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メンテナンスタイム byVaritra

 ※お題『メンテナンス』
 ※Varitra(Dragon Academy)
 
続き
 

『メンテナンスタイム』

   1
 咄嗟に、火事か地震でも起きたのだろうかと思った。ミリーが目を閉じているわずかな間に、何か大きな災害が起こり、店員もお客も慌てて外に避難してしまった……そんな可能性が頭をよぎった。
 だがすぐにそんなはずはないだろうと、頭の奥から理性が囁く。そんなことが起こったなら、店内が騒がしくならないはずがない。でもまぶたを閉じたミリーの耳には、何の物音も聞こえてはいなかったのだ。
 次に、何かたちの悪い冗談なのではないかと思った。皆で示し合わせ、足音をひそめて店から出ていく。そうして目を開けたミリーが、誰もいないと慌てるさまを楽しむのだ。
 反射的にテーブル横の大きな窓を振り返ってみたが、窓の外には小さなテラスがあるだけだった。人が潜んでいる気配はない。そもそもいくら常連とはいっても、喫茶店の店員や見知らぬ客に、そんな悪戯をされる覚えもないのだ。
 通路の向こうのテーブルの上には、食べかけのサンドイッチとサラダ、それにコーヒーカップが載っている。つい数分前まで若いクルセイダーが腰掛けて朝食をとっていたのだが、その姿は見えない。人の姿だけがぽっかりと、現実から抜け落ちてしまったようだった。
 壁にかかった柱時計は、十時ちょうどをさしている。
 十時ちょうどをさしたまま、決して動こうとはしなかった。

 プロンテラ露店通りから二本進んだところに、その喫茶店はあった。もう何年も通いつづけている、ミリーのお気に入りの店である。シフトが午後出勤になっている火曜の朝は、窓辺の席に座りこみ、ミルクティを飲みながら読書に耽る。それはもうミリーの生活習慣となっていて、そのときだっていつものように、一人ぼんやりと本のページを繰っていたのだ。
 大きな窓から差し込む明るい太陽の光が、テーブルの木目を柔らかく照らし出す。暖かな光に身を包まれて、半分眠るような心地になりながら、ミリーはミルクティを飲み干した。
 カップをソーサーに戻し、読み進めてもちっとも面白くならない本を傍らに置いて、小さなため息を零した先に、その文字はあった。
 さびしいよ、と。
 ミリーが初めて店を訪れ、この席に座ったときから、その文字はあった。木のテーブルにそっと掘り込まれた短い文。紅茶の雫やケーキのクリームに長い年月染み込まれても、決して消えることのないその五文字。
 誰かの他愛のない悪戯だろうけれど、その文字はミリーの胸の奥の方まで、強く染み渡っていく力があった。だからこそミリーはこの席が気に入っていて、今では店のマスターもそれを承知しているのか、火曜の朝、ミリーが店を訪れるときは、大抵このテーブルを空けておいてくれるのだ。
 もう見慣れたその文字を、指でなぞってみた。
(さびしいよ、か……)
 わかる気がする、とミリーは思う。
 暮らしとしては平穏だ。冒険者達のように命の危機に晒されることもなく、カプラサービスの細かい雑事をこなす日々。毎日が、危険でもない変わりに新鮮でもなく、無数の人間の波の中に埋もれたまま、心を置き去りにして単調に身体を動かすばかりの毎日。
 誰が彫ったものかは知らないけれど、きっとその人も自分と同じように、一人でここへ来て、一人で紅茶を飲み、日々の生活の中でぷかりと浮かんできたその感情を、テーブルに刻みつけたのだろう。
 ミリーは小さく吐息をついて顔を上げると、壁にかけられた柱時計を見やった。
 あと二分で十時になる。もう少ししたら露店通りに人が溢れてくるだろう。ざわめく人の群れが放つ声や活気がここまで響いてきて、ゆっくり流れる朝の時間は断ち切られてしまう。
 もう少しだけ、静かな時の中にいたかった。
 ミリーはそっと目を閉じて、店内にいる客の姿さえ闇の中に消した。かちゃりとカップをソーサーに戻す音が聞こえ、その後は風が窓の隙間から吹き込む音以外、何も聞こえなくなった。
(辛くなったらまぶたを閉じてごらんなさい。そうすれば何もかも消してしまえるんだから)
 子供の頃、祖母に言われた言葉を、ときどき思い出す。泣きながら帰ってくることが多い孫娘に、せめてもの慰めを与えてくれたのだろう。その言葉を聞いたときミリーは、嬉しそうな、不安そうな、複雑な表情をしたのだという。
 腰掛けている椅子の感触が、確かに世界はまだそこに在るのだと云う。だが耳はなんの音も捉えることがなく、人の姿と声のすべてが、ぽっかり開いた穴に吸い込まれてしまったようだ。微かな不安を楽しむように軽く吐息をつき、向かいには誰もいないことを承知で、それでも誰かに触れはしないかと戯れに宙に手を伸ばし――
 馬鹿らしくなって目を開いたとき、店には人の姿がなくなっていた。

