深い考えなどない。
些細な、意趣返しのつもりだった。
※>>前編の続き。モテモテふーたん。おんなのこ注意。
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2嗚呼、だと思っていたのに!
「はあ?」
玉虚宮で太公望は盛大なしかめ面をした。
「なんじゃ、そのツラは。言いたい事があるなら言ってみよ」
壇上の元始天尊が飽きれたように言う。
「なんでわしがそんな使いッぱしりみたいな真似をせねばならんのですか。
白鶴にでも頼んでください。
わしは一刻でも多く修行に時間をさきたいのです」
「何を言う。師の使いは弟子の務め。
だいたい今白鶴は休暇をとっておるわ」
「ひょっとして白鶴がおらんからわしを呼んだのですか」
「そうとも言う」
ジジイ……と口に出さず毒づいた。
「ま、そういうわけじゃから。ちょいと下界まで行って照魔鏡(小)をとってきてくれ」
そう言って元始天尊は太公望に地図を押し付けた。
殷の東方にある商業都市、そこを束ねる豪商に100年前、宝貝を貸したままなのだという。
モノは人の身に姿をやつした妖怪仙人を見破る法力が籠められた珍品、の、レプリカ。
本物は力が強すぎて見破るだけでなく害を及ぼしてしまうため、目下玉虚宮宝物庫に封印中だ。
「模造品とはいえ仮にも宝貝であるからのう。
ただビトが長時間手に取ると体を壊す。
貸した本人もくたばって長いし、そろそろ返してもらって問題なかろう」
「なんだってそんなものを仙道でもない者に与えたのですか?」
「碁で負けた」
「……ジジイ」
今度は口に出た。
「やかましい!さっさと行ってこーい!」
→→P+K
「ぐはぁー!」
というわけでなし崩しに太公望は人間界へ降りることとなったのだ。
問題は普賢である。「というわけで、わしは今夜行けぬのだ」
崑崙山一般書庫の物理学コーナーで、太公望は普賢をつかまえた。
「左様でございますか。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
答えを返す普賢のまわりには、分厚い書物が何冊もある。
「それでその、あれだ。おぬしが巻いておるリボンなのだが」
言われて本人は、ああと首に手をやる。
先約有り、ではなくなったのだ。
「その、なんだ。すまんが今日一日そのままで過ごしてくれ」
「何故でしょう?」
「面倒だからだ、色々と」
主に自分が。
「たとえば?」
「……他の男が言い寄ってくるかもしれんからのう」
こんな独占欲丸出しのセリフをはくのは、太公望にとって不本意極まりない。
極まりなかったが背に腹は変えられない。
高位の道士に誘われれば、いやと言えないのが花冠の人だ。
自分がいない間、他の男に汚される普賢。
想像しただけで眩暈がする。
「またまたそんな。太公望様の取り越し苦労にございますよ」
なのに目の前のこの人は、いやになるくらいの無防備さでおっとりと微笑むのだ。
「せめて、今日は庵で過ごしてはくれぬか。
明日の朝イチで戻ってくるから」
「それでは私が修行になりません」
「しかしだな」
「うそは、よくありません」
パタンと本を閉じて、普賢が言った。
「太公望様が早く帰ってきてくだされば万事解決です。
そうではございませんか?」
「むう」
言われなくてもわかっている。
だがどうしても安心が欲しかったのだ。
普賢の口から肯定が欲しかった。
かまわない、と、たった一言。
しかしこれ以上ねばったところで戦果はあげられそうにない。
太公望はくれぐれも身辺に気をつけるようにと普賢に言い含めて、黄巾力士格納庫へ急いだ。庵に戻って昼食をすませた普賢は、出かけようとしてリボンのことに気づく。
白いリボンを引くと、しゅるりと音がしてあっけなく所有の証はほどけた。
息苦しいとおもっていたはずなのに、はずしてみるとなんとなく落ち着かない。
鏡台の前に座って、赤と青の二本を手に取る。
『よいか、つけるなら青いリボンにするのだぞ』
朝、書庫で会った太公望の言葉を思い出す。
勝手なことを言う。
いつも自分の都合ばかりだ。
勝手に見初めて勝手に押しかけて、勝手に抱いて勝手に悩んで勝手に去っていく。
きっと今朝のことも、勝手に思い返して勝手に落ち込んでいるのだろう。
