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SS~1998HongKong-イチキュウキュウハチホンコン-

 
 曰く、長兄は『太公望』の名を受け継ぐこと。
 そして。

 ※現代パラレル、寒い。こわいふーたん、略すとこふたん。

 ↓

続き

 
 無機質な長い廊下の終点は、重々しい扉だ。
 床から天井に至るまで、びっしりとまじないめいた文字とも模様ともつかない紋様が掘りこまれている。
 幾重にも張り巡らされた結界のひとつ。
 20世紀も終わろうとしているこの時代に、まだこんなものが脈々と息づいているだなどと、つい一月前まで伏義は知らなかった。
 窓の外、眼下には夜の香港が広がる。
 深夜だというのにぎらぎらとまぶしく、脈動する街明かりは得体の知れない生き物の臓腑のようだ。
 逡巡の後に扉を押す。
 沈鬱な音とともに開いた扉の先は、明かりのない広い空間だった。
 土と植物のにおいがする。
「待ってたよ」
 にこやかな声が響いた。
 同時に明かりがともり、部屋の中があきらかになる。
 そこは広大な室内庭園だった。
 巨木が枝を広げるはるかかなたに、天井を支えるジェラルミンの骨が浮いている。
 よく見ればそこかしこに、入り口にあったものと同じ紋様が走っているのがわかる。
 蜘蛛の巣のように張り巡らされた陣の中心に小ぶりな社があった。
 伏義は険しい表情のままそこに近づいていく。
 社の祭壇には人形が祀られている。
 人と同じ等身の古い人形だ。
 両足は落ち、腕もかろうじて片方がつながっているにすぎない。
 朽ちて変色した表面には大小さまざまなヒビがあった。
 パキパキとちいさな音を立てて、その表情が動く。
 人形は、はっきりと笑みを浮かべた。
 ひび割れた唇が動く。
「おかえり、望ちゃん」

 きっかけは一月前だった。
 伏義の兄、王亦が死んだ。
 車で移動中に、交差点で暴走したトレーラーに追突されたのだ。
 即死だった。
 念願かなって愛妻を迎えたばかりだったと言うのに。
 同時に切実な問題がおこった。
 王亦は古くから続くこの家の頭首で、同時に複合企業団体KYOコーポレーションの総帥だったのだ。
 すぐに在学中の伏義が呼び戻され、次期頭首としてお披露目が行われた。
 若干16歳の新頭首誕生に財界は荒れに荒れたが、伏義が正式に一子相伝の通り名『太公望』を受け継ぐ頃には沈静化した。
 気味が悪いほど、静かに。

 気味が悪いのは伏義も同じだった。
 亡き兄王亦から太公望の名を受け継ぐことになったはいいものの、しょせん16歳。
 幼い頃から帝王学を叩き込まれた兄と違い、ただの高校生として暮らしてきたのだ。
 どう考えても器ではない。
 それが王亦の死と同時に、今までの無関心が嘘のように一族の者がすがりついてくる。
 あなたでなくてはならないと、地位も名誉も財産もある古老たちが涙目で頼み込むのだ。
 ただ名を受け継ぎ、頭首の座にあってくれればよい。
 いくつかの条件を尊守してくれれば生涯安泰を補償する、雑多な事柄はすべて自分たちで請け負う、このままでは一族郎党、なによりKYOコーポレーション数万人の社員が路頭に迷うことになると土下座までされて訴えられては、伏義が折れるしかなかった。
 古老たちがあげた、いくつかの条件。
 その異様な内容に戦慄を覚えたときには、既に伏義は『太公望』を受け継いだ後だった。

 古い一族だけあって、伏義の生家には奇妙なしきたりが多かった。
 曰く、どんな夢を見てもそれを他人に話さぬこと。
 曰く、守り神への礼拝を欠かさぬこと。
 曰く、長兄は『太公望』の名を受け継ぐこと。
 そして。

 すべては、社に安置されたこの人形の仕業。
 一族がひた隠しにしてきた繁栄のからくりだった。

「どうしたの、そんなに怖い顔をして。
 月に一度の逢瀬なんだから、もう少しうれしそうにしてよ」
 人形の言葉にはからかうような響きがあった。
 伏義は無言のまま社にあがり、人形に近づく。
 祭壇の前で足を止めると、ぐっと人形をかかえて口付けた。
 押し付けた、と言うべきか。
 固くざらついた感触だけが唇に残る。
 伏義が手の甲で口元をぬぐうと、人形は笑い声をたてた。
「次はもうちょっとやさしくしてね、僕の望ちゃん」
 伏義が背を向けると人形がまた笑った。
「もう帰っちゃうの?月が西に傾くまではいっしょにいる約束だよ」
 甘えた声をあげる朽ちかけた人形に、伏義は唾を吐きたくなった。

「太公望様、先日の買収の件ですが」
 社長室の革張りの椅子の上で、慣れないスーツに居心地悪そうにしている伏義に重役が歩み寄った。
「ああ、どうなった」
「落ちました、当初の金額で」
「うそだろ?」
 重役の報告に伏義は腰を浮かした。
 あたらしい工場を建設するのに好条件な土地があった。
 だが先祖伝来の土地だとかで、地主が頑として首を縦に振らない。
 交渉は難航するはずだった。
 それが、正統な地価の半額以下で買い取れたのだ。
「御身内に不幸がありまして、急に金が入用になったそうです」
 伏義は呆れて言葉も出ない。
 そんな都合のいいことが起こるものだろうか。
 だが重役はうやうやしく礼をして言った。
「普賢様のおかげです」