   2
 喫茶店でしばらく途方に暮れた後、ぬるくなったミルクティを飲みきってしまうと、ミリーは意を決して席を立った。店員がいないのでは会計のしようもなく、テーブルの上に代金を乗せて店を出た。
 外は快晴だった。いつもならこの時間、露店通りへ向かう行商人や冒険者の姿が道のあちこちに見られるはずなのだが、首を巡らしてみても誰の姿も見ることができなかった。
 普段ならなるべく避けて通る場所……人で溢れているはずの露店通りへ足を向けた。この時間ならすぐに風にのって喧騒が流れてきてもいいはずなのに、近づいていっても何の物音も聞こえない。誰もいない町並みの中に、自分の靴音が反響していくだけだ。
 胸の奥から滲み出した不安に足元を掬われないようゆっくり歩き、露店通りへ出た。
 広い通りにはいつも通りに、道の脇にたくさんの行商用のテントやカートが立ち並んでいた。地面に敷かれたそこここのござの上では、剣の刃がきらめき、取れたての林檎やブドウが山と盛られ、鮮やかな色が混ざり合っている。
 だが、当然そこにあるべき人間達の姿だけが、それだけ選んで消されてしまったようだった。
 罰が当たったのかもしれないと思った。
 みんな消えていなくなってしまえばいい……いつの頃からか胸の奥に抱えるようになった微かな夢想。そんな想いを抱えていたことへの、罰が当たったのかもしれない。不謹慎な願いを見抜いた神様が、じゃあ叶えてやろうじゃないかと、にやにや笑いながら世界中の人間を消し去ってしまったのだ――。
 そもそもミリーは神様を信じていなかった。神様が一体何をしてくれるのか、何もしてくれない。いるかもわからない神様なんて存在に、感謝の祝詞を捧げられる人種を、ミリーはずっと奇異の眼差しで見つめて生きてきた。
 ――そんな気持ちを見透かされて、きっと罰が当たったんだ……。
 馬鹿らしい考えだと、自分で自分に呟いた。だが人っ子一人いないプロンテラ露店通りなんて光景の方が、そんな考えより数倍も馬鹿らしいように思えた。
 無人の大通りを、ミリーは人を探して歩いた。テロでも起きてみんなどこかに避難したのかもしれないと、自分に言い聞かせる。魔物の姿は見えないし、立ち並んだ露店には一つの倒壊もなかったが、沸き上がる原始的な不安を抑えつけるには、そう考える以外に術がなかった。
 と――
 不意に、視界の中に動くものを見つけ、ミリーは目を瞠った。
 噴水の石塀に腰掛け、小さな白い人影が一人、足をぶらぶらと揺らしながら本を読んでいた。近づいていくと、白いローブをまとった少年だとわかった。時が止まってしまったかのような情景の中で、彼の足だけが、ぶらりぶらりと時の流れの中を泳いでいるように見えた。
 視線を感じたのか、少年が本から何気なく顔を上げた。首を巡らし、ぼんやりとあたりを見渡す。視線が一度ミリーの上をすっと素通りし、次の瞬間には後戻りしていた。
 今度こそ完璧に時が止まってしまったように、少年はそのまま瞬きすら忘れてミリーを凝視した。
「……迷子?」
 戸惑いながら問いかけたミリーの言葉に、少年は目をぱちくりさせた。言葉を探すようにあちこち見回し、困ったように首を傾げて、魚のようにぱくぱくと口を動かしてから、ようやく少年はそれだけ言った。
「迷子は、君だよ」

   3
「時の狭間に迷い込んできたのなんて君が初めてだよ、ミリー」
 少年はそう言うと、楽しそうに笑みを浮かべてミリーを見つめた。
 まだ十五、六くらいにしか見えないが、簡素な白いローブを身に纏った姿は、どこかしら浮世離れした魔導士を思わせた。年の頃はミリーより小さいはずなのに、少年の瞳は何もかもを見透かすように深い色に満ちている。
 だが喋り出すとそういったイメージも薄れ、年相応の子供のものになった。
「君の名前は覚えてるよ。この前ちょうどカイの日記を読んでたところだからね。彼の日記は結構面白いんだ。硬派気取ってるくせにやたらロマンチストでさ」
 ミリーが名前を名乗ると、少年はわけのわからないことを一方的に喋り始めた。山国育ちの子供が初めて海を見た感動を親に伝えようとするような調子で、まとまらない言葉をぽんぽんと楽しそうに吐き出していく。
 名前を尋ねても、わかんない、と首を振るばかりで、そのくせ迷子なの? というミリーの質問には、苦笑を浮かべながら迷子は君、と返す。
 時の狭間の迷子だ、と。
「時の狭間?」
 噴水脇のベンチに腰掛け、ミリーは問いかけた。子供と空想遊びをしている場合ではないとは思ったが、この状況では藁にすがってみたくもなる。
「そうだよ」
 少年は、近くの露店の品台の上から林檎を二つ失敬すると、ミリーに一個投げてよこした。
「洒落た言い方をすれば、時間のエアポケット、とでも言うかな。流れている時間の中に差し込まれたオマケみたいなもんさ」
 何を言っているのかわからず眉を顰めたミリーに、少年はぎこちなく肩を竦めてみせた。こういうときはこうするものだと、あらかじめ覚えていた手順を再現しただけのような、どこか芝居がかった仕草だった。
「人が誰もいなかったでしょう?」
「……ええ」
「人だけじゃなくて、動物も――正確には、時の流れを感じることのできるものすべて――みんないなくなっちゃうんだ。この――」
 と、少年は首から提げていた懐中時計をミリーに示してみせた。数字は刻まれておらず、のっぺりした表面に長細い針が一本だけ、普通の時計でいえば二時のあたりを指し示している。
「この針が真上から始まって一周するまで。僕はメンテナンスタイムって呼んでるんだけど、その時間の間はみんな消えていなくなっちゃうんだよ。みんなが認識する時間としては午前十時のまま動いていないんだけど、それとは別の層で、今僕達がいるような時間が流れ始めるんだ」
 少年は林檎を一口囓ると、食べないの? と目でミリーに問い掛けた。
「君はなんらかのトラブルで、メンテナンスタイムに入るときの集団シャットダウンから取り残されてしまったんだと思う。でもメンテナンスタイムが終われば世界はまた動き出すから、別に心配しなくても大丈夫だよ。みんな戻るからさ」
「…………」
 どう受け止めていいやら判断がつかず、上手く言葉が出なかった。話があまりに突飛すぎる。少年の言葉が頭の中で、意味をなさずにぐるぐると回り続けている。
 ミリーは林檎を一囓りすると、もう一度周囲を眺め回してみた。舞台のセットのように動く者だけ抜け落ちた、けれどいつものプロンテラの風景。
 時の……狭間?
「……あなたは」ようやく、それだけ言った。「あなたは、なんなの?」
「抽象的な問いだなぁ。見ての通りのこういう存在だよ」
「茶化さないで。その……メンテナンスタイム? の間はみんないなくなっちゃうって言ったでしょ。私がいるのが事故だったら、あなたは? あなたもそうじゃないの?」
「僕は違うよ。僕はこの世界で一人だけ、メンテ中に動ける存在なんだ。いや、メンテ中しか動けない存在、といった方が正しいかな。僕の意識と肉体はメンテが過ぎると、通常の時間には入らずに、次のメンテまで飛ぶからね。だから誰にも会ったことがなかったんだ」
「世界で、一人だけ?」
「そう」
「ずっと?」
「そう」
 この誰もいない世界の中で、一人で過ごす……。生活の匂いの残る無人の舞台の上で、一人で動き、一人で本を読み、一人で林檎を食べる。
 他に訊くべきことはあったはずだった。ミリーはまだ少年の話の内容を半分も理解できていなかったし、自分の常識と折り合いをつけるために、確認しなければならない質問は山とあったはずだ。
 それでもミリーの口から滑り出ていたのは、こんな言葉だった。
「さびしくない?」
 少年はきょとんとした顔をすると、首を傾げて、さびしいって何? と言った。

