
「叫ばないの。ここはさっきの場所からそんなに離れてないかもしれない。
やつらがここを嗅ぎつけないとは限らない」
商人の顔をおびえの色がはしる。
「…そ…そんな…やだ……」
「そうね、あんたは戦力にならないからここにいなさい」
「やだってば!おいてかないでよ!」
「残念だけど、そうはいかない。 あいにくこっちは来た道とは違う。
どこに続く道なのかはっきりしないもの。 一度戻って確認しないと」
「じゃ、じゃあさ、せめてもう少し待ってからにしようよ。
今行ったら間違いなく魔物の餌食に…」
「……見殺しにしろってぇの?」
低い声音に商人がびくりと身をすくませる。
「あんたもね、冒険者のはしくれでしょう?
臆病風に吹かれるのは勝手だけど、それならそれらしく尻尾まいて逃げなさい。
ひとの邪魔してんじゃないわよ」
「だって…だってあたしちゃんこんな奥まで来たの初めてだし…」
「あまったれんじゃないわよ」
鼻で笑ったシーフに商人の顔がひきつった。
「だって…だって、しょうがないじゃん…。
こんなのはじめてなんだもん……いままでは…、あたしでも倒せるくらいの奴しか相手にしてなかったし…。
助けてって言ったら…誰かが助けてくれたし……」
だって…だってこんな……怖いものだなんて…思ってなかったんだもん。
ましてや死ぬような目にあうなんて…これっぽっちも思ってなかったんだもん。
あんたたちがいるから…きっと大丈夫だって思ってたのに。
……安心してたのに。…なのに。なのに。
「……………たず……」
「なに?」
「……やくたたず」
「は?」
「役立たずって言ったのよこの能無し!
あたしひとり助けられないでなにが冒険者よ、ふざけてんじゃないわよ!
えらそうなクチきかないでよ!」
商人の絶叫にシーフはぽかんと口をあけた。
血走った目をぎらつかせ、口から泡を飛ばして商人は叫ぶ。
愛らしい顔が今は、追い詰められた者特有の崖ッぷちの気迫にこわばっている。
「いいじゃん!もうほっとこうよ!
死んでたっていいじゃん!あのマジの勝手でしょぉ!
ブローチだって手に入ったし、もう用なんかないもん!
そうでしょ!?」
言いながら商人はにぎりしめたままだったブローチを突き出す。
ぱきっ。
小さく、不穏な音がブローチからもれた。
思わずブローチをのぞきこむ二人。
商人がおそるおそる指をひらき、手の中のものを確認する。
泥で汚れたたなごころのうえに、メッキのはがれかけたみすぼらしい装飾品があった。
「……これ…」
「……にせもの…?」
青い人工石をはめ込んだブローチは、たしかに王室ゆかりの意匠をあしらってはいたが、明るいところで見ればひとめでそれとわかるようなできあいの品でしかなかった。
圧力に耐えきれずに台座からはずれた石が、くすんだ安っぽい光を放っている。
「なによこれ……あたしちゃん、こんなもんのために死にかけたわけ…?」
歯がみしたい思いはシーフも同じだった。
確かめる機会はあったはずなのに、それすらしなかった。
ガラクタのためにあれこれと画策し、いらぬ気をもみ、パートナーの誓いまでかわして。
欲に目がくらんだ自分がひどく間抜けに見えた。
「…アハハ、『きみが幸福でありますように』だって。
アハハハハ、だっさーい」
やけになった商人がひびのはいった石の下、隠されていた部分に刻まれたセリフを読み上げる。
「なーにこれ、名前ふたつ書いてあるしぃ。
ひとつは、線引いて消してあるし。 けんか別れでもしたわけ? ま、どうでもいいけどぉ?」
そのままブローチを投げ捨てようとした商人の手を押さえ、シーフはそれをひったくるように取り上げた。
商人は不愉快そうに顔をゆがめはしたものの、なにも言わなかった。
骨折り損の遺物など見たくもないらしい。
彼女が自分の目で確かめると、台座の中央に手書きらしい文字が刻まれている。
『きみが幸福でありますように』
短い祈りの言葉の下に、二本線で消された男の名前。
そのすぐそばに、後から書き加えられたらしい、女の名前。
胸にちくんと、針でつつかれたような痛みがうまれた。
小さな傷口から、じわじわと冷気が広がっていく。
『死ぬつもりだ。あいつ』
なにを思ってかは知らない。
だが、にせものの、なんの功徳もない、なのに肌身離さず身につけていたこれを。
人の手に渡すということは……。
「どこ行くの?」
「決まってる、戻るのよ」
背を向けた彼女に、商人の容赦のない声がかかる。
「もう間に合わないんじゃない?」
「……それでも行く」
「なぁに?シーフのくせに義理立てしてるの?
