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キリン。

 
 人魚は工場の裏にある湖で獲れる。
 
 
続き
 
 

 僕の好きな人は僕を好きじゃない。
 そんな当たり前のことがふいにさみしくなって、僕は別れ際に初めて「さよなら」と言った。君は興味なさそうにそうとつぶやいて、いつもどおり手を振って去っていった。
 帰る途中キリンを見つけた。電線に引っかかって苦しそうなキリンが涙目で僕を見ていた。僕はキリンの手を引いてうちに連れて帰ることにした。
 部屋の真ん中にくったりとうずくまるキリンに寄りかかって夕方まで眠った。目が覚めるとキリンは出て行こうとしていた。いつまでもここにいてくれるなら、僕は君に食事を作ることも厭わないのにと思ったけれど、口には出さなかった。キリンは缶詰が食べられないし、ニンジンを嫌がると知っていたから。
「またね」
「さよなら」
 僕は夕暮れの中にキリンを送り出し、ひさしぶりに独りで眠った。

 次の日は雨だった。僕は傘をさし黄色い長靴をはいて、近くの缶詰工場まで歩いていった。おなかがすいているのでと言うと廃棄処分の人魚の缶詰をビニール袋いっぱいにわけてもらえた。
人魚は工場の裏にある湖で獲れる。
 昔は大きく広く海のように美しい青だったらしいのだが、今では干上がって池ほどに小さくなりゴミだらけでドブのような色をしている。それでもそこでとれる人魚は絶品だということで、まだ湖が海のような青だった頃から工場は稼動し続けているのだ。
 缶詰なら遠くに運ばれるから湖の色なんてどうでもいいんでさあ。僕に缶詰をくれた若い子はそう言ってほがらかに笑った。
 行くあてもなかったので僕は、はちきれそうなビニール袋をさげたまま湖を見ていた。湖面に雨がふりそそぎ、幾千幾万の波紋がぷつぷつと重なりあい壊しあって、結局湖は鏡のように平らかだった。じっと見つめていると、もったりした緑色の水の下から赤い鱗と柔らかそうな白い肌がつかのま浮かびあがってすぐ消えた。
 僕の傘の上にも雨はふりそそぎ、ぴたりぱたり耳障りな音をたてて端から落ちていく。イライラが頂点に達した僕はきびすを返して家路を急いだ。あと少しで玄関というところで僕はワニを見つけた。
 でこぼこの表皮を打つ雨をものともせず、ワニは懸命に、蹴飛ばしたくなるほど絶望的なのろさで、這っていた。僕は短気を起こし、ワニの鼻面をつかんでうちまでひっぱっていった。ワニはひどく恥じているようで家にはあがらず、僕が長靴を脱いでいるうちに扉の隙間から出て行ってしまった。
「またね」
「さよなら」
 緑色のしっぽが音もなく扉をしめた。

 次の日は曇だった。
 風が強く、僕は買い物を済ませた後も、空模様の悪い街を一日中うろついた。
 途中そこここのショーウィンドウで同じライオンを何度も見かけたけれども無視を決めこんだ。ライオンは立派なたてがみに堂々たる体躯で誇らしげに胸を張っていたけれど、僕が素通りするたびに肩を落とし、ちぢんでいった。
 最後にライオンを見かけたのは、帰りに通った商店街の化石みたいな服屋のショーウィンドウだった。猫よりも小さくなったライオンは、統一感のないマネキンの行列の一角に埋もれるようにして座っていた。僕はその前を素通りした。
 視界のすみっこでうなだれたライオンが豆粒よりも小さくなったけれど、僕はまっすぐに歩きつづけた。一日の終わりを告げる空はくたびれた鉛色に覆われ、僕の視界がにじんでぼやけていても、これっぽっちも問題は無かった。
 家に戻り、玄関の鍵を開けようとしたところで、僕は君に気づいた。
 君は相変わらずニンジンが嫌でたまらないらしく、僕の買い物バッグを見て眉をしかめた。
「さよなら」
 君は目をあわさずそれだけ言うと、いつもどおり手を振って去っていった。
「さよなら」
 僕も初めて言った時と同じ調子で返した。君はどんどん歩いていって、交差点に入ってすぐに見えなくなった。
 やがて目の周りにぶちのある子犬が一匹、曲がり角から顔だけ出して僕を見ていた。
 じっと見ていた。
 いつまでも見ていた。
 首輪には僕が君に渡した合鍵がぶら下がっていた。
 僕がそれをとりあげようとすると子犬は僕の手に咬みついて泣きながら逃げていった。