「こんばんは、望ちゃん。お招きありがとう」
『わくら樹』
※ツンメソ
※>>空言庵様でも公開されています。
汗を流して浴槽につかり、普賢は長く息をはいた。
ぬるい湯に包まれながら、今日の出来事を反芻する。思い返す事柄はどれも満足のいく出来だった。明日への憂いもない。
広い風呂の縁石に置かれた酒瓶を手に取り、グラスにそそぎ入れる。とろりとした琥珀色の液体を浅めに、氷をたっぷりと。ゆるくまわせばカラカラと耳に心地いい音がする。
最初の一口を味わった時、普賢は浴室内が暗くなったことに気づいた。天井を見上げると、灯火は変わらず静かに燃えている。この部屋で光だけが吸い込まれたように暗い。
だが、不穏な予兆は感じられない。たゆたうのは柔らかな闇、眠りに落ちる前のような。
深い影の中、壁であるはずの場所にぽうと扉が浮かび上がる。呼吸するように明滅する輪郭と、その中央に刻まれた紋章は、見慣れた彼のものだ。
普賢は薄く微笑むと、誘いにのってやることにした。バスローブを羽織ると、扉に手をあてた。ノブのない扉が自ら開き、普賢は息を呑む。
桜、桜、夜桜一面。
月も星もない夜の中で、天を突くような巨木が狂ったように花咲かせ、我も我もと散り急ぐ。無音の狂騒に気おされて足が踏み出せない。そら恐ろしいほどの眺めだった。
「おーい、ここだここだ」
のほほんとした声が呪縛を解いた。ひときわ大きな桜の下で手を振っているのは、鵬のような黒いマントの人。巨木の下に陣取り、黒い毛氈の上にとりどりの酒肴が並べてある。見慣れた姿にほっとした普賢は、襟をかき寄せて彼に近づいた。
「おお、土産か。気がきくのう」
普賢が手にした酒瓶をめざとく見つけ、伏羲は手を打って喜んだ。
「こんばんは、望ちゃん。お招きありがとう」
普賢はとなりに座り、伏羲に酒瓶を渡す。二仙山の特級品に喜ぶ彼はいつもどおりで、散り逝く花の充満したここで、彼だけがはっきりと確かに生命を保持している。
花々の気迫に打ちのめされた普賢には、その確かさが何より得がたいものに思えた。際限なく空間に満ちていく桜の供宴を前に、動じない伏羲の姿は普賢を安心させる。上気した肌に夜風が快い。
「……すごいね」
普賢は改めて桜を見上げた。内側からこぼれるように、花は咲き、花は散る。咲いては散り、散っては咲き、波のようにくりかえす。何をそんなに急いでいるのか。
「仇花だ」
「どういうこと?」
つまみをひょいと口に放り込み、伏羲は背後に手をやり桜の幹をとんとん叩いた。
「こやつ死ぬために咲いておるのだ」
言葉の意味を図りかねた普賢に、伏羲は続けた。
「寿命が尽きた老木が、妖樹でもないのに生きながらえておったのでな、話を聞いたのだ。
そしたら、もう一度花咲く己の姿を観ねば死んでも死にきれんと言うでのう。ちと手を貸してやった」
言われて普賢は、あたりを彩る桜の木が皆、中央の巨木と同じ姿形であることに気づいた。
「女は怖いな」
軽い声で笑い、伏羲は杯を傾けた。
ああ、そうか、それで。
普賢は巨木をながめる。
次の世代への命を繋ぐ、そんなあたりまえの営みのためでなく、ただこの一時美しさに耽溺することを選んだ花樹。己の似姿で地の果てまで埋め尽くし、さぞや満足なことだろう。
あとはただ枯れるだけ。この夜が明ければ、朝日の中醜く老いさらばえた姿を晒して枯れるだけ。情念だけが彼女を生かしていた。
恍惚と死へ邁進する桜の姿は、普賢の深層を突いた。
反射的にあおった酒は苦い。
「望ちゃん」
「なんだ」
「望ちゃんは、どうしてこの桜の願いを聞いてやったの。この桜はキミの望みをかなえてくれそうにないよ。