 ただ名を受け継ぎ、頭首の座にあってくれればよい。

 古老たちの言葉の意味は、すぐに思い知った。
 事業も計画もなにもかもがありえないほどうまくいく。
 放っておいても業績は右肩上がり、障害はなんらかの形で挫折し、消えていった。
 伏義は椅子の上に座ってうなづいているだけでいい。
「普賢様のおかげです」
 何かめでたいことがあるつど、一族の者は口々に守り神の名を唱え、讃えた。
 めでたいこと、それは計画がとんとん拍子に行ったとか、思わぬ幸運が転がり込んできたとか、つまり、裏で誰かが不幸になった時。
 この席に座っているとよく見える。
 己が一族の繁栄が、どれほど不自然さに色取られているかを。

 太公望の名を受け継ぐ際に、古老たちが出した条件は4つ。

 曰く、どんな夢を見てもそれを他人に話さぬこと。
 曰く、守り神への礼拝を欠かさぬこと。
 曰く、長兄は『太公望』の名を受け継ぐこと。
 そして、社の人形を妻とし、月に一度愛を交わすこと。

 それさえ守れば、一族は安泰なのだと言う。
 社の人形。
 何十もの結界によって押さえ込まれた荒神は、普賢と呼ばれていた。

 祭壇に背を預けて、伏義は座り込んでいた。
 待つだけの時間は長い。
 木々の狭間から見える月はまだ中天にも届いていなかった。
「抱っこしてよ、望ちゃん」
 祭壇の上から声が降ってくる。
 伏義は無視を決め込んだ。
「ねえ、抱っこしてよ。僕今月はけっこう働いて疲れてるんだからさ。
 ちょっとくらいいたわってくれてもいいじゃない?」
「……」
 伏義はむっつりと黙り込んでいる。
 その様がおかしいのだろうか、人形は笑う。
「そんなにたいしたことは望んでないはずなんだけどなあ。
 月に一度の接吻と抱擁。
 あとはちょっとのおしゃべり。
 それだけなのに。
 何故か”望ちゃん”はみんないやがるんだよ、不思議だよね」
「……こっちが聞きたい」
「なぁに?聞いて聞いて、望ちゃんからの質問ならなんだって答えちゃうよ」
「たったそれだけで、どうしてお前は不幸が撒き散らせるんだ」
 伏義は壇上をにらみつけた。
 また人形が笑い声を立てる。
 鈴のように澄んだ声は伏義のいらだちを増すだけだった。
「不幸だなんてそんな、僕はただ望ちゃんのお手伝いがしたいだけ。
 妻が夫に尽くすのは当然でしょう?」
「……ぬかせ」
「本心だよ」
 硝子のように透明な声は、おだやかでありながらしっとりと艶めいている。
「心から愛しているよ。ずっとずっと、今までもこれからもいつまでも」
「……」
「何代でも続くといいよ。一族の歴史が長引くほど君が背負うものは多くなる。
 ますます僕の助けがいる、そうでしょう望ちゃん?」
 うつむいて奥歯をかみ締める伏義の髪を、人形の欠けた手のひらがなでる。
「遠慮することはないよ。僕にできることは何でも言って。
 君に尽くすことが僕の喜びなんだから。
 僕と君たちはずっとそうしてきたじゃない。
 そのかわり、いつまでも一緒にいようね。
 体も心も僕から離れないでいてね。
 今度の望ちゃんは、長生きしてくれるとうれしいな」
 無邪気にささやかれたそのセリフに、伏義ははじかれたように顔をあげる。
「王亦兄ぃを殺したのはお前か!」
 少しの沈黙の後、人形が答えた。
 笑みを含んだ声で。
「だってしょうがないじゃない。僕をさしおいて妻を娶ろうとするんだもの」
「てめえッ!」
 人形を叩き壊そうと立ち上がった伏義は、振り上げた腕もろとも金縛りにあった。
 全身が金釘でも打ち込まれたように痛み、脂汗が流れる。
 空中で腕を静止させた姿のまま、伏義は人形と向かい合う。
 目の前には豪華な布に包まれた、いまにも壊れてしまいそうな人形。
 瞳だけが眼球をはめ込まれているかのように生々しい。
 そのぬめついた紫の瞳がきろりと動いた。
「僕は心が広いから、多少の暴言は許すよ。
 妾を取ることも、子どもを作ることも許してあげよう。
 でも僕がいちばんじゃないのはやだ。
 僕の望ちゃんは、そんなことしない」 
「……糞が……」
「元気だね、望ちゃんはそうでなくちゃ」
 身体にかかっていた負荷から急に開放され、伏義はひざをついた。
 全力疾走した後のように体が重い。
 肩で息をする伏義に人形が微笑みかける。
「今日はこのくらいにしとこうか。明日も仕事でしょ。
 お風呂に入ってあたたまって、ゆっくり休むといいよ」
「……」
「また来てね、待ってる」
 憤怒に燃える目で人形をにらみつけ、伏義は去っていった。
 扉がとじる重い音がすると同時に明かりが落ちる。
 ガラス張りの天井の向こうは、魔都のものとは思えないほど美しい星空が広がっていた。
 普賢は星々の輝きに見とれ、瞳を伏せた。
 歌うようにつぶやく。
「愛してるよ、望ちゃん。
 君の血の最後の一滴が絶えるまで、そばにいてあげる」