明日は晴れるだろう。
いつもにまして寝苦しい夜だった。
空気はどんよりと重く、あけはなした窓から熱気が流れこんでくる。
こんな夜はとくに、となりの少年がうなされる。
普賢はうすい布団にくるまったまま、まんじりともできずに同室の彼の気配をうかがっていた。
闇の向こうから苦しげなうめき声がもれ、普賢の胸を引っかく。
起こしてあげたい、そう普賢は思った。
うなされる彼を開放し、冷たい清水を飲ませてやりたい。
程度の差こそあれ、毎晩のように悪夢に苦しむ彼のことが、普賢は心配でたまらなかった。
だが。『太公望だ』
普賢が昇山した、2週間前。
同期だからと、元始天尊によって玉虚宮で引き合わされた道士は、ただ一言そういったきり目もあわせようとしなかった。
同室と聞いて、うっかり口をへの字にしてしまったのも仕方がない。
案の定彼は無愛想振りを遺憾なく発揮し、自室だというのに普賢は彼の様子を伺いながら足音を忍ばせて歩くしかなかった。そんなふうに暮らすこと、2週間。
普賢はすぐに、となりの少年が悪夢にとりつかれていることに気づいた。
そして、どうやら彼がそれを隠したがっているということにも。
不用意に起こしたりしたら、どんな罵声が飛んでくるかわからない。
『どうしよう……』
普賢は布団のなかから少年をみつめた。
月のない晩だから、すぐとなりのはずの寝台も見えない。
だがうめき声と歯軋りが聞こえる、それからゼイゼイと荒い息遣い。
墨で塗りつぶしたように暗い視界にもかかわらず、冷たい汗にまみれた少年の姿が手に取るように思い浮かぶ。
救いを求める人がすぐ隣にいる。
普賢は意を決して体を起こした。
寝台を降りて、てさぐりで彼に近づく。
その肩に手をかけ、そっとゆすった。
短い悲鳴とともに彼は飛び起きた。
ゴン。
鈍い音と共に衝撃が走る。
飛び起きた彼の頭が、普賢にぶつかっていた。「ごめんね」
「……」
明かりを灯すと、お互いの額にできたこぶがよくわかる。
普賢は湯飲みに清水をそそいで彼にわたした。
少年は寝台に腰掛けたままうつむいている。
「いちおう薬塗っておこうか。薬箱どこだったっけ」
いたたまれなくなって、普賢は戸棚の中を探し始めた。
思ったところにはない。
次々と引き出しをあけては閉める。
その背中に少年の声が届いた。
「なぜ起こした」
責めるでも怒るでもない、淡々とした声。
その声に、普賢は手を止めて彼を振り返る。
「何故、起こした」
再度発せられた問いは重みを帯びていた。
普賢はかすかな緊張を覚える。
「うなされていたから」
正直にそういうと、少年は唇をかんでそうかとつぶやいた。
また沈黙が落ちる。
「……あのさ」
普賢の問いに少年がはじめて顔をあげた。
明かりに照らされた瞳は、思いのほか大きく幼さを感じさせる。
濡れたような暗色が故郷で見た黒曜石のようで、普賢の胸は場違いに高鳴った。
「なんだ」
「あ、うん。あのね」
まさか瞳に見とれてましたとも言うわけにもいかず、普賢は照れ隠しに笑った。
「毎晩、うなされてるよね」
「……」
少年はまゆをしかめ、また顔を伏せた。
古傷が痛んだかのように。
「その、とっても苦しそうなんだ、毎晩」
彼の機嫌を損ねたかと、あわてた普賢は矢継ぎ早に言葉をくりだした。
「君が僕のこと嫌ってるのは知ってるから、起こさないようにしてたんだけど、今日はあんまり苦しそうだったから、どうしてもほっとけなくて。
ごめんね。気に入らないんだったら、もう起こさないよ」
ほんとにごめん、最後にもう一度そうつけくわえた。
「いや……また起こしてくれ」
少年の返事は普賢の予想外のものだった。
普賢はきょとんと彼を見る。
普賢の様子に彼は居心地が悪そうに頭をかいた。
「起こしてくれてありがとな、その、また頼む」
「う、うん!」
てっきり嫌味のひとつでも言われると覚悟していた普賢は、好意が素直に通じたことに胸をふくらませた。
「わかった、がんばるよ。ありがとね!」
普賢のげんきいっぱいの返事に、なにをがんばるんだと微妙な視線を送った少年は、普賢の顔が急にアップになったことに驚いた。
「!」
「ちょっとじっとしててね」
そういうと普賢は、彼の両肩に手を置いて額をくっつけた。
てっきりキスでもされるのかと全身を硬くした少年だったが、そんな様子はない。
普賢は目を閉じたままほほえんでいる。
ふれあわせた額はさきほどぶつけたもの。
じんわりと熱が広がる。
「はい、おしまい」
始まりと同じくらい唐突に普賢は身を離した。
「……なんだいまのは」
「おまじないだよ。僕のかあさまは、僕が怖い夢を見るといつもこうしてくれたんだ」
「いきなりやるな、そういうことは最初に言え」
まだ少し熱いひたいを押さえて、少年は唇をとがらせた。
それを見た普賢がほがらかに笑う。
「ごめんね、びっくりさせちゃって、いやだった?」
「…………」
彼は長い沈黙の後にぼそりと、いやじゃない、とつぶやいた。
普賢はほほえんで、もういちどひたいをふれあわせた。
そのまま、ずっとそうしていた。
少年の動悸がやすまり、眠りがひそやかに忍び寄るまで。
彼が寝台に体を横たえたのを確認すると、普賢は明かりを消して自分の布団にもぐりこんだ。
明日の晩もきっと彼はうなされるだろう。
だが、それはいままでのような胸をかきむしるだけのものではなくなるはずだ。
僕にも、できることがあるんだ。
少年の寝息を聞きながら、満ち足りた思いで、普賢は目を閉じた。それはまだ望ちゃんが、望ちゃんじゃなかった頃の、話。