※お題『メンテナンス』
※猫木
『Quiet time』
人気のない空間を実体のない馬が駆け抜けていく。
実体がないくせに蹄の音と嘶きだけはやけによく響いている。―――――まぁ、実体がないといえば自分もそうなのだが。
手のひらをかざすその向こうに見えるのは、ほんのりとした光を放つ魔力光の残滓。
自らの目にもぼんやりとしか映らない己の体は、自身を鍛えるものにとって格好の相手のようだ。
幾度となく切りつけられた覚えがある。
幾度となく切り捨てた覚えもある。
時にそれは年端も行かぬ少女であったり、歴戦をくぐりぬけた騎士であったり。
彼らに呼ばれるのか。それとも、何か別のものに呼ばれているのか。
己の知らぬ強い力に呼ばれ、己はここに不完全な形で存在する。何のために。
存在を確認する度に騒がしい辺りの景色が今は静かに凪いでいる。
聴覚に届く音は、先に上げた悪夢の使者の嘶き。
実体のない足を踏み出せば、冷たい土と石とが擦れ合い、音を立てる。
気に止めぬ音に耳を澄ませば、ここは何もないところなのだと気づく。
がしゃり。
ベルトに止めた剣が酷い音を立てた。
鞘から引き抜けば、広刃の剣はこびりついて固まった血と人の油で使い物にならなくなっていた。
歪んだ刀身は覗き込む己の姿を映さない。
……例え、磨き抜かれた刀身だとしても、己が姿を映し出すのかはわからないが。「おやおや、また剣を酷くしてしまいましたネ」
突如背後からかかる声にも驚きはしない。
だれもいないこの空間、意識の覚醒が幾度か起こるたび、こうして唐突に訪ねてくるものがいる。
白い服と大振りなめがね。白い服の男だ。
ここにやってくる者たちの一部が持つ鉄製のカートを引きずりながら時折こうしてやってくるこの男。「ああー、ワタシの作品こんなにしてしまっテ」
無言のまま剣を差し出すと大げさに嘆く口調で頭を抱える。
が、めがねの奥の目は笑むように細められ、不思議と言葉通りに悲しんではいないようだ。
この男がどういうものなのか。
己には知る術もないし、知る気も起こらない。
ただ時折やってきて、こうして剣を、鎧を見ていく。
お互い名乗りもしない。
ただ剣を磨く小さな摩擦音だけが空間に満ちる。
あれだけ居たナイトメアも、今だけはその姿を潜めている。男の手の中で、広刃の剣が踊る。
布は不浄な血を、油をぬぐい、剣の穢れたその身を清め。
男の指先は刀身をいとおしげに愛撫し、爪先で淡く柄の飾り部分にもぐりこんだ
不浄を拭い去ってゆく。後に現れるのは、ひとつの不浄も残さぬ力強い輝きに満ちた剣。
「ハイ、綺麗になりましたヨ。」
無造作に放られた剣は、吸い込まれるように己の手の中に収まった。
「今回はヨロイはご無事のようですネ。お体も問題なく、ト?」
めがねの端を支え、ゆるく持ち上げた表情がほんの僅かな驚きに染まる。
「お怪我、してましたねエ。おなおししまショ」
実体のない己の体は痛みを感じることがない。
触れられたとわかるのも、その行動を視覚で追っているからだ。
辺りに漂う魔力光に良く似た光がうっすらと視界の端にうつる。
怪我など、していたのだろうか。
覚えはない。だがおそらく目の前にいるこの男の言葉は真実なのだろう。「コレでヨシ。幻影の剣士(ドッペルゲンガー)サン、お体大事にネ」
カートの中に剣を磨いた布を放り込み細い目を寄りいっそう細めた白い服の男は、来た時と同じく唐突にその姿を消した。
消えた男の居た場所をしばしの間見つめていたドッペルゲンガーは、今日のことをようやく思い出した。
「…メンテナンス、か。」
end
2004.03.05 猫木