「大げさだと思うんだ」
※道士時代 オリジナル設定おかわり!
>かたちがかわる のどうでもいいつづき
崑崙での月日を重ねるうちに、僕の瞳は黒から青になっていった。
同じように黒かった髪は栗色に変じ、光の加減によっては赤に染まり、まるで内心を見透かされているようだ。
普賢の変化は更に顕著だった。肌からは色が抜けていき、亜麻色だった髪は空色に、暖かな茶色の瞳は人形のような紫に変わった。やがて、ちかちかと普賢の頭上に光が現れるようになった。
それは普賢が書物に集中したり考え事にふけっていると姿を見せた。最初は小指の爪ほどの光点であったけれど、やがてそれがいくつも集まり連なって光の輪を形作るようになる頃、普賢はベッドから起き上がれなくなっていた。
「大げさだと思うんだ」
病室の、透明なアクリル板の向こうで頬をふくらませる普賢に、僕は両手を広げて首をすくめて見せた。普賢がこの無菌室に入れられてから、面会はマスク着用と板越しを義務付けられている。
「でも実際、体が重くて自由に動けないんだろ?」
「ずっと横になっていたら誰だってそうなっちゃうよ。運動をしないと、筋肉は一日当たり5%も落ちていくんだよ? せめて廊下を歩くぐらいさせてくれたっていいじゃない」
「絶対安静って言われてるんだから、しょうがないだろ」
板に手をあてると普賢はやわらかく笑った。ベッドに横になったまま、普賢は手を上げた。その手が僕の手に重なり、間を隔てるアクリル板がほのかに温もる。
「修行、どう?」
「順調だ」
「望ちゃんに追い抜かれちゃうね」
「まあな」
答えて、僕は胸を張った。追い抜かれるとつぶやいた普賢の瞳が、不吉なくらい穏やかだったから。そんな眼差しをなかったことにしたくて、腰に手をあてて大げさに宣言する。
「おまえが退院する頃には、俺は大仙人様だぜ」
「望ちゃんずるーい」
透明な板の向こうで笑顔が咲く。普賢は僕と手を重ねたまま笑い続けた。
「よし、決めた」
笑みを収めると、普賢がいたずらっこの顔で僕を見つめる。
「僕、望ちゃんの修行の邪魔しちゃう」
なんだと、とおどけてみせようとしたら、普賢が切なげに眉根を寄せた。
「だから、明日も来てね」
「……あったりまえだ!おまえ如きのお邪魔でどうにかなるほど、この呂望様は軟弱ではないのだ!」
椅子に片足乗せて変なポーズとってみたりして。
普賢の瞳があんまり真剣だったから、どうまぜっかえそうか迷って、いつもどおり力技でごまかした。普賢はころころ笑っている。そうだ、これでいいのだ。
寝付くことが多くなってから、普賢は検査結果の用紙を見せてもらえなくなった。
僕は他の十二仙のひそひそ話しに普賢の匂いを嗅ぎ取ったし、元始天尊さまと雲中子が腕を組んで難しい顔をしているところもみたことがある。
久しぶりに部屋を出た普賢は青空の下、喜んで僕に駆け寄り、抱きついてきた。受け止めた僕は予想外の重さに驚き、腕の中の普賢の名を呼んだ。呼吸が止まっていて、僕はどうしていいのかわからなかった。「呂望よ、伝えておかねばならんことがある」
その晩、僕は元始天尊さまに呼び出され、大きすぎるソファに座っていた。僕に渡された何枚もの書類。意味はわからないけど、めくるにつれてどんどん異常値を示す記号が増えていく。
「普賢は今、非常に難しい状態にある」
「……どんな、状態なんですか?」
「後天性魂魄失調症。通称、離魂病。魂魄が、肉体を離れようとしているのじゃ」
「それって」
背筋を冷たいものがすべり落ち、後に続く言葉が押し出せなかった。元始天尊さまは僕が落ち着くまで頭をやさしく撫でてくださった。
「あやつはちと修行をがんばりすぎたのじゃよ。肉体より魂魄が先へ昇ってしまった」
「先へ、のぼる?」
「そうじゃ。肉体が持つべきいのちの主導権を魂魄が奪ってしまったのじゃ。このままでは魂魄が重荷と化した肉体を手放すじゃろう」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
すがりつくような僕の声音に、元始天尊さまは困ったように微笑まれた。
「時をかけて魂魄が再び肉体に馴染むのを待つよりほかにない。何年かかるかわからんがのう。じゃが悪いことばかりではないのじゃぞ、この時を耐え抜けば普賢は莫大な仙力を得ることになろう」
「待つしか、ないんですか」
うなだれた僕の頭を元始天尊さまはもう一度撫でてくださった。
