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伝説の終焉 byまなか陸

 ※お題『酒場』
 ※まなか陸
 
続き
 

『伝説の終焉』

 ルーンミッドガルツ公国首都プロンテラ。白亜の城塞と呼ばれ、この世界で最も堅固な城であり『鍵』であるこの城の背後に、広大な森が横たわっている。
 迷宮の森と呼ばれ冒険者・非冒険者ともどもに恐れられるこの森には、この世の混沌の元凶とされる魔神バフォメットが住まうと言われる。人の足で端から端まで歩けば、ゆうに2ヶ月は掛かるといわれ、普通の人間ならば、まず近づくことはしないこの森に、1つの伝説がある。
 それは、どんな医者でも薬でも治せない病気を治してしまうという、凄腕の医者がいる、という話。代金として、荷車一杯の蜂蜜と聖水を持ち、命と引き換えに森に入れば会えると言われている。
 ただ、本当に彼が実在の人物かどうかは、定かではないとされている。命と引き換えのため、戻ってきた者がいないのが1つ。そのせいで、果たして彼に会えたのか魔物の食事になったのか判断が付かないのが1つ。命と引き換えにしてまで助かりたいと思う人間がいないのが1つ。

 そんな森の奥深く、首都北門から人の足で一月も歩いたあたり・・・・・・丁度ミョルニール東山脈のふもとあたりに、小さな広場がある。深い森に囲まれており、道と言えば、獣道と呼ぶことすら憚られるような道が一本付いているだけ。二方はうっそうと茂る針葉樹、一方はミョルニール山脈の切り立った崖で守られている。広場の大きさは、衛星都市イズルードの出島2個分くらいか。天気の良い夜には、それは月が綺麗に見える。広場の片隅には、澄んだ水がこんこんと沸き出る泉もあった。
 そして、崖にへばりついている、石造りの建物がひとつ。装飾などかけらもない、よく言えばシンプル、率直に言うなら無骨なつくり。ただし結構な大きさがあり、内部も広そうだ。ちょっと中を覗いてみよう。

 これまた頑丈だけがとりえですと言わんばかりな樫の木作りの扉を開ければ、やわらかに火の点るレンガ造りの暖炉がある、ちょっと大きめの居間に出る。暖炉の前には揺り椅子が置かれ、カーペットもあるので寝転ぶ事ができそうだ。
 部屋の中には点々とテーブルが置かれている。一つのテーブルには4人程腰かける事ができると思われる。よく磨きこまれた家具独特の艶があり、上には洒落たドイルと、一輪挿しが置いてある。
 雰囲気から言って、その部屋は家庭料理を出すような酒場、という感じだった。ただ、酒場特有の雰囲気ではない。もうちょっと良い感じの、穏やかな雰囲気が漂っている。
 もう一つ、普通の酒場とは違う点があった。それは椅子や机の高さ。大きいものもあれば小さい物もあるのだ。小さいものは大人の膝くらいまでしか高さがなく、大きなものは切り株や太い丸太が椅子。テーブルもそれに合わせたサイズだ。一方の壁にはカウンター席もあり、そこの椅子も高さが色々とそろえてある。
 おそらく酒場、もしくはレストランと推測できるそこには、まだ客はいないようだ。その代わり、隣の部屋からかすかに物音がする。

 物音の主が、今回の主人公である。

 伝説の終焉 - 世界一不幸な男 3 - RO-FCP Fiction Creater's Party 06

 彼は中肉中背で、苔色のローブを着ている。髪もローブと似たような色だから、多分森の中にいると保護色になると思われる。フラスコを片手になにやら調合しているのでアルケミストのようだが、研究者らしからぬ日焼けぶりなので、もやしっ子という感じはない。
 彼の手にあるフラスコの中身は、水の質感で、ろうそくの光を集めて温かい葡萄酒色をしている。ただし持っている人が人なので、フラスコの中身が見た目どおりの葡萄酒かは定かでない。
 名はシンと言う。調合暦120年のベテランである。

 アルケミストは長寿が多い。というのも、浮遊都市ジュノーの魔法図書館の一角にある「魔法学・魔法薬・魔法生物論」という棚の端っこには堂々と"不老長寿"部門が設けてあり、そこの書物を何冊か読んだ、ある程度経験のあるアルケミストなら誰でも長寿薬を調合できるからだ。ただ腕に寄って単なる「長寿」で終わるか「不老」のおまけが付くかがわかれる。
 大概のアルケミストは、自分一人(または親族が)長生きしたところで、いずれ身内がいなくなるからとその道は選択しない。長寿の薬は、慣例として産まれた子供の健康を願って飲ませる程度である。ミッドガルド大陸の人々が全体的に長寿なのはそういう理由からだ。
 ただし、一部のアルケミスト、特に生体理論や人間工学など他者に任せられないような部門を持つ技術者や、神の腕と呼ばれる調合技術を持つ技術者は別で、彼らは不老長寿の薬を積極的に調合して飲み続ける。飲み続ける事で一分一秒でも老化を遅らせ、頭の回転が鈍るのを抑えながら研究を続けるためだ。
 だが、やはりそれにも個人差があり、うまく調合できたものは効果が長く、下手なものは逆に老化が早まったりすることもあるがゆえに、出来の良い不老長寿薬は大変高価に取引されている。
 だからシンのように、「見た目は二十歳、実年齢は140歳」というアルケミストは決して珍しいものではない。

 本職が医者兼酒場のマスターという事を除けば。

 シンがこの酒場のマスターを始めて、かれこれ120年になる。アルケミストになった時期とほぼ同じだ。昼間はちょっとした薬の調合をして、夜はカクテルを作るのが仕事。今はまだ日も高いので表の部屋は静かだ。これが夜になると客で賑わうなかなか繁盛した酒場になる。

 コツコツと扉が叩かれる。今入ってきたほうではない、外に面した扉だ。シンが声を掛けると扉が開く。そこから困った顔のペコペコが一匹首を出す。
 「おや、どしたの?」
 首には『シロン』とネームプレートの入った鞄を提げている。このペコペコはシンの使い魔的存在である。
 「お使いしてきてくれた?」
 近寄ったシンは、一つおかしな事に気づいた。齢148歳のシンが飼い主であるから、このシロンも見た目どおりではない。通常のペコペコの寿命は約15年だが、シロンは実に100歳近い。ペコペコは九官鳥の遠い親戚なので、教えればある程度喋る事が出来るが、シロンは年が年なので普通の人間並みに物を考え、喋ることが出来た。だからいつもなら、声を掛ければ扉を自分であけて入ってくるのだ。
 「シロン?」
 「ご主人様、ごめんなさい・・・・・・」
 うなだれるシロンを不審に思いながら扉を押し開け、謝る理由を見る。シロンの鞍部分にそれは乗っていた。ぐったりとした子供だった。

 「振り落とすには偲びなくて・・・・・・」
 しょんぼりと話すシロンをなだめながら、シンは子供をベッドに寝かせた。酒場のマスターの傍ら医業もしているので、診察室代わりの部屋にはベッドも3台ある。
 子供は、おそらく8歳前後と思われた。金髪で、ほっそりと華奢・・・・・・というよりは栄養不足でがりがりな印象を受ける。シロンが差し出す袋の中身をあけるとシンが頼んであったものがいくつかと、そして蜂蜜の小さな瓶と聖水が2、3、紙切れが一枚。開けて読む。

