「元始天尊さまが一番弟子、普賢参りました」
※道士時代
大きな扉の前に立つと、僕は襟をピンと正した。
重い音がしてゆっくりと扉が開いていく。緊張で胸が張り裂けそうだ。
「元始天尊さまが一番弟子、普賢参りました」
すこし声が上ずってしまって、冷や汗。僕はちらりとその子を見た。
白鶴につきそわれた彼は、悲しげな表情のままうつむいている。気づかれてはないみたい。そもそも興味を持たれてないみたいなんだけど、ま、いいか。
元始天尊様はうなづくとゆるやかに手招きされ、その子を呼び寄せる。足音を立てずに歩く様が猫みたい。
「普賢よ、今日よりわしの弟子となった呂望じゃ。同門の者として、共に切磋琢磨するのじゃぞ」
呂望と呼ばれた子は顔をあげた。光を弾く黒髪の下から、憂いに満ちた黒曜石のような瞳がのぞいている。格別整っているというわけではないけれど、人をひきつける何かがあった。笑ったなら、さぞかし魅力的だろう。
「では普賢師叔、呂望をお願いします。仙界のことをいろいろ教えてあげてくださいね」
「もちろんだよ白鶴。はじめまして呂くん。僕、普賢って言うんだ」
僕は右手を差し出した。彼はあいかわらず無表情のまま、僕の手を握った。噂話は仙界の数少ない娯楽のひとつだ。
呂望のことは、もうすっかり知れ渡っていて、僕の耳にも届いていた。
あの元始天尊様が試験もせず直々にスカウトに行ったってこと。数日前に、殷の皇后の差し金で一族を失ったことも。
昨日、遠目にみた彼の横顔は打ちひしがれ疲れきっていて、僕はなんとかして彼の力になりたいと思ったんだ。何ができるのかは、まだ考えてるところなんだけど。「はい、ここが僕たちの部屋だよ」
僕は戸をあけると、呂望を招き入れた。
「今日からここで僕と寝起きするんだ。荷物はここ。寝台はそっちを使って。
風呂は向こうにあるけど、ちょっと離れたところに大浴場があるからそっちでもいい。あとで案内するよ」
興味深そうにまわりを見回す彼を見て、僕は内心ほっとした。周りに興味がでるのは心の回復の兆しだと本に書いