※お題『血』
※本郷りりす(Angel of Death)
モロク・深夜。俺はいつもの「トリプルクリティカル」ではない精錬ジュル――見た目だけは同じ黒い刃だが――を手に、人気のない路地裏を歩いていた。
砂漠の月は、どこか空虚な光を路地裏まで投げかけている。けれど、光のあるところかならず影はあるもの。俺はその影の底から生まれ、闇の中で育った。今の俺の中に残る記憶はすべて、闇の黒と血の紅に彩られている。
『・・・いる』
わだかまる闇の底、一瞬殺気が満ち、すぐ消えた――ターゲット発見。
必死で自分の殺気を封じている気配。ここまでは定石どおり、新米・・・というよりまだ見習暗殺者にしてはよくやっていると誉めてやっていいだろう。
何しろこれが、あいつにとって初めての「実戦」なのだから。
気づいていない振りで、あいつの目の前を何気ない足取りで通り過ぎてやる。片手であっさりと返り討ちにするつもりではいるが、窮鼠猫を噛む、とも言う。油断はするまい。
あいつの双眸が一瞬猫のような蒼い燐光を発したのを、目の端で捉える。そして、剥き出しにされた「ホンモノの」殺気――暗殺者としてはまだまだだ。そんな頭の片隅で、俺は今朝のやり取りを思い出していた――。
「Assassin」―悲願花―
by 本郷りりす
「俺を倒せるぐらいになれるのは、まだまだ先だな」
日課の鍛錬を終え、何気なく俺はそう呟いた。しかし、いつもならその通りと流されるはずの言葉が、今朝は妙に癇に障ったらしい。
「なんなら、試してみますか」
「ぉお?」
精一杯の気負いと、負けん気。それはどちらかといえば表通りを歩く騎士にこそ必要な素質であって、俺たち暗殺者にはむしろ無用の代物だ。暗殺者には不似合いなそれが原因で命を落とす莫迦者は、決して少なくない。
こいつも、そんな莫迦者のひとりなのだろうか。そういう風にならないよう、それなりに気を配ってきたつもりなのだが――しかし、ここまでとんでもないことを言い出すとは思わなかった。
「あたしが負けたら、師匠にそむいた不肖の弟子を殺してください。そのかわり」
「俺が負けるわけないだろう」
負けたら殺せ、ときた。要するに本気ということか。
「そんなの、やってみなきゃ判りません!」
大人しかった子猫が突如として小さな牙と爪を剥き出し、精一杯の威嚇をして見せている。かわいらしくもあるが、そのかわいらしさを甘く見ると手を引っかかれるか噛み付かれるか・・・いずれにせよ、それなりの怪我をすることになるだろう。
今のうちに、きついお仕置きをくれてやるとするか。
「いいだろう。お前が負けたら、生かすも殺すも俺次第でいいんだな?」
「かまいません」
黒い双眸に宿る、ほのかな蒼い燐光。光の加減か見間違い、あるいは、見るものを一瞬にして魅了し支配するという『魔眼』の発露なのかもしれない。
もっともこの燐光が『魔眼』の発露であったとしても、こいつ自身が自分の力に気づいていないので魅了の力など全くないのだが。
「じゃあ、俺が負けたら・・・」
――始めは冗談のつもりだったが、とんでもない方向へ話が転がっていってしまった。成り行きとは言いながら、俺たちは、この勝負に互いの命をかけたのだった。
ひゅん、と風を切る音。
闇にひるがえった銀の刃を、振り向きざまにジュルで受け止める。金属の擦れる嫌な音がして、不利を悟ったのだろう、あいつはバックステップで一旦距離を取った。
唯一の勝ち目であるはずの奇襲に失敗したにもかかわらず、こいつは負けを認めようとはしない。
始めてしまったからには全力を尽くすしかないと、俺は常々教えてきた。力量が違いすぎる場合は速やかに退くことも教えたはずだが、どうもそこのところが頭からすっぽり抜け落ちてしまっているらしい。
体術も肉体的ポテンシャルもまだまだこいつは発展途上だが、こいつにはこいつの素質というか取り得がある。生来の素早さと持って生まれた動体視力のよさ、そして武器を使いこなす器用さだ。