 ―――このもりには、どんなびょうきでもなおすことのできる、おいしゃさんがいるとききました
 ―――はちみつと、せいすいの、かずがすくなくてごめんなさい
 ―――わたしは、わたしのびょうきがなおったら、おいしゃさんのおてつだいをしぬまでします

 ―――しにたくないです、おねがいです

 シロンがいうには、この北の森の入口に娘は倒れていたのだと言う。死んでいるのかとシロンがくちばしでつついたら、ぱちりと目を開け、渾身の力を振り絞ってしがみついてきたのだ。
 「振り落とせなかったのか?」
 「こんなガリガリの、今にも死にそうな女の子をですか?無茶言わないで下さいよ」
 用心して喋らないようにしていたシロンだったが、娘がしっかりと何か紙切れを握り締め、反対の手に蜂蜜の瓶と聖水を握っていたのに気が付いた。シロンは伝説を知っているし、伝説の正体が何かも知っている。仕方がないのでそのまま来たと言うわけだ。
 
 「伝説信じて来た奴、何十年ぶりかねぇ・・・・・・」
 ぼやきながら、手の中の蜂蜜の瓶を見つめる。自分が冒険者だったころでも、一般庶民の手には結構高価なモノだった蜂蜜だ。決して質が良くはないし小さい。だがこの娘の身なりと体、シロンが言うことを総合しても、相当な無理をして買ったはずだ。
 「もう、蜂蜜はいらないんだけどね・・・・・・」
 ひとつ溜息をついて、シンは少女の腕に針を刺し、血を少し抜くことにした。どんな奇病かは知らないが、一応助かるなら助けようと言う気になったらしい。
 が、次の瞬間注射器を取り落とした。ガラスで出来たそれは、床に落ちて盛大に砕け散る。

 破片に混じった血の色は、雪のような白。

 翌日、少女をシロンに乗せ、彼はジュノーの魔法図書館に向かった。図書館に併設されている、アルケミスト協議会本部には、生体工学理論の最先端が保管されている。血が白くなる奇病なんて聞いた事がない。案の定それは病気ではなかった。

 「こりゃ、ホムンクルスだな」
 真っ白なひげをサンタよろしく蓄えた老人―――ペトリカス翁と言い、生体工学の最先端で研究をしているかれこれ300歳を超えようかと言う―――は感心して少女を撫でた。
 「しかもとてつもなく精巧なものだ。人と同じように体温もあるし、作りも人間の少女と同じ。もっと平たく言えば霊長類ヒト科ヒトのメスと同じ身体構造だ」
 「じゃあ育っていけば、人間の女性と同じ体つきに?」
 「そうだろうな。多分妊娠能力もあるだろう。血さえ赤けりゃ人間だ、というのがこの娘を表現する一番正確な言葉かもしれんな」
 シンは呆れ返りながらも少し興奮していた。
 ホムンクルスとは、アルケミスト達が夢見てやまない錬金術の最終形態。女体を通さず産まれ出でるヒトを作り出すのが錬金術の究極奥義だと言われている。しかも、自分達のクローンではない、完全に別個の個体、思考力を持ち、心を持ち、自分の意思で動き生きて行く事の出来るホムンクルスを作り出すことが、ここ生体工学理論研究室の最終目標なのである。
 シンは調薬専攻だったのでそこらへんにあまり明るくはないが、この娘がとんでもない技術のかたまりだということはわかった。
 「んで、目を覚まさんわけだな」
 「はい」
 実際少女は昨日シロンにしがみついてから一度も目を覚ましていない。ヒトと同じつくりなら食べないと死ぬはずなのだが・・・・・・?
 「おそらくエネルギー不足じゃろな・・・・・・調合の仕方を教えるから飲ませると良い」
 「・・・・・・?つくりが同じならヒトと同じモノを食べるのでは?」
 「そこはホムンクルスだからな。まぁついてきなさい」
 ついていった先は調合室で、ペトリカス翁は簡単な調合薬を示してくれた。調合・・・・・・といってもいいのか、白ポーションと赤ポーションと、蜂蜜を混ぜてレモンで割る。・・・・・・風邪を引きかけた時に飲む奴じゃないか。
 「・・・・・・からかってますか?」
 シンが少しむくれて問うと、翁は声を上げて笑った。
 「ホムンクルスのエネルギー源は白ポーションじゃ。ほれ、血が白かっただろう?」
 「あ」
 「これは単に飲みやすくしただけじゃ。単品は我々大人でも少し飲み下しにくいからの」
 白ポーションはねっとりとして少し苦いので、気を付けて飲まないとむせてしまうのだ。
 「おそらくこれだけヒトに似せてあるのだから、口から飲ませれば目を覚ますじゃろ」
 翁はおもむろに吸い飲みを取り出し、調合した液体を入れて口にあてがう。伊達に300年生きていない、うまいこと角度をつけて飲ませる事に成功した。

 一分
 二分

 本当に大丈夫か?と翁をちろりと見たところで、少女は目を開けた。がりがりな顔のなかで、やけに目立つ大きな空色の瞳。今まで死んだように寝ていたのに、ひょいと起き上がって、こちらを見る。・・・・・・見てくれは完璧にヒトだが、動作がヒトじゃない・・・・・・
 「あれ?あたし・・・・・・?」
 「気が付いたかの?」
 ペトリカス翁がにこやかに微笑みかける。そして、さすが年の功としかいいようない誘導尋問で、彼女の名前と家庭環境を聞きだす事に成功した。

 彼女の名前はアルシア。正確な歳はわからないが、とある金持ちの家で暮らしていたようだ。そこの病気のお嬢さんの遊び相手だったらしい。
 そのお嬢さんと言うのが、現代の医療では治らない病気の持ち主で、父親は色々と手を尽くしていたのだが・・・・・・

 ―――ホムンクルスの肉が、どんな病気でも治すと言う噂を聞き付ける。

 翁とシンが揃って顔をしかめるなか、彼女は淡々と話を続けた。もともとホムンクルス狂の知人がものの弾みで完成させた彼女を譲り受けた父親は、しばらく悩んだ末、彼女の人目に着かない部分を少しずつ削り取り始めた。ヒトと見た目は同じだが、自己治癒力はその数倍になるホムンクルスだから、最初はすぐに傷もなくなり、お嬢さんも順調に回復を始めたのだと言う。
 問題は、ホムンクルスの肉が、この世の三大珍身に(こっそりと)数えられるほどの美味だったことと、父親がそれを味見してしまったことだった。
 だんだんと削られる回数も量も増え、治癒力が追いつかなくなった。白ポーションを大量に飲んでも効かない。それなのに、父親の要求は日に日に増してゆき―――

