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SS~Ghost in the Shadow

 
 幽霊はいる。いるのだ。
 
 
 ※仙界大戦後。ポエムっぽい!
 
 
続き
 
 

 悲しい夢を見た気がした。
 楊ゼンは寝台に座りこんだままぼんやりと朝の光を浴びていた。
 小鳥の声が耳を撫でて、ようやく意識が舞い戻る。
 とても悲しい夢を見た気がして、楊ゼンは左の肩越しに振りかえってみた。
 左の肩越しに振り返ると幽霊が見えるという。
 振り返ったその先はいつもの自分の部屋でしかなく、壁が白々と朝の光を浴びてそっけなく光っていた。

 執務中に、楊ゼンはふと今朝の出来事を思い出して話の種にした。
 ぶつくさ言いながら書類をやっつけていた太公望は手を止めて、最初はおもしろげに、次第に興味を失ったかのように目を伏せて楊ゼンの話を聞く。
「夜見る夢は幻だ」
 書簡に目を通しながら、太公望が言った。その声は静かではあったが穏やかではなかった。
「脳の見せる幻影に過ぎん。幽霊もまた然り。
 魂魄体はすべて彼の場所に封じられている。万に一つも彷徨い出る可能性はない。
 ならば左の肩越しに人影が見えたとしても幻に過ぎぬよ」
 この男にしては珍しく、表情の失せた顔で、どこか不愉快そうに言い切る。
 上司の機嫌を損ねたかと楊ゼンは首をすくめたが、お茶と言いながら湯飲みを差し出す彼は既にいつもどおりだった。
 盆の上に湯飲みをのせて下がる楊ゼンを見送り、誰もいない執務室で太公望は筆を投げ出した。カランと乾いた音が部屋に響く。跳ねた墨が机を汚したが、彼は頓着せず伸びをして背もたれに寄りかかった。
 自嘲がもれる。

 幽霊はいる。いるのだ。

 それは後頭部にある大脳と頭蓋骨の隙間、ひらべったい影の中にいる。
 理性の光で世界を埋め尽くそうと、隙間には必ず影ができる。日が昇るほどに暗く濃くなる影の中、幽霊はそこにいる。
 夜になりすべてが闇に浸たされ、影の輪郭がぼやける頃、幽霊はするりとそこから抜け出す。
 太公望の影にいる幽霊は、青白い肌で青褪めた服を着ている。その姿は誰にも見えはしないが、彼にははっきりとわかるのだ。
 幽霊は寝台で寝返りをうつ太公望に寄り添う。そして手を伸ばし、彼の額を撫でる。
 血の気の薄い肌はひんやりと心地よく、眠りに落ちる直前でさえ目まぐるしく回転を続ける彼の脳が発する熱を吸い取ってくれる。目を開ければ消える幻だと知っているから、太公望はまぶたを閉じたまま愛撫を受け入れる。
 体内を循環する過剰な熱量が失われ、凪いだ血潮が脳の動きをゆるめて、彼はゆっくりと眠りへ沈んでいく。穏やかな寝息を聞き取ると、幽霊もまた闇に溶ける。
 やがて朝の光がすべてを薙ぐ頃、幽霊は影へ還る。
 隙間にあるくっきりと濃い平らな影の中に戻っている。容赦無く照りつける日光も幽霊を害することはできない。
 昼の太公望は太陽の下で動く。
 重鎮達と顔つきあわせ、作戦を練り、軍を指揮する。万を越す兵士の命を預かる身に迷うことは許されない。曇りなくよどみなく掲げた手を振り下ろす。先頭に立つ彼が切り開く道の上、仙人も凡人も聖人も俗人も、富める者も貧しき者も持てる者も持たざる者も、夢の国を目指して突き進む。
 少年のまま老成した彼には責任の意味も重さも理解できる知恵があり、それらをものともしない一途さがある。頂点たる太公望の求めるまま、灼熱の太陽を背負った軍隊は陽炎の中を行進する。
 幽霊は影の中からそれを見ている。街道を往く時も、枯れた草を踏む時も、駐屯地でぬるい水をすするその時にも。
 後ろにありけして離れず、しかし常に存在を忘れられた影の中から幽霊は眺めている。太公望の一挙一投足、空を切る指先、袖口からこぼれた悔恨、それを踏みつぶした靴跡の軌跡と乾いた風になびくマント。潤いを奪われた唇が割れるたび舌先で舐めとった赤い色まで。いついかなる時も幽霊は彼に寄り添っている。
 だがしかし、幽霊は幻に過ぎない。ひらべったい影はスクリーンで、そこに映し出された幽霊は幻覚でしかないと、彼は賢明であったから深く深く理解していた。
 故に彼は否定する。幽霊の存在を。
 眠りに落ちるその時、額に触れられる心地よさ。寄り添う肌のなめらかな感触。重なる寝息の安らかな響き。そのすべてを享受しながら、彼は幽霊を否定する。
 喧騒渦巻く日差しの下を歩むために。
 
 時は流れて。

 努力と犠牲と昼と夜の果てに、悲願は成就した。 
 軍隊は解散し、組織は崩壊し、仙と人は別たれ、聖と俗は離れた。ひとつであったものがいくつもの塊に分かれ、塊はさらに崩れて個に戻る。それもやがて、自分の道を歩むために散っていった。
 祭りの喧騒の後には、存外に静かな世界が残った。地を埋め尽くす群集のうねりも街道を進む軍靴の木霊も無い。個々の生命が奏でるささやかな音が、交じり合い響きあい青空の下で調和する新たな時代。
 己の望んだ世界の片隅で、もはや太公望ですらなくなった男があくびをした。
 男は背伸びをすると歩き出した。鵬のような黒いマントが、影のように足元をふらつく。ついに何に頼ることもなく穏やかに眠れるようになった彼は初めて、立ち止まり左の肩越しに振り返った。

 その先に立つのは脳の影に映る幻などではなく。
 

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■ノヒト ... 2007/07/12(木)22:58 [編集・削除]

こう暑いとクーラーをガンガンにきかせて鍋をつつきたくなりませんか?