だいたいあの数をマジ一人がさばけるわけないじゃん。
わざわざ死にに行くわけ?」
「……」
商人は無言のまま立ち去ろうとするシーフの服のすそをあわててつかんだ。
「待ってよ、いかないでよ!
ねえ、ふたりで協力して出口を目指したほうがいいでしょ?
あ、そうだ。あたしちゃん、あんたを護衛として雇うからぁ。
無事に街、ううん、出口までつけたら5000ゼニー。どぉ?」
乾いた音がした。
ほおを打たれた商人が岩場にしりもちをつく。
「な…なにすんのよ!」
「……うるさい」
押し殺した声が彼女の口からもれた。
商人の顔が一瞬怒りで紅潮した。
しかしすぐにへつらうような表情に変わる。
「ねえお願い、いまあんたに置いていかれたら困るんだもん。
あたしちゃんじゃここいらの魔物にかなわないし…」
「そんなのあんたの都合でしょ?
あたしはあたしの好きにさせてもらう」
「だって、だって、死んだらおしまいじゃん、死んだら意味ないじゃん!
死ぬ奴は馬鹿だし、死にに行く奴は大馬鹿よ。あんたもそれくらいわかってんでしょ!?
生きてるほうがいいし、生きてる奴が勝ちよ。生きてるほうがえらいに決まってんでしょぉ?
死んでるかもしれないやつより、生きてるあたしを大事にしてよ!」
シーフは再度商人を殴りつけようとこぶしをふりあげ、力なくおろした。
「そうね、ばかよね…死んだらおしまいだわ……」
シーフは手の中のブローチを握りしめた。
グローブ越しの感触はこころもとなくて、その気になればすぐにでも握りつぶせそうだ。
一銭の価値もない安物だが、とにかく目的の品は手に入った。
もう、ここにいる必要なんてない。
その場限りのパートナーも、いなくていい。
ブローチに刻まれた、小さな祈りも、見なかったことにして……。
商人が近寄ってくる。
早く行こうとすそを引っ張る。
皮ひもだけになったペンダントがゆれた。
「ねぇ、何を迷ってるの?早く行こうよ。生きてることが、一番大事でしょ?」
「いきてることが…いちばん大事……」
ゆっくりと反芻する。
こみ上げてくる何かがあった。
そのセリフは、母の口癖を思い出させた。
女手ひとつで育ててくれた母が、耳にたこができるほど何度も繰り返した言葉。
神も他人も信じなかった母のたったひとつの信念。
苦しいくらい、なつかしい。
うつむいていたシーフの瞳に、すっと精気が戻った。
シーフは……彼女は……ブローチをポケットに放り込むと、両手でぱんと自分の頬を叩いた。
ぶるっと頭を振って、商人に向きなおる。
「ねえ、あんた。ありがと」
「な、なによぉ。いきなり」
突然の礼に不気味そうに身を引く商人。
その子の頭に手を置いて、彼女はにっこり笑った。ありがとう、おかあちゃん。忘れてたよ。
ごめんね、できのわるい子で。震える手で魔法士はローブを脱ぎ捨てた。
魔物と、自分の血に染まったそれはひどく重くて、ただの足手まといだったから。
法力の使いすぎで頭の芯が灼けるように痛い。
ゆれる視界を気力だけで押さえて、崩れそうになる足を踏みしめる。
魔物はずいぶんと減っていた。
減っているだけだった。
雷術でただれたうろこを岩場にこぼしながら、オボンヌがじりじりと間合いを詰めてくる。
歪んだ目には、杖にすがってようやく立っている自分の姿が映っている。
仲間の死骸の下から、まだ息のあるマルクがはいずりだしてきた。
よろめきながらも体を丸め、狙いを定めるのがわかる。
魔物たちをはさんだ奥に、シーフと商人が消えた洞窟の裂け目があった。
施されたセイフティーウォールの最後の一枚が、ほのかな光をはなっている。
魔物たちの注意が完全に自分に向いていることを確認すると、魔法士は右の太ももをまさぐった。
小刀の冷えた感触に少しだけ意識が鮮明になる。
鞘から引き抜こうと動いた手が、途中で止まった。
固まった血がこびりついた彼の唇から、小さなため息がこぼれる。
もういいかな。
もういいだろ?