   4
(誰にも思ってもらえない林檎の木は、そこに存在すらしていないんじゃないかと……そう思うからだよ)
 もう随分と昔のことだったと思うが、近所に住んでいた博識なセージが、ミリーにそんな話をしてくれたことがある。勉強嫌いのミリーにとって、彼はとても不可解な存在だったから、どうしてそんなに勉強するの? と、軽い気持ちで訊いてみたときのことだ。
(我思う故に我あり。自分が思うから自分はいて、感じるからそこに何かが在る。誰の意識にも昇らずに、自分の意識すらなかったら、それはそこに在るんだろうか。どう思う? ミリー)
 ミリーは首を振って、何を言っているのかわからない、と示した。
(ぼくは不安なんだよミリー。何かを知っておかないと、何かを思っておかないと、自分の周りからどんどんどんどん、何もかも消えてなくなってしまいそうで)
 セージが何を言っているのか、ミリーにはよくわからなかった。勉強のしすぎで変なこと考えるんだよと言ったら、そうかもしれないとセージは苦笑した。考えすぎだよセージさん。考えなければ怖くないよ――
 でも――と、頭の片隅で誰かが囁く。
 旅立っていく冒険者達は、仲間や宝や未開の地のことを考えはすれ、その背を見送る人間のことは、透明で見ることのできない幽霊のようにしか感じない。たくさんの人の中に囲まれ、でもどんな心もミリーの存在を通り抜けて、ぼんやりそれを自覚するとき、ミリーは自分がきちんと他の人の目に映っているのだろうかと不安に思う。
 自分を取り囲む分厚いマジックミラーの中で、誰にも聞こえない声を張り上げ、誰にも見えない手を動かして。
 そうして自分の存在が、徐々に霞んで消えていくのがわかっても――
 それでも、考えないでいられるのか?
「聞いてる?」
 少年の声に、ミリーは我に返った。
 振り向くと、少年は不満げに唇を曲げてミリーを見やっていた。
 二人で街中を歩いているところだった。露店通りを抜け、ポタ広場を過ぎ、普段は仕事でも行くことのない、騎士団の詰め所にも顔を出す。
 どこにも猫の子一匹見当たらず、でもほんの数分前までは、確かに誰かが生活していたとわかる。傍らに少年がいなければ、ミリーはその不気味さに押し潰されて、喚きだしていたかもしれなかった。
「この時間は、多分、不具合を調整するための時間なんだと思う」
 詰め所のテーブルの上に座り込むと、説明する内容を頭で組み立てているのだろう、少年は考え込むように腕組みをして続けた。
「だから僕はメンテナンスタイムって呼んでるんだ。僕しか知らないんだから、呼び名を付ける必要もないんだけどね」
「不具合?」ミリーは部屋の入り口に立ったまま、少年を見つめた。「どういうこと?」
「世界が機能していく上で、あるべきでないこと、とでも言えばいいかな。具体的なところは僕もわからないんだけど、細かな齟齬が集まって世界のバランスが崩れてしまう前に、その小さな問題点を取り除いておくための、時間の冗長部分、とでもいうか……」
 考えこんだまま、少年は窓の外に目をやった。ミリーもつられて目を向ける。修行のための広場なのだろう、剣の的とおぼしき木の棒に藁を巻き付けたものや、ペコペコの騎乗訓練用のものか、外周には手作りの障害物が立ち並んでいた。
「ときどき地面、整備するでしょう?」
 広場の砂地は、まっさらに均してあった。ペコペコが足を痛めないようにとの配慮なのかもしれない。
「スポーツの試合で、休憩時間に地面整備したりするでしょう? 試合のうちに地面が荒れていくから。それと同じことだよ。この時間は、世界が動いていくうちに荒れた部分を整備するための、休憩時間なんだと思う。……まあ問題はその整備士たる僕が、何を整備すればいいのか、ちっともわかっていないことなんだけど」
 少年は笑い混じりにそう言うと、テーブルに座り込んだまま身体を伸ばした。大きく吐息をついて、続ける。
「内容を知らされないまま仕事に就かされたみたいなもんさ。記憶のある限りずっと昔からこうやって一人で生活してるけど、このメンテタイムに何をしたらいいのか、全然わからない。それで他人の日記やなんやらを盗み読みしては、時間潰しばっかりしてるってわけ」
 ミリーは話を聞きながら、その壮大さと、少年のあどけなさに、ちぐはぐな印象ばかりを感じていた。世界がなんだの時間がどうだの、まるで神様のようなことを言うにしては、目の前の少年の存在は矮小に過ぎた。実際にこんな状況になっていなければ、子供の戯言と一笑に付していたことだろう。
 少年は、そんなミリーの気持ちを見透かしたようだった。
「もちろん僕にできることなんてたかが知れてるよ。指先一つで世界を好きなように塗り替えられるわけじゃないからね。でも……少しくらいなら、できるんだ」
 そう言うと、すうっと目を細めて宙を見据えた。同じ場所に目を凝らしてみても、彼が何を見つめているのか、ミリーにはわからなかった。ここではないどこか遠く、距離すらも越えて、世界というページの裏側を、そっと覗きこんでいるようだった。
「……午前十時現在、この椅子には一人の剣士が腰掛けている」
 靴のつま先で、ちょん、と椅子の背の部分を蹴った。
「ミリーが……喫茶店で紅茶を飲んでいたとき、この剣士は椅子に座って、先輩の騎士と話をしていたわけだ。何の話をしていたのかまではわからない。旅のアドバイスを受けていたのかもしれないし、お説教を受けていたのかもしれない。他愛ない冗談を言っていたのかもしれないし、もしかしたら恋の話なんかしてたのかもしれない。いや、過去形で語るのはおかしいな。外側の時間は午前十時から、一秒たりとも動いてないんだから。……ともかくメンテタイムに入り、世界中の人間がふっと消え失せる。シャットダウンから逃れたミリーと、みんなが消えたと同時に現れる僕だけが存在する、この余分な時間が流れ始める。でね――」
 少年はつま先で椅子の背もたれを叩き続けながら、首にかけた懐中時計を示してみせた。針は四時のあたりを示している。「メンテタイム」の三分の一が過ぎたということだ。
「僕らが何もしなければ、この針が真上に戻ったとき、メンテタイムなんて初めからなかったみたいに、時間はまた午前十時から流れ始めるんだ。剣士にとってそれは連続した時間のことで、差し挟まれた時間があったことなんて認識すらできない。そのまま話を続けるんだろう。でも――」
 少年が急に勢いよく椅子を蹴りつけ、ミリーはびくりと身体を震わせた。
 ガタンと音を立てて、椅子が床に転がる。
「座っていた椅子がなくなった。外の時間が動き出した瞬間、剣士はどうなると思う?」
「……転ぶ」
「そ。体重かけていた椅子が消えちゃってるんだから、尻から床にドスン。不憫なことだね。……でも一番重要なことは、剣士がそれをおかしいと思わないってことなんだよ」
「……どういうこと?」
「考えてみてよ。椅子に座っている瞬間と、椅子が倒れている瞬間が、ぴったり繋がってしまったってことなんだよ? 椅子が『倒れていく』経過を、剣士は……いや、周りにいる誰も認識できない。差し挟まれた時間の中で起こった出来事なんて、正規の時間の中にいる奴にはわからない。連続で流れていた時間の中で、そこだけ不連続に、コマ送りみたいに現実が飛んでしまってる。そんなおかしな状態なのに、でも誰もそれを認識できないんだ」
「座っていた椅子が知らない間に倒れてるのに、疑問に思わない?」
「疑問には思うかもしれない。でも辻褄合わせが行われる。椅子をゆらゆら揺らしてたとか、誰かが椅子を引いたとか、作られた因果関係が自動的に、最も辻褄の合う真実を作り出すんだ。剣士は恥ずかしそうに照れ笑いするか、椅子を引いた誰かに怒るだろうね。そして向かいの騎士は、剣士がバランスを崩して椅子から転げ落ちるところや、後ろから忍び寄った誰かがにやにや笑いながら椅子を引く場面を目撃していたりする。そういう記憶が出来上がる。・・・・・・・・・そういうことになる」
 少年は口の端を曲げて笑みを浮かべた。表面だけ取り繕ったような、乾いた笑いだった。
「さっき露店から林檎を二つ拝借したよね。店主が果たして気付くかどうかはわからない。気付いておかしいなと思っても、たいして気には留めないかもしれない。そして実際その二つの林檎は、誰かがくすねていったとか、道のどこかで落としてしまったということになるはずなんだ。どこかの誰かの頭の中に、林檎をくすねた記憶が出来上がるのかも。どこかの道の隅っこに、落ちた林檎が潰れているのかも?」
 少年は熱に浮かされたように続ける。腹の奥に溜まった何かを、残らず吐き出してしまおうとでもいうようだった。
「真実が塗り替えられるんだよ、ミリー。僕が倒した椅子を軸にして、くすねた林檎を軸にして、法則がそれに見合った現実に世界を塗り替える。でも変化した分大小さまざまな辻褄合わせが起こって、誰も目の前に転がった不自然に気付かない」
 そこまで言うと、少年はふうっと肩で息をついた。テーブルから飛び降り、転がった椅子を元の位置へ戻す。ミリーはじっとそんな少年を見守っていた。次々やたらと壮大なことを聞かされたけれど、少年に訊いてみたい質問は、やはりたった一つだけだった。
 さびしくないか、と。
(誰にも思ってもらえない林檎の木は、そこに存在すらしていないんじゃないかと……そう思うからだよ)
 すべてが時のクッションに吸収されて、誰も自分に気付かない。誰にも思ってもらえないあなたは、さびしさを感じはしないのだろうか。
 ねえ、さびしくはないの、と。

