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SS~氷雨

 

 ぽたりと雫が落ちる。
 
※ホワイトフェスタ寄稿 12禁
 
 
続き
 
 
 

 

 悲しくなった。
 俺だけを向いてくれないから。
 東の風には東を向いて、西の風には西を向く。風見鶏のようにくるくると。
 微笑むあなたに近づかないこと。それが俺にできる最後の抵抗だった。

 あなたのたった一人になりたかったのです。

 +++++

 夕暮れが近づくにつれて彩度を落としていた雲の群れが、とうとう空を覆った。
 ぽたりと雫が落ちる。
 ぽたり、ぽたり、うかがうようにひそやかに落ちた数滴の雫に、耐えきれなくなった空が泣き出した。乾いた地面に描かれた小さな円が加速度的に増える。灰色がかった無数の糸が天と地を縫い、雨音の中にすべてを塗りこめていく。
 広大な大地にも、恵みに喜ぶ緑にも、瓦礫を前に一人うずくまる道士の、その小さな体躯にも、雨は平等に降りそそいだ。
 聞仲という強大な壁を前に冷静さを失い失策を重ね、あげく最悪のシナリオを描きながらもそこから目をそらした。その結果がこれだ。
 太公望は力なく顔をあげる。崩落した二つの、かつて崑崙と金傲と呼ばれた仙界。散っていった同胞、寄る辺を失った仙道たち。何もかも己の甘さが招いた結果だ。悔恨の情が骨身に染み、冷気となって臓腑を食む。
 頬を伝うものが雨なのか涙なのかもわからない。雲が空を覆う前に、供の霊獣が再三に渡って帰宅を促していた気がする。けれど、返事もできなかった。立ち上がる気力は湧かず、立ち上がろうという思考すらなく、虚ろな胸の内をまさぐれば痛恨の苦味に毒された魂、そして。
 太公望は思う。
 この涙がただの悔恨ならば、自分はどんなに救われただろう。
 ただひたすらに失くしたものへの弔いならば、どんなにか救われることか。世のため人のためを思うが故の戦だった。避けては通れぬものだった。後悔はしてもしてもしたりない。生涯消えることのない痛みにさいなまされようと、己の未熟さが悔恨を呼び魂を蹂躙しているだけならば、自分はまた立ち上がれる。
 だが。
『雨は平等に降りそそぐんだよ望ちゃん』
 おっとりとしたどこか幼い声が、からっぽの頭に響いている。声の主は淡い青に彩られた少女の面影だ。細いのにどこか柔らかそうな体が記憶の中でゆらめくたび、うなだれたまま雨に打たれるに任せていた太公望の肩が震える。
『愛は雨のようなものなんだ』
 立ち上がる気力を萎えさせているのは、荒れた墓場と化した仙界の前から動けないでいるのは、冷えきった魂とは裏腹に腹の底に貯まった暗い恋慕の情。淀んだタールのような熱さを自覚するつど、太公望の顔は泣き笑いの形に歪んだ。
 