相手の動きを見極め、刃を当てる。唯一そのことだけは一目置いてやってもいいのではないかと思う。
俺たちが使うのは同じ盗賊流の体術。俺の動きのクセ、身のこなしをこいつの目は見逃さない。かわし、受け流していたこいつの攻撃が、少しずつだがかわしきれなくなってきた。
しかし。
「お仕置きだ」
ガキン、と俺のジュルが右のジャマダハルの刃を折り、跳ね飛ばした。ジャマダハルはジュルよりも大型のため、腕と柄を布で巻き、固定して取り扱う。その刃が折れるほどの衝撃が、ただで済むわけがない。
「あぅっ!」
肩の骨まで痺れさせる痛みに、白い顔が歪む。そのまま俺は身体をひねり、鳩尾に肘で容赦なしの一撃を叩き込んだ。
「・・・っく」
がくんと二つ折りになってその場に崩れ落ちた身体を担ぎ上げる。素早さはあるがパワーの足りないその身体はひどく華奢で、軽かった。
途中で意識を取り戻され、暴れられても困る。だらりとぶら下がった両手を後ろに回し、鋼鉄の手錠をかけて動きを封じておく。
「この、莫迦が」
誰にともなく、俺は呟いていた。
――ガチャッ。
意識を取り戻し、反射的に身じろぎしようとした女は、自分の四肢が硬く冷たい金属でいましめられていることに気づいて驚愕の表情を浮かべた。
「・・・気づいたか」
「し・・・師匠、これは」
ラベンダーブルーの髪の男の、冷たい視線。髪よりも蒼く深い色の双眸が、ベッドにくくりつけられた彼女を見下ろしている。
「勝負はお前の負けだ。約束どおり、お前の生命もろとも、俺の好きにすることにする。異存はないな?」
女は一瞬口惜しげに唇を噛んで視線をそらし――ややあって、キッと己の師匠を見返してうなずいた。
「約束、しましたから」
いい覚悟だ、と男は無表情に言葉を返した。
「もしかすると死ぬより悪いかもしれないな」
ぼそりと呟かれた抑揚のない彼の言葉は、女の根源的な恐怖を煽ったらしい。白い顔がさっと青ざめ、手錠でいましめられた小さな両手が無意識にぎゅっと握りしめられる。
「だが、それを決めるのもおまえ自身だ」
嘲るかのように、付け加えられた言葉。そして、彼女のシーフクロースは無慈悲な手が操る刃によって、ずたずたに切り裂かれた。
「この期に及んで舌を噛もうとか歯向かおうとか考えるなよ。これはあくまでもお前が望んだことなんだからな」
駄目押しのような、囁き。そして冷たい指先と熱い唇が、彼女の白い肌の上を滑ってゆく。それはまるで、彼自身の心と身体の温度差の具現のようだった。
「ぁ、あぁあああぁっ!!」
己が身を真っ二つに引き裂く痛みに耐え切れず、女の喉から悲鳴があがった。おびただしい量の純潔のしるしの血があふれ――しかしその心の片隅にある思いは、その痛みとは全く裏腹なもので。
たとえずたずたに蹂躙され、一方的な快楽の道具とされようともそれで構わない・・・ただ、名もなき花のようにひっそりと傍らにあることを許されれば、と。
その夜から――女は、暗殺者としての鍛錬をやめた。自らやめたのではなく、禁じられたのだ。未熟な身で師匠にそむいた愚かな弟子への、それが罰のひとつだった。
そのかわり。夜毎、女は師である男に抱かれる。捧げたのは自らの生命、そして純潔の血。おそらく彼女の身体に飽きたとき、男は自分を殺すだろうと女は予感している。
それでもかまわない。
本来であれば、あの夜に死んでいた自分なのだから。勝てるはずのない師に歯向かったのは、決して届かぬであろう自らの思いの欠片なりとも伝えたいという切ないまでの願いがあったから。
彼は裏社会にその名をとどろかせる稀代の毒術師、その本名は誰も知らない。
しかし、彼のところへはちゃんとギルドを通して依頼が来る。闇にまぎれてカタールを振るい、自ら調合した毒を用いて確実にターゲットの息の根を止める。
ラベンダーブルーの髪にべったりと返り血を浴びたままでねぐらへ戻ることも、決して珍しくはないのだ。
