「そうだなあ、ひさしぶりにコーヒーが飲みたいな」
※現代 ほのぼの
太極符印に浮かぶ転送という字が黄色から白に変わって、消えた。
「よし!」
僕は相棒をソファの上に置き、立ち上がって伸びをした。
10:22、最終報告完了。先月からかかずらっていた西方からの依頼もこれでおしまい。今夜は祝杯だ。楽しみにしてたあれこれも出そう。念のため神界からの依頼をチェックした。特に急ぎの仕事はない。
ああ終わった終わった。部屋の中が人に見せられないことになっているけど、とりあえず一眠りしよう。どうせ僕しか居やしない。ひとまずシャワーで汗を流して……そこまでいったところで思考が止まった。
背後から長い影が伸びていた。鵬の、翼のような。
誰なのかはわかっていた。だけど、がっついたらなかったことにされそうで、僕はゆっくり振りかえる。
「おかえり」
ベランダに続く窓を背に、望ちゃんが立っていた。初夏の太陽の生き生きした輝きが彼のマントを縁取る。
「ただいま、普賢」
こんなに早く帰ってくるなんて思わなかった。3ヶ月ぶりの笑顔に僕は胸がいっぱいになる。
望ちゃんはいつもふらりと出て行って、ふらりと帰ってくる。彼は風、ひとつところに留まれない性質なのは知っているけど、遊びに行くのなら一言いってほしい。
喉元まで来ていた不満がくしゃりとつぶれる。鼻がつんとしてきた。あーあ。
「……おかえり」
「泣いているのか?」
「泣いてないよ」
望ちゃんが僕に近づく。長いマントの豪華な衣装が砂のように崩れて床にこぼれ、影にとりこまれてく。僕の目と鼻の先に来たときには、彼は黒いTシャツとジーンズの軽装に変わっていた。
「今帰ったぞ」
顔を寄せられて、唇に一瞬だけ柔らかな感触。うっかりゆるみかけた頬をむくれさせ、僕は望ちゃんのほっぺをむにってした。軽い笑い声が響く。
「たいそうな挨拶だのう。一仕事終わるまで待ってやったというに」
「手伝ってよ。始祖のくせに」
「手伝えんのだ。始祖だからのう。だが部屋の片づけくらいはできるぞ。掃除ならわしがしておいてやろう。おぬしは休むがよい」
望ちゃんは楽しそうに手のひらを拳で叩いてみせた。
「……熱でもあるの?」
「あるぞ。おぬしを前にすると体が火照ってしかたがない」
「まだお湯でないから、シャワーで水でも浴びてきなよ」
うろんな目でながめた僕にむかって、望ちゃんは大仰に両手を振った。喉の奥で笑いながらダイニングの椅子にかけられていた僕のエプロンをつける。
「うむ、なかなか闘志をかきたてられる散らかりっぷりだな」
「すいませんね、修羅場だったんですよだ」
ぷっと頬を膨らませた僕を流して、望ちゃんは汗を流したら一寝入りするかと聞いてきた。その予定だと答える。朝が遅かったから昼食はいらないとも。
望ちゃんはうなづくとてきぱき片づけを始めた。僕がシャワーを浴びてさっぱりした頃には、部屋の中はずいぶん風通しがよくなっていた。……手早い。
僕の視線に気づいた望ちゃんがにんまりした。
「ふふんどうだ。おぬしではこうは行くまい」
「ええはいはい、どうせ僕はぶきっちょですよ」
得意げにごほうびをねだられたから、おでこにキスしてあげた。きゅっと抱きしめられる。
僕も望ちゃんを抱きしめかえす。軽いキスを何度もしてるうちにあくびがもれた。望ちゃんが僕の手を引いてベッドまで連れて行ってくれる。
「仕上げに掃除機をかけるから今からちとうるさいぞ。使わん方法も無きにしも非ずだが」
「いえ、掃除機使ってください……前みたいに部屋が異次元につながったら困る」
