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SS~霧雨

 
 最初、望はそれを死体だと思った。
 
 ※修行時代 出会い
 
続き
 
 

 
 
 最初、望はそれを死体だと思った。
 草の上に投げ出された腕があまりに青白く、血の気がないように見えたからだ。
 悲鳴を抑え損ねて、かえるの鳴き声のような音が喉から漏れた。どうしてここにと、疑問がかけめぐる。こんな空の上の、不老不死のはずの仙道が住まうここ、この場所で。
 おそるおそる、望は近づいた。恐怖を上まったのは、あるいは義務感であったのかもしれない。焼け野原に立ち尽くしたとき、この身を打ちのめした無力さが彼に歩みを止めることを許さなかった。低い階段を通じて回廊から庭に下りる。木陰に横たわるそれに息を殺して忍び寄った。
 霧雨のそぼ降る中、それは芝生の上で仰向けになっている。薄紫の上下が濡れてはりつき、細い体の線をあらわにしていた。染めたのだろうか、空色の、ずいぶん変わった髪の色だ。
 すぐそばまでやってきてようやく、望はそれの胸が上下していることに気づいた。
 生きている…。気づいた途端猛烈な怒りがわきあげてどなりつけていた。おいとか、こらとか、そんな類であったように思う。
 ぱちぱちとまぶたが動き、髪よりもさらに奇異な色の瞳がゆっくりと彼に焦点を合わせた。
「こんにちは?」
 とぼけた返事をしながら、それは上体を起こした。和らいだ雰囲気や、体を起こす自然な動きから、望はそれが人形でもないことに気づく。
「何やってるんだよ、こんなところで」
「雨に打たれてた」
 至極もっともな質問に、至極とうぜんな風に返して、それは気持ちよさそうに伸びをした。
「雨ってきもちいいよね。だから雨が降るとついこうしちゃうんだ」
 せっかく起こした体を、それはまた濡れた地面に投げ出した。びちゃりと音がして水がはねる。
「変なヤツ」
 見た目と同じく中身も変わっているようだ。まあ鶴がしゃべるような場所だ。雨を喜ぶ奴もいるだろう。
 それは濡れた体に頓着せず、きもちよさそうに雨に打たれている。望は湿ってきた前髪をうっとおしげにはらった。
「とにかくさ、あがれよ。屋根の下に入るんだ」
「どうして?」
「風邪ひくだろ」
「それは困るね」
 言いながらも動かない。しかたなく望は木陰の石に腰をおろす。じっとりした冷気が尻に当たって不快だった。
 なんとかしてこいつを屋根の下へと連れて行かねばならないと、なかば意地になって望は考えていた。かといって正攻法が通じる相手ではないことはわかっている。どうしたものかと頭をひねっていると、それが望を向いた。
「ねえキミ、こっちへ来なよ。そんなところにいるから雨の心地よさがわからないんだ。全身濡れてしまえば、爽快なものだよ」
 そんなものだろうか。
 望は木陰から一歩踏み出してみた。サラサラと霧に似た雨が降り注ぎ、たちまち衣に銀をまぶした。言われてみれば、ひんやりと心地よいような気もする。さすがに寝転ぶ気にはなれなかったが。
 目の前のそれは、いとおしむように曇天を見上げている。その瞳や髪の色は望の常識から大きくはずれていて、それが生命として運動している様は望を困惑させた。それこそ最初の見立てどおり、死体であったならばすんなりと受け入れることもできたかもしれない。
 ふとそれの唇が動いた。
「雨が降ると皆潤うね。砂埃が飛ばなくなるから好きだよ」
 言い終えるとそれは今度は自分から体を起こした。じゃあねと声をかけ、ひらひらと手を振って庭の奥へ消えた。
 なんだかよくわからないモノに出遭ったというのが望の正直な感想だった。
 だから、それに名前があって彼と同じ立場で一緒に修行するようになるなんてそのときはまるで思いもしなかった。