ひとつの願いにひとつの望み、それがキミのやり方ではなかったの?」
「望みならかなっておるぞ。おぬしと夜桜を肴に一杯とな」
「それは僕がかなえているのであって、桜じゃないでしょう。言えばいいじゃない、いつもの気まぐれだって」
ぴしゃりとした物言いに伏羲は背筋を伸ばした。片目をすがめて普賢をながめる。
「酔っておるな」
「酔ってないよ」
「いいや、酔っておる。己にな」
虚を突かれた普賢の隙を見逃さず、伏羲は彼を押し倒した。酒瓶が倒れ、皿が割れる。朝焼け色の瞳が間近から普賢をにらみつけた。
「何度好きだと言えばいい。おぬし、そんなにわしが信用できんのか」
普賢はしかられた子どものようにごめんなさいとつぶやいた。いつにない素直さに伏羲の苛立ちも削げたようだ。
「いや、すまん。わしも言い過ぎた」
身を起こして離れていこうとするから、つい手が伸びた。その背に腕をまわしてすがりつく、祈るように。
「どうした普賢。ああ泣くな泣くな。そばにいるから」
普段どおりの自分に立ち直ろうと荒れる心中とは裏腹に、抱きしめてくれるぬくもりがどうしても手放せなくて涙がこぼれる。
愚かさにどれほどの違いがあるというのだろう。この桜と、自分と。
重荷になりたくない、しがみついて離れたくない、相反する想いが普賢を引き裂く。
「戻るか?」
髪を撫でる手に普賢は首を振って答えを返した。
「ここがいい、ここが……」
闇と桜とキミしかないこの閉じた場所がいい。
こんなに小さな空間ならば、僕はキミをいつも感じていられるかな。
キミと僕の間はからっぽで何もない。いつだってうろを埋めようと懸命に注ぎこんでいた。その昔は友情を、今は想いを。だけど注ぎこむそばから吸い込まれて消えていって、いつまでたってもうろは満たされる気配もない。
何よりも怖いのはキミがくれる口づけを拒むすべを知らないことだ。この手で終わらせたくなるほどに。
身を砕け散らせたあの時、僕は幸福に包まれていたのに。
生きのびてしまうなんて。
押し殺しても押し殺しても嗚咽はこみあげてきて普賢は泣き続けた。伏羲は何も言わず黙って頭を撫でる。
声がおさまってきた頃、苦笑しながらべそをかく普賢の涙をぬぐってやった。
「のう、普賢。おぬしが危惧するように、確かにわしはおぬしがいなくとも生きていける。
だがな、わしはおぬしと永遠を過ごして行きたいのだ。
だから泣くな。かわいい顔が台無しだぞ、な?」
「何それ」
下手ななぐさめに普賢はつい笑ってしまった。ちゅっちゅと音を立てて涙を吸われる。くすぐったい。
「戻って飲みなおそう」
「うん」
今度は素直にうなづけた。
指先で陣をほどき料理を消すと伏羲は倒れていた酒瓶を持ち上げた。中身がほとんどこぼれてることにすっとんきょうな嘆きの声をあげる。その姿はいつもどおりで、普賢には何物にも換えがたい宝であるように思われた。
「望ちゃん」
「なんだ」
「お酒、まだあるから」
「おう、楽しみだ。酌を頼むぞ。あ、燗もしてくれ、ちと冷えたからのう」
「はいはい」
伏羲が扉を呼び出す。普賢はその背に触れ、手に指をからめた。うろの上には細いピアノ線がはってある。
僕は怖くて渡れないその上をキミは駆けてくる。
いつも。扉が閉まる直前、ふたりで振り返って桜にさよならをした。
■ノヒト ... 2007/06/16(土)15:37 [編集・削除]
「これ、伏羲が普賢はこう考えること見越して連れて来たんでも萌えますよね」
と、いうコメントをいただきました。
おおおそれは萌える…!