「変な人……」
ほうとため息をついた。
太公望に出会ってから、振りまわされてばかりだ。
静謐な、ひとりだけの世界を求めて昇山したはずなのに、日が沈む頃には気がつけば彼を待っている。
あの目がいけない。
黒い大きな、まっすぐな瞳が悪い。
普賢を見つめる目にはいつも、不安と期待が揺れている。
その視線を受けると、いつだって彼の求めるままにしてやりたくなる。
まだ幼い面差しが、喜びに輝くのを見たくなる。
何故と問われると答えられない。
考えても考えても思考の迷宮にはまりこんでいくだけだ。
公式と定理の世界でなら、いつだって普賢は強くいられるのに。
いらだちを感じて、普賢は青いリボンを棚へ戻した。
赤いそれを首に巻く。
白い肌に映える紅は、煮えたぎる夕日の残光のようだ。
普賢は席を立ち、手荷物も持たずに外へでた。
深い考えなどない。
些細な、意趣返しのつもりだった。つもりだったのだが。
『青にすればよかった……!』
書庫の片隅で涙目でふるえながら、普賢は真剣に後悔していた。
庵から参考文献目当てに第3書庫へ向かえば、どうしても仙道らとすれ違う。
普賢のリボンが赤と認めるや否や。
「ずっと前から好きでしたー!」と絶叫する者12名。
「今晩どうだい?」とささやく者7名。
感涙にむせび泣きながら突進してくるのが5名。
無言で暗がりに引きずり込もうとするのが4名。
そのすべてから命からがら逃げおおせ、書庫に走りこんだのが3時間前。
今も、諦めきれない一行が、鼻息荒く普賢を探し回っている。
修行どころではない。
また足音が聞こえ、普賢は児童図書の一角に身を隠した。
「おやあ、どうしたんですか?」
背後からのんびりした声が響いた。
ムチ打たれたように体ごと振りかえると、そこにいたのは年経た鶴の妖精。
元始天尊の小間使いこと白鶴童子であった。
「えーと、あなたはたしか普賢、でしたかね。1年前に昇山した本の虫の」
「嗚呼、白鶴様……!」
普賢の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
このとき彼女には白鶴に後光がさして見えた。
「お願いでございます!わたくしめにおぐしを一本お与えくださいませ!」
「へ?羽根、かな?」
「お願いでございますッ!このままでは私生きて帰ることが出来ません!」
「ど、どうぞ」
勢いに押された白鶴は、翼のなかから長い羽を一本抜いて普賢に与えた。
普賢はそれをよってやわらかくすると、リボンを投げ捨てチョーカーのように首に巻きつける。
「ありがとうございます!この御恩はいずれかならずお返しいたしますのでッ!」
「あー、いやー、いいですよー」
「本当にありがとうございました!」
ぺこりとお辞儀をすると、普賢はわき目も振らずに出口に向かって駆け出した。
あとに残された白鶴は首をかしげて赤いリボンを拾った。諦めのわるい仙道たちをちぎっては投げちぎっては投げ、どうにか庵に帰り着くと普賢はようやく人心地ついた。
なんでまあこんなことになったのか。
普賢は寝台に身を投げ出し、こめかみをもんだ。
窓の外を眺めれば夕方が近かった。
西のほうが赤く染まり始めている。
食事の用意をと身を起こそうとして、彼が来ないことにいまさらながら気づく。
急に、静けさが迫ってきた気がした。
久しぶりの一人の夜。
開放感にあふれたもののはずなのに、普賢は漠然とした灰色の感情を覚えた。
頭を振っても、それは離れなかった。
さみしいと、普賢は思っていた。一方、太公望は。
「はああ?」
ケンカ売ってるとしか思えない仏頂面で、豪商にガンをとばしていた。
「も、申し訳ございません仙人様!」
太公望の剣幕に冷や汗がタラリ。
目の前の豪商は、鏡を元始天尊から受け取った商人から、数えて6代目。
すっかり家宝と化した宝貝には、我が子の婚礼前に相手の姿を映すという伝統がくっついていた。
都に住む婚約者の住まいと、この街のあいだの距離は歩いて一ヶ月。
黄巾力士を一走りさせて婚約者の眼前に鏡を突きつけ、形だけでも儀式を執り行ったところで、一晩で崑崙に舞い戻るのは無理がある。
「遠いところをわざわざお越しいただいたというのに、誠に申し訳なく存じますが、がッ!