 「腕、切られそうになったんです」
 「もういいよ」

 話を続けようとしたアルシアを、シンはさえぎった。後は予想が付くし、なにより吐き気を覚えて仕方なかったので。
 ペトリカス翁が、彼女に断ってそっと上衣のすそを持ち上げると、果たしてそこには見るのも生々しい削られた跡があった。翁が唸る。
 「確かに、白ポーションを凝縮したようなものだから、病気に効かないと言うわけではないのじゃが・・・・・・」
 これは余りに酷い、と言外に語っている。
 「怖くなって、逃げました。ペンダントを売って白ポーションを買って飲んでいたんですけど治らなくて・・・・・・お医者さんに行ったら・・・・・・檻に・・・・・・」
 「もういいから」
 シンが遮るが、アルシアは続けた。
 「北の森に、この世のどんな病気でも治してくれる人がいるって聞いてました。命と引き換えって聞いたけれど、かまわなかった。私は、私が何なのか知りたかったんです」
 たどり着いた時のぼろのような服は、逃げて逃げて逃げた末の産物だったようだ。シンは彼女の疑問に答えてやる。
 「あんたは、ホムンクルスって言う。俺達人間と見た目は同じだけどな」
 アルシアは頷いた。
 「どこが違うんですか?」
 「血の色が違う。食べるものが違う。回復力が違う」
 他に無いかな、と考えたところでペトリカス翁が続ける。
 「あとは、本来のホムンクルスならばさほど知性はないのじゃが、お前さんは人間の子供と同じかそれ以上の知性があるな。・・・・・・ヒトとホムンクルスの違いはそんなところじゃ」
 しばしの沈黙が落ちる。
 「私・・・・・・おうちに帰らされますか?」
 「帰りたいのか?」
 アルシアは力なく首を横に振った。
 「お嬢さんと旦那様には申し訳ないと思いますが・・・・・・私、死にたくありません」
 うなだれるアルシアのうなじが細い。しばらく沈黙が落ちた後、ペトリカス翁がそれを破る。
 「とりあえず、お前さんの傷を治すのが先決じゃ。そのあとの事はその時考えよう」

 それから3日間、彼女は魔法図書館の最深部にある医療施設で過ごした。淡い緑色の細胞活性化培養液に頭まで浸って浮かぶ姿は、幻想的かつ魅力的だとシンは思った。詳しい検査の結果、彼女は人の年齢に換算して約14歳、知能も同等か多少上程度という判断が下された。
 3日目、仕上げに白ポーションを調合した特殊溶液から出てきたアルシアは、傷も完全に治り、やつれも無くなっていて、なかなかの可愛い少女に戻っていた。柔らかに肩から下がる、緩くカールした淡い色の金髪と、大きな勿忘草の瞳。遠い日に見た光景を思い出して、シンはこっそりと頭を振る。
 そして、結局シンが連れ帰る事になった。シンは妹などいなかったし独身。無理だと申し立てたがペトリカス翁はどこ吹く風。アルケミスト協議会においても、不貞の輩が彼女を捕まえ実験材料にしかねないと言う半ば脅しに近い文句を言われて、渋々シンは折れたのだった。
 元気に外で駆け回れるようになるまでに2ヶ月、人らしい動作を完全に身に付けるまでに一年、そこから首都や周辺都市までお使いにいけるようになるまでに半年と、月日は飛ぶように過ぎていくなかで、アルシアは徐々に人間に近づいてゆく。

 5年の歳月が過ぎた時には、元がホムンクルスだとは誰も思わないまでの成長を遂げた。

 シンが彼女には不老長寿の薬を飲ませなかった為、素直に成長を続け今では二十歳前後の娘となった。セバスチャンというオークウォリアーのバーテンダーを一人雇い、アルシア自身は酒場の看板娘として先月から働き始め、なかなかの評判になっている。
 シンは相変わらず昼は医者、夜は酒場のマスターとして暮らしていた。
 酒場には人―――人間は来ない。来るのはモンスターのみ。だからモンスター酒場と呼ばれている。椅子が大小そろえてあるのも、客層がポリンからバフォメットまで幅広きに渡るからだ。食事も酒も出す。もちろん飲めない魔物用にソフトドリンクもそろえている。
 
 「久しぶりだな」
 「お、バフォの親父さんじゃないですか、お久しぶりです」
 そんなある日、いつぞやシンを拉致して娘の治療をさせたバフォメットがやってきた。彼の名前は人の言葉で言うならデルナールと言う。バフォメットの姿のまま来ると場所を取って仕方が無いので、ここに顔を出す時は人の格好でやってくる。大概子供のうち、酒の飲めそうな年齢の者か、綺麗所のサッキュバスを連れてくるのだけれど、今日は珍しく一人だった。
 「いらっしゃいませ」
 すっかり愛想笑いも板に付いたアルシアが給仕にやってくる。彼女を見てデルナールは目を見張った。水を置いて立ち去る後姿を眺めて、小さく呟く。
 「・・・・・・驚いたな」
 「ああ、アルシアですか?小さい時はそうでもなかったんですけどね」
 「アルシアと言うのか」
 名前を呼ばれたのを聞き付けて、振り向いて小首をかしげる姿が愛らしい。なんでもないよとシンは手を振って、小さな溜息を付く。

 幼い頃は青紫の瞳だったのに、今では目を見張るほど美しい紫となった。淡い色の金髪も豊かに腰まである。肌も白く体はほっそりとしなやかだ。そう、彼が愛した魔性の娘に、驚くほど似てきたのだ。どれほど似ているのかは、父親のデルナールが驚くほどなのだから推して知るべし。
 デルナールが好む、透き通る血の色をした蒸留酒を出しながら、シンは苦笑いする。
 「なんていうか、複雑ですよね・・・・・・」

 シンの愛する魔性の娘、アデリアは陽気だった。綺麗な金の髪と紫の瞳、その姿だけを見れば三色菫のような可憐さと清華さを出していたけれど、実際はひまわりかケイトウ、ボタンとか芍薬という表現が似合う、そんな娘。
 さっぱりとして飾り気のない白いシャツと、すんなりとした下肢を包む細身のズボンといういでたちで、頭に巻きつけるような形に髪を結い、くるくると良く働く人気者。さっぱりした性格は誰からも好かれた。
 目の前のアルシアは、アデリアと同じ格好、そしてとてもよく似た容姿なのに、なぜか月の光を思わせる。例えるなら満月の日、森に降り注ぐ温かな金色の光。物腰はしとやかで品があり、白い菊の花か、クリーム色のティーローズといった表現が似合う。彼女も良く働いたが、人気者と言うよりは憧れの的、と言ったほうが正しそうな扱いを客にされている。礼儀正しく、大人しいけれどユーモアを兼ね備えた彼女も、やはり誰からも好かれてはいたけれど。

 そう、二人は姿こそ似ていたけれど、性格は似ていなかった。当たり前だが、仕草も癖も、声質も違う。どちらかと言えば可愛らしい高い声だったアデリアと、高いけれどしっとりと落ち着いた声のアルシア。テーブルにグラスを置く仕草一つ、客に注文を取る姿勢一つ、柳を思わせるしなやかさでテーブルの間を歩く足取りもそう、自分への呼びかけ方も違う、それなのに。
 『シン様』
 重なる声、100年経つ今も色あせず脳裏に浮かぶ、一目で心奪われた笑顔だけが何故同じ?