   5
 プロンテラの街の北東部には、大きな聖堂が建っている。休日は礼拝に来る人々で混雑するし、平日だろうと冒険者の無事を祈る家族や恋人の姿は、決して絶えることがない。
 だがもちろん、今だけは別のようだ。
 誰もいない敷地の中に、ミリーと少年は足を踏み入れた。
 敷地の大部分を占める大聖堂が、空を覆ってのしかかってくるように感じられた。その聖堂を囲むようにして、緑が植えられ、簡易的な診療所や宿泊施設の他、物置や小屋などが立ち並んでいる。
 並んだ小屋の一つに、他よりも随分後に建てられたのだろう、外観が違ったものがある。ミリーの視線は自然に、その小屋へと吸い寄せられていた。
 もともと、ミリーの家には頻繁に教会へお祈りに行く人間はいなかった。家族に冒険者稼業をしている者がいなかったからかもしれない。命の危険もなく行商で生計を立てる者達にとっては、神への祈りよりも金勘定の方が必要なことなのかもしれなかった。
 だが一度だけ、ミリーは教会へお祈りに行ったことがある。十年近くも前のことだが、その時のことは鮮明に記憶に残っているのだった。
 聖堂の長椅子の隅に腰掛け、ミリーはプリーストの説教を聞いていた。不快な気分が込み上げてくるのを、抑えることはできなかった。プリーストが救いとして告げる言葉のすべてが、ミリーの耳には悪意をもって響いた。
(神様は私達をあらゆる困難、苦しみから守ってくださる。敵の罠からも、災難からも――)
 困難からも、苦しみからも、守ってくれるのは自分だけだ。誰も助けてはくれないし、ましてや神様が守ってくれるなんてお笑いぐさだ。敵の罠を逃れるのは自分の目と鼻、災難を振り払うのは運と経験。失敗した結果は見ないふりして、自分の力で成功したときだけ、神様が守ってくれたのだと、横からすべてを奪い取る。
 祈りの姿勢を取って説教を聴きながら、ミリーの耳の奥には説教とはまったく別の音が……露店通りの喧騒が響いてきていた。頭にこびりついたその音はどんどんと大きくなって――
 やがて悲鳴と怒号に変わった。
(神様は私達をあらゆる困難、苦しみから守ってくださる)
 戯言だ。だってそれが本当なら、テロからパパを守ってくれたはずじゃないか。
 途中で席を立ち、聖堂を飛び出ると、ミリーは人の目を逃れるように敷地の中を隅へと走った。立ち並んだ小屋の周りに人の姿はなく、ミリーは建物の陰に隠れて膝を抱えた。鼓膜の中に響く悲鳴は消えることがなかった。抑えていた感情が陳腐な説教をスイッチにして、急激に漏れ出してきたようだった。
 その時自分の心の中で何が起こったのか、今なら理解できる。人は心が壊れそうになったとき、何かに怒りをぶつけていないと立っていられない。悲しみが敵意へと姿を変えて、神様という無責任な存在に向いていったのだろう。
 そしてミリーは嗚咽を噛み殺すと、鋭い瞳で小屋を睨んで、興味があって覚えただけの、簡素なファイアーボルトの呪文を唱えて――
「小屋を燃やしたんだ」
 横で少年が呟き、ミリーは喉の奥で息を飲み込んだ。
「外側の時間で言えばもう十年も昔のことになるかな。僕の体感としてはもっとずっと最近のことだけどね。小屋は燃えてしまって、焼け跡に新しいのが建てられた。あの小屋さ」
 そう言って少年は小屋の方へ近づいていき、立ち止まるとミリーを振り返った。
 ミリーは息を詰めたまま少年を見つめていた。心の中で考えていることが筒抜けになっているような、奇妙な感覚が全身を覆った。
「僕が燃やしたんだ、ミリー」
 少年が言った。
 ミリーは人形のようにふるふると首を振った。
「……違うわ」
「僕が燃やしたんだよ。メンテタイムの中で火をかけた。小屋は炎に包まれて、そのまま針が真上を指して時間が動き出した」
「違うわ。私が火をつけたのよ。はっきり覚えてるもの」
「そうだよ。そういうことになったんだ」
 少年は苛立たしげに首を振り、射抜くような目でミリーを睨んだ。
 瞳の中には、敵意とも戸惑いともつかない光が浮かびあがっていた。
「法則が辻褄を合わせるのに、君が一番都合のいい存在だったからだ。聖堂を飛び出して、小屋のすぐ側にいて、他の誰の目にも映っていなかったからだ。矯正力は一番負担の少ない方向へ向いていく。たくさんの記憶が改変されるより、一人の記憶が変わる方が負荷が少ない。だからメンテタイムが終わって、メンテ前の無傷な小屋と燃え上がる小屋が繋がって、矛盾が溢れそうになった瞬間、小屋の一番近くにいた君に、そんな記憶が刷り込まれたんだ」
 記憶は鮮明だった。自分が魔法を詠唱している声が、今でも耳の内側にこびりついている。宙から生じた炎の矢が窓を貫いて部屋の中へと飛び、隅に積まれた薪の山に、すぐさま引火していったのを見ていた。冷静さを取り戻したときには既に遅く、ミリーは逃げるように教会を離れると、家に帰って一人自分のしでかしたことに震えたのだ。はっきりと覚えている。
 あの神様への怒りも、炎の熱も、人々の叫び声への恐怖も。
 全部、辻褄合わせだったとでもいうのだろうか。無機質な法則がミリーを駒にして、そんな感情と記憶をあてはめていったとでも?
「……信じられない」
「外側の時で閉じて考えれば、確かに君がやったんだろうさ。でもこの余分な時間を含めてみれば、やったのは紛れもなく僕なんだ。僕が火をつけた。燃えるのを眺めてた。でも君がやったことになったんだ」
 少年は言葉を続けようと口を開いたが、そのまま放り捨てるように荒い吐息に変えた。吐息とともに瞳に宿った強い光も、ふっと急速に翳っていった。
 ミリーは訊くべきことがあったことに気付いた。
「どうして……火をつけたの?」
 虚をつかれたように目を見開いてから、少年は小さく首を振った。
 懐中時計を覗きこみ、そろそろ喫茶店へ戻ろう、と言った。