 学業に才有り、性格に難有り。

 盗み見た書簡にはそう記されていた。
 昇山から10年、呂望から太公望と名を変えしばらくたってからのことだ。朝から空模様が悪く、本格的に降り出した雨に午後の修行は中止になった。代わりに師である元始天尊から言い付かったのは極秘文書のつまった書庫の整理。
 術で封を施してある書簡の数々は、時を経た今では効力を失ったものも多い。重要性をなくした書の内容はいかめしげな外見に反して存外にくだらなく、太公望は退屈な作業の傍ら次々と封を解いて盗み見を楽しんでいた。だから、それを手に取ったのは偶然だった。
 くすんだ黄色の帯をほどくと、元始天尊宛の文章が記されていた。日付を見るに太公望が昇山する2ヶ月前のもので、誰かの紹介状のようだ。
『――この者学業に才有り、性格に難有り。女子なれど文武両道に秀で、学びて忘るること無し。
 練達の早きこと赤子が乳を吸い育つ如くにして、万年に一人の逸材也。
 然れどもその性、淫蕩に過ぎ、我此れを憂えるも正すに至らず。不徳の致す所也』
 書きつけられた名は、普賢。太公望と同じく元始天尊を師と仰ぐ道士だった。兄弟子の成績と素行を知っている彼は苦いため息をつく。
 堅苦しい墨痕で綴られた文を読み進めると、ぼかしにぼかした背景があぶりだされてきた。仙界に上がり頭角を現すも、誰彼となく体を許す普賢に辟易している様子が伝わってくる。
 今の自分と同じように。
 そして、おそらくは、この書を書いた師父すらも、誘惑に落ちたのだ。最後の理性が彼にあるいは彼女に、これを書かせたのだ。新弟子を取る元始天尊への紹介状は、嘆願の書でもあった。
 見てはならぬものを見た気がして、太公望は黄色い帯を乱雑に巻くと焼却処分の箱の底に押し込んだ。その後は盗み見などに時間を割かず、黙々と作業をこなした。廃棄処分の箱を運び、書庫に錠をかけた後も、暗闇に裸足で泥を踏んだような不快感は消えなかった。
 一日の修行を終え、元始天尊から帰ってよしと放免された頃にはとっぷりと日が暮れ、しのつく雨が闇夜を縁取っている。かかげられた焚き火がゆらめく廊下を宿舎目指し歩いていると、角の向こうから言い争う音が聞こえた。
 ああまたかと太公望の心は重くなる。はたして角を曲がった先には、怒気をはらんだ男が二人、そしてそのそばで首をかしげて微笑む少女がひとり。痩せた体を質素な道服に包み、淡い微笑を浮かべて立っているのが、兄弟子の普賢だった。
「こんばんは、望ちゃん」
 普賢の一声で、男達は言い争うのをやめた。ようやく太公望に気づいたらしい。だが血走った両眼はそのままで、今にもつかみあいを始めそうだ。軽い頭痛を感じて、太公望は眉間を押さえた。
 仙界に上がった太公望をもっとも驚かせたのが普賢だった。黒髪黒目の一族に育った彼にとってその空色の髪も紫紺の瞳も奇異の対象ではあったが、それ以上に普賢の学識の深さに舌を巻いたのだ。
 彼女はおそろしく飲み込みが早く、分厚い本をすらすらと暗唱してみせる。博識なことと言ったら答えられないことはないほどだ。与えられた仕事を言いつけられたより上に仕上げる気働きの良さもあり、それでいて偉ぶったところがなく控えめな態度を崩さない。
 だからこそ解せなかった。聡明な彼女が、何故こんな愚行をくりかえすのか。
「うるさくしてごめんね。昨日の方がまたいらしてくれてたんだ。でも僕知らなかったから、こちらの方のお誘いを受けてしまって」
「約束はしていなかったのか」
「閨での約束だったから、忘れてしまっていたよ」
 穏やかな、いっそたおやかと呼びたくなるような笑顔を見せる普賢に、後ろめたさは感じられない。出かけようとしたら雨だったとでも言うかのような気軽さで、困ったねえと微笑んだ。つい先日同じ過ちを犯したばかりだというのに。
 太公望はまたひとつ重い息を吐いた。情けなく思う。気まずい雰囲気のままにらみあう男達を、ただ見守るばかりの普賢を、そして自分を。
 普賢は男達を振り返り、いつもの微笑を見せた。
「二人でするのはイヤ?」
 発せられた言葉の意味に太公望は血の気が引く音を聞き、男達は狼狽する。血走った目につかの間理性の光がともった。だがすぐにこみあげてきた欲望が理性の制止を食い破る。卑しい笑いを浮かべた彼らに様子を伺われ、太公望は冷静を装ったまま自室に逃げこんだ。靴も脱がずに寝台に潜りこみ、頭から布団をかぶる。それでも聞き耳を立ててしまう自分が何よりも情けなくて。
 ――大丈夫だよ。僕二人とも同じように愛せるし。
 廊下からきわどいやりとりが聞こえてきて、隣室の扉が開き、閉まる音がする。