 アデリアは本当の人間ではなかったから、成長は人の倍以上遅いし、人の二十歳前後で見た目が止まるとデルナールに聞かされ、シンは不老長寿の薬を飲み始めた。出会った頃は子供で、向けてくれた無邪気な好意も、歳を経て人の言葉を覚え、一人前の女性に近づくにつれ性質が変わっていった。愛していると告げられた日の事は今でも色鮮やかに残っている。

 「シン?」
 その日はとても綺麗な満月の夜だった。キラキラ踊る金の光が彼女の髪に反射して、金粉を散らしたように輝く。濃い紫の瞳はランプの光で宝石のように踊る。大人に近づいた少女の持つ危ういアンバランスさと、端正な顔立ちが絶妙な効果を生み出すが、彼女は自分の容姿にとんと無頓着で、いつも飾り気のない格好だった。けれど、その日は白いドレスを着ていた。夏の可愛い服が欲しいとせがまれて先月買ったばかりの、胸元にフリルとレースをあしらったノースリーブのドレスだ。

 「何、アデリア」
 シンはその時、満月草から「月の涙」と呼ばれる抽出液を取り出しているところだった。これを更に精製して満月草オイルを取ったり、この液自体を調合して気鬱の病に使ったりする。媚薬や催淫薬にも使うが彼はその手の薬を作る気がなかった。
 「わー、綺麗な色。お日様の光みたい」
 月の涙は光を含むと例えようもなく美しい金色に発光する。魔物―――バフォメットの娘である彼女だが、思考はヒトとそれほど違わないから美的感覚も似たようなもので、宝石やきらきらするものが好きだったし、そういうものに敏感でもあった。
 抽出に忙しいシンは、彼女の言葉に問い返す暇もなくせっせと手を動かしていたので、アデリアは愛らしい眉をひそめる。
 「忙しい?」
 「・・・・・・いや、もう少しで終わるよ」
 「じゃあ、待ってるの」
 と、ベッドに腰掛けたのでシンは作業を続行。30分ほどで抽出作業は終わり、彼が後片付けを終えて振り返るとアデリアは横になってまどろんでいた。
 (あら、待たせすぎたか)
 目を閉じたアデリアもそれは可愛くて、しばらく寝顔を堪能した後、2階の彼女のベッドへ運ぶのに抱き上げた。その際、脇に入れた指の先が何やら柔らかいが、努めて気にしないようにする。そおっとベッドに寝かせ、上掛けを掛けてやろうとすると、急に抱きしめられてバランスを崩し、シンは彼女の上に倒れこんでしまった。
 アデリアは比較的無邪気な娘だったから、抱きつかれたことも抱きしめられたことも数え切れないし、それなりに慣れてはいる。でもそれは昼間だったし、ベッドで抱きしめられるなんてもっとずっと幼かった頃しかない。
 そう。
 女らしい成長が始まった10年前から、こんな事はなかったのだ。
 正直な話、シンは女性経験がある。まだ人の世界で暮らしていた頃、ギルドメンバーで遊郭に良く通っていた奴が何度か連れて行ってくれたことがあったから。でもそれはあくまで遊びだったし、相思相愛の仲の女性と事に及んだことはなかった。むしろそういう女性があちらにいる間に現れなかったから、今ここにいる。
 体の下が柔らかい。後頭部の辺りに、思っていたよりも豊かな弾力が伝わる。甘く脳髄が痺れるような香りが立ち上り、一瞬理性が吹っ飛び掛けた。
 「あ・・・・・・あでりあ?」
 彼女の呼吸と自分のだんだん荒くなってくる呼吸が響く中で、理性の壊れ掛ける勢いが加速する。かろうじて何とか、気力と忍耐と根性を総動員して体を離そうと試みる。動きたくない、このままでいたいと叫ぶ本能と戦う。大好きな人の体が、これほど気持ちが良いものだとは思ってもいなかった。
 「シン」
 結果的にアデリアの胸の辺りでもぞもぞするだけになってしまい、名を呼ばれて彼はびくっと固まる。
 「くすぐったいよぅ」
 身をよじるからなお興奮するわけだが、怒っていない声だったので安心して、何とか頭を引き剥がす。
 「ごめん」
 肘で体を支え、顔をあわせるのが照れくさくて視線を逸らす。
 「離れちゃうの?」
 「え・・・・・・?」
 思わず顔を見れば、面白がっているような瞳と、ほんのりと上気した頬。少し視線を落とせば、ちょっと胸元が緩んで白い肌が覗いているのが目に入る。しかもベッドの上。アデリアの腕が、自分の首に掛かっている。

 このシチュエーションは、まずい。非常にまずい。今更だけどまずい。

 事ここに至って漸くシンの中で警鐘が鳴った。これは、まずい。何がまずいって、アデリアの意向無視で襲い掛かりそうな自分がまずい。
 「・・・・・・アデリア」
 搾り出す声が掠れる。裏返りそうになるのを抑えたら余りちゃんと喋れない。
 「なあに?」
 「腕、離して?」
 思った以上に自分の声がそっけなく響き、内心酷く焦る。(本当はこのまま抱きしめたいんだってば!)
 しばらく沈黙が続いた。目線をあわせるのが怖くて、シンは視線をさまよわせる。視線を落とすと胸の膨らみが目に入ってしまい心臓に悪いし、目があってその目が軽蔑に染まっていたりした日にゃ3年単位で落ち込む自信がある。その沈黙が痛く感じられてきた頃、ようやく返答が耳に届く。
 「イヤ」
 「イヤって」
 予想外の答えに思わず目を上げると、濡れたように潤んだ瞳が飛び込んでくる。『泣かれる』という分岐はシンの中にない選択肢だったので一挙にパニックへ叩き落とされた。
 「え!?え、え、えっとなんで?まって?お、落ち着いて?あ、イヤ触られたのイヤだった?ごめん、俺」
 「・・・・・・シンが落ち着いて?」
 苦笑するアデリア。ごもっともで、とシンも苦笑いを浮かべる。よくよく見ると『泣いている』というよりは『興奮で』潤んでいるような感じの瞳。一応本職は医者の癖に、こうなると形無しだ。
 「触られるの、イヤじゃないわ」
 ごくりとシンは喉を鳴らしてしまい、頬に血が上るのを意識する。アデリアが微笑む。
 「・・・・・・もっと、して?」
 抑えていたものが一瞬で全て弾け飛びそうになるのを、奇跡的な努力で耐える。壊したくなかった。彼女を、そして自分も。
 「いいの?」
 「・・・・・・いいの」

 ふわりと指を踊らせる。真綿より柔らかく思える膨らみをなぞり、極上の感触に酔う。指に金髪を絡め、顔を寄せる。紫暗の瞳に溺れたくなる。

 「アデリア、この先に進むと、流石の僕も止められないよ?」
 吐息と共に声が零れる。
 「いいよ」
 「本当に?」
 ここで嫌だなんていわれるのは死んでも嫌だと思いながら3つ呼吸を数えた。うっすら濡れた桜の唇が、甘やかに呪文を紡ぐ。
 「いいの、シンだから」
 言外の意味に心踊った。眩しい幸せの波が打ち寄せ、しぶきを上げる。
 「・・・・・・」
 「なに?」
 物問いたげな瞳に躊躇いを秘め、ぎゅうっと体に回されたアデリアの腕に力が篭る。そっと頭を撫で抱きしめれば、肩に顔をうずめてくる。
 「・・・・・・してる?」
 ちいさな、ちいさな声での問いかけは、くぐもっているにも関わらず妙に鮮明で。ちらりと見える形の良い耳は桜色に染まっている。シンはそこに唇を沿わせ、そっと、ずいぶん前から抱いていた大切な秘密を、真っ白な快感と共に吹き込んだ。

 「愛してるよ」

 どこもかしこも柔らかく温かに溶けてゆく。

 

 多分、この世でこれ以上にやわらかなものは、きっとない―――

 ふと我に返り、デルナールが困った顔で自分を見ているのに気づく。
 「あ、すいません・・・・・・考え事しちゃって、お客さんの前なのに」
 「いや」
 シンがあわてて頭を下げると彼は頭を振り、苦笑する。
 「顔、洗ってきた方がいい」
 驚いて頬を拭うと、狼狽するほどの涙で濡れていた。アルシアが心配そうにタオルを手渡してくる。たった今思い描いていた顔と同じなのに、中身は別人と言うのが耐えられず、彼女は悪くないのに邪険にしてしまう。

