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SS~だってお前は弟だから

「風邪だな。よし、俺に任せておけ」

マロお題:風邪引いてるむいと世話するゆう

続き

 すっきりした朝だった。空は快晴、五月だと言うのに早くも夏の日差しが降り注いでいる。近くの公園の緑がきらきらして、こういう朝はなんだか気分がいい。
「おはよう無一郎、起きろ」
 俺は隣のベッドの片割れへ声をかけた。無一郎は俺と違って寝起きが悪い。とにかく寝汚く、普段なら声掛けした程度では起きない。当然今日も返事はない。いつものことだ。でもこんなにいい朝にぽかりとやるのも気分がよろしくない。
 なのでやっぱりいつものように、俺は無一郎のベッドの脇へ陣取り、布団を剥ぎ取ろうとした。
「んん~やだあ~」
 無一郎の間延びした悲鳴が聞こえてくる。と、ここで俺は異変に気づいた。こいつ、いつもと同じなら寝ぼけて蹴りをかましてくるのだが、今日はそれがない。布団だって丸まって抵抗したりなんかしないで、はぎとられるに任せている。薄掛けの布団の下から現れた無一郎はぐったりしていた。顔も赤いし、息も荒い。うっすら涙ぐんでさえいる。
「無一郎、どうした?」
「なんだかあつい……」
 驚いてひたいへ手を置くと、あからさまな熱がつたわってきた。
「風邪だな。よし、俺に任せておけ」
 無一郎を布団へおさめた俺は、さっそく父さんと母さんへ弟の状態を報告し、軍資金をもらった。共働きの両親は、それぞれはずせない会議と得意先周りがあるようだ。それから学校へ無一郎ともども休む旨の連絡を入れると、体温計とアイスをもって部屋へ取って返した。
「九時になったら病院へ予約を入れるからな」
 そう言いながらてきぱきと体温計を消毒し、無一郎へ咥えさせた。
「ん~」
 不快そうに無一郎が眉をしかめる。
「それが終わったらごほうびにアイス食わせてやるから」
「ん~」
 先ほどとは微妙に違ったニュアンスの「ん~」だった。熱に浮かされているが、喜んではいるらしい。ピピッと硬い電子音が鳴り、俺は体温計の結果に眉をひそめた。とんでもない値だ。無一郎が起きれなくなるのも無理はない。俺は急いでアイスを手に取った。
「ほら無一郎、約束のアイスだ」
 カップタイプのアイスの蓋を開け、スプーンで一口分すくい取り無一郎の口へ入れてやる。冷たいアイスが心地いいのか、無一郎は目を細めた。続きをねだるように口を開ける。
「こら、ちゃんとごくんしろ、まだ口の中残ってるぞ、な?」
「ん~」
「よくできた。ほら、もう一口」
「ん~」
 無一郎は「ん~」だけで会話してくる。そこら辺は双子の呼吸というやつで、だいたい言いたいことはわかるからべつにいい。問題は、そのくらい無一郎の病状が悪いという点だ。普段なら口喧嘩で無一郎には勝てない。ぼんやりして見えてこいつ口は達者なのだ。その無一郎が言葉を発するのも難しい、とどめに高熱。俺は無一郎がひどい伝染病にでもかかったのかとやきもきした。ひとまず納戸から救急箱をひっぱりだして、解熱剤を飲ませ、氷枕を作ろうか。冷凍庫の中に今ある氷だけで足りるか。そう算段していると、無一郎が顔をこちらへ向けた。
「にーさん、だっこ」
「うん、だっこな。よしよし」
 いよいよもって緊急事態だ。
 俺はいったんアイスを脇へ置き、無一郎をよっこらせとベッドからおろした。膝の上に乗せて抱きしめてやると無一郎が安心したように微笑む。そのまま寝そうになったので、パジャマの上から薄い布団をかぶせて、それごとだっこしなおした。
「無一郎、しんどかったらいつでも呼べよ」
「ん~」
「おまえが呼んだら、いつでもとなりに行くからな」
「ん~……」
 無一郎が目を閉じた。呼気は荒いままで眠っているわけではないのがわかる。俺は無一郎を再びベッドへ寝かせ、手早く着替えた。無一郎のぶんは、とクローゼットをあさりながら考える。熱も出ているし、外も暑いようだからTシャツと柔らかい素材のズボンだけでいいだろう。ジャージの下だけひっぱりだし、俺はあとで着替えさせるために枕元へ置いた。
 まず病院へ予約だ。それからタクシーを呼んで。
 時間になる前に無一郎を着替えさせた。パジャマは汗でぐっしょり濡れている。これは水を飲ませなきゃなるまい。どうにも対応が後手後手に周りがちでいけない、などと反省しスマホを駆使してできることを探すがたいした結果は出てこない。
 無一郎が倒れるなんて鬼の霍乱というやつだ。普段は生意気なくらい元気いっぱいなくせに。不安になる、心配になる、もし無一郎がこのまま入院なんてことになったら、それならまだいい、つい思考は最悪を想定してしまう。
 やっと時間になったので、俺は無一郎を抱きあげ、タクシーへ乗った。子どもの頃から通っているかかりつけの病院へ。無一郎はタクシーの中でも俺の肩へこてんと頭をあずけ、苦しげな息を吐いていた。