   6
 道を歩きながら、少年は無言だった。
 ミリーは少年の後を追うようにして歩いた。無言でいるとあまりの静けさに不安がかきたてられたが、自分以外にもう一つ聞こえる足音が、それを柔らかく鎮めてくれていた。
 彼はどうして小屋を燃やしたりしたのだろうと、ミリーは頭の中でずっと考えを巡らせていた。
 自分は――少なくとも自分の意識の上では、ミリーが小屋に火をかけたのは、テロで父を失ったことに対する、やりきれなさが爆ぜたからだった。それは無慈悲な運命への、勝手な神への敵意となって噴き出し、身体を突き動かしていたのだった。
 自分の敵意を示すために、狼煙を上げてやるつもりだったのだと思う。私はあんたなんか信じない。あんたの守りなんか願い下げだと。そんな風に思っている自分の存在を、身勝手な神様に伝えてやりたかった。伝えなければ気が済まなかったのだと思う。
(存在を伝えるために……)
 そう。存在を伝えるためには、それくらいしなければいけないのだ。それくらいしなければ、誰も一人の人間のことなど気にも留めない。
 林檎をくすねても椅子を引いても誰も気付いてくれないのなら、小屋に火くらいかけなければならない。何かを壊し、誰かを傷つけ、それでも声を大にして叫ぶことを抑えられない……。
 前を歩く少年の背中に向けて、ミリーはごめんね、と心の中で呟いた。
 あなたのしたことを奪ってしまってごめんね。あなたが叫んだ言葉を、かき消してしまってごめんね――。

