「……ない……」
※死にネタ。痛くて寒い。
↓
開け放したままの窓から冷気が流れこんでいた。
霜の降りたテーブルの上で、揺れ動く風が耳の奥を引っかく。
ヨウゼンは扉をしめると、師叔、と小声で呼んだ。
答えはない。
しかたなく、だらしなく散らかったままの部屋を進む。
冷気のせいか、それとも荒れた室内のせいか、我知らず足音を忍ばせてしまう。
帳の向こうの部屋の主は、長椅子に体を預けて石像のように沈黙していた。
かろうじて上下する胸元が、無機物でないことを知らせる。
「師叔」
何度目かの呼びかけのあと、まぶたが薄くひらかれた。
朝焼けめいた不吉な色の瞳が、ヨウゼンを一瞥する。
「具合は……」
どうですかと続けた言葉は口の中で立ち消えた。
おっくうげながらも、黒衣の彼が身を起こしたからだ。
数年ぶりの身じろぎだった。
鵬のようなマントが長椅子の下にすべり落ちる。
「だるい」
「……」
「冷えてきたな」
「……ええ。もう、とうに冬ですから」
ヨウゼンは真っ白な吐息をついている。
対して目の前の男からは気配も感じられない。
呼吸すら、していないのかもしれなかった。
「体が重い」
「そうでしょう、冷えてるんです」
きっぱりと、ヨウゼンが言った。何かを振り切るように。
「師叔、立ってください。僕と一緒に蓬莱島へ戻りましょう。
暖炉と食事と、ぐっすり眠れる寝台のある所に行きましょう」
返事は、なかった。
粉雪交じりの風が吹きつける。
「……戻ってもよいのだが」
沈黙の果てに彼は頭をめぐらし、窓の外を見た。
独り言のようにつぶやく。
「なにか忘れておる気がするのだ」
「いいえ」
ヨウゼンが激しく首を振る。
「いいえ、いいえ。何も忘れてはいません。
師叔、いつだってあなたは完璧です。何も失くしてはいません」
そうか、と、ため息のように男はつぶやいた。相変わらず窓の外を見たまま。
「なにか忘れておる気がするのだ」
「いいえ師叔、それは間違いです。あなたは何ひとつ欠けてはいません」
男は無言のまま立ち上がった。酔客めいた足取りでテラスへ近づく。
「……やはり、なにか忘れておる気がするのだ」
すれ違いざまに聞こえたつぶやきに、ヨウゼンは彼の肩をつかもうとした。
だが、その手はむなしく空をつかんだだけだった。
「師叔!」
はりあげた声すらも届かない。
黒衣の彼は柵を乗り越え、姿を消した。どこをどう歩いたのか。
右か左か、北か南か、上か下か、朝か夜か。
踏みしめるこれは、大地か、それとも大気か。
なにもかも曖昧なまま、伏義は吹雪の中をさまよう。
体は芯まで冷えきっているはずなのに、不思議と何も感じない。
まつげを凍らせ、のどをふさぐ雪がうっとおしいだけだ。
幾度目かのまばたきの後、雪が小降りになっていることに気づいた。
冷気もゆるんでいる。
穏やかにふりつもる雪の上を、彼は引き寄せられるように歩いた。
さくさく、さくさく。
色彩をぬぐいさった雪景色の中で、彼の足跡だけが細く長く続いていく。
丘の頂点に至ると、その先は別世界だった。
四方を丘に囲まれた、その場所だけが花畑。
雪の代わりに、くぼ地一面に青い花が咲き乱れている。
予感に似た衝動が、彼の胸を叩く。
異様な風景に誘われるように、伏義は花畑へ足を踏み入れた。
うってかわって爽やかな風が、ぬくもりとともに彼のマントを揺らす。
伏義は眉をしかめ、口を真一文字に結んだまま奥へ奥へと突き進んだ。
予感が確信に変わるにつれて、歩みも速くなっていく。
人の気配を感じて、伏義は先を急いだ。
丈の高い花々をかき分け、ついにたどりつく。
ぽかりとひらけたその場所で、少年がひとり、土を掘っていた。
息を切らした伏義をよそに、少年はうつむいたまま、手を動かしている。
「何をしている?」
少年は答えない。
素手で土を掘っている。
「何を、している?」
2度目の問いにも手を止めないまま、黒髪の少年が答える。
「……さがしてる」
「何を」
「だいじなもの」
そのまま無言で、少年は作業に没頭する。
のろのろと大地を掘り返し続ける両手は、そこここから血がにじんでいた。
あらかた掘りつくして、ようやく少年は手を止めた。
「……ない……」
少年が顔をあげ、ゆらりと立ち上がる。
「どこに、埋めたんだっけ。わからない、わからない。
目印に青いコスモスの下へ埋めたのに。
見つからない、どこもかしこも同じ色で。
探さなきゃ、どこに埋めたんだっけ、探さなきゃ。
おまえ、知ってる?」
振り向いたその顔は、自分と瓜二つ。
にごった瞳が伏義を映した、その瞬間、何かがはじけた。
おぼろげな霞の奥でけたたましい。
――やめてよ、離してよ!
耳に突き刺さるあれはきっと皿が砕ける音。
――いいかげんにしてよ、いつまで恋人きどりでいるのさ。別人のくせに、望ちゃんじゃないくせに。寄らないでよ、気持ち悪い、さわらないでよ!振り払おうとする細い腕をつかんで押し倒してそれから。
それから?
それから……。「やめろ……」
伏義がうめく。
「よせ、やめろ、違う、わしは……」
マグマのようにこみ上げてくる記憶を意識の外に追い返そうと、すればするほど伏義の額に冷や汗がにじむ。
その輪郭がぼやけ、その影がぶれていく。
「……違う!」
叫び声と、耳ざわりな破裂音、閃光。
突風。
思わずうつむいた少年が再び目を開ける頃、そこに伏義の姿はなかった。
退路としてこじあけられた空間が、ぎちぎちと火花を散らしてとじていく。
ゆがみが消え去ったあとに残ったのは、黒髪の、にごった瞳の少年が、もうひとり。
「……どこに、埋めたんだっけ」
同じ顔のふたりはそろってつぶやくと、よろめきながら青いコスモスの中へ消えていった。