 だからシンは、彼女が苦しそうな顔をするのに、気づかなかった。

 アルシアが21歳の誕生日(シロンが連れてきた日を誕生日にした)を迎えた日、シンは彼女の前に一本のフラスコを置いた。ろうそくの光に透けて葡萄酒の色をした、水の質感を持つ液体がそこに収まっている。前夜さんざん悩んで貫徹してしまったため、シンの目元にはうっすらと青い影がある。
 「・・・・・・これは?」
 「不老長寿の薬」
 彼女が息を飲むのを見て、シンは少し笑う。
 「これを飲めば、君は歳を取らなくなるし、死ぬのも先に伸びる。大怪我をすれば別だけどね」
 物問いたげに見つめてくる紫の瞳が、昔を思い起こさせて胸が痛い。
 「俺と共に時を止めて生きる事を選ぶなら、飲むといい。味は葡萄ジュースのようなもんだ」
 そっとアルシアは白い指でフラスコをなぞる。余り大きくないそれを持ち上げ、光を湛えるその色が、自分の瞳と同じ色だということに親近感を覚えた。自分が拾われた頃から、シンが少しも見た目が変わらないことに不思議を感じてはいたけれど、その理由を漸く知る。

 シンが、自嘲気味に呟いた。
 「僕は毎年この日に飲んでいた。ずっと。・・・・・・もう150年近くになる」
 「ひゃく・・・・・・」
 驚いてアルシアは顔を上げる。そんなに歳を取っていたなんて。シンの目が遠くを見るように茫洋となる。
 「待っている人がいるんだ」
 おそらくもう、この世で会う事は無い彼女を。自分の同族に殺された、愛する魔性の娘が幻のように浮かんで消える。
 「飲む飲まないは任せる。でも、飲まないならここにいるより、人の世界に行った方が良い」
 しばしの沈黙の後、アルシアは口を開いた。責めるような口調で。
 「私はもう、あなたの傍にいないと生きていけません。見た目はどんなに人でも私は人じゃないから。それに・・・・・・」
 言い澱み、思いきる。
 「約束しました。死ぬまであなたの手伝いをすると、6年前の今日。どうか、傍に置いて下さい・・・・・・お嫌ですか?」
 それは彼女にとって、ほんの少しだけ本音の混ざった願いだった。けれど気づかないシンは苦笑するのみ。
 「うん、正直言って嫌だ」
 「!」
 アルシアは目を見開く。ゆっくりと首を振り、力なくシンは言葉を吐き出した。
 「誤解しないで、君が嫌なんじゃない・・・・・・君が、僕の待ってる人に似すぎていて、辛いんだ」

 胸が痛い。
 逢いたい・・・・・・

 あまりにも似すぎているのに、『彼女』とは違うアルシア。神は何と残酷な魔法を使うのか―――
 目が潤むのをこらえ切れなくなり、アルシアを一人残してシンは出ていった。扉が閉まる直前、小さく彼が呟くのが聞こえ、それは彼女の心を貫くには十分過ぎる言葉。

 (最初から、飲ませていれば良かった)

 どんなに似ていても
 君は、僕の愛した彼女じゃない

 「おや」
 翌日、彼女は北の森の最深部に居た。そこは岩で出来た洞窟で、デルナール一家が暮らす家でもあった。入口に下げてある、木の実を束にして作った呼び鈴を振ると、デルナールが出てきて目を丸くする。
 「・・・・・・こんにちは」
 表情の硬いアルシアを見て、デルナールは彼女を奥の部屋に迎え入れた。5分ほどで元は子バフォと思われる小さな子供が、氷を浮かべたミルクを持ってやってくる。
 夏の暑い日だったので、冷たいミルクが喉に心地よい。喉越しを楽しみながらふと、横の壁を見上げて、アルシアは瞬間呼吸が止まる。そこにはまるで自分かと思うほど良く似た娘の絵があった。
 「この人は・・・・・・?」
 来た時の顔つきと、その問いかけ方でデルナールは全てを察した。僅かに逡巡したが、結局真実を話すことにする。
 「ああ、・・・・・・アデリアと言う。描いたのは、シンだ。何でも出来る男でな」
 美しい金髪に、濃い紫色の瞳。にっこりと微笑む顔は誰しもを魅了する愛らしさに溢れている。デルナールは静かに語り始める。
 「150年ほど前、私は森の中でシンを捕まえた。このアデリアは亡き128番目の妻に良く似ていてな、失うのが惜しくて、医者を探していたんだ」
 バフォメットは一夫多妻である。
 「当時のシンは駆け出しだと言っていたが、腕の良い医者だった。アデリアを見事に治してしまった。何が欲しい?と聞いたら、返ってきた言葉は、アデリアが欲しいと言う言葉だった」
 アデリアも、自分を助けてくれた若者に良く懐いた。シンは独学で不老長寿の薬を作り、歳を取らないアデリアとともに、人の世界を捨てて生きる事を決意する。50年ほどは幸せに暮らすことが出来たが・・・・・・
 「ある日、人間の大討伐隊がこの森に攻め込んで来てな・・・・・・15人ほどが、今シンが住んでいる家の前までたどり着いてしまった。シンはもともと戦闘には疎い方でな。必死で戦ったのだが、私が辿り着いた時にはシンは死に掛けていた。アデリアはシンを庇って死んだ」
 「・・・・・・」
 「それからシンは待っている。ずっと、アデリアが戻る日を・・・・・・いつか生まれ変わりまた会える日を」
 聞き終わったアルシアの瞳は濡れていた。
 「多分だが・・・・・・、シンはおそらくあんたがアデリアの生まれ変わりだと思っている、と思う。少なくとも私には、あんたがアデリアの生まれ変わりに見える」
 アルシアはやはり、と思う。そう思うだけ絵は似ていたし、シンの口ぶりからも十分予測がつく。
 「私・・・・・・」
 「ただ、アデリアはもっと奔放な性格だったからな。見た目はそっくりでも中身が全く違うんだ。だから認めたくない」
 「私は」
 「ちょっと違うな。シンは、恐れているんだ」
 恐れ?アルシアは驚き、そして胸が痛む。それでは自分は、存在だけでシンを苦しめているのか。
 「・・・・・・私に、ですか?」
 「いや、姿に惑わされて愛するのを、恐れているのだと、思う」
 失礼な話だよな、とデルナールは苦笑いを浮かべる。
 「ああいうクソ真面目なタイプは、生涯愛を捧げるのはただ一人と思いこむんだ。私のように200人も妻を作れば良い物を」
 それはどうだろう、というツッコミをアルシアは何とか抑える。
 「というのは冗談だが・・・・・・見ていて、痛々しいのは確かだな」

 アデリアが死んだのは100年程前の、丁度アルシアがシロンに乗せられてシンの元に来た日だと聞かされ、余計に複雑な気持ちを抱えてデルナールのところを辞去した。まだ日も高かったのでふらふらと森の中を彷徨う。それなりに幼い頃は駆け回って遊んだから、人間にとっては迷いの森でも彼女にとっては庭のようなもの。お気に入りの泉まで来て腰を降ろす。