誰かを守って死ぬなんて、僕にしちゃ上出来だ。
ああ、あの子ならきっとだいじょうぶ。
あぶなっかしいが一応シーフだ。
ちゃんと逃げおおせるだろう。
そして僕のことを忘れて、よろしくやっていくさ。
だからさあ。
そろそろ、君のそばにいってもいい?
脳裏にうかぶ残像に語りかけて、彼は目を閉じる。長い髪を揺らして、彼女が走る。
漆黒の髪が闇にとける。
後ろから追っていた商人の声も、もう聞こえない。
ポケットの中のブローチが、かちゃかちゃと小さな音を立てる。
皮ひもが首にからむのも、今は気にならない。
ペンダントが砕けた瞬間を思い出し、彼女は少し笑った。
信頼の証だなんて言っておいて、あっさり割ってくれちゃってさ。
そうね、最初から、信頼なんてなかった。
欲の皮突っ張らせたあたしは、さぞかしわかりやすかったことでしょう。
どんな思いで見てたの?
それともハナっから、あたしなんか見てなかった?触手に似たオボンヌの髪が、ざわざわと魔法士の足元をなめる。
警戒をとかない魔物に、彼は苦笑する。
杖を手放し、腰をおろした。
汚れた杖は乾いた音を立てて岩場に転がる。
その音に一瞬固まったオボンヌが、再び動き出す。あんたはさ、いっつもにこにこ笑ってて、誰にでも愛想良くて。
でも結局こんな風に、自分すらまるごと見捨てていっちゃう冷たいやつね。
残される側の身にも少しはなれってのよ。
そりゃブローチの女にもふられるわよ。
なにがあったか知らないけどさ。
あんたが思ってるほど、あたしは器用じゃないのよ。
そうですかじゃあさよならってわけにはいかないんだから。
彼女は出口を目指す。
行く手に光が見えてくる。
闇に慣れた目にもつらくない、清浄な蒼。
透き通った壁の向こう、背を見せる魔物の姿。
拳を握る。
息を吸い込む。
彼が見えた。「なに死にたがってんのよ、この大馬鹿野郎ーーーーーーーーー!」
絶叫が洞窟中に響いて。
同時に、ぱりんと澄んだ音。
内側から殴られてあわれにも砕けた魔法壁が、最後の光をはなちながら消えていく。
淡い蒼をまとって、シーフが跳ぶ。
ひらめいた銀の閃光とともに、マルクが一匹絶命した。
彼女はぽかんと口をあけた魔法士の前に降り立つ。
「…………なんで?」
幽霊でも見ているような顔で、それだけ言うのがやっとの彼を仁王立ちでどなりつける。
「やっかましい!あんたに死なれちゃ寝覚め悪いのよ!