 表通りから外れた細い路地に入っていくと、人の気配がないことがごく自然に感じられるようになった。商業倉庫の側を通り抜けるこのルートは喫茶店への近道ではあるが、左右に立ち並んだ建物に圧迫されるように道幅が狭いうえ、商用資材が道のそこここに積まれており、空気も饐えていて、普段から人が利用するような道ではないのだ。
 いつもならミリーはこんな道に好んで立ち入ったりはしないのだが、前を歩く少年はそんなことには無頓着のようだった。人が多い少ないという感覚を経験したことがないのだから、表通りも路地裏も、少年にとっては変わらないものなのかもしれない。
 しばらく進むと、少年がふと足を止めた。じっと足元を見下ろしている。何? と訊いたが、少年は考え込むように立ち尽くしたままだった。
 肩越しに覗き込むと、地面の上に木の枝が数本、放り捨てられたように散らばっていた。
 背筋に冷たい石を突き当てられたように感じた。
「古木の枝……」
 魔物召喚の魔道アイテムである古木の枝は、売買も所有も、法の監視下に置かれたアイテムだ。街中では使用は勿論、携帯も厳しく取り締まられる。そんなものが地面に散らばっているということは、平和的でない事態が起こっている証だった。
 ミリーの緊張を感じたのだろう、少年が落ち着き払った声で言った。
「大丈夫だよミリー。今この世界には、テロ屋も魔物も存在しないんだからさ」
「でも、この枝……」
「ちょっと待って」
 言うと、少年はじっと目を細めて伺うように、細い通路を先へと進んでいった。何かミリーには見えない目印に向かっていくようだった。ミリーは後を追った。
 少し進むと、脇道へと反れた。喫茶店とは逆方向だ。そのまま進んでいくと、通路の先は古びた倉庫のドアへと接していた。錆付いた南京錠のぶら下がったそのドアの前には、商品搬送用のものだろう、たくさんの木箱が積み上げられている。
「そこに子供がいる」
 積み上げられた木箱の隅の方を指差し、少年が言った。誰の姿もない。外側の時間の中では、という意味なのだろう。そしてそんな物陰に潜むような位置にいるとなれば、何かから身を隠しているということだ。
「子供……。襲われてるのね?」
 ミリーが言うと、少年は小さく頷いて後ろを振り返った。目をすがめ、何もない宙の中に、ミリーには見えない何かを覗き込む。
「ハイオークが向かってきてる。子供を追ってきてるんだろうね」
「テロ?」
「いや、違うと思う。付近に人はいないようだし、テロ屋がこんな寂れた裏路地で子供相手に枝を振りかざす道理はないだろ」
「……いたずらで?」
「多分ね」
 誰でも魔物を召喚することのできる道具……その危険性から、古木の枝は子供達の興味の的になりやすい。もちろん家庭で枝を所有する場合は厳重な保管をし、決して子供の手に触れさせないよう義務付けられてはいるが、時に子供が見つけ出しては戯れに使用し、陰惨な事故へと発展するケースがあった。
「持ち出してきた枝を、人のいないところでこっそり試してみたんだろうさ。魔物が人を襲うものだということを理解できてないような小さい子供だ。いざハイオークなんて出てきてから怖くなって逃げ出して、袋小路に迷いこんだ……そんなところかな」
 淡々と言う少年の声を聞きながら、どうすれば子供を助けられるか、ミリーは頭を巡らせていた。だが今この場に子供も魔物もいない以上、具体的な方策は見えてこない。子供が隠れ震えているのはあくまで外側の時間の中であり、ミリーには声をかけることも触れることもできないのだ。誰か助けを呼んでこようにも、呼ぶべき助けがこの世界には存在しない。
「……どうしたらいいと思う?」
「どうしたら?」
「どうやって助けたらいいの?」
「さあ。ほっとけば?」
 投げ出すような言い方に、ミリーは言うべき言葉を失って少年を見つめた。
 少年はミリーの視線から目を反らすと、面倒くさそうに続けた。
「ほっとけばって言ってるんだよ。自分の呼び出した魔物で殺されるんだから、自業自得ってやつだろ? なんでわざわざ助けなくちゃいけないのさ?」
「自業自得って……。子供なのよ?」
「それが?」
「子供が、ほんのいたずらで怖がって震えて……」
「だから。それがどうしたんだよ。仕方ないじゃないか」
「命が危ないのよ。助けなきゃ。あたりまえじゃない」
「あたりまえ? なんなんだよ。わからないなミリー」少年は眉を顰めてミリーを見やった。「そんなことしてなんになるのさ」
「なんになるって……」
「何の意味があるの?」
 少年の顔はあどけなかった。そのあどけなさがミリーには不気味に思えた。柔らかい表情の奥に潜んだ心に触れられない。なにか異質のものと向かい合っているような気がした。
「意味なんていらないでしょ。人が死にそうになってるんだから助ける。何がわからないのよ」
「何がって? 全部わかんないよ。全然わかんないよ。メンテ終了までもうあまり時間がないんだよ? そんなことで時間潰したくないよ」
「そんなこと?」身勝手な物言いに、頭がかあっと熱くなった。「そんなことって、子供が一人死ぬかもしれないのよ? それがそんなことなの? 時間潰しなの?」
「ミリー……。だって僕、初めて――」
「死んだ人間の家族がどんな顔で泣くかあなたにわかるの? どれだけ辛い思いをして、何かに怒りをぶつけておかないと立ってもいられなくなって……そんな気持ちがあなたにわかるの? わからないでしょうね。誰がどうしようが、生きようが死のうが、あなたにはまったく関係ないことなんでしょうね。だってあなたは誰とも関わったことなんてないんだから――」
 言ってからしまったと思ったが、もう遅かった。
 立ち尽くしたままの少年の瞳が、分厚い雲に覆われたように、ふっと暗くなった。自分の発した言葉が刃となって、彼の胸を切り裂いていくのが見えた気がした。
 少年の顔にいろいろな表情が浮かんでは、すぐに消えていった。手持ちのカードの中から、どの感情を選んで抜き取ってやればいいのか、わからなくなってしまったとでもいうように。
 表情を消し、少年は俯いた。
「そうだよ」震える声で、言った。「……わかんないよ」
 少年が顔を上げた。すべてのカードがぶちまけられるのが見えた気がした。
「わかんないよ! 見たこともない、話したこともない、一生見ることも話すこともできない、声を聞くことも触れることもできない、そんな誰かを助けたいだなんて気持ちわかんないよ! 人ってなんだよ!? 影か蜃気楼みたいな存在を助けてなんになるってんだよ!? そいつは僕が助けたんだってわかってくれるの? 感謝してくれるの? 僕が何をしたって誰も気付かないまま、ただ成り行きや運命だったんだって、初めからそうなることだったんだって――誰も僕のことを思ったりしてくれないじゃないか!」
 嗚咽を噛み殺すような荒い息が漏れた。どちらが発したものなのかはわからなかった。
 ミリーは少年の腕を取り、頭を抱え込むように抱き寄せた。少年の手がミリーの腕を痛いほど強く掴むのを感じた。がくがくと震える少年の身体を抑えこむように、ミリーは彼を抱く腕に力をこめた。
「怖いんだ」腕の中で、少年が呟いた。「……怖いんだ。怖いよ。消えたくないよ。消えないでよ」
 少年が零す言葉の一つ一つに、ミリーは頷いて頬を彼の髪にうずめた。

