「いわゆるひとつの、幽霊ってやつが、俺の部屋に」
※現代パラレル
※俺呂望
ドアベルを鳴らして入ってきた女子高生に向かって俺は手を上げた。ここは有名激安ファミレス、その一角へ隠れるようにして俺はその子と机を挟んで座る。目の前の女子高生の名前は邑姜。この春、高2になったばかりの俺のいとこだ。才女と呼ぶにふさわしい知的な美貌とクレバーな頭脳。それでいて女も捨ててないゆるふわカール。最近男ができたらしいと父方のじいさんが嘆いていたが、そんな彼女にこんな話をするのもどうかと、いやそもそも人に言うような話でもないような気が、といまさらな不安が暗雲のように沸き起こり胸を圧迫した。だがどうしても相談相手は邑姜でなくてはならない。ならないんだが。
俺は覚悟を決めきれずジーパンを掴んであーだのうーだの声にならない声を発した。
「何があったのですか、呂望」
先に水を向けてきたのは邑姜だった。
「何事にも要領のいいあなたのことですから、初めての一人暮らしもそつなくこなし、我が世の春とキャンパスライフを謳歌しているはず。それが大学へ進学して一ヶ月もたたずに私へ会いたいと連絡をしてくるなんて。何か起きたとしか思えません」
痛いところをズバズバ突いてくる。豪快にぶったぎられ、俺の紙っペラみたいなプライドは雲散霧消した。
「実は、いるんだよ」
「なにが?」
「いわゆるひとつの、幽霊ってやつが、俺の部屋に」
「興味深い」
「いや最初は、なんとなーく視線を感じるなって程度だったんだ。けどだんだんエスカレートしてきて、カーテンの裾が風もないのに揺れたり、リモコンに触ってないのにテレビのチャンネルが変わったり、今朝なんか流しに置いといた皿がいつの間にか洗われて水切りかごの中に置かれてたんだぞ!」
「それは一大事ですね」
表情一つ変えず邑姜は言った。俺は身を乗り出し、頭を下げた。
「なあ頼むよ邑姜、おまえ、視えるんだろう? 一度俺の部屋を鑑定してくれよ!」
「子どもの頃ほどは視えませんけど、それでもよければ」
そう、俺が彼女を相談相手に選んだのは邑姜のこの力を借りたいがためだった。子どもの頃、何もないところをじっと見つめていた邑姜へ、なにか視えるのかと冗談半分に聞いたら、こっくりとうなずかれた時の衝撃は忘れられない。そういえば邑姜には太上老君とかいうたいそうな二つ名のじいさんがいて、どうもそっち系の有名人だと小耳に挟んだことがある。そのじいさんのせいかはたまた生まれつきの能力かは知らないが、邑姜は並の悪霊はシカトできる豪胆な娘に育った。邑姜の彼氏、尻に引かれてるんだろうな。おいといて。
彼女はアイスコーヒーを飲み干すと、さっそく俺のマンションへ向かった。何の変哲もない学生向けワンルームマンション。べつに突飛な形をしているとか入り口が鬼門に向いているなんてこともない、この程度は俺だって調べた。あえて特徴をあげるなら築浅ってことぐらいだろうか。だが、地元の図書館で新聞をあさってもマンションのあたりで不穏な事件が起きた形跡はない。
俺は邑姜をエレベーターへ案内して、69号室の我が家へ通した。玄関からまっすぐ3mほどの廊下が通っていて、右手前の扉がトイレと風呂、右奥がクローゼット。左手がキッチン、そこを越えると八畳ほどのフローリングの部屋があってベランダへ続いている。間取りは他と変わらないはずだ。
邑姜は玄関に立ったまましげしげと奥の部屋を眺め、だしぬけにぺこりとお辞儀をした。
「ここ、とてもいいものがいますから、朝夕あいさつしたほうがいいですよ」
とてもいいものと聞いた俺は間抜け面を晒していたと思う。てっきり悪霊だと思い込んでいたのでかなり予想外だったが俺も邑姜にならってお辞儀をした。
「……こんにちは」
邑姜はそれでいいのだとばかりに尊大にうなずくと部屋へあがり、当然のようにお茶を要求した。その日から俺は誰もいない部屋に向かって挨拶するという新しい習慣ができた。朝起きたらおはよう。帰ってきたらただいま。寝る前にはおやすみ。知らない人が聞いたら二人暮らしなのかと疑われるかもしれないが、それでもあの邑姜の言うことなので、俺は律儀に守っていた。昔からあいつの言うことを聞いておいて損をしたことはなかったからだ。
不思議なことは相変わらず続いていた。勝手に本がパラパラめくれたり、遅くに帰ってくると必ず明かりがついていたり、探しものがテーブルの上に置いてあったり。しかしもうその頃には俺はその程度の異変には反応しなくなっていた。視線は相変わらず感じていたけれど、害意はないと気づいていたからだ。邑姜がいったとおり、とてもいいものなんだろう。こうなると挨拶するのも張り合いが出てくる。奇妙な隣人がいるということにして俺は日々を過ごした。
そんなふうにして俺のキャンパスライフが夏に差し掛かった頃。ちょっとした山場がやってきた。テストだ。俺の学校のカリキュラムは、一年のうちは一般教養と称して高校とほぼ変わらない教科の単位を求められる。ただし、大学レベルの難易度で、だ。文系で腕をならした俺だが理数系はまあなんとかぼちぼちの低空飛行。このままでは赤点を取るのは必至だった。折角の夏休みが補習で潰れると思うと胸が張り裂けそうだ。俺は参考書の山を前に真夜中までうんうんうなった。うなったからといってどうにもならず、俺はある晩とうとう音を上げた。