仮にもね、世界一薄くて軽い絆だとしても、あんたはあたしのパートナーなんだから!」
赤ポットを投げつけると、彼女はスティレットをかまえた。
大声にひるんだ魔物の群れに飛び込み、手近にいたオボンヌの紅い髪を切り落とした。
背後からもう一匹が尾ひれをうちつけてくる。
振り向きもせずに軽く飛び上がってそれをかわし、前にいるオボンヌめがけて短剣を突き刺す。
裂けたうろこの隙間を狙われ、内臓をやられたオボンヌが血を吐いて後退し、海の中へ逃げ込む。
既にそれには目もくれずシーフは左に跳んだ。
一瞬前まで彼女のいたそこをもう一匹のオボンヌの鋭い爪が襲う。
むなしく宙を掻いた一撃を見逃さず、シーフは大きく短剣をふるってその手を切り飛ばす。
そのままの勢いでくるりと回ると、スティレットを下向きに持ち替えて走りこんできたマルクに打ち込む。
硬い装甲にひびが入り、苦悶の声をあげるマルク。
シーフの背後から腕を落とされたオボンヌが頭を振り、長い髪の毛を打ちおろしてくる。
棍棒の一撃にも似たそれを最小のステップでかわすと、無防備にさらけ出されたうなじに短剣をつき刺した。
断末魔をあげるまもなく絶命したオボンヌを蹴飛ばし、マルクの動きを封じる。
屍の下から顔を出した瞬間、マルクの脳天にシーフの二連激が決まった。
頭蓋を割られたマルクがゆっくりと倒れた。
洞窟に再び静寂が戻った。
むっつりと不機嫌な顔で、魔法士が壁ぎわに座りこんでいる。
少し離れた岩の上に、ふてくされた顔のシーフが片ひざを立てて腰をおろしている。
背を向けたままの二人が黙々と傷の手当てをしている様は一種異様で近寄りがたい。
シーフはオボンヌの攻撃がかすった腕に包帯をていねいに巻き、しばらくたってほどいてはまた巻く。
魔法士のほうは唇をとがらせたまま、手の中の赤ポットをもてあそんでいる。
死闘をくぐりぬけたパートナーたちにしては険悪な雰囲気。
魔物の群れを撃退した二人は互いの無事を喜びあうどころかまともに顔をあわせることすらせず、こんなどうにもやるせない時を過ごしていた。
シーフは8回目の包帯を巻き終えると、意を決して振り向いた。
同時にこっちを見ていたらしい魔法士とまともに視線がぶつかり、磁石が反発するがごとくふたりはくるりと背を向ける。
「………」
「………」
「………」
「………」
「……なに見てんのよ」
「……おまえもだろ」
「あたしはそろそろ戻らないとって思っただけで」
「一人で戻れば?」
「あんたねー、わざわざ助けてあげたのにそんな言い草ってあり?」
「あー、あるね。大有りだね。大体頼んでない」
「あ、そ、ふーん。てーか赤ぽ早く飲めってのよ、待ってんのよこっちは!」
「へいへい、そりゃあ悪ぅございました。…って、がぶ飲みできるかこんなまずいもん」
「ぃやっかましい!とっとと飲めわがまま男!」
「なんだと、このバカ女!」
「自己中!」
「おせっかい!」
「ガキ!」
「偉そう!」
「ひ弱!」
「うるせえ怪力…う、ごほ……」
「ちょ、ちょっと、だいじょうぶ?」
大声を出したせいか胸を押さえてうずくまってしまった魔法士にあわてて立ち上がるシーフ。
かけよって肩に手をかけてから、しまったという顔をしたがもう遅い。
至近距離からガンつけされて、こっちも負けじとにらみ返す。
たっぷり10秒はにらみあっていたが、やがて魔法士のほうが目をそらした。
ふ、勝ったねと思ったのもつかの間、はふとため息をつかれ背を向けられて、シーフも所在なくて背中合わせに座った。
またしばらく無言。
お互いにふりむかずにあいての表情を推し量ろうとするものだから微妙に挙動不審。
やがてそれにも飽きて背中を預けあったままぼんやりしている。
ときおり波間をタラフロッグが場違いにのんびり泳いでいく。
横目で見ながらなんだかなあと、彼女もため息。
けど、くっつけた背中はあたたかい。
「………」
「………」
「………」
「………なんで…」
「ん?」
独り言のようにぽそりと魔法士が言った。
ああそういえばこいつ、あたしの目を見てしゃべったのなんて青ジェムくれたときぐらいだなと、彼女は思う。
「……なんで助けにきたのさ」
「………」
「ちょうど良かったのに」
「なにが」
「……」
「だからさ、言ったでしょ。寝覚め悪いって。
パートナーに自殺されたなんていい笑いもんよ、あたしゃ」
「……」
「しかもあんなナル丸出しの自己犠牲シチュエーションでよ?