 感謝の気持ちが愛情に変わるのはそう難しい事ではない。結構前からアルシアはシンが好きだったから、シンが誰か違う人に思いを寄せている事に、うすうす感づいてはいた。でもそれが、自分と瓜二つと言っても良いような人だというのは予想外で、中身が違うせいでシンを苦しめていると言う事がひたすらに辛い。
 『あんたが苦しむ事はない。似ているから辛いなんて、奴のわがままだからな』
 デルナールはそう言って慰めてはくれたが、それでも。
 シンはこの6年、自分をどう言う目で見つめてきたのだろう。先日突然仕事中に泣き出したシン。アルシアはシンが泣くのをその時初めて見た。でもアデリアと言う、シンが愛した女性はもう100年も前に亡くなっているのだ・・・・・・

 夕方戻ると、シンが一人であのフラスコの液体を飲んでいる光景が目に入った。おそらく昨日飲み忘れたのだろうが、見ようによっては毒薬に見えなくも無いそれに、どきりとする。自室には貰ったフラスコがまだ置いてあった。
 アデリアは大体今のアルシアくらいまでで成長が止まったとデルナールは言っていたから、今飲めば自分はアデリアと同じ姿のまま時を止める事になる。わざわざ6年もシンは薬を飲ませるのを黙っていた。何故だろう?
 「シン様」
 いきなり声を掛けた物だから、シンはフラスコの中身を危うく噴出しかけた。
 「わ!・・・・・・アルシア」
 「どうして、6年も私にそれを飲ませなかったんですか?」
 じっとアルシアを見つめて、たっぷり沈黙を含んだ後、小さく溜息を付いてシンは苦笑いを浮かべる。
 「・・・・・・・言っておくけど、育った君がアデリアにそっくりになるとは予想してなかったからね」
 息を飲むアルシアをみて、シンは自嘲気味に笑って、下を向く。
 「やっぱり。・・・・・・これは、一度飲むと効果が10年は続くんだ。だから小さいうちに飲んで、やっぱり大きくなりたいと思っても10年待たなきゃいけない。育たないままで時を止めることの重要さを知る歳になるまではやめておこうと思ったのさ。・・・・・・結果的に、アデリアとそっくりになってしまっただけだよ」
 「そんなに、似てますか?」
 「ああ。性格がもっと明るければそっくりだったと思う。でももう100年も立つからね・・・・・・流石に記憶も風化して来てる」
 アルシアが音も立てず傍に寄ったので、シンは顔を上げた時至近距離に顔があって驚いた。
 「アルシア?」
 「愛する、ってどんな気持ちがするんですか?」
 「・・・・・・アルシア?」
 「私、ずっと考えていたんです。シン様に撫でてもらうのは嬉しい。セバスチャンに褒められると嬉しい。でもそれが愛だったら、シン様は今こんなに苦しんでいないでしょう?」
 シンは答えに詰まる。
 「教えて下さい・・・・・・何でもお手伝いをするって言いました。今シン様が苦しんでいるなら、助けて上げたいです。シン様は、愛が欲しいんですよね?」
 「そんな簡単な物じゃないよ」
 「知りたいです、愛すると言う気持ちを・・・・・・」
 「アデリアと同じ顔でそんな事を言わないでくれ」
 「顔は同じでも中身は違います」
 「知ってるから余計に辛いんだ」
 遠ざけようとするシンに、アルシアは更に迫った。
 「逃げないで下さい・・・・・・私は別に、アデリアさんになりたいわけじゃない」
 「頼むから、寄るな」
 目に涙が溜まり、零れ落ちる。拭うことも忘れて言い募る。
 「お願い・・・・・・私を見て、アデリアじゃなくて、アルシアを見て・・・・・・私は・・・・・・」

 そこまで言って、アルシアは唐突に黙りこんだ。今自分は、何て言おうとした?
 「愛して欲しいのか?アルシア」
 ふいに真剣な顔で見つめてくるシン。突然の問いに戸惑う。違う、そう言いたかったんじゃない。
 「・・・・・・ごめんなさい」
 余りにも酷いと思ったが、アルシアは身を翻して自室に掛け戻った。どんっと壁を殴る音が聞こえて、胸が痛かった。でも。
 それ以上に、自分が言いかけた言葉が怖かった。

 ―――ワタシハ、モドッテキタノヨ

 (私は、誰?)

 その夜、二人とも一睡もしなかった。シンは勢いに任せて溜まっていたハーブをポーションへと精製しまくり、乾燥した草の甘くて香ばしい香りがずっと家中を漂っていた。
 アルシアも、灯りを消して息も殺していたがずっと起きていた。胸が痛すぎて眠れないと言うのは彼女の人生で初めての事。
 『私は戻ってきたのよ』
 そう口に出しかけた自分が怖くて、眠れなかった。自分はアデリアじゃない。アデリアの記憶なんて持ってない。アデリアだった頃なんて、知らないのに。
 一瞬見せた真剣なシンの顔。その真剣さが胸を射抜く。普段の穏やかな好青年の顔じゃない、一人の男の顔。デルナールの話、絵で見たアデリアの顔。葡萄酒色のフラスコ、毎日の仕事、拾われた日、育ててくれた日々―――
 いろんな物がごちゃまぜに頭の中を回る。次々に浮かんでは消える日々の喜怒哀楽。春が来て夏が来て秋を迎え冬を越え、巡る歳月を一晩で旅し、朝日が窓から差し込む頃彼女は、ヒトと同じものになっていた。

 愛すると言う気持ちを自ずと学んだのだ。それは先人が遂に成し遂げられなかった事なのだと、彼女は知らなかったけれど。

 空が青い。良い天気だ。翌日、掃除の合間に、アルシアは泉に写る自分の顔を見る。デルナールの部屋にあった肖像画と違う点を探すのが難しいほどに似た顔。シンの悲しそうな顔がよぎって、胸が痛む。

 ―――どんなに似ていても
 ―――君は僕の愛した彼女じゃない

 涙がこぼれそうになる。
 愛すると言う事が、こんなに痛いことだったなんてとアルシアは苦笑する。しかも一方通行の愛情だ。シンが見ているのはアデリアであってアルシアではない。
 どんなに良く似ていても、自分では、ない。しかも自分は、シンと同じ人間ですらない。切れば白い血のでる、ただの人造人間。やはりあの薬は破棄して、人の世界に降りようかと思い始めている。傍にいて彼を苦しめるくらいなら身を引いてしまおうと。
 (それとも、あのおじいさんのところに行って実験材料にしてもらおうかしら?)
 もともと妙薬として肉を切り取られていた自分だから、多分材料にしてもらえるだろう・・・・・・と、思う。でも。・・・・・・でも・・・・・・

 シュッ

 物思いに真剣すぎたせいで、風切る矢羽の音に気づかなかったアルシアの胸を、次の瞬間背後から鋭く何かが射ぬいた。
 (え・・・・・・)
 驚いて胸を見ると、左胸に鈍い銀色の、ところどころに白がついた細い物が付き出ている。
 「見つけたぞ、化け物の巣だ!」
 (あ・・・・・・痛・・・・・・い)
 ゆっくりと鋭い痛みが全身を覆ってゆく。視界が暗くなる。
 (・・・・・・これで、良かったのかな)
 闇に意識が溶けてゆく中、不思議な安堵を覚えた。アデリアとアルシアの境目で悩むことも、シンの表情一つに胸が痛むことも、自分の存在でシンを苦しめる事ももう無いだろう。
 (ああ・・・・・・でも)
 ―――シン様、少しは悲しんでくれるといいな・・・・・・

