だけど時々疲れてしまう。
※暗い 12禁くらい
壁の時計がそろそろ昼休みの終わりを告げる頃、望ちゃんが紺の上着を着込んだ。
「ではな、普賢」
午後の修行を自主休講にして、今日はどこに行くのだろう。窓に目をやると渡り廊下の影にほっそりした姿があった。望ちゃんが最近懇意にしてる花冠のひとりだ。丈の長い衣をまとっているけれど、襟ぐりが大きく開いていてやわらかそうなまるい肩がのぞいている。
「望ちゃん、サボリはよくないよ」
「ジジイにはうまく言っておいてくれ、いつものようにのう」
キミは共犯者の顔で、僕が裏切るなんて思ってもいないといいたげに笑う。腹の底でどう思っているのかは僕にはわからない。
僕はまなじりを険しくしてみせて、呆れた風を装おう。小言をひとつふたつ。望ちゃんは軽い笑い声を響かせると、片目をつぶって執務室の扉を開けた。隙間からのぞかせた手をひらひらと振って、ぱたん。
小さくため息をついて、僕は言い訳を考え始める。お昼を食べ過ぎておなかを痛めたということにでもしておこう。
きっと元始天尊様はお顔をしかめるだろう、僕の嘘を完璧に見破って。そして軽く肩をすくめて、流してしまわれるだろう。無駄なことはなさらない方だから。
椅子の上に置き去りにされた鞄が、初夏の日差しを受けてもの寂しげに光っている。窓からは爽やかな風がさらさらと流れてきて、僕の髪を揺らした。
玉虚宮の僕の執務室は、キミがいなくなると途端に広くなる。
マジメでおかたくてきれいごとばかり言うけどキミに甘い。それがキミの選んだ僕。僕の選んだ僕。
だけど時々疲れてしまう。
キミにとって都合のいい存在であり続けると決めたのは僕なのに。ひっそりと抱いた決意を笑顔でくるんで、間近で見るキミの瞳に高鳴る胸ごと羽衣の下へ隠す。キミへの思いを自覚したあの日から、僕の顔は笑みのまま石のように固まったまま。
壁の時計がつつましく鐘の音を鳴らす。僕は退屈な書類の束を手に取り、置きなおした。表札を外出中に変えて、部屋を出る。あてもなく歩く。胸の内のよどみがたぷたぷ揺れた。
玉虚宮の廊下は、どうしていつもこんなに寒いのだろう。外は夏が近いのに、この場所は冬のよう。陰鬱な光が天窓から静かにふりつもる。
あの日もとても寒かった。こんな風に静かで陰鬱な光がさしていた。
キミがまだ自分のことを俺と呼んでいた頃。風邪を引いて熱を出して、僕はお休みをいただき、ひとり眠っていた。意識が朦朧として、頬が火照って、寒くてたまらなくて。起き上がることもできずに布団の中で夢うつつをさまよっていた。
お昼だっただろうか、キミが帰ってきて。
僕は気づいていたけれどだるさに声をあげることもできず、まぶたを開くこともできず。けれど、キミが僕に寄りそうのがわかった。
「普賢」
呼ぶ声がふるえているのは心配してくれているのだと、答えなくちゃと気ばかりがあせって、だけど熱に浮かされた僕は身動きひとつできず。ただわずかに細い呼吸をくり返すだけで。
突然あたたかい感触が押しつけられた。
それがキミの唇だと気づく前に舌が押し入って僕の口内をまさぐる。
歯列をなぞり、舌を絡めとられて。キミは僕の頭を両腕で抱きしめるように包みこんで、渇いた獣が水場をあさるような口づけをしたね。何度も僕の名前を呼んで。くりかえしくりかえし。
気づかないふりを必死で続ける僕をきつく抱きしめて、血を吐くような声で僕の名を呼んだ。離れていくその時薄目を開けてみれば、キミの目尻に涙が浮いてた。
キミはひどく苦しげで荒い息遣いを押し殺そうとしていた。僕は目を閉じて何も見なかったふりをした。……気づいていたのかな?
あの日から、僕の時間は止まったまま。
熱が下がり僕が起き上がれるようになった時には、キミはもう既に何事もなかったかのようにふるまい、僕もまた何事もなかったようにふるまい。季節は変わり、移ろい、キミは成長し、言葉遣いも変わり、つきあいも増え、世界は広がり、いつか僕に語ってくれた遠い日の理想に向けて着々と。
僕もまた成長し、仙人となり、弟子を取り、十二仙にまで認められて……なのに想いはあの冬の日、窓辺で凍りついたまま。かじかんだ魂でキミの口づけを思い返してはため息をつく。
もういっそ、あれはすべて夢だったと、そう思えたら楽なのに。
笑いさざめく声が聞こえる。キミと僕の知らない女の人の。
幻聴だと知っているのに僕にはそれしか聞こえず。うずくまり耳をふさぐ。