「ふすまをあけるとそこはジュラ紀だった、というのは状況としてはおもしろかったのだがな」
「望ちゃんが管理人さんに怒られてくれるならいいよ」
「遠慮する」
僕はベッドに寝転びながら、気合と勢いだけで生きてるかのような年若い管理人さんの顔を思い浮かべた。からめ手が通用しない、僕も望ちゃんも苦手なタイプの彼。たしか桜さんと言った。
「あの人いつか絶対過労死するよね」
「いやー、意外と長生きするぞああいうのは」
横になった僕の髪を撫でて望ちゃんは立ち上がる。出て行くとき、扉を開けたままにしておいてくれた。狭くて広い長四角の向こうに、掃除をする望ちゃんの背中が見えてなんとなくうれしくなる。重くなっていくまぶたを押し上げながら彼を見ていた。
望ちゃんがふと手をとめ、僕を振りかえる。
「普賢、おやつは何にする?」
「おやつ?」
「昼を食べんのだろう?夕飯までになにか腹にいれておけ。
和菓子にするか?洋菓子にするか?点心でもいいぞ」
うわあ、ほんとにどうしたんだろう。今日の望ちゃんは気がきき過ぎて不気味だ。こういう気の使い方ができる人だと、知ってはいるけど。
「急に言われてもえらべないよ。おなかすいてないし」
「飲み物ならどうだ。紅茶でも緑茶でも白茶でも黒茶でも、ジュースでもネクターでもスポーツドリンクでも」
さながら立て板に水のごとく。ほっておくと際限なく増えていきそうな選択肢に僕は苦笑する。眠気でとろんとした頭に浮かんだ答えは。
「そうだなあ、ひさしぶりにコーヒーが飲みたいな」
「コーヒー?」
望ちゃんはびっくりしたように僕を見つめた。あんまりまじまじと見られるので居心地が悪くなる。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない。コーヒーか、コーヒーな。たまにはよいのう」
望ちゃんはうむうむとうなづくと背伸びして戸棚からコーヒーメーカーを取り出した。
「インスタントでいいよ」
「あれは味が悪い」
振りかえる望ちゃんの目は既に本気モードだった。
「ぬう、モカか。まあよかろう。しかし開封してずいぶん経つな、香りが抜けてしまっているではないか。許せん」
ぶつぶつと独り言を言っていたかと思うとやおら利き手を鋭く振った。足元から影が伸びあがり、彼の体に絡みつく。そのまま鵬の翼のようなマントに変じていく。
「玄関から出て行ってよ!」
僕はあわてて釘を刺した。またご近所に見られたらどうする気だろう。そろそろ管理人さんへの言い訳も尽きてきたのに。望ちゃんは不服げにしていたけれど、やがて首を振った。黒マントがざあっと崩れ落ちて、Tシャツ姿に戻る。
「ブラジルまで買いつけに行きたいところだが、いたしかたあるまい。角の食料品店まで行ってくる」
ジーパンのポケットに財布をねじこんで、望ちゃんは出かけてしまった。こぽこぽと湯の沸く音が聞こえて、僕は目を覚ます。
部屋には胸ときめかせるような香りが漂っていた。
「起きたか」
僕はあくびをしつつパジャマのままダイニングの椅子に座る。時計を見ると3時をまわったところだった。
テーブルの上には金の縁取りの白い皿がふたつ。華奢なフォークと一緒にまるまっちいケーキがのっかっている。
「ハチミツロールケーキ?」
「ハチミツロールケーキ」
どうだとばかりに望ちゃんが胸をはった。角のスーパーのはす向かい、路地に入って4軒目の喫茶店スパルタの限定ロールケーキ。毎年この時期にしかお目見えしない逸品だ。僕が無言で親指を立てると望ちゃんは満足げにうなづいた。
コーヒーメーカーがおとなしくなる。望ちゃんはサイフォンを手にとると僕のマグカップになみなみと、自分のマグカップには半分くらい注いだ。