「ひさしぶり、大きくなったわね、ふたりとも」
 小さな病院の診察室で、胡蝶先生はにっこりと微笑んだ。俺が子どもの頃からまったく老けた様子がない。年がいくらなのかは知らないが、美魔女ってこんな感じだろうか。
「それじゃ無一郎の検査をするから、有一郎は待合室で待っていてね」
「はい」
「ん~」
 無一郎がむずがった。俺へしがみつき、ん~ん~言っている。
「無一郎、すこし離れるだけだ。大丈夫だから」
「ん~!」
「あらら、困ったわね。仕方ないから有一郎にも居てもらいましょうか」
「わかりました先生」
 俺は椅子をもう一つ持ってきてもらって、無一郎のとなりへ座った。無一郎は俺の手をしっかり握っている。熱い、本当に大丈夫なのかこいつは。
「熱を測るわね」
 先生は非接触型の体温計を取り出し、無一郎へ向けてピッとやった。
「無一郎、関節に痛みはない?」
「ん~」
「ないそうです」
「熱を感じたのはいつからかしら」
「ん~……」
「昨日の晩には寒気がしてたらしいです」
「有一郎がいてくれて良かったわ」
 無一郎は胡蝶先生から隠れるように俺へ体をぴったりと寄せている。
「まるで赤ちゃんね」
 胡蝶先生からそう笑われたが、俺としては無一郎が心配で気が気じゃなかった。俺にひっついてそれで治るならそうしてろ。本気でそう思っていた。
 諸々の診察を終え、先生はこちらを安心させるようにちょっと首をかしげて笑った。
「ただの風邪。注射を打っておくわ。抗生物質を出しておくから、それを飲ませてあげてね有一郎」
「はい」
「ん~」
「粉薬は嫌だそうです」
「本当に有一郎がいてくれて良かったわ」
 胡蝶先生はころころと笑い、看護師へ目で合図して注射の用意をした。
「んー! んー!」
 無一郎が涙目で俺の後ろへ隠れた。
「こら無一郎、いやがってどうする」
「んー!」
「これを受けないと帰れないぞ」
「んー!」
「しつこいやつだな」
「んーんー!」
「痛いから嫌? はあ、お前ってばどうしちゃったんだよいったい」
 これも熱のせいだろうか。無一郎は恐怖にふるえ、見事に幼児退行している。恥ずかしい、が、しかたない、こういう時の無一郎には……。
 俺は腕を伸ばし、無一郎を膝の上へ抱き上げた。そのままあやすようにゆすってやる。だんだん無一郎の瞳から恐怖が薄れていく。
「よしよし、よーしよしよし」
「ん~」
「まだ注射が怖いか?」
「ん~」
「そうか、まだかー。困ったな。俺は困ったぞ、無一郎」
「ん~」
「困ったなー。あー困った。このままだと無一郎は入院しないといけないかもな。そしたら俺とも会えなくなるな」
「んー」
「寂しくなるなー。困った困った」
「……ん~」
「そっかー、お前も困るか。だったら注射を受けるか?」
 無一郎はこくんとうなずいた。よし、茶番をしたかいがあるってものだ。俺は無一郎を抱きしめたまま、弟の片腕だけ前へ突き出した。
「先生、今のうちにおねがいします!」
「いい手腕よ有一郎!」
 スパッとすんなり注射は終わった。無一郎は痛がらなかった。というより、胡蝶先生が上手いのだが。俺たち兄弟を注射の恐怖から何度も救ってくれた手技はご健在らしい。一仕事終えた無一郎は大きくため息をつき、俺の胸へ頭を寄せた。そのまま動きたがらないので、俺は薬屋でも帰りのタクシーの中でも無一郎をだっこしたまま連れ歩いた。
 仕草は赤ん坊みたいとはいえ、ガタイだけは俺と同じなのだからめちゃくちゃ重かったが、耐えた。無一郎が眠り込んでしまったからだ。起こしてしまうのも気が引ける。やっと家へ帰り、ベッドへ寝かしつけた頃には俺はぜいぜい言っていた。疲れたからだへ鞭打ち、俺は無一郎をパジャマへ着替えさせる。そこが限界だった。
「疲れた、寝よ」
「ん~」
 ん?
 俺は下を向いた。眠っていたはずの無一郎とばっちり目があった。
「んー」
「ああ、だっこな。まだするのか?」
「んー!」
「わかったわかった。これでどうだ」
 俺は服のまま無一郎のベッドへ転がりこみ、まだ熱いからだをぎゅっと抱きしめた。
「ふふっ」
 幸せそうに無一郎が笑う。注射のおかげだろうか、すこしは余裕がでてきたみたいだが。
「だっこ。もっと」
 反応はあんまり変わってなかった。熱の高い無一郎には俺がひんやりと心地よく感じるのかも知れない。
「しかたないな。お前もちゃんと寝るんだぞ」
 べたべたしようとする無一郎をなんとか引き剥がして薬を飲ませ、俺はパジャマに着替えて無一郎のとなりへ戻った。無一郎が甘えた瞳で俺の胸へ顔を寄せる。
「にいさん、ありがと」
 そのまま静かに寝息を立てはじめた。
 ……ありがとう、か。久しぶりに聞いた。
 明日になったらまたもとの生意気な弟へ戻るのだろうけれど、いまはとにかくこいつを甘やかしたくてたまらなく、俺は無一郎を抱きしめなおし、頭を撫でくりまわした。