もうどういう神経してるわけ?思い出しただけでアホくさくてげんなりするし」
「……悪かったな」
「そーよ。死ねばホトケさんだからみんな悪く言わないけどさ、三十六計逃げるにしかずよ。
それができないやつは捨て駒かお子ちゃまよ。
華々しく散ってあとは野となれ山となれって無責任もいいとこ、後始末まできちんとできて一人前なの」
「……男はそういうもんなんだよ」
「性別を盾にする時って、私は言い返せませんって自分で暴露してると思うの」
苦虫噛み潰したような彼に彼女はあかんべえと舌を出す。
「ったく、とんだメガネ違いだ」
ばさばさの髪をかきあげて彼が言った。
「なにが」
「君みたいな軽薄な物欲の塊なら、尻尾巻いて逃げ出すとふんでたのに」
「……誰がなんだって?」
「耳学問の素養がないようだね」
「勉強してひねくれるならバカで結構。
ひょっとして、最初から特攻予定でパーティー組んだわけ?」
「べつに。たまたまだよ、たまたまいいシチュが来たから行っただけ」
「『いい』って?」
「そこそこ体面保てて、それなりに充実した生ってやつ?」
「自己満足ってーのよ、それは」
「けっ」
「ふん」
「……」
「……とにかくさ」
「…なに」
「……死にたがりは他のパーティーでやってよね。あたしといっしょの時はやめて」
「そうか、ならパートナー解消だな。さよならだ」
「だめ」
「なんで」
「だめったらだめ」
「だからなんで」
「人としてよ、ひ・と・と・し・て」
「人間くさく見捨てりゃいいだろ」
「あんたっていろんなこと知ってるかもしれないけど、考え方が幼稚よね」
「自分は違うって言いたそうだな」
「あんたよりは世間知ってるわ」
「僕には必要ないね」
「そんなとこがガキだってのよ」
「うるさいな、もういいだろ。僕は行くからな」
「だめって言ってるでしょ!」
「ほっといてくれ!僕にかまうな!」
彼は勢いよく立ち上がり(ついでに少しよろけ)杖をつかんできびすを返した。
「死ぬ死ぬ言うなどあほ!」
その後頭部にシーフのグローブがヒットする。
「君なあ……!」
思わず振りかえった彼は言葉を失った。
彼女がにらんでいる。
顔を真っ赤にして、泣きそうな目で。
「……なんでそんな死にたがるのよ!
…なんでそんな頭悪いのよ!
あんたが死んだらさみしいって言わなきゃわかんないわけ!?
いなくなったらやだって言ってんのもわかんないの!?」
……そりゃあ、無理ってもんだろうとのテロップが通りすぎた。
妙に熱っぽい彼の頭の中を。
逡巡して、魔法士はしゃくりあげそうになるのを必死にこらえている彼女のそばへ戻った。
眉はよっているし口がへの字にまがっていて、おせじにもかわいいとは言いがたい。
言うほどおとなじゃないよね、君も。
そう思うと肩の力が抜けた。
泣くなよ子どもみたいだぞと言ったら、ガキにガキって言われたとへらず口が返ってくる。
苦笑しながら目元をぬぐってやった。
まあいいかどうでもいいやが彼の金科玉条で、今も少しそんな気分だ。
でも、いままでと少し違う気がする。
落ち着いてきた彼女の肩を抱いて、顔はあさってを向いて話しかける。
「……びっくりしたさ。絶対、助けにこないと思ってたから」
贋作のあれをめぐって一喜一憂してる姿はおもしろかったし、くるくる変わる表情や、大根な演技も楽しませてもらったけど。
ただのブローチめあての同行者でしかなかったから。
そう思ってたし、それで充分だったし、たぶんブローチが本物だったら、それ以上になんてならなかっただろう。
「うれしかったよ。あんがい世話焼きなんだね」
視線はあわせずに、そらっとぼけた口調で。
うわべのつきあいだけは得意な自分の癖。たぶん一生治らない。
真意なんて伝わらなくてあたりまえ、がんばるだけ無駄。人間相手はめんどうなだけ。
ずっとそう思っていたけれどほんとうは、伝えても拒絶されやしないかとおびえていたのか。
腕の中の彼女が、どうせおせっかいだもんとつぶやくのが聞こえた。
まったくだ。おせっかいだ。
おかげであの子のそばにいけなくなった。
たいしたおせっかいだ。
「負けたよ。君には」
「は?」
「べつに。ところでさ、あの商人の子はどうした?」
シーフは真っ青になった。
「やば!忘れてた!戻らなきゃ!」
言うなり岩の裂け目に飛び込んでいくシーフ。
やれやれと魔法士はゆっくり歩いていく。
暗闇を抜けると、二人がぎゃんぎゃん言い争っているのが見えた。
「うそつき!薄情!ひとでなしー!あたしちゃんやばかったんだからぁ!
