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SS~あいまいな

 
「やあ、いらっしゃい。いいところに来たね」
 
※あとしまつ後 グロ
※痛い 暗い
※『アイマイナ』 ピノキオPfeat初音ミク より

続き
 
 
 

 
 
 雨の気配がした。
 ふりかえれば、はたしてドアの前にキミの姿がある。いつもどおり人をくった笑みを浮かべて、けれども朝焼け色の瞳は遠慮がちに光る。
「やあ、いらっしゃい。いいところに来たね」
 僕は手を止め、お茶の準備を始めた。

 キッチンのコーヒーメーカーが黒い液体を抽出する様を、僕はじっと見つめている。背後から椅子のうえでくつろぐふりをしたキミが話しかけてくる。
「で、○○○が○○○○だったろう。おぬしは○○○で○○に○○○○したのだったか」
「そうだね望ちゃん」
「ああ、○○が○○○で○○だった。○と○は○○○したが結局○○○○だったな」
「そうだね望ちゃん」
 キミは昔の話しかしない。僕は相づちしか打たない。既に平穏とは僕らの間でそのようにして保たれるものだった。
 注がれる湯がフィルターを通じて汚れていく。容器へ濾過物を排泄するこの装置が砂時計のようにくるりとひっくり返ってはくれないだろうかと僕は思う。だけど僕のささやかな願いを無視してコーヒーメーカーは無機質な終了のベルを鳴らした。
 マグカップに用意していたそれを入れて盆の上に乗せる。
「どうぞ」
「ん」
 華奢な金のフォークでロールケーキを食べながら、キミは絶え間なく戯言を吐き出す。僕はキミの向かいに座り頬杖をつく。
 キッチンのテーブルを白にしたのは失敗だった。艶やかな表面はキミの姿を映し視線をそらしてもキミの瞳が目に入る。鏡像を通して、キミが僕を見ている。
 僕が砂糖壷を押しやると、キミはコーヒーにたっぷりと砂糖を入れ、スプーンでゆるくかきまわしミルクを注いだ。細くたらされた糸が黒い液体の上で輪を描く。
 キミはこんなもの飲まなかった。キミは薫り高く透きとおった茶を好んだ。コーヒーが好きなのは僕だった。今僕の前で、キミはコーヒーをすすっている。
 僕のマグカップから湯気が消えた頃、キミの動きが止まった。手元のそれを眺めるキミの瞳は、砂漠よりも無表情。
 僕らの間で、沈黙とは空白であり、空白とは空漠だった。長い空ろに僕はうろたえるけれど、喉に詰まるパンケーキのように重い舌の根。
 キミはマグカップを机に置こうと手を動かし、直前で止め、厚い陶器の底を右手で包み込んだ。
「沼男を知っているか」
「……知らない」
「スワンプマンとも言う」
 キミが僕の知らない話題を出すのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。キミは遠くを見るような眼差しのまま薄く笑った。
「思考実験のひとつだ。
 町を出た男が沼のそばで雷に打たれて死んだ、同時に沼からその男と見分けのつかない存在が生まれた。それは原子レベルで絶命した瞬間の男と同じ肉体を持ち、同じように思考し同じように行動し同じ記憶を持っている。
 それは町に戻り家に帰り職場で仕事をし、週末には馴染みのパブでいつもの酒を友人と飲む。さて、それは死んだ男と同一人物であるか否か」
「肯定もできるし、否定もできる」
「理由は?」
「それは周囲との齟齬がない。それの行動は死んだ男が取るであろう行動と同一である。人間が関係の動物である以上、存在は外部との関わりによって規程される。
 よい例が身分証明。男が男であると証明する……免許証、身分証、保険証、サイン、印鑑、クレジットカードなんでもいい、これらとそれの間に齟齬がなければ、それは死んだ男と同一人物として周囲から扱われる」
「ふむ、筋は通っているな。否定は」
「それは生きていくからさ。
 その人をその人たらしめているものは記憶だ。それは生きていく以上、新たな記憶を入手せざるをえない。死んだ男が永遠に得ることのない記憶をね。
 時の流れとともにそれは日々更新され変質していく、けれども死んだ男の更新は沼で絶命した瞬間に凍結した。よってそれは死んだ男と同一人物ではない」
「なるほど。で、おぬしはどちらだ」
「決めかねるよ。肯定もできるし、否定もできるからね」
「そうだな。わしもそう思う」
 言うなりキミは残りを一気にあおった。硬いそれを無理やり噛み砕き、音を立てて飲み込む。口元をぬぐい、キミは席を立った。
「またな」
 唇の端だけ紅を差したように赤い。キミは微笑むとひらひら手を振り、扉の向こうへ消えた。
 キミが立ち去った後、僕はぼんやりと座ったままでいた。おいてけぼりのマグカップの中、ガラス片が静かに光っている。もっとスマートにするべきだったのかな、わからないや。次があるのなら僕は海亀のスープを作ろう。食べてくれるだろうか。
 切り落とすべきは小指か薬指か、はたまた両方か、今の僕にはわからない。
 
 

COMMENT

■ノヒト ... 2012/07/05(木)04:14 [編集・削除]

元曲とってもステキです メロディも打ち込みも歌詞も最高です