わしら夫婦が長年望んでようやく授かった一人娘の婚礼でございます!
ひらに、ひらにご容赦を!」
地に伏して詫びる商人に追随して、年老いた妻と若い娘、さらには使用人たちまでもが土下座し始めた。
「お許しくださいませ仙人様!」
「お嬢様一世一代の晴れ舞台でございます!」
「どうか、どうか返却はいましばらくお待ちくだされ!」
「う、うぬぬぬぬぬぬ……」
奥歯を食いしばり、顔を真っ赤にしてぶるぶると震えていた太公望が、ぴたりと動きを止めた。
「せ、仙人様……?」
おそるおそる商人が声をかけた瞬間。
「ぬがーーーー!」
ガッシャーン。
太公望は窓を突き破って中庭に飛び出した。
破壊された窓枠が痛々しい。
平然と2階から飛び降り、太公望は窓際に駆け寄ってきた人々を仁王立ちで指差した。
「あるじ、この屋敷にあるものはわしが自由に使わせてもらうぞ!よいな!」
大声で宣言して、答えも聞かずに太公望は憤然と動き出した。「ただいま帰りました、元始天尊さま」
「おう、白鶴か。羽はのばせたか?」
「のばした羽根を抜かれました。
なにやら揉め事に巻き込まれた花冠がおりまして」
元始天尊は白鶴からあらましを聞くと、愉快そうに笑った。
「こっちも面白いことになっておるぞ。見てみるか?」
元始が水盆のうえをひとなですると、千里眼の映像が映し出された。
水面には夜空の中、黄巾力士を駆る太公望の姿。
手には鏡のようなものを持っている。
元始がまたひとなですると、今度はどこかの豪邸にかわった。
部屋の中には祭壇が作られ、真新しい鏡がうやうやしく祀られている。
安置された鏡は、どことなく太公望が手にしていたものに似ていた。
「太公望のヤツめ、たった半日で照魔鏡を作りおったわ」
「なんとまあ、簡単なものではないでしょうに」
「レプリカのレプリカだがのう、機能だけ見れば充分じゃて。
普賢を手折ったときはちとあわてたが、想像以上によい方向に転びそうじゃ」
ひげをしごき、フォフォフォと満足げに元始が笑う。
白鶴は手の中のリボンを見た。
どこかで見たと思ったらあれが太公望の花だったか。
ようやく合点がいく。
『前途多難っぽいですね、お二方』
上機嫌の元始天尊をちらりと見やり、白鶴は若い2人の幸福をそっと祈った。闇の夜を、彗星のように太公望は飛んでいた。
黄巾力士は全速力、崑崙山はもうすぐだ。
早く会いたい。
抱きしめたい。
気持ちがどんどんはやっていく。夜の闇を、花のように普賢は見上げていた。
食卓には2人分の皿、まだ手もつけていない。
早く帰ってきて。
いつものように抱きしめて。
気持ちがどんどんふくらんでいく。胸の内にある感情の名を、ふたりはまだ知らない。