「いいやおまえに、いや、おまえだからこそできることがある。普賢の魂魄をつなぎとめるために、協力してくれるか」
「はい!」
腹の底から声が出た。両手が机を叩き、衝撃で書類が舞う。元始天尊さまはうなずくと御自分のソファへ深く腰掛けられた。
「呂望よ、我ら仙道が何故、五穀を絶っていくのかわかるか」
「熱エネルギーではなく仙人骨より生まれるエネルギーへ転換していくためです」
「そのとおり、しかし理由はそれだけではない。肉体を清らかに保つことによって離魂病を防ぐためじゃ」
息を呑んだ僕に元始天尊様は視線を合わせられた。そして噛んで含めるように続けていく。
「独立した魂魄にとって肉体は不愉快な足枷でしかない。それが不浄なものであればなおさらじゃ。今の普賢は、服が垢染み、体が汚れるだけで、魂魄が肉体を見限ってしまう」
「そんな……」
「安心せい。普賢は終南山の無菌室じゃ。身の回りはすべて清潔に保たれておる。だがしかし不浄よりもなお、懸念せねばならぬことがある」
「それは?」
元始天尊さまは少し顔を伏せられた。長い眉が彫りの深い目元にかかり陰に隠してしまう。
「人の、悪意」
意味をつかみかね、僕はまばたきをくりかえした。元始天尊さまは今度は、はっきりと沈うつな表情を浮かべられた。
「怒り、妬み、怯え、悲しみ、そして憎しみ。あらゆる負の感情、それが普賢にとって毒となるのじゃ。故に呂望よ、おぬしは終南山に近づいてはならぬ」
告げられた言葉が重くのしかかる。頭から、胸、腹にまで岩がゆっくりと沈み込んでいくようで。その表面に次々と亀裂が走り、中から現れた疑問符が僕を貫く。
「何故ですか元始天尊さま!」
「その理由は、おまえが一番よくわかっているはずじゃ」
「けど!」
「呂望よ、頭を冷やせ。友の命が大事ならばできるであろう」
元始天尊さまのお言葉に僕は両の拳を握り、けど、と繰りかえした。手のひらに爪が食いこみ痛みはじめるけれど、拳を開くことができないでいる。
元始天尊さまに見透かされている。
僕が、いつも下のことばかり考えていること。僕の村を焼いた兵や、殷の皇后とかいうやつのことを。いつか宝貝を手に入れたならば必ずやかの地に舞い戻り、一族の恨みを晴らし汚名を雪ぐ、その術ばかり考えていること。
そんな僕が近づけば、普賢はもうきっと、それっきりになってしまうんだ。
今朝のことが思い浮かぶ。僕の腕の中、簡単に呼吸を止めてしまった普賢を。その白い頬を。陶器みたいな目元を。細い、そのくせ、ずっしりと重い体を。
「けど」
僕は思い出す。まっすぐな明るい眼差し、おっとりした笑い方。書物をくる指先や、何気なく僕に触れる肩。寝苦しい夜、隣にいてくれる体温。普賢とふたりでいる時、僕は呂家の望でなくて普賢だけが知ってる僕になれた。
「けど……」
あれを全部我慢しないといけないんだ。これから何年か、あるいはそれ以上か、僕はあんな心地いいものをすべて。
最後の声は吐息みたいだった。足元から冷えた水がせりあがってきて僕を水槽の中に閉じ込めていく。冷めて、淀んで、生臭い水だ。腐った水草みたいに僕の両足が萎えていく。
ふと、ぬくもりを頭上に感じた。顔を上げると元始天尊さまが立ち上がり僕の頭に手を置いていた。
「呂望よ、そう悲しむでない」
「……けど」
「離魂病には、効果的な治療法がある」
「それは?」
「人の、善意」
再度元始天尊さまは深くうなずかれた。
「愛情、信頼、喜び、恵み、慈しみ、あらゆる正の感情。それが普賢の魂魄を地上にとどまらせ、肉体に馴染ませるのじゃ」
元始天尊さまの乾いた大きな手が僕の頬を撫でる。
「もしおまえがどうしても普賢に会いたいのならば、その胸の内をこらえるのだ。例え腹に据えかねることがあっても、終南山の門をくぐるときには忘れるように努めるのだ」
「……」
「普賢の前で心乱すことはまかりならん。おまえの感情が普賢に感染することのないよう、心を鎧で覆わねばならん。そのうえで普賢を笑わせ、喜ばせてやるのじゃ」
「……わかりました」
「つらいぞ」
「やります」
元始天尊さまは満足そうにうなずかれ、僕の頭をぽんぽんと叩いた。「ねえ望ちゃん」
透明な板の向こうで、普賢はかすかに首をかしげた。何か言いたいときの普賢の癖だ。
「僕、望ちゃんからもらってばかりだね。……いつもありがとう」
ほんのり笑う。ありえない色になってしまった普賢は、真っ白な部屋の中で生きて動いているのが不思議なくらいだった。