 積み上げられた木箱の蓋を外し、二人で分担して中身を検分した。保存のきかない食料品や、武器防具などの単価の高いものはないようだった。売り捌かれた収集品をごちゃごちゃに詰め込んだもの、ポーションや染色瓶がぎっしりと並べられたもの、色とりどりのハーブが敷き詰められたもの、そして――
 荒く手を動かして中身を混ぜっ返しながら、少年は四箱目で目的のものを見つけたようだった。宙に視線を走らせ、見えない子供とハイオークの位置関係を確認すると、道の真ん中にしゃがみこみ、箱から取り出した物をかちゃかちゃといじり始める。
 やがて少年が立ち上がると、地面には狩猟用の罠――アンクルスネアが設置されていた。
「これで足止めはできるはずだ。この道の細さだから。ハイオークなんて図体のでかい奴が、この罠を避けて進むことなんてできない。奴ら頭ないしね。ただ、罠にはまったハイオークが壁になっちゃうから、子供も逃げられないけど」
 少年は言うと、ふっと小さく吐息をついた。
「僕にできるのはここまでだ。後は任せる。外側の時間に戻ったら、誰か助けを呼んでここまで来るんだ。ハイオークを倒して、子供を無事に助けてやって。……それは君の役目だよ、ミリー」
 そう言って少年は笑顔を浮かべてみせたが、ミリーには哀しいものにしか映らなかった。少年が続けようとして止めた言葉を、心のどこかで聞いてしまったからかもしれなかった。
 そのとき僕はもう君と一緒にいることができないから、と。