 当初は同室だった普賢と、部屋を違えてくれと直訴したのは太公望だ。
 普賢を訪ねてくるつかの間の恋人達との逢瀬に気が散って、修行どころではなかったのだ。彼が昇山し普賢と同室になったのは、求められれば拒めない普賢の性癖が知れ渡っていた後だった。
 色どりの少ない仙人界で貴重な女。花冠と呼ばれるにふさわしい清楚な容姿。瞳と髪の奇妙な色も、白い肌と合わさると不気味さよりは儚いような美しさをにおわせる。ましてや元始天尊の一番弟子。ともすれば儀式の際に遠くから顔をながめるだけで終わってしまう人を合意の上でかき抱ける。
 その噂は潔癖な生活に鬱々としていた道士らの間を、麻薬めいた愉悦とともに広まっていた。
 そして普賢は、噂どおり、あるいは噂以上で。入れ替わり立ち代り訪れる男達に、誰であろうと同じ微笑を見せ、同じ言葉をかけ、同じように受け入れ同じように愛した。
 数年はごまかしとおせたところを見ると、彼女なりに配慮はしていたのだ。それでも伸び盛りの少年が年頃になる頃に、同室の少女が夜毎男と手を取り合って闇の中に消えていけば予想もつこうというものだ。相手がいつも違っていれば、なおさら。
 復讐を胸に抱いて昇山した太公望にとって、普賢のように自堕落な、優秀でありながら自らの価値を食いつぶしている人間が傍らに立つことは耐えられなかった。
 渋る元始天尊を根気強く説得して、ようやく隣の部屋に移動できたのが一年前のこと。
 別室になったからといって普賢の行動が改められるはずもなく、むしろ人目のないことを幸いにこれまでの注意深い配慮もやめてしまった。正確には、相手のほうが押しかけてくるらしいのだけれど、太公望にしてみれば同じだ。
 あまりの奔放さにたまりかねて苦言を呈したこともある。
 だが。
「おぬしは誰にでも股を開くのか」
「そうだよ。だってうれしいじゃない。僕の体ひとつであんなに喜んでもらえるなんて」
「……」
「お母様はおっしゃった。愛は雨のようなものなんだって。誰かに喜んでもらうことはすばらしいことで、よりたくさんの人を受け入れれば喜びは深くなるんだよ、望ちゃん」
 おっとりと笑う彼女は心からそう信じこんでいて。太公望は悔しさに目を伏せる。
 どうしてこんなに違うのか。どうしてこんなに遠いのか。
 太公望が千と一夜声を限りに言葉を連ね続けたところで、この胸にわだかまる冷たい痛みが普賢に伝わることは無い。
「雨は平等に降りそそぐんだよ望ちゃん。海にも山にも虫にも木にも。人であっても獣であっても、雨は差別したりしない。愛するってそういうことなんだよ」
 話せばわかるなどと言った馬鹿は誰だ。
 やわらかく微笑む普賢と自分を隔てる暗い裂け目。その絶望的な深さに眩暈を覚える。

 静まりかえった夜気は厚いはずの壁すら透かして音を運ぶ。壁越しに伝わってくるのは、濡れた声と交わりを想起させる寝台の軋み、揺れ。
 唾棄すべき欲望が煮えたぎり脳を焼く。拳を握り締め目に涙をためながら、太公望は必死に熱くなっていく体を抑えていた。
 同じだ。
 わしも同じだ。
 ひと時の快楽に目がくらみ、恥知らずにも見知らぬ相手とともに普賢を貪る男達と、壁越しに伝わる声に歯ぎしりして熱をこらえている自分と、どこがどう違うのか。
 隣室からは、達したのか、細く長い声。

