「今日の師叔はいつになく真面目ですね」
※修行時代
浮島の連なりで形成される崑崙山脈には、主な通路は落下防止用の防護ネットが張り巡らされている。雨露を糸にして織られたような美しい網だ。普段は目に見えないが、光の加減で息を呑むほどの輝きを放つ。
だが残念なことに、ここ麒麟崖周辺で雨露の輝きを見ることはできない。気流が荒く通行の便の悪いこの一帯を好んで通る者はほとんどいないからだ。
けれどそんな場所を好んで瞑想に使う者もいる。数少ない変わり者の彼は、櫛の歯のようにいくつもの断崖絶壁がそびえたつこの場所の、一番外側の岩の上で座禅を組んでいる。
「今日の師叔はいつになく真面目ですね」
手前の岩陰に羽音を立てて止まると、白鶴童子は太公望の背に視線をやった。返事をせず、普賢はいつもの微笑を返すと人差し指を唇に当てた。
「おっと、長居は瞑想の邪魔でしたね、がんばってください」
気のいい鶴は普賢の思惑通り両の翼を広げた。ついと風に乗り空へあがるとすべるように飛んでいく。あれは乾元山の方向だろうか。
白鶴童子が小さな点になりやがてそれも視界から消えたころ、普賢は相弟子の太公望の背に目をやった。
彼が瞑想なんかしていないことはわかりきっている。
この場所は地上がよく見えるのだ。
雲間からのぞく大地は人々の営みがのぞけるほど近くはない。それでもマッチ箱のような城砦や緑の海に描かれた細い道に思いを馳せているのだろう。胸の奥に光る刃を隠して。
「望ちゃん」
彼の背が猫のように丸まってきたころ、普賢は腰を上げた。軽やかに絶壁の頂上を飛び移り、太公望の隣にたどりつく。
「あまりのぞきこむと落ちてしまうよ」
彼はたった今目が覚めた風情でぼんやりと普賢を見つめ、かすかに眉をしかめた。地上をのぞくとき、太公望はひどく無防備だ。そんな姿を見せることを、彼は何より嫌う。普賢だからこそ、見せているようなものだ。
それに気づいたとき、普賢は内心天にも昇るほどうれしかったものだが。
「わーっとるわい。む、それより腹が減ってきたのう。誰かさんが修行に横槍を入れてくれたおかげでな」
立ち上がって伸びをすると、太公望はいつもの、頭の悪い悪童の顔をして普賢を小突いた。
「そうだね、小腹もすいたしお茶にしようか。昨日、銀茶のいいのをもらったんだ」
「ほうそれは楽しみだのう。お茶うけは桃マンな、餡は砂糖多めだぞ」
「はいはい」
たわいない会話を交わしながら、浮き岩をとんとんとリズミカルに飛び移る。行く先は道士房、ふたりの縄張りだ。
点心を作らされるのは普賢なのに、何故か太公望が先んじている。
その狭い肩やひょろりとした手足。半端に時を止めた彼は、けれどいつの日か地上へ降りるだろう。天命、とでも言うのだろうか。こんな空の浮島でおしまいになるような器ではない。
けれどまだ。
まだ早い。
まだ降りるほどには長じていない。
どうしてそう考えるのか。それが普賢には冷静に彼を分析した結果なのか、それともこの胸の内で、誰にも言えないまま燃え盛る炎がそう思わせているだけなのか。
わからなくて、普賢は、太公望の手を握りたかった。