しかし間違いなく船幽霊なのです。
幽霊船ではなく、船幽霊なのだそうだ。
私は無人の操舵室をガラス越しに眺めなおし、再度隣の男に聞いた。
「ええ、確かにスタッフもいないのに航海を続けるこの船を、一般的な文脈に添って形容するなら、幽霊船と呼ぶほうがふさわしいかもしれませんね。しかし間違いなく船幽霊なのです」
確信に満ちた表情に私は口を開くことを諦めた。
操舵室の中には誰もおらず、中に入るための扉すらない。ガラス張りの開放的な雰囲気を漂わせるそこはじつに明るく清潔で、中に入って椅子に座ったならさぞかし気分が良かろうと思われた。
空は雲ひとつないぬけるような青。海もまた南国特有の澄んだ青で、外洋とは思えないほど波はおだやかだ。ぽかぽかとあたたかく、風は塩を含んでやわらかい。その中を進むこの船は、客船なのだろう。大きさはフェリーに毛のはえた程度だが、個室や食堂や遊戯室がそろっている。外装も内装もパイプ一本、ネジのひとつに至るまで真新しく、おとといペンキを塗ったかのように艶やかだ。
振り向けば客用のロビーで、年代も服装も雑多な人々がソファに座っている。ソファはシンプルだが座り心地が良さそうだし、絨毯も落ち着いた色にふさわしく高級なものであるように思われた。しかし客人達は一様にうつむきうなだれ、憂いを通り越した無表情で床を見つめていた。
「降りられないのですか?」
「基本的にそうですね」
私が隣の男にたずねると、彼は小首をかしげた。
「この船は南の海を永遠に旅していますが、例外として月に一度、とある島に3時間ほど停泊します。ほら、あれですよ」
彼が指さす先に島はあった。サンゴ礁に囲まれた孤島で指輪のように美しかったが、私は優雅な海岸線のカーブを崩してつくられた、いやに立派な波止場に興ざめした。
船はしずしずと波止場に腹をつけた。タラップがおろされると、男は波止場の奥に一軒だけあったほったて小屋に入っていった。私も彼のあとをついていくと、なんなく船を降りることができる。これは彼の後をついていったからだろうか、それともこの島でのみ乗客は大地を踏む自由を許されているのか。このまま乗船を拒否すれば、なんとかして私は戻れるのではないか。腕を組んで考え込んでいると、扉の開く音がして彼が出てきた。
「あなた、手が空いているなら手伝ってくださいよ」
驚いて彼を見ると、ほったて小屋の中には大量の物資が積み上げられていた。水や食料といった生活必需品から煙草や酒、本やゲーム盤もあった。言われるままに汗をかきかきダンボールの山を船の倉庫に運び込む。いい運動だった。
最後の荷物を手にタラップを踏む前に、私は立ち止まりさっきまでの考えを彼に伝えてみた。彼はうなづきながら聞いてくれた。
「そうですね。小屋には電話もありますから連絡は取れます。何よりあなたはこの船を降りることが出来た。乗客になるのはまだ早いようです」
「その船は一体なんなのですか」
「この船がどこから来たのか、一体何ものなのか。それは誰も知りません。しかし乗客についてはわかっています。彼らは皆、なんらかの理由で誰からも必要とされなくなった人たちです」
だから船幽霊なのですよと彼は教えてくれた。言われて私は、いまさらながら誰一人ロビーから出てこようとしないことに気づいた。
彼は私の分の荷物もかつぎあげるとタラップをのぼっていった。汽笛が鳴り、船がゆっくりと島を離れていく。南国の太陽は暖かくぽかぽかといい塩梅で、風は塩を含んでやわらかく天国のようだ。澄んだ青のうえを、真新しい客船がなめらかにすべっていく。その後姿が真っ白な点になりやがて消えるまで、私は砂浜に立ったままじっと見ていた。