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SS~有一郎の有は

けれど現実はうまくいかない。

有一郎独白 ゆうむい

続き

 両親が何を思って「無一郎」と名付けたのかは知らない。ただ、そう呼ぶだけの理由があったんだろう。
 なら俺はどうなんだ。「有一郎」の名を持つ俺は。何を手にしているんだ。何を持って生まれたんだ。
 ずっと頭から離れなかった疑問が、父と母の死によって明確になった。俺には無一郎がいる。きっと無一郎が俺に与えられた天の恵みだ。必ず守り通そう。二人で生きていくために。

 けれど現実はうまくいかない。俺は無一郎を傷つけてばかりだ。俺はきっと恐れている。無一郎が「無」でなくなる日を。だから貶めて、刻み込む。おまえには何もない。俺以外何もないと。

 なのに運命は容赦ない。あの女が無一郎を連れ去ろうとする。俺から無一郎を奪おうとする。自分でも信じられないほどの怒りに目がくらんだ。すべて敵に見えた。ああ、そうだ、もうこりごりだ。この山も、杣の仕事も、俺から離れていこうとする無一郎も。
 俺にべったりだった無一郎が、少しずつ変わっていくのを肌で感じる。誰よりも近くにいるからわかる。無一郎、おまえは外の世界に行こうとしているんだな。俺はきっと笑って送り出さなきゃいけないんだ。それが兄の務めだ。わかっているのに……。無一郎、おまえがいなくなったら、俺には何が残る? この立て付けの悪い小屋か? 厳しいばかりで日銭も稼げない杣の日々か? いやだ、置いていかないでくれ。
 無一郎、おまえは俺の掌中の玉。この世でただ一つ美しいと言えるもの。うまく扱えないのは俺が未熟なせい。
 俺を恨むか、無一郎。飛び立とうとするおまえの足に絡みつく兄を憎く思うか。せんないことだ。わかっているんだ。だって俺は有限だから。生まれついて限界を定められた者だから。おまえなしじゃ呼吸の仕方も忘れてしまう。どうか隣に居てくれ、傍らを離れないでくれ。おまえのもつ可能性を押し潰さんとする俺を嫌いたければ嫌えばいい。たとえ繋いだ手に針が刺さろうとも、俺はおまえを離さない。

 誰に聞かせるでもない独白は深夜に溶けて消えた。
 無限に憧れた有一郎の願いは、最悪の形で叶うことになる。