「何を?見舞いは何も持ってきてないぞ」
そんな内心は押し隠しておどけた調子で返事をする。普賢は首を振り、両手を胸にあてた。
「ここに、たくさんもらってるよ。ほんとうに、ほんとうにたくさん。こんなにたくさんもらって、僕はキミに何ができるだろうって思うんだよ」
「気にするなよ」
「気になるよ」
普賢が顔を伏せる。
「僕がここを出るとき、きっと望ちゃんは僕より先に行ってしまって、僕にできることなんて何もないんじゃないか、そんな風に思ってしまうんだ」
「普賢……」
「ごめんね、変なこと言って」
閉じられた両手と。さみしげな普賢の眼差しについ強く否定してやりたくなったけれど、ぐっとこらえる。
「だったらさ、俺じゃなくて他の奴に分けてやれよ」
普賢が驚いたように顔を上げる。空色の髪がてんでばらばらに跳ねた。
「よく言うだろ、情けは人のためならずって。おまえがおすそ分けして、ついでに俺の宣伝もしといてくれりゃ、相手はごきげん、おまえも楽しい、そして俺の株も上がるって寸法よ」
「望ちゃんすごい!」
「ふふん、まあな!」
変なポーズ再び。
「それって、この本に書いてあることと似てるね」
普賢は枕元の両の手の平くらいのひらべったい板を引っ張り出した。先日太乙がお見舞いに差し入れた電子書籍だ。紙の本は消毒が難しいので、代わりにということらしい。宝貝ではない簡単な機械だから安心して使える。ただ、急ごしらえということで専門書の類が充実してないと普賢が残念がっていた。
普賢の指先がパネルの上をすべり、やがて一葉を指定した。そして文字の並んだパネルを僕に見せる。タイトルからすると生き方指南書の類らしい。
「恩を受けたら、その相手じゃなくて別の3人に送る?」
「うん」
本人じゃないってのがおもしろいよねと普賢は笑った。
「3人がさらに別の3人に送って、9人が27人になってさ、ふふ、19回くりかえせば10億人突破だよ。みんなが望ちゃんのこと知るまで、あっという間だね」
頬を染めて微笑む普賢に、胸の奥をつかまれた気がした。のどの奥が硬くなってきて、僕は悟られまいと背を向けた。
「ああ、そーだな。金鰲のやつらにもやってやれよ。どうせなら大盤振る舞いだ」
「いいね、それ」
うしろから普賢の華やかな笑い声が響く。久しぶりに聞く、明るい笑い声。
「それでは俺は戻る!また明日な、普賢」
「また明日ね、望ちゃん」
今度こそ、曇りのない表情で普賢は僕に手を振った。扉を4枚はさんで、寒い廊下に出る。回線を使い雲中子に面会を終えた旨を告げ、そこを後にした。
外は冬。
灰色に染まった大気の中、崑崙山が凍えた雲を吐いている。枯れ草を踏みしめると、薄く張った氷がぱしりと音を立てた。
時々、普賢に会いに行くのがたまらなくつらくなる。濁った心をぶちまけて、何も考えず抱きしめられていたい、あの頃みたいに。
普賢は僕にもらってるって言う。もらってばかりだと、申し訳なさそうに言う。
違う、そんなんじゃない。
おまえが倒れたあの日まで、僕はただ貪っていた。口を開ければいつでも望むだけ与えられると思っていた。だからこれは、僕がおまえにもらったものを返してるだけなんだ。
去り際、雲中子に普賢の容態を聞いた。雲中子は何も変わっていないといつもの報告をくれた。それから、根気の要る病気だとも。
僕はいつまで仮面をしたまま普賢に会いに行かなきゃいけないんだろう。長く長く続けば、僕は自分の心を見失ってしまいそうだよ。自分をだますのが、どんどん上手になって、僕は、僕は……。
内側に落ちていく自分を押しとどめ、胸を開いて深呼吸する。小手先の気分転換のつもりで空を見上げた時、視界の隅に枝がかかった。細いその身に雪が積もり、今にも折れてしまわんばかりで、けれどその腕に小さくも確かな芽を抱いていた。
しばし命のまたたきにみとれ、僕は両の頬を叩いた。視界がクリアになる。
明日もここに来るんだ、明後日も、明々後日も。それが少しでも普賢のためになるなら、僕を捻じ曲げるくらいなんだっていうんだ。しなって、雪なんて振り落とせばいいじゃないか。どうせ僕が僕でなくなるなら、もっと別の、もっと上の、おまえを、いつも笑顔にする僕になるよ。
春は、きっと来るから。
■ノヒト ... 2012/01/24(火)04:42 [編集・削除]
離魂病と言うのは生霊のことなんですが、響きがきれいなので使いました。