 「アルシアーーーーっ!!」
 遠くから叫び声が聞こえる。何か鈍い痛みと共に全身が濡れるのを感じた。
 「居たぞバケモノのボスだ!」
 「・・・・・・だから俺は、人間が嫌いなんだ・・・・・・自分と違うと言うだけで簡単に命を奪う人間の方が!!」
 「死ねぇっ」
 また矢羽の音がする。
 (ダメ・・・・・・シン様!!)
 激痛が胸を中心に走るのをこらえて目を開ける。

 シンを中心に、うねうねと動くジオグラファーが何本も生え、その一本が矢羽を見事からめとっている。
 「なっ・・・・・・」
 「・・・・・・俺達が何をした?お前達を殺したか?自分達の人を羨む心が跳ね返ってきている事に、何故気づかない?」
 その顔は、これまでアルシアが見た事もないほど厳しく・・・・・・というよりは歪んでいた。

 「う・・・・・・うわぁぁぁ」
 ハンターはまだ掛けだしなのだろう。その気迫に押されて、シンに向かって矢継ぎ早に矢を打ち、ジオグラファーが全てを絡めとる。が、一本がシンをかすめた。少し日に焼けた頬に、一筋赤い物が伝う。
 「もう沢山だ・・・・・・俺はもう、誰も失いたくない。だから戦う、覚悟しろ」
 言葉を言い切る前に、シンはフラスコを片手でつかめるだけ掴んでハンターの方に放り投げる。恐慌状態に陥ったハンターが矢継ぎ早にそれを射抜く、が―――
 一瞬でハンターは炎の柱に包まれる。逃げ場がなくなった上、一気に燃え上がる炎で酸欠状態に陥ったのか、がくっと膝を付く彼に、シンは容赦しなかった。
 「・・・・・・」
 憎しみにゆがんだ顔で、マインボトルを投げつけようとする。が、ふとその視線が遠くに飛ぶ。そこには蒼白になってへたりこんだ女司祭がいた。その顔は、遠い記憶を呼び起こす顔。
 「・・・・・・レン?」
 呼ぶ声にびくっと彼女が反応する。
 「・・・・・・レン、っていう司祭、あんたの家系にいないか?」
 紙よりも白い顔をした司祭の顔に、少し紅が差した。
 「あ・・・・・・なたは・・・・・『シン』ですか?」
 シンは、小さく息を吐いてマインボトルを掴んだ手を下げた。
 「連れて帰れ、二度と来るな・・・・・・ここの事を誰かに話したら、今度こそ容赦しない」
 レンに免じて許してやる、と言われ、がくがくと膝を震わせながら彼女は立ち上がり、ハンターの傍によろめきながら立って、移送魔法陣を出した。ハンターを引きずってから、彼女も入ろうとして少し足を止める。
 「・・・・・・伝説のお医者様の話、祖父から聞いていました・・・・・・けっして言いません、お元気で」
 ふわりと、姿が消える。

 移送魔法陣の吹き上がる飛沫が消えるのも確認せず、シンはアルシアに駆け寄った。
 「アルシア、しっかり」
 けれどもう、アルシアの瞳は、硝子玉のように茫洋としているだけ。
 「アルシア、嘘だろう?」
 揺さぶっても、人形のように揺れるだけ。
 「アルシア・・・・・・アルシア!!」

 慟哭の叫びが、深い森の中に吸いこまれてゆく。

 今、アルシアは6年前と同じ、細胞超活性化培養液のポットに沈んでいる。半狂乱になって移送魔法陣を使ったシンは、アルケミスト評議会の、ペトリカス翁の部屋の度真ん中に出現して翁をぎっくり腰にするほど驚かせたが、本来なら使えないスキルを使ったせいで倒れ、そのまま3日寝込む派目になった。
 彼女は、人間ならとうに事切れているところだったが、とっさにシンが投げつけた白ポーションと、本来ホムンクルスであるがゆえの自己再生能力の高さで、ぎりぎりのところで踏みとどまれたのだ。
 とはいうものの、機能停止時間が長かったので、目を覚ますかどうかは微妙なラインだというのがペトリカス翁の診断である。

 前とは違う、今度は淡い葡萄酒色の培養液に漬かるアルシアは、つくりものめいて生気が無い。

 (死ぬより、なお悪い)
 ポットの前に一人佇み、シンは自嘲する。かつて愛した娘と似すぎているアルシアだけに、なおさら自己嫌悪が募る。
 「愛する事は、辛いことだ・・・・・・」
 一目見て恋に落ちたアデリア。人の世界に戻れなくても、二度と仲間に会えなくてもかまわないと思うほど愛した。が、無力な自分のためにアデリアは死んで・・・・・・そして100年。今度は守る事が出来たが彼女は目を覚まさない。
 「いっそ愛さなければ良いのに」

 ―――俺も、阿呆だ

 シンはぱったりと不老長寿の薬を飲まなくなった。相変わらず目を覚まさないアルシアを週1で見舞いながら医者とバーテン業に精を出す。デルナールとセバスチャンが、次から次へと綺麗どころをあてがってみたが効果はなく13年が過ぎた。
 22歳で歳が止まっていたシンはほっそりとした体つきだったのが、少し男らしい体つきに変わり、ちょっとだけ背が伸びた。泉の脇を菜園にして自家製サラダを出すようになったものだから日に焼けて、ますます研究者らしくなくなった。
 14年目に気が変わり、再び不老長寿の薬を飲み始めた。飛ぶように過ぎていく時の中で、酒場とシンだけが変わらない。
 セバスチャンは3代目になった。今度のセバスチャンは、オークウォリアーの割りにほっそりとしていて、なかなか(種族の中では)男前らしく、酒場に女性客が増えた。200年記念に大きく改築された酒場は広く、そして住み心地の良いままにゆったりとした空間を提供している。
 最近では一部のアルケミストも出入りするようになったが、モンスターとは仲良くやっているので変わらない風景だった。ペトリカス翁も相変わらずで、月に一回くらいシンのカクテルする薬草を付けたジン・トニックを飲みに来る。

 250年が過ぎ300年が過ぎる。生きすぎたかなと思うけれど、こうなるともう惰性が働く。今更死ぬと言う事が考えられなくなる。
 死ねば、会えるのに。
 そう思っても、死ぬのが怖かった。この世でまた会える奇跡をただひたすらに待ち続ける。見るに見かねたデルナールが、アデリアと良く似たサッキュバスを連れてきてみたが、淫魔の妙技にシンは全く反応せず、彼女のプライドを痛く傷つけた。
 500年も薬師をやっていると、調合の腕は神技と呼ばれるほど磨かれてゆき、もともと独学で始めた不老長寿の薬も今では文献として保管されるほど完璧なレシピができてしまった。年に一度その葡萄酒色をした液体を飲み下すたび、自問する。長く、見た目も変わらず生き続けることが何になるのかと・・・・・・。

