「ただいま、兄さん」
クリスマスは一切関係ねえ有一郎生存IF 原作時空
降るような星空だった。月はなく、澄みきった空一面に真珠をこぼしたような夜だった。
まろやかな輝きが天鵞絨の上でゆらゆらと揺れるのを、俺はただひたすら見つめていた。まだ夜は冷える季節だから、こうして縁側に正座していると自分の吐く息がほんのりと白く染まる。馬鹿な妄想だとわかっていても、それが天上高く昇ってあの輝きに混ざるのが恐ろしく、俺は音を立てず呼吸を繰り返した。
無一郎が、帰ってこない。任務に出た無一郎が、もう何日も帰ってこない。
今にもこの深夜の霞屋敷の俺の元へ銀子が、銀子だけが飛び込んできやしないかと、ただ座して待つことしかできない俺は奥歯を噛み締めて震えていた。心が「もしも」で削れていく。ぞりぞりとささくれだっていく。今すぐ両耳をふさぎ、この不快な音を断ち心のままに叫びたい。だけれどそれは叶わないのだ。なぜならすべては俺の心の臓が、鳴り止まない音なのだから。
誰かが草を踏んだ。確かめる前に俺は振り向いていた。そこに立っていたのは。
「おかえり」
どうにか口を動かすと、人影は、無一郎は、うっすらと笑んだ。
「ただいま、兄さん」
鉄錆の臭いがする。星明りの下でも、破けた隊服の下からのぞく赤黒い包帯が目に焼きついた。日輪刀すら重いのだろうか。すこし左へ傾いたまま、無一郎は歩を進めてくる。ようやく金縛りが解けた俺は、庭へ飛び降り無一郎を抱きとめた。
「蝶屋敷へは寄ったか?」
「日が昇ったら行くよ」
「悠長なことを言うな、すぐ行くぞ」
「待って」
無一郎は青白い顔で微笑んだまま言葉を続けた。
「僕と踊ってよ、兄さん」
は? と、まぬけな声をあげてしまった。無一郎は眠たげな声でつぶやくようにとろとろと俺へ語りかける。
「わるつをね、習ったんだ。いいところの子だったんだよ。すごくいいところの子でね。うん、僕の知らないことをたくさん知ってた。教えてくれた。ぴあのがさ、得意なんだって。知ってる兄さん? 白と黒の楽器なんだってさ。叩くと音が鳴るんだ。太鼓みたいなものじゃなくて、全然ちがくて、ひとつひとつ違う音が鳴る西洋の……」
「もういい、無一郎」
「帰ったらみんなの前で披露してくれるはずだったんだ。みんなでね、その子の演奏を聞くんだ。でも僕だけになっちゃった。今頃みんなはあの子のぴあのを聞いてる頃だよ。……僕だけ聞きそこねちゃった」
「もういい。おまえはよくやった」
「帰れたら兄さんとわるつを踊りたいなあって思って、思って、思ってるうちに戻ってきちゃった」
かすかな吐息が俺の耳元をかすめた。
「僕と踊ってくれる、兄さん?」
俺は盛大に溜息をついてみせ、無一郎の背をやわらかく叩いた。
「どんな踊りだ。まず教えてみせてくれ」
「あ、そうだった。そうだったね」
無一郎は初めて笑った。
「こんなふうに、抱き合うようにしてね。脚を、片足ずつ動かしていくんだ。今から言うからその通りに動いてね、兄さん」
「ん」
「まず前へ一歩」
俺が言われたとおりに片足を出すと、無一郎は鏡合わせのように足を引いた。
「すべるように横へ一歩」
「こうか?」
「そう。で、足を閉じる」
「うん。それで?」
「今度は後ろ」
無一郎が一歩踏み出す。押されるように俺は背後へ移った。
「それで、さっきとは反対の方へ、横」
「こっちだな?」
「そう。で、足を閉じる」
「それから?」
「おわり」
「これだけ?」
「うん。僕が習ったのはこれだけ。いち、にい、さん、と拍子をとりながら踊るんだよ。本当はもっと難しいものらしい」
「ふーん」
「でもきっとこれで十分」
こくびをかしげた弟のぼんやりとした瞳で、長い尾の魚のように期待が泳いでいった。
「うん、なら、踊ろうか」
その魚が消えてしまわないうちに尻尾を捕まえて俺は一歩踏み出した。無一郎があぶくのようにつぶやく。
「いち、にい、さん、いち、にい、さん」
「いち、にい、さん、いち、にい、さん」
俺もいっしょに声と動きを合わせる。
「いち、にい、さん、いち、にい、さん」
「いち、にい、さん、いち、にい、さん」
こわばっていた無一郎の体が静かにほぐれていく。
いち、にい、さん、いち、にい、さん。
いち、にい、さん、いち、にい、さん。
ぽかりぽかりと吐く息が空へ昇っていく。俺の背へ回した無一郎の手が、ずるりと揺れた。なにかの糸が切れたのか、冷え切った体が腕の中へ倒れ込んでくる。無一郎は眠っていた。満腹した猫みたいな寝顔だ。胡蝶さんに見せたら苦笑いされるに違いない。俺は弟を抱きかかえ、蝶屋敷への道をたどった。覚えたばかりの子守唄を聞かせながら。
いち、にい、さん、いち、にい、さん……。
無一郎は静かに眠っている。あの踊りはわるつとはおそらく違うのだろうが、無一郎がそうだと言ったのだからそうなのだろう。夜はまだ深く暗く、見上げた空は白と黒。俺はぴあのなるものを知らないが、あの星も叩けば音が出るのだろうか。どうかそうであれと祈りを捧げ、弟の代わりに鎮魂の句を口にした。