それでも、女は何も言わない。一方的に欲望を叩き付けられるような閨のひとときさえ、彼女にとってそれは大切な大切な時間だった。
ある夜。
本来であればやや蒼みを帯びた紫のはずの男の瞳が、どういう理由でか鮮血の紅に染まって見えた。
「師匠・・・その目」
言いかけて、彼女は口をつぐんだ。そう、今夜ならば――。
その夜、男はいっそうの激しさで女を抱いた。何かに憑かれたように、あるいは何かを忘れようとするかのように。
女は何度も快楽の中で失神し、その度に強引に意識を引き戻されては再び抱かれた。男がようやく彼女を解放したのは、東の地平線の縁が白みかけた頃だった。
「っ?!」
疲弊と憔悴で泥のような深い眠りの中にあってすら、研ぎ澄まされた何かが男の身体を跳ね起きさせた。
闇の中でもそれと判るぬめぬめとした特有の輝きは間違いない、ダマスカス・ブレイドの刃だ。
「ちいっ」
飛んでくる刃をかわし、細い手首をひねりあげる。ぽろりと落ちた刃を反射的に手にとって、彼は襲撃者の身体のど真ん中にそれを突き刺した。
「あ」
熱い返り血が彼の上半身全体に跳ね飛び、つかんでいた女の手首が力を失っていきなりずしりと重量を増す。
その血の熱さ、これで開放されるという思い、ついに彼女の全てを己が所有物にしたという勝利感、異様なまでの昂揚と幸福感――突然、弾けるように彼は笑い出した。それは初めての、彼の心の底からの笑いだった。
夜明けの最初の光が鎧戸の隙間からしのびやかに差し込んだそのとき、かすかな声がした。
「・・・ぁ・・・ぃ・・・・・・し・・・ま、す・・・・・・しょ・・・」
不明瞭なその言葉を聞き返す間もなく、女はこと切れた。つかまれたままになっていた手首が彼の掌から滑り抜け、ベッドに崩れ落ちた身体はすでに、魂の抜け殻にすぎなかった。
彼の哄笑が不意に止んだのは、夜明けの光の中で浮かび上がった彼女の表情を見た瞬間だった――一瞬にして、彼を包み込んでいた異様な昂揚感も幸福感も消え果てた。
青ざめ、血まみれの冷たい骸となった彼女のその死に顔は、しかし誰よりも幸福そうに微笑んでいたのだ。死の苦痛も痛みの痕跡もなく、ただ純粋な幸福感のみを口許に刻んで、彼女は息絶えていたのだった。
「な・・・ぜ・・・なぜ、こんな真似を」
男はようやく声を絞り出したが、無論それに答えるものはもういない。ふと自分の両手を見れば、彼女の血がべっとりと紅くこびりついたままだ。
「莫・・・迦、野郎・・・」
そっと冷たくなった彼女の骸を抱き寄せる。その両目を、熱い何かが塞いでゆく・・・彼は、泣いていたのだった。
Lycoris Radiata:花言葉「かなしい思い出」
彼女の悲願、それは、どこまでも愛するひととともにありたいということ。
血のように紅い花の咲くごく短いその時期、ラベンダーブルーの髪の暗殺者はしばし姿を消すという。紅い花なら慰めを、白い花なら忘却を――。
どちらを自分が望むのか、彼自身にもおそらく判ってはいないのだろう。その時期がめぐってくるごとに、おそらく何度かは自ら死のうとしたのかもしれないが、結局死にきれずにいるのだろうか。
ただひとつ。
もう彼が笑うことは二度となく、誰かのために泣くことも二度とない。
愛したのはただひとり、彼の目の前で、彼の手によって逝った彼女だけ。自らの名と告げた紅い花のような血で全身を装ってこと切れた、彼女だけ。
そう、彼女のあの最期の微笑は今も、彼の心の片隅にひっそりと咲いている・・・。
+α
賛否両論を覚悟の上で、この作品を掲げたいと思います。
暗殺者という、血に呪われた宿命を持つものたちにとっての究極の愛のかたちを描いてみたい、というのが「Assassin」を書き始めた動機でした。「血」というテーマ・暗殺者という存在に内包される「エロス」を感じていただければ幸いです。
2004.05.26 本郷りりす(Angel of Death)