「今回はここまでのようだのう」
※あとしまつ後
※お題 遠距離恋愛
物心ついた時から寂しいと思っていた。それが何かわからないうちに体だけ大きくなり、心は置き去りにされたまま。周りの誰も気持ちを分かってくれない。両親はずいぶん心配して何度も長老のところへ僕を連れて行った。けれど万を生きてきた長老の水晶玉にも僕の寂しさの元は映らない。
今夜も泣きながら眠りに落ちる。理由もわからないままで。「朝よ、起きなさい」
母さんの声が聞こえる。頬に触れると涙の痕があった。僕はいつもどおりそれをタオルで拭い、朝露で顔を洗って背中の羽を広げた。朝食はケドラ花の蜜。ぶんぶん鳴く蜂に挨拶をすると、僕は家族に囲まれて甘い蜜を口にした。おなかが膨れると兄弟たちは今日の予定を立て始めた。今日は東からいい風が吹くから遠出をしようとか、サンザンバラの実が赤くなったからもぎにいこうとか。僕はそのどれにも微笑みだけを返して、冬の匂いがし始めた青空を見上げた。雲は高く遠く、薄いベールのように天蓋へまとわりついている。
「ヌルカブの木でかもした酒を見に行こう」
方針が決まったようだ。僕は小さくうなずいて一番上の兄についていった。ヌルカブの木は緑色の肌と紫の葉っぱの木だ。芯はまっすぐで固く丈夫、森に棲む長耳たちは弓矢を作るのに使っている。
僕が兄弟たちと目的地までたどり着くと、ふと視線を感じた。
視線はずいぶん遠くから注がれているようで、あたり一面を探し回ってもついぞ主に出くわさなかった。もし僕がもう少し勘のいい性格だったなら、天を見上げただろう。そしてそこにぽつんと黒い点があることに……無理だな。気づけなかっただろう。そのくらい上空に彼は居たのだから。
一日中遊んでねぐらに帰った僕はいつものように自分の部屋に入り、おやすみを言ってチナの葉っぱの布団をかぶった。チナの葉には心を穏やかにする作用があるらしいのだけど、暗闇で一人でいるとあまりの寂しさに押しつぶされそうになる。心は林檎みたいに誰かが齧ったまま。ぽっかりと空いた孤独の穴に滑り落ちそうになる。そうなるとひとりでに涙が出てきて、僕は枕元のタオルを顔に当てる羽目になるのだった。
何度目だろうか。息苦しくなり、タオルを避けると、僕はぎょっとした。らんらんと光る猫の目が窓いっぱいに映っていたから。
恐怖に凍り付いた僕の喉は叫び声をあげることすら忘れ、そのまま固まっていた。すると窓辺の瞳はいったん離れ、大きな手が器用に窓を開けた。指先が僕に触れたとたん、恐れは氷みたいに溶けて消えた。どうしてだかわからないけれど、待ちかねたものが来た気がした。指先は僕を優しくまさぐり、やがてつまみあげた。窓から外へ連れ出されるとそこには森を荒らす二本足によく似た何かがしゃがみ込んでいた。
「探したぞ普賢。よもやこんな小さきものになっていようとはのう」
若い男の声だった。少し高くて、耳に甘い。
「キミはだれ?」
「さて、誰であったか。明日の晩まで猶予を与えよう。それまでに思い出せねばとって食うぞ」
猫の目の人は喉を鳴らして笑い、僕を窓から部屋へほうり込んだ。ベッドの上でバウンドした僕が急いで後ろを振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
次の日、僕は両親と兄弟に昨晩のことを話した。みんな大慌てで僕を長老のもとへ連れて行った。けれど、水晶玉に何も映らないのは相変わらずで、手の施しようがないと長老は申し訳なさそうに言った。
「しかして、名を伏せるからには魔物に違いない」
名を知られれば操られてしまうからだと長老は説明した。そして個の名を持つからには高位の魔物であろう、とも。
このままでは魔物に村を滅ぼされてしまうと大人たちは騒ぎ出した。だけども僕は疑問だった。あの不思議な感覚、やっと出会えたかのような喜び。指先が僕をつまみ上げた時の感触。どれも嫌じゃなかった。きっと彼はそこまで悪いものではないと思う。そういうと誰もが僕が魔物に魅入られたと悲しんだ。
「そこまで言うなら生贄になってしまえ」
とうとう長老が激怒し、僕は村を追放されることになった。父さんと母さんは泣きながらバスケットにいっぱいのココナの実を僕にくれた。僕は「すぐ帰ってくるよ」と手を振り、村はずれにある川の大きな岩へ腰を掛けた。怖くなどなかった。彼に会える喜びの方が勝っていた。
夜が更けると、はたして彼がやってきた。大きい。僕なんて簡単に踏みつぶされそうだ。彼は僕を見つけると皮肉気な笑みを浮かべて問うた。
「思い出したか?」
「ううん、まだ」
「では約束通りとって食らうぞ。わしはな、腹が減っておるのだ」
「いいよ」
彼は面食らった様子で僕を見つめた。
「だけどその前にいっしょに食事にしようよ」
ふむと彼は僕を見下ろし、バスケットへ目を止めた。
「よかろう。何かを食らうなど久しぶりだ」
言うなり彼はするんと縮んで僕と同じ背丈になった。ココナの実を手に取り、さっそくかぶりつく。
「うむ、桃によく似ておる。なつかしい味だ」
「もも?」
何かが僕の脳裏ではじけた気がした。
*ちゃんはわけもなくももがすき。
「そうだった、キミは桃が大好きだったね」
夢中で実にかぶりついていた彼が、がばっと顔をあげた。
「ほかには?」
「……軍師って呼ばれてた」
「ほかには!?」
「羊飼いだった。修行熱心だった。地上を忘れなかった。計画へ自分から飛び込んだ。全部やり遂げた」
「……ほかには」
心の奥にいつも固まっていた寂しさがほどけていく。胸が熱くなって、僕は生まれて初めてあたたかい涙をこぼした。
だけどそこまでだった。どうしても彼の名前が思い出せない。
「今回はここまでのようだのう」
彼はもりもりと残りの実をたいらげながらつぶやいた。
「ではな、普賢」
「もう行ってしまうの? 僕を食べるのではなかったの?」
「この桃に免じて許してやろう」
彼は宙へ浮かび上がり、元の大きさに戻った。
「おぬしが生まれ変わり死に変わるたびに、宇宙を渡り惑星をスキャンし探し出し、気の遠くなるような時をかけて問うているのだ。わしの名を」
思い出せぬならまだその時ではないのだろう、そう彼は続けた。
「ソラは寒いぞ。いつかわしをその身で温めてくれ」
突然眠気が襲ってきた。くらくらと視界が揺れる。
「おやすみ普賢。来世で逢おう」「朝よ、起きなさい」
母さんの声が聞こえる。何故だろう。とても、とても大事なことを忘れている気がする。寂しさは悲しみへ姿を変え、僕の頬をすっと涙が落ちた。