「おつかれさま望ちゃん。やっと休めるんだね」
※遠くても心はつながっているというお話。
※スプーンドドメ号発売記念ばんざーい
嵐の海で小さな漁船が揺れていた。次々と襲い来る波に木の葉のように翻弄され、今にも沈まんとしている。乗組員たちは必死に水をかきだし、精一杯の抵抗をしていたが、沈むのは時間の問題、のように見えた。
しかしそれは突然やってきた。
身を揺らすような衝撃波が嵐を貫き、雲を切り裂いた。乗組員たちは見た。今までの荒れ狂いようが嘘のように、静まり返った大洋を。切望していた青空を。輝く太陽を
誰かがつぶやいた。奇跡だ、と。
助かったのだと気づいた彼等は、ある者は感激にむせび泣き、ある者は甲板に伏して感謝の祈りを神へ捧げた。そしてそれは実際に、神の手による奇跡なのだとまでは、彼等は知らない。切り立った崖の上に、懐かしい立ち姿を普賢真人は見つけた。
「久しぶりだね、望ちゃん」
鵬のような黒いマントが振り返った。深くかぶったフードの下から、いたずらな笑みがのぞいている。
「久しいのう普賢」
フードを跳ね上げると、彼―伏羲―はからからと笑った。その顔には、まるで陶器のように細かなひびが入っている。普賢はそれを見て取り、かすかに眉根を寄せた。
「嵐を鎮めてくれたんだね。僕の仕事だったのに」
「退屈しておったからだ、許せ。おぬしが来るのは予想外だった」
彼は海を向き、沖を見据えた。あの漁船はここからでは遠すぎて見えないはずだ、肉眼では。しかし伏羲には確かに見えているようだった。
「あの水夫のひとりが将来この地域をまとめあげるからのう。ここで死んでしまってはもったいないというものだ」
「未来視まで、できるようになったの?」
「うむ」
さらりと答えて伏羲はのびをした。ぱきぱきと固く異質な音が普賢の耳へ届いた。
「ここ数年、わしの力は加速度的に増大しているのだ」
「そう……」
その言葉の意味を知らない普賢ではなかった。
「肉体に限界が近づいているんだね」
「さすがおぬしは話が早い」
伏羲の袖口から砂がこぼれ落ちている。それが肉体のかけらだと普賢にはわかっていた。だから、浮かべたのは涙ではなく笑みだった。
「おつかれさま望ちゃん。やっと休めるんだね」
「うむ、長かった」
「封神フィールドもないから、僕みたいに魂魄体にもならない。ぐっすり眠れるよ」
「ありがたい話だ。ぶらぶらするのも、飽きてきたところだったからのう。わしは数年もせぬうちに自壊するだろう。そこでひとつおぬしに頼みたいことがある」
「なに?」
「毒を調合してくれ」
「……何に使うの」
「自壊の瞬間、肉体から解き放たれた力が暴走する可能性が高い。だから自壊する前にこの生命を終えようと思う。だがわしが命を断てるほどの強力な毒は現状どこにもなくてだな。元素を操るおぬしなら太極符印で調合できるであろう。今日出会ったのも、めぐり合わせかもしれん」
「却下って言ったら?」
「諦めて最後の時を待つ」
「そう……」
海風が二人の衣を揺らす。しばらく二人はそうしていた。深く芳醇な沈黙が彼らの間にあふれていた。何か思いついたのか、だしぬけに伏羲が振り返った。
「毒がダメなら、一発ヤラせてくれ」
「は?」
普賢はぽかんと口を開け、まばたきをくりかえした。
「キミ、僕のことをそういう目で見ていたの?」
伏羲が頭をかく。
「墓の下まで持っていくつもりだったが、ついぽろっとな。実際のところ、わしも計りかねておるのだ。この感情が友情か愛情なのかを」
だから確かめてみたい、そう伏羲は続けた。
「いやか?」
ぶたれた子犬のような目で伏羲は普賢を見つめた。ああ、この目はダメだ。僕はこの目を見るとどうしてもなんとかしてあげなきゃって気分になってしまうんだから。そしてきっとキミも知っていてやってるんだろう?
普賢は長い溜息をついた。
「それも却下」
「厳しいのう」
「僕にもわからないんだ。僕はキミが好き、ううん、愛してる。だけど言葉にするとどうしても、言葉にしきれない想いが切り捨てられてしまって、きちんとキミへ届けられないんだ。ずっと足踏みしてきた。今もそうしてる」
「そうか」
伏羲はうれしげに微笑んだ。
「想いは、同じだったか」
そして満足そうに顔を伏せた。
「十分だ。感謝する普賢」
「望ちゃん……」
「さらばだ普賢。わしが愛した中でもっとも清く美しい者よ」
「それは……買いかぶりだよ」
普賢が太極符印の上に手を滑らせた。計算式が次々と浮かび、彼の目の前の空間が歪んだ。やがておいしそうな桃がひとつ、中空へ現れた。普賢はそれを手に取ると、伏羲へ差し出した。
「さよなら、望ちゃん。僕の人生を誰よりも何よりも豊かに彩ってくれた人へ、餞別を」
伏羲が桃を手に取る。甘い香りが鼻孔をくすぐる。そのかぐわしさは桃本来のものなのか、それとも内に秘めた毒がそうさせているのか。わからないし、わからなくていいと伏羲は思った。些細な事だ。この義理堅い親友が最後まで自分のわがままに付き合ってくれたことに比べれば。
涙に代わりにパキリと頬が欠けて落ちた。
「さようならだ、普賢」
「さようなら。僕、キミが逝ってしまったら少し泣くよ」
「よしてくれ、わしがあの世への道で迷ってしまう」
「だいじょうぶさ。次の日にはきちんと朝食をとるよ。そしてキミのことを忘れてしまう」
「ああ、そうだ。それがいい。そうしてくれ」
「時々は思い出させてね。キミに会えてよかったって」
「好きにしろ。わしもそうする」
おだやかに言い交わし、二人は背を向けると歩き出した。一瞬の交差は哀しみに濡れた長い別れを薄紅色に染めるだろう。普賢は砂浜まで行き、素足でそこを歩いた。魂魄体であっても、寄せては返す波の感触をわずかに感じ取ることができる。ふと足を止めた彼は沖を見た。一隻の漁船が港を目指して走っていく。空と海に挟まれたその姿は一幅の絵画のよう。本当のところ伏羲が何を思ってあの漁船を助けたのかはわからない。ただの気まぐれに言い訳を付けただけだったのかもしれない。それでもなお。
……世界って美しいんだね。普賢は初めて、そう思った。