「大丈夫ッスよ。きっと大丈夫ッス」
※仙界大戦後。めそめそ望ちゃん。
↓
空がこんなに青い日は、普賢は決まって。
「きれいだね、望ちゃん」
空なんて興味ないから、いつも自分は黙っていた。仙界大戦が終結してからというもの、太公望・楊ゼン・姫発らの首脳陣は、生き残った仙道らの扱いに東奔西走していた。
戦力をより分け、査定し、突如増えた奇妙な隣人らと西岐の人とのあいだを調整する。
さらに崩壊したふたつの島からめぼしい宝貝を発掘調査、そして仙道と人、人と妖怪、妖怪と仙道の諍いや小競り合いの調停と、煮えくり返ったなべのあぶくのように次々とわいてくる大事や小事をやっつけるのに大忙しだった。
特に太公望の働きはめざましく、常時これくらい働いてくれたらと、まわりがため息をつく毎日だ。
山積した問題群にようやく形が見えてくるころには、一ヶ月がたとうとしていた。「お師匠様、お茶どうぞ!」
「桃もあるっスよ!」
「ああ、すまんな武吉、スープー」
姫発とともに書類の山に埋もれていた太公望が顔をあげた。
手はまだ忙しく動いている。
「少しは休まないとダメっすよ、ふたりとも」
「んだなー。太公望、休憩しようぜ」
さっそく席を立って新鮮な桃にかじりついた姫発が、太公望のあたまをぽんと叩く。
「そうだのう、ひとやすみするか」
太公望は手を止めると長いため息をついた。
3人と1匹で山盛りの桃を囲んでひとときの休憩を楽しんでいると、ノックの音とともに扉が開いた。
「失礼します。おや、おいしそうですね」
楊ゼンだった。手には分厚い報告書の束を持っている。
「おう楊ゼン、こっちにきておぬしも食べるがよい」
「山向こうの桃畑の朝摘みですよ!」
「みんなで食べたらおいしいっス」
「そうですね、では僕もお邪魔させてもらいましょう」
楊ゼンは席に着いて桃を手に取る。
話題は自然に報告書のことになった。
「金傲島のおもな宝貝はほぼ全滅ですね」
「ふむ、めぼしいものはなかったか」
「崑崙より進んだ文明なんだろ?
いっこでも見つけとけば役に立つかもしれなかったのになあ」
「しょうがないっスよ、あれだけ派手に壊しちゃったら」
「やっぱり星を落としたのがいけなかったんですかね」
「それもあるけど、やはり普賢様の自爆の衝撃波が……師叔?」
楊ゼンが怪訝そうに向かいに座る人物を呼ぶ。
太公望は止まっていた。
桃をかじりかけたまま、まるっきりの無表情で空を見つめている。
規則正しくまばたきする以外は微動だにしない。
「太公望?」
「お師匠さま?」
「御主人?」
声をかけると、ぱちぱちとせわしなくまばたきして、太公望に生気が戻ってきた。
「ああ、どうした皆の者?変な顔をしおって」
「……」
誰ともなく目を合わせると、姫発が太公望の頭をもう一度たたいた。
「太公望、おまえ今日一日休みな」
「何を言う、まだまだ仕事が残っておるではないか」
「俺が休みって言ったんだから休みだ。命令な」
「しかし……」
「でももしかしもねえ、武吉、スープー、こいつをつまみだして部屋に閉じ込めとけ」
「了解ッス!」
「ラジャー!」
「あ、こら、待たんかおぬしらー!」
武吉はあっというまに太公望を担ぎ上げ、スープーとともに執務室を出て行く。
太公望の叫び声がまたたくまに遠ざかっていくのを聞きながら、姫発と楊ゼンは顔を曇らせていた。ほんの二つ三つしか違わないのに、えらく先輩風を吹かすのだ。
「だって心配だもの」
なんて言いながらとことこついてくる。
たしかに自分は年下だ。
昇山したのも普賢より一週間遅れだ。
でもこんなふうに、まるでちっちゃい子みたいに扱われるほど差があるとは思えなかった。
腕だって脚だって自分のほうがちょっと太いし、体術の成績だって自分のほうが上だ。
身長だって、いまは少し負けてるけど、ほとんど同じだ。
なのにまるでちっちゃい子にするみたいに、ふわりと抱きしめて額にキスをくれるのだ。
「よくがんばったね、えらいえらい」
なんて言いながら。太公望は寝台に寝転がって、ぼんやりと雲が流れるのを見ていた。
部屋の外では武吉が見張っているし、屋根の上にはスープーシャンが待機している。