「ほれ」
受け取ったとたん、指先にじんわりと温もりが伝わる。心地よさに笑みがこぼれた。ストレートな苦味をそのまま味わうと、波に洗われたように眠気が一掃されていく。両手に感じた温かさがそのまま体に広がっていった。
望ちゃんはマグカップに砂糖とミルクをどぼどぼいれる。それは既にミルクコーヒーではなくコーヒーミルクではないかという僕の疑問は仕上げに入れられたガムシロップの前に沈黙した。コーヒー風味の何かを口にしながら望ちゃんが言う。
「たまにはいいものだな」
苦笑しながらそうだねと返す僕に望ちゃんは首をかしげた。追求されると面倒なことになりそうだったので、ロールケーキの皿を彼に押しやる。
「で、今回の家出は何が理由?」
「家出とは人聞きの悪い。遊びに行っておったのだ」
「月単位で姿を消すのは失踪と言います。まあ今回は早く帰ってきたからよしとするけど」
「何だったかのう。ちょっと待て、思い出すから」
腕を組んで首をひねって、フォークをくわえたままうむむとうなって、望ちゃんはぽんと手を打つ。
「そうだ、猫だ」
「ねこ」
「散歩に出たら、ちっこい猫がな、電信柱に登ったまま降りられなくなってニイニイ鳴いておったのだ」
「それを助けてあげたと」
望ちゃんはこっくりうなづくと先を続けた。
「助けるために登ってみたらな、電線のつらなりが迷路に見えたのだ。あれはどこまでも続いているようで意外と行き止まりが多くてだな、わしはひとつ行けるとこまで行ってみようと思って、猫をおろした後電線の上を歩いていったのだ」
「どこまでいけた?」
「神奈川くらいまでは」
「がんばったね」
寄り道もたくさんしたのだろう。彼は天才的に面白いことを見つけるのが上手なのだから。
前は影ふみをしてるうちに夢中になってそのまま2年帰ってこなかった。ユーラシア大陸を横断してきたがドーバー海峡に阻まれたらしい。
望ちゃんの言うことがどこまで本当かはわからない。けど、彼は帰ってきてくれた。ただいまと言ってくれた。なら僕が彼に言う言葉はひとつだけだ。
「楽しかった?」
「んむ」
望ちゃんは満面の笑みを僕に見せる。
「次はおぬしも一緒に行こうな」
「そのうちね」
僕はロールケーキを口に含む。ハチミツの、甘くてどこかなつかしい味。ほろりとくるような。
コーヒー気味飲料を静かに味わっていた望ちゃんが、ぼそっとつぶやいた。
「昨日な、夢の中におぬしが出てきたのだ」
先をうながす僕に望ちゃんは続けた。
「それがとんでもない甘党なのだ。
カフェーのようなところで洋風の軽食を嗜んでおったのだがな。
おぬしのコーヒーはミルクのほうが多くてだな。角砂糖をいくつも入れてとどめにガムシロップまでいれておったのだ」
望ちゃんは手の中のマグカップをおもしろそうに見つめた。
「目が覚めて、そんなはずがないとひとりで笑っていたらな、急に会いたくなった」
「だから帰ってきたの?」
「悪いか」
ふてくされてそっぽを向く望ちゃんの頬が赤い。
ああ、そう、なるほどね。
僕はひとつひとつ思い出していく。仕事が終わるまで待っててくれたこと、疲れた僕の代わりに家事をしてくれたこと、気味が悪いくらい気を使ってくれたこと。……すこしは後ろめたく思ってくれてたわけだね?
なんだ、大事にされてるじゃん、僕。
「望ちゃん」
僕は頬杖をついて笑いかける、目の前の愛しい人へ、にっこりと。
「今夜はご馳走だよ、楽しみにしてて」
「うむ」
幸せそうにロールケーキをほおばる望ちゃんのために、僕はとっときの酒瓶の封を切ることに決めた。