 ――とんでもない売女だ。あれで崑崙一の才女なのだから笑わせる。
 ――なんでも自分でできてしまうから、俺達のような下っ端とは違った常識をお持ちなのだろうよ。
 ――いいや、あの女は螺子がひとつ飛んでるだけだ。
 ――ははは、違いない。
 いつの間にか眠っていたらしい。
 自分達の醜さは棚に上げて普賢をあざ笑う声が二つ、廊下を通り過ぎていく。やがてそれも消えた。
 太公望は重い体を起こし灯火をつける。途端に白々と明るくなった室内に目を細め、寝台に腰掛けた。頭を振ると頭巾が落ちる。膝にひっかかったそれはバランスを崩して床に落ちたが、拾い上げる気もしなくて、雨が窓枠を打つ音をぼんやりと聞いていた。
 雨とは違う気配を感じ、太公望は顔をあげる。そのまま固まった。
「お邪魔するね」
 戸口に立っていたのは普賢だった。素肌の上に頭から白い毛布をかぶっただけの姿だ。もこもこしたシルエットから裸の両足がちょこんと出ている。
 太公望があっけに取られている間に、普賢は扉をしめるととことこ歩いてとなりに座った。
「遊びに来た」
 にっこりと笑う。毛布の合わせ目からのぞく首筋にいくつもの赤い痕が浮いていた。
「あやつらは?」
「終わったら帰っちゃった。もう少しあっためてほしかったのに」
 どこからどう切り込めばいいのやら迷ったあげく、太公望は一番気になっていることだけ聞いた。わかりやすい返事にため息をつく。
「雨が降ると寒いね」
 普賢はことりと太公望の肩にもたれかかった。泣きたくなるような軽さが身に染みる。痩せぎすで柔らかさに欠けた体は、ほんのつい先刻まで二人の男を受け入れていたとは思えない。
 普賢の腕は細く、卓に置いて手で打ったらぽきんと折れそうで、そのぽきんという音までくっきり想像できた。
「望ちゃん、あったかい」
 普賢が身じろぎをし、太公望にかかる体重が増えた。細い腕が自分を包むのを感じて、太公望はたじろぐ。
「汗の匂いがする。欲しがってる男の人の汗の匂い」
 僕の好きな匂いと、普賢は続けた。目を閉じたままの普賢はいつもと同じ淡い微笑みで、瞑想でもしているかのように穏やかだ。
「いいよ。ちょっと疲れてるけど。だいじょうぶだから」
「……疲れてるなら眠れ」
「平気だよ。望ちゃんはいつもそうやってはぐらかすね。どうして?」
「おぬしは誰であっても愛するのだろう」
「うん」
「わしはそれが解せん。それは誰も愛していないのと同じではないのか」
「そうかな。少なくとも僕は、相手が誰であろうと全身全霊で愛してるつもりだけれど」
「それは少なくともわしの知っている愛ではない」
「でも僕は誰でも愛せるもの。望ちゃんも愛してるよ」
 そう言って普賢は無邪気な微笑を見せた。奥歯をかみ締めた太公望の耳の奥がキインと鳴る。
「抱かないの?」
 紫紺の瞳が不思議そうに太公望を見あげる。痩せた体の、そこだけやわらかそうな唇が気持ちいいよとささやいた。
「馬鹿を言うな」
「みんなそう言うんだよ。僕、馬鹿なのかなあ」
「眠れ」
 笑う普賢の肩を叩いて、太公望もまた普賢に体を預けた。
「眠れ。そんなことせんでも、わしはそばにいてやるから」
 残念そうな薄い微笑みを浮かべた唇が、太公望のこめかみにキスをした。離れていくわずかな隙にありがとうとささやいて、普賢は部屋を出て行った。
 その後彼女が太公望を訪れることはなく。
 普賢は相変わらず微笑を振りまき、太公望も相変わらず普賢を避け続けた。
 やがて普賢は昇仙し、十二仙の大役を拝受すると同時に洞府を開き弟子を取った。弟子の、そして崑崙の導き手となった普賢と道士のままの太公望の間には自然と距離ができ、時折玉虚宮ですれ違うつど短い会話を交わすだけとなった。
 これでいいのだと、太公望は胸のうちを一人なだめた。かなわない想いに胸を焦がすくらいならば、心を凍らせてなかったことにしてしまおう。己にはやるべきことがあるのだ。
 普賢がくれるものと自分がほしがるものの間には、長く深い裂け目が口をあけている。近づけば呑まれる、暗い谷底に。

 だけど。

 太公望は思う。
 雨に打たれ、廃墟を眺めながら弔いの涙を流す今この瞬間でさえ、自分は考えている。
 抱いておけばよかった。こんなことになるなら抱いておけばよかった。くだらないこだわりなど棄てて、欲望に正直に普賢をかき抱き、思いを遂げてしまえばよかった。あんなにも嫌悪していたはずの男達が今は、今は、ねたましい。
 いや、違う。ずっとそうだった。理屈を並べ高尚を気取って虚勢をはって、その実ただねたましかったのだ。なんの躊躇もなく普賢の肌に触れられる男達がうらやましかった。自分もそうなってしまいたかった。
「触れたかった……ずっと。わしはおぬしを抱きしめて共に眠りたかったのだ……」
 押し殺した声は血を吐くような響きだった。降りしきる雨が太公望の声をかき消す。
 誰でも愛せると、普賢は言った。
 例えそれが朝日と同時に消え去る儚いものであっても、慈雨のように恵みのようにわけへだてなく与えられるものであっても、真実愛しあえるのならば自分もまた奈落へ落ちればよかった。普賢の魂にたどりつく前に暗く深い谷へ飲まれ、その体の上を通り過ぎた男達の列に加わることとなっても。
 
 真実愛しあえるのならば。

 軍師として失策を悔いている。
 道士として同胞を失い悲嘆にくれている。
 総司令として、封神計画遂行者として、己の未熟さに慙愧している。
 そのどれにも嘘はない。
 なのに今自分の頭を占めているのは満たせないまま終わった愛欲への未練で、崩れ果てた仙境を、自らが招いた惨状を前にしてなお子どもじみた感情を止められない。
 普賢がいない。もういない。かなしい、かなしい、さみしい。浅ましさに反吐が出る。
 太公望は立ち上がり天を見上げた。両手を広げる、雨を受け止めようとするかのように。
 鉛色の雲から降りそそぐ雨は針のようだ。鋭く大地を穿つ無数の針は氷のように冷たい。

 もっと降れ。
 もっと降れ。
 打ちのめせ、わしを。
 この無様な生物を骨も残さず打ち砕け。

 雨は勢いを増し、太公望の小躯を容赦なく冷やしていく。
 だが、その芯から切ない熱を奪うことはできなかった。