「あ~神様仏様! 理数で良い点が取れるようにしてください!」
心の底からの雄叫びだった。すぐさま隣の部屋から「うるせぇぞ!」と壁ドンされるくらいには。それですっかり心が折れ、俺はしおしおと布団に入り、おやすみなさいを言った。
その日以来、変わったことが起きるようになった。なぜか授業でビシバシ当てられるようになったのだ。それも難問奇問とよばれるようなものばかり。ある時など突然教師が、黒板いっぱいに数式を書いて答えを要求してきた。俺はそのたびに赤っ恥をかいた。旅の恥はかきすてというが、日常生活での恥はどこに捨てりゃいいんだろう。俺はリベンジを誓い、名誉挽回のために猛勉強をした。するとしだいに解き方のコツがわかってくるもので、実力ってやつも後から追いついてくる。文系はもとからホームグラウンドだったことも手伝って、気がつけば俺は全教科敵なしとなり、休憩時間には次のテストの山場を聞きに来る同期生で鈴なりになった。こうなるとさらにやる気が出てくる。俺は受験でもしたことがないくらいのがんばりを見せてすべての教科でフルスコアを叩き出した。
テストの結果発表の日は友達を巻き込んで万歳三唱し、その勢いで学食でパーティーをした。といっても、普段頼まない高級なセットを頼むくらいだったが。遊び回っていい気分で帰途につき、いつもどおり明かりのついた部屋に出迎えられる。シャワーを浴びてパジャマに着替え、おやすみなさいとつぶやいて眠りに落ちた。夢を見た。
夢特有の第三者視点で、俺は俺自身をぼんやり見下ろしていた。
「まったくおぬしというやつはどうしてこう……」
「うふふ、ごめんね望ちゃん。だって形だけでも同棲じゃない。うれしくって」
「そりゃわしとて悪くない気分だが」
夢の中の俺は黒に銀のふちどりをした鵬の翼のような黒いマントを羽織っていて、誰かと言い争っていた。言い争う、というよりは、なんだろう、これは、子犬がじゃれ合っているような微笑ましさを言葉の端々から感じる。
あたりには乳白色の霧が立ち込め、視界はかげって言い争っている相手が見えない。俺は俺自身をぼんやりながめ、俺こんなゴシックな趣味してたっけとか明後日の方向に思考を巡らせていた。そうこうしていると、やがて霧の中から相手が出てきた。って、おいおいおい、超がつく美人じゃん? ふるいたつようなってのはたぶんこういう人に使うんだ。空色のはねた髪、紫色の瞳、透けるような白い肌に、天使を思わせるわっか……わっか? いやまあ髪も目も人外カラーだけどさ。でもそれを全部横にどけても俺の好みストライクだ。俺がその美人の登場にあてられてぼーっとしていると、黒マントの俺は、とにかく、と前置きして口を開いた。
「わしはフツーの人間として、フツーに暮らしたいのだ。これ以上の介入はやめてもらおう」
すると美人はくすくす笑った。美人が笑うと二倍、いや三倍増しできれいだなあ。
「でも望ちゃん、追い詰められないと勉強しないじゃない」
これには黒マントの俺はむっときたらしい。わかる。俺も同じだから。人間、図星を突かれると怒るものだ。
「だからって実力行使に出るやつがいるかダアホ!」
「でも成績上がったでしょう?」
「ぐぬぬ」
「僕は久しぶりに望ちゃんの役に立てると想ってうれしかったんだけどなあ」
「まあ、お主の言い分は認めるが、教師に取り憑いてまでやることか? やることが極端なのだよおぬしは、場をわきまえよ」
えーと、つまりこの天使みたいな超美人が、俺の願いを聞いて学校の先生たちに取り憑いて、俺が勉強をするようにしむけた、と。いいことなのか悪いことなのか。結果だけ見たらいいことなんだが、スパルタだなあ……。
そういえば俺はあの時、神仏に向けて願ったわけで、ということはこの美人はその類ってことか? 改めて見れば確かに服装も天使そのものだ。邑姜がとてもいいものと言った理由がわかった気がした。
というか、こんな美人と同居してんの俺? お近づきになりたいぞ? そこの黒マントの俺、俺と代われ。なんて念を送っていると聞こえたらしい。
「いかん、覚醒しかけておる。レム睡眠中の交信はこれだからうっとおしい」
渋い顔をして舌打ちする黒マントの俺。対して天使の方は、耳まで真っ赤にしてうつむいている。おお、これはひょっとして、脈アリというやつじゃないか?
黒マントの俺が天使に向かって手を振る。
「わしはいったん沈む。また近いうちにな、普賢」
「うん望ちゃん。次に会うときは『おはよう』だね」
天使が微笑んだ。陳腐な表現だが、花が咲いたようだ。そっかー普賢って名前なのかーなんて思いながら、俺はぬるま湯のような闇の底へ沈んでいった。目覚まし時計がうるさい。
枕元のそれを手探りで探し当てるとアラームを切った。二度寝の誘惑を断ち切って体を起こす。
「おはよう普賢」
返事の代わりにカーテンの裾がふわりと揺れた気がした。
視線は今でも感じている。優しい、見守るような視線だ。
また会いたいな、あの天使に。挨拶を続けてれば夢で会えるだろうか。
そんなわけで、ちょっとふしぎなキャンパスライフは当分の間続きそうだ。