飲まんでよし、食わんでよし。
この身は常ならざれば。
※ふっきゅんひとりぼっちの巻
海の底を伏義が歩いていた。
理由などない、いつもの気まぐれだった。
となりの大陸まで散歩にいくつもりでいた。
風に乗るのも飽きたので、たまには歩いていこうと思った。
水を冷たいと感じたのは最初の数歩だけだった。
すぐに体は海になじみ、肺は塩水で満たされた。海の底を、黙々と伏義は歩く。
陸地を遠く離れて、はていまどのくらいであろうか。
陽光も分厚い海水の層に阻まれ、あたりは夜のようだ。
さまざまな生き物の姿が目を楽しませたのはほんの数日で、ここしばらくは奇怪な深海魚と時折すれちがう程度だ。
まだ海水がブルーだった頃は、隣の大陸についたら何を食べようかと胸膨らませていたのだけれど。
いまは考えるのも面倒で。飲まんでよし、食わんでよし。
この身は常ならざれば。ふと視界がかげった気がして、伏義は目をしばたかせた。
そうするだけで虹彩が急速に可視光線を拾い集め、あたりの闇が透明度を増していく。
眼前に広がった光景に伏義は足を止めた。
雪景色だった。
深海に、雪が降っている。
なんだろうと思う前に脳の記憶野から情報が吐き出された。----マリンスノー[marin snow]
----海中に見られる陸上の降雪に似た光景。プランクトンの遺骸などが分解・結合しつつ沈降していくもの。海雪。足元の雪をためしにすくってみると、ゆらゆらと海水に溶けて消えていく。
常人ならばただのもやにしか見えない白い煙、しかし伏義の目は幾万ものたんぱく質の連なりを見分ける。----プランクトン [plankton]
----水生生物の生活型による分類の一。水中や水面に浮遊して水の動きのままに生活しているもの。魚のえさとして重要。現海域の海雪はケイ藻類を主とする。----けいそうるい-けいさうるい-[珪藻類/ケイ藻類]
----細胞膜に特殊な構造のケイ酸質の殻を生じ、褐色の色素を有する単細胞の微小な藻類。淡水・鹹水(かんすい)・土壌中に広く分布し、種類が多い。殻の形が筆箱状のものと円盤ないし円筒形のものとに大別される。単独または群体で浮遊するも……。伏義は眉間を押さえた。
蛇口をひねるように、次々とあふれだす情報の奔流を止める。
うんざりするほど、便利な体だ。
うつむいたその身に、音もなく雪がかかる。
陸上と違い、深海の雪は冷たさを感じない。
長いマントが海雪をすくいあげ、伏義のまわりにふわふわと舞わせる。
闇と静寂に包まれた海の底でありながら、その白さは目に痛いほどだった。『……ちゃん……』
また脳が、記憶をつむごうとする。
白い手とやわらかな肩の幻。
伏義は唇をかんで思い出すまいと努めた。『…ぼ…ちゃん……だい…すき…』
これは、いらない記憶。
過ぎ去った、二度と手に入らない、苦しいだけの思い出。
伏義は頭を振って、浮かび上がる白い幻を奈落の底へ落とそうとする。
その動きがまた雪を舞い上げる。
風のない嵐のように、視界が海雪で埋め尽くされる。
声にならない叫びをあげて、伏義はうずくまった。
包み込むように、雪が、彼の上に降り積もっていく。
そのままずっとそうしていた。
どこまでも続く深海の雪原の中に、ちいさなふくらみがあった。
もぞもぞとそれが動き始め、背伸びをした。
はねのけられた雪が舞い散る。
中から現れたのは伏義その人だった。
伏義はぱたぱたと全身を払い、何事もなかったように再び歩き出した。黒い瞳に前だけを映し、彼は歩き続ける。
広大な雪原に、長いマントでひと筋の線を描きながら。