こーんなでっかいのに襲われたんだからね!わかってんのぉ!?」
「あーはいはい、だから悪かったって言ってんでしょー!?
ほら暴れないでよ、包帯まけないじゃない!」
ぐしゃぐしゃの包帯だらけの商人。
よれたり曲がってたりするそれは自分で巻いたらしく、シーフがはずしては巻きなおしてやっている。
「もー、攻撃当たんないし、すんごく痛いし、何度死ぬかと…!
ポットは全部使い切っちゃうしさぁ、しまいにゃ赤ハーブ生で食べる羽目になってさぁ。
赤字よ赤字!OhアカGーーー!」
「ほったらかしにしてたのは謝るわよ~。けど、命があるだけめっけもんじゃないの」
「諸悪の根源が言うなぁ!」
二人から少し離れた波打ち際に、オボンヌの髪の毛が束のままちらばっている。
もっさりとした触手のような海藻のようなそれのなかに、きらりと光る何かが見えた。
魔法士がひょいと拾いあげて泥を払うが、シーフも商人も騒ぐのに夢中で気づいていない。
すったもんだのあげくようやく商人の応急処置が終わり、ぷりぷり怒る彼女をなだめつつ一行は腰をあげた。
目指すはイズルート。ダンジョンに別れを告げて、ふかふかのベッドとおいしい食事だ。
「あんたらねぇ、街についたら覚えてなさいよ。
とりあえず治療代とポットの仕入れ代はぜったい出させるから覚悟しといてよ?」
「はいはい、そんな何度も言わなくてもわかってるわよ」
「それからねぇ、新しい装備やーカートやー」
「ちょっと、どこまでたかる気?」
「ひっどーい、あたしちゃん死にかけたんだからそれくらいしてくれてもいいでしょー?
しかもどっかの誰かがラブったりいちゃってたりしたせいで!」
「してない!」
シーフが拳を振り上げると商人は出口めがけて逃げ出した。
「…ったく、あっちはちゃっかりしすぎだっての」
後ろから魔法士がくすくす笑いながら近づいてくる。
「そうそう、君のペンダントなんだけどさ」
「ん?ああこれ?」
彼女は皮ひもをつまんで引っぱって見せる。
「割れちゃったー。誰かさんの信頼の証だったのにねー」
人の悪い笑みを浮かべてこっちを見るシーフとすれ違いざま、魔法士はさっき拾ったものを彼女に放り投げた。
「代わりにこれでもどう?今度は割れないよ」
彼女は手の中のそれを見て、目を丸くした。
+++++
「…で、さあ。こないだのクワガタ狩りの時はさ、間違えてネイパ撃ってんのこいつ。
んであせってセイフティーウォールをホルンにかけちゃうしさ。いやあ。笑った笑った」
「よく覚えてるよね、君も」
「いやあ、あんなおいしいのはそうそう忘れられるもんじゃないわよ」
アイスアップルティーの氷が溶けてくずれ、からんと涼やかな音が鳴った。
剣士の前ではシーフがまぬけーまぬけーと魔法士をからかっている。
少し薄くなったアップルティーを手に取った剣士は、ストローを口にくわえて目の前の2人をほほえましく見守る。
自分の知っているあの頃よりも、格段にいい表情を見せるようになったシーフを眺めてこう思う。
『まあ、たまにはのろけにつきあってやるか』
アップルティーを味わって飲み干すと、カプラバンドのウェイトレスを呼んで追加を頼む。
表通りのにぎわいはまだまだ衰えを知らず、木漏れ日を見あげれば緑を透かして夏の空色。
陽気な笑い声を上げるシーフの胸元には、皮ひもにとおされた金の指輪が光っている。fim