なにがなんでも太公望に休養を取らせようとしているのだ。
肉体的な疲れもあって、太公望に抜け出す気力はなかった。
周の軍師として自分に割り当てられた部屋は、広すぎず狭すぎず居心地は悪くない。
だが、どうにも目を閉じることが出来ないでいる。
久しぶりに何もない時間が過ぎていく。
この一ヶ月、太公望はほぼ不眠不休だった。
クマを浮かせながら会議を繰り返し、腕が上がらなくなるまで書類と格闘して、短く泥のような眠りを貪って跳ね起きる。
ぐっすり眠れないし、眠るわけにはいかないし、眠りたくなかった。
眠れば、アレが追いついてくる。
眠りたくない。
眠りたくない。
意識とは裏腹に、連日の疲れが太公望をまどろませる。普賢なんか嫌いだった。
どこかへ行ってしまえばいいと思っていた。
ひとりになりたいのに、いつだってとことこついてくる。
抱きしめられるのも、頭をなでられるのも、ほめられるのも、額にくれるキスも、イヤでイヤでしょうがなかった。
子ども扱いされてる気がして。
だいたい、ことあるごとに話しかけてくるのがうざったくてしょうがない。
日差しの中を歩けば「今日は暑いね、望ちゃん」
まだ青い実をつけた樹のそばを通れば「楽しみだね、望ちゃん」
空を見上げては、「きれいだね、望ちゃん」
暑いの寒いのなんてどうでもよかったから、黙っていた。
食べられない木の実だと知っていたから、黙っていた。
空なんて興味ないから、黙っていた。ふと気配を感じて太公望は目を開けた。
白い霊獣が彼をのぞきこんでいた。
ひらいたままの窓枠が、風に揺れてキイと鳴る。
「スープー……、わしはどのくらい眠っていた?」
「ほんの10分程度ッスよ」
「そうか」
太公望は嘆息すると体を起こそうとした。
スープーシャンが手を伸ばしてそれを押しとどめる。
「ダメっス御主人。今日は休みって言われたっス」
「しかし仕事が……」
「ダメっス!御主人はいまぐうたらするのが仕事ッス!」
きっとまなじりをあげたかと思ったら、スープーはしょんぼりした様子に戻った。
「いくらなんでも働きすぎッス、体によくないッスよ……」
「だが……」
「御主人はだらだらするのが得意じゃなかったんスか?」
「む、まあ、そうだが」
「ほら、こんなにぐうたら日よりッスよ。窓の外を見るッス!」
スープーシャンが窓をふりむいた。
つられて太公望もそちらに目をやる。
窓の外には、硬く澄んだ夏の空色が広がっていた。
高潔で純粋な、青。
スープーシャンがまぶしげに目を細めてつぶやく。
「きれいッスね、御主人」
太公望の中で、なにかがはじけた。普賢なんか嫌いだった。
どこかへ行ってしまえばいいと思っていた。
抱きしめられるのも、頭をなでられるのも、ほめられるのも、額にくれるキスも、イヤでイヤでしょうがなかった。
だってそうされると、自分は妙に浮き足立って、頬が熱くなって、胸の奥がぎゅっとなって。
赤い頬を見られたが最後、「望ちゃん、かわいい」なんて言われて、抱っこされてほおずりされて、そうなるともう本格的に胸が苦しくなって耳まで真っ赤になって、普賢の顔がまともに見れなくなって。
子ども扱いされるのがイヤだった。
ちゃんと男として見てほしかった。
キスは額じゃなくて唇にほしかった。
空なんて興味なかった、その手を握りたいと、いつも願っていた。「ご、御主人?」
太公望の両眼に、見る見るうちに涙があふれてくる。
「スープー……」
忠実で気のいい霊獣の鼻面に太公望は抱きついた。
「眠りとうない、眠ればアレが追いついてくる。
……わしは立ち止まるわけにはいかんのだ!」
血を吐くような叫びが太公望の口から漏れた。
「御主人……」
嗚咽を押し殺す主人を、スープーシャンはどうしていいのかわからず、ちいさな両腕をせいいっぱい伸ばして包んであげる。
「大丈夫ッスよ。きっと大丈夫ッス。
今日は天気がいいから大丈夫ッスよ。
明日も晴れるから大丈夫ッスよ」
自分でも意味のわからない慰めを、スープーシャンは何度も繰り返した。「明日も晴れるッスよ。だから、きっと、きっと大丈夫ッス」