 700年が過ぎた。ペトリカス翁はまだ元気に研究を続けており、長生き仲間として親交も深い。
 ある日彼が一人の少女を伴ってきた。肌は抜けるように・・・・・・と言うより病人のように白い。色あせた金髪と表現することが適当な頭髪は、ぺたんとしてはりがなく、肩から下がる。体は華奢と言うよりがりがりだ。瞳は大きいがそれだけで、白っぽい青。
 「・・・・・・翁?」
 「アルシアじゃ。覚えておらんのか?」
 シンは最近見舞いをさぼり気味だった自分に気付き、ばつが悪くなって俯く。
 「流石に700年も眠っておったからな、だいぶ弱ってはいるが、3ヶ月ほど養生すれば少しは元気になるじゃろ」
 軽く言ってのけ、彼女を置いて翁は帰ってゆく。言外に責められているような気がして、シンは彼女に近寄った。
 「・・・・・・アルシア?」
 アデリアとも、記憶の中のアルシアとも違う。最初に会ったアルシアよりもなおやつれた彼女は、酷く子供っぽく見えた。
 「・・・・・・ただいま、って言っても良いですか?」
 怯えた瞳で問いかけられ、シンは苦笑して頭をなでた。
 「もちろんだよ、お帰り・・・・・・」
 似ても似つかないはずなのに、にこりと笑う笑顔がアデリアの顔と溶ける。

 3ヶ月ほど立つと、ぺたんとした髪にも少しコシが出始め、病人より白い肌に赤みが差しはじめた。がりがりに痩せた体にもいくばくか肉が付き、目ばかり目だっていた顔も僅かながらふっくらとしてくる。
 が、もう戻らないだろうと思われるものがあった。あの深く吸いこまれるような紫色ではなく、最初に彼女と会った頃のような、春空色の瞳。
 目だけでずいぶん印象がかわるもので、不思議と今の彼女はアデリアに見えなかった。顔の造作自体は良く似ているのに、わからないものである。
 半年たち、ようやく酒場の看板娘として復活を遂げられることになった。出る日の前夜、シンは今までアルシアが入った事の無い―――と言うよりは常に鍵が掛かった開かずの間だった―――の鍵を開け、彼女を招き入れた。燭台に火を灯す。

 そこは女の部屋だった。壁紙はクリーム色に小さなピンクの小花模様。燭台は銀づくり。床には綺麗な織り模様のはいった絨毯が敷かれ、ベッドは天蓋付き。ピンクビロードをレースで3重に縁取ったベッドカバーが掛けられており、寝心地が良さそうだ。入口には銀の絵の具で、部屋の時を止めてしまう複雑な紋様が描かれている。今は開け放っているから効果がないが。
 「ここは?」
 アルシアはわかっていて聞いたが、案の定「アデリアの部屋」という答えが返ってくる。シンはそっと彼女の手を取り、ベッドに座らせた。ふと、サイドテーブルに伏せた小さな額縁があるのが目に止まる。視線を追ってシンもそれを見つけ、苦笑して手に取り、見せてやる。

 それは絵では無く、銀塩写真だった。蜂蜜色の髪に、真珠の光沢を持った肌、そして吸いこまれそうな紫紺の瞳の非常に美しい女性。
 「アデリア=イシュナル。・・・・・・デルナールの娘で、僕の最初のお嫁さんだった」
 「結婚してらしたんですか?」
 「知り合いに司祭がいたんでね。ここまで呼んで式を挙げさせてもらったんだ」
 夢見るように笑んでいた顔が、ふっと寂しげに曇る。
 「その一週間後、アデリアは死んだ」
 アルシアは息を飲む。
 「・・・・・・デルナールから聞いてると思うけど、人間が攻め込んできたんだ。僕は当時アルケミストの培養学の方は疎くてね。身を守る術は、人の世界を離れる時に知り合いがくれた、サーベル一本だけだったんだ」
 が、もともと剣技が達者でないシンだったから、あっという間に切り伏せられた。
 「たまたまその時アデリアは、森に野苺を摘みに行ってたんだ。運悪く戻ってきてしまって、奴らに囲まれた。元の姿に戻って必死で戦いつつデルナールも呼んだけれど、間に合わなくて、相打ちだった」
 僕は、デルナールに担がれてジュノーのアルケミスト協議会に運び込まれ、何とか命をとりとめる事が出来たけれど、と、自嘲気味に言葉を続ける。
 「アデリアは相打ちになる瞬間首を刎ね切られてね・・・・・・再生は無理だった。遺体の損傷が酷すぎて、僕は最後に見る事を許されなかったんだ」
 式を挙げた司祭が、連絡を受けてすっ飛んでくる。事情を聞いて涙枯れるほど泣いた彼は、そのあとすぐ自殺してしまった。彼の地位を妬んだ者が後を付けて、シンの居場所と一緒にいる娘が何者なのかを知り、血気盛んな冒険者に密告したのだという事実がわかったのは、司祭の死後3ヶ月してだった。
 「これは式の前の日に撮ったもので、写真はこれ一枚しかない。デルナールの部屋にあるのは、アデリアが死んで一年たった日に思い出しながら描いたものだから、正確に言えばアデリアに"似せて"描いた僕の偶像かも知れない」
 アルシアは、写真より絵に似ていた。その事を言われてシンは笑う。
 「アデリアが死んだ歳に近づくにつれて、君を見てどきっとするようになった。記憶の中のアデリアとあまりに似てきていたからね」

 そんなシンは、アルシアが21歳を迎える前の日こっそりとこの部屋に入り、アデリアが死んで以来一度も見ていなかった写真を見て愕然とする。
 『思っていたほどには、アデリアとアルシアは似ていない』という事実。
 そして、"アデリア似のアルシア"ではなく、アルシアこそが自分の理想像だったのだと知り―――
 「3日後、今度は君だ」

 以来700年、彼は待ち続けた。気の遠くなるような年月の中、ただ一人の相手との、巡り合いの奇跡を。

 ぎゅうっと抱き付いてくるアルシアを抱きしめて、シンは呟く。
 「ずっと、思っていた。僕も一緒に逝けたら良いのにと。永遠の命があっても、こちらにいる限り愛した彼女とは会えないから。・・・・・・でも、一人で死ぬのは怖かった。誰にも看取られず、一人寂しくこの小屋で、思い出の沢山詰まったこの家で死ぬのだけは嫌だった」
 毒薬を作ったことも、飲み干そうとしたことも数え切れない。だがその度に手は震え、命あるものの本能が勝ってきた。
 そして今念願は成就される。腕の中の温かな体、自分の中に脈打つ熱い想いが証。

 「逝かないでくれて良かったです」

 ふんわりとした笑顔に、歳を取るのも悪くないかなと呟くシンを見て、アルシアは笑う。
 その笑顔こそが宝物だと、生きていて良かったと彼はしみじみ思った。
 「共に歳を取ろう、そしていつか僕の愛した彼女に、一緒に会いに行こう」
 「はい!」

 ―――今度こそ、僕は迷わないから・・・・・・

 そして北の森に伝説の医者はいなくなった。
 だが、人々は伝え続ける。楽師は歌い語り継ぐ。
 彼の人の調薬の技を、医術の心得を。

 ただ一人の人を愛し続けるその情熱を。


書く度に自己記録を更新しているような気がします。今回は56枚です。
長い作品を読んでくださってありがとうございました。お疲れ様でした。

今回、テーマが酒場の癖に酒場は小道具的にしか出てきてません。
何を書きたかったのかと言われると非常に厳しいものがある作品です。

極力不自然な事のないよう、つじつまを合わせたつもりですが
ずれてたら生ぬるく見守ってやって下さい。

なお、ジュノーのアルケミスト協議会および地下研究所は
アルケミストギルドとはまた別の団体という設定をしています。
アルケミストギルドの方は新規入団者および既存入団者における
物資の補助と各種講習会等の支援を行う団体で
アルケミスト協議会の方は研究開発等を専門に行う団体です。

各ファーマシーの書を書いているのがアルケミスト協議会側だと言えば
わかりやすいでしょうか。
2005.01.02 まなか陸