   7
 喫茶店には当然のことながら、誰の姿もなかった。ミリーが出て行った状態のまま、窓際のテーブルには空のティーカップと紅茶代のコイン、通路の向かいのテーブルには、食べかけのサンドイッチとサラダとコーヒーカップが、取り残されたように置かれている。
「マスターいないけど……紅茶でも淹れようか?」
 キッチンを覗きこんでミリーが言うと、少年は首を振った。
「なるべく、メンテ前と同じ状態にしておきたいんだ」
「あ……そうよね」
「別にここの主人に気を遣ってるわけじゃないよ」
 少年は小さく笑って言った。
「君のテーブルに二組のティーカップが置いてあったら、また何か辻褄合わせが起こっちゃうからさ。実際どうなるかはわからないけど、考えすぎかもしれないけど……今日の君の記憶が塗り潰されてしまうのは……嫌なんだ」
 ミリーはメンテタイムに入ったときと同じ場所、いつもの席へついた。少年はなるべく椅子の位置を動かさないように、慎重に向かいへ腰掛けた。一つ間違えば無慈悲な法則に、すべてを奪い取られてしまうとでもいうように。
 沈黙が訪れた。
 少年はじっと手の上の懐中時計を見つめている。ミリーもそれを見つめた。時間はもう残りわずかしかなかった。
 二人とも何も喋らなかった。そうしていると、凍った時間の中に挟み込まれた時さえもまた、止まってしまったようだった。喋らなければ、動かなければ、いつまでも時間は動かないのかもしれないと、二人ともそう信じているように。
 それでも、無慈悲な針の動きを止めることはできなかった。
「あのね、ミリー」
 静寂を破ったのは、少年だった。
「僕、暇潰しに、人の家に入って、プライベートなものを盗み読みしたりするんだ。日記とかね」
 少年はそう言うと、教師に悪戯の告白をする子供みたいに、神妙な面持ちでミリーを伺った。ミリーが笑みを浮かべてみせると、少年も小さく笑ってみせた。
「日記とか、読んでるとね、ああこの世界にはこういう人達がいるんだなあって、わかるんだよ。決して会うことはできないけど、こういうことを感じて、こういう風に生活してる人達が、自分と違うけど同じ世界の中にいるんだなって、わかるんだ。……それでね、読んだ日記の中に一つ、面白いのがあったんだよ」
 少年はまた懐中時計に目を落とした。時計にじっと目を据えたまま、顔を上げなかった。何かが溢れるのを無理矢理抑えつけているような、そんな声が響いた。
「あるクルセイダーの日記なんだけどさ。そいつは毎日家へ帰ってから、机の抽斗の奥に仕舞いこんだ日記を取り出して、今日の狩りの記録や仕事の記録とかと一緒に……毎朝自分を送り出してくれるカプラサービスの女の子のことを書くんだ。今日は出掛けに声をかけてもらっただとか、今度何かプレゼントしてみようかなだとか――毎週喫茶店で見かけるその子に、どうやって声をかけたらいいかなだとか」
 少年はそっと通路の向こうへ顔を向けた。サンドイッチとサラダとコーヒーカップを乗せた無人のテーブル。その椅子の上に座っている誰かに、にやりと笑いかけたようだった。
「笑っちゃうよね」
 カチリ、と時計の針が小さく動く音が聞こえた。ミリーは懐中時計を覗き込んだ。もう針はほぼ真上の位置を指し示していた。
 少年は隠すように時計をローブへ仕舞い込むと、じっとミリーの目を見て微笑み、言葉を紡いだ。
「ミリーは一人じゃないんだよ」
 テーブルに肘をついた少年の腕が、小刻みにかたかたと震えていた。ミリーが手を握ろうと腕を伸ばすと、彼は首を振ってテーブル下へ腕を隠した。
「ミリーが気付いてないだけで、たくさんの人の中に埋もれて、君を想ってくれる人はいるんだよ。あの子はどうしてるんだろ、元気かなって、気にかけてくれる人は必ずいるんだよ。だからミリーは一人じゃないよ。さびしくないよ」
 口を開いたが、言葉は形にならなかった。少年がもう一度呟いた、さびしくないよ、という言葉が、宙に浮かんで、すぐに消えていった。沈黙の中に吐息の音が聞こえ、かき消えた。時間の動き始める鼓動が、世界からすべての音を奪っていった。
 それでも少年の最後の言葉だけは、はっきりとミリーのもとへ届いた。
「でも……時々でもいいから、少しでもいいから、僕のことを思い出してください。――好きだよ、ミリー」
 カチリ、という音が聞こえた。少年の笑顔がくしゅんと崩れるのが見えた。咄嗟に身体を動かすには瞬き一回分遅かった。伸ばした手は彼の身体に触れることなく、宙を撫でていた。
 窓の外から遠く、露店通りの喧噪が聞こえてきた。風がさあっと吹き込んで、ミリーの髪を撫でていった。視界の隅で若いクルセイダーが、きょとんとした顔でこちらを見やっていた。ミリーは触れる先をなくした手を下ろすと、ぎゅっと手のひらを固く握り締めた。
 泣くわけにはいかない。私にはまだ、やるべきことが残っている。
 ミリーが振り向くと、クルセイダーの青年は慌てて顔を反らした。手に持っていたサンドイッチにかぶりつく。ミリーが席を立って近づいていくと、サンドイッチを頬張ったまま、かちんと石のように固まった。
「……ハイオーク、倒せますか?」
 彼はまんまるに目を開き、苦労してサンドイッチを飲み下すと、こくんと一つ頷いた。

 青年を連れて道を走りながら、ミリーは考えていた。助け出した後、子供にかけてやるべきその言葉を。ミリーは今こそ信じようと考えていた。神様が守ってくれたのだという、その言葉を。
 子供は言うだろう。木箱から罠を取り出し設置して、ハイオークを食い止めたのは自分だと。神様が守ってくれたわけじゃない、自分がやったことなんだよと。
 それでもミリーは言おうと思う。声を大にして伝えたいと思う。

 神様が守ってくれたんだよ。神様があなたを守ってくれたんだよ。さびしがりやの神様が、あなたの命を守ってくれたんだよ。

 ほんとだよ。

   エピローグ

 いつもの席へ座ると同時に、ミリーはメニューを見ることもなく、ミルクティを注文した。ウェイトレスももう心得たもので、ミリーがミルクティのティを言い終わらないうちに承知しましたと奥へ引っ込み、神業の如き早さでミルクティを淹れてくる。今度オーダーを変えてやろうかしらと、砂糖を入れながらミリーは決意した。
 柔らかい日差しと涼しい風に、とろりとした眠気が忍び寄ってくる。窓辺の席でお気に入りの紅茶を飲みながら、一人ぼんやりと本を読み耽る……そんないつもの火曜日の朝。
 火曜のその時間だけはカイを連れずに、ミリーは一人でその場所にいる。カイとの朝食を家で済ませ、いつもより急かしてその背を送り出し、十時になるまでには必ずその席につくようにしている。
 そうしてぼんやり時間になるのを待ちながら、ミリーが初めて店に訪れたときからテーブルに掘り込まれていた、たった五文字のその文を見つめる。
 さびしいよ、と。
 そして考える。一体この文字を彫ったのは誰なのだろうかと。この文字はいつ彫られたのだろうかと。
 本当に何年も前に掘られたものなのだろうか。
 実はつい最近彫られたばかりのものを、ミリーがそう思い込んでいるだけではないのか。

 時計を確認し、十時が近くなると、ミリーは目を閉じ、宙に手を伸ばす。
 時間の欠片の中にいる、ひとりぼっちの少年が、そっとその手に触れられるように。
 時を隔てたカーテンをめくり、ほんの一瞬でも温もりが、彼のその手に伝わりますようにと。


 ROSSを名乗っていいかどうか自信がなくなってしまうほどROっぽくない話ですが、まあ多分気のせいなんじゃないでしょうか。こんにちは、Varitraです。
 メンテナンスということで、直球勝負で突撃してみました。
 ストレートで投げてるつもりなのにカーブになってしまうのは、もう仕方ないや、と。

 お題を聞いた次の日には大筋出来て書き始めたくせに、まぁまだ時間あるしいいか、とかすぐに放り出してたら酷いことになりました。
 精神疲労の倦怠感により書く気力も湧かず、一時は諦めようかとも思ったのですが、だべり祭りで他の方の声を聞いていたら、なんだかやる気も復活してきました。みんなでやるのはいいものですね。
 でもその時点で残り一週間。慌てて再開したためちょっぴり焦り。
 ま、ご利用は計画的に、ということですな。

 それにしても、ひょっとして文量多かったかな……。
 次回は軽量級にします。多分。
2004.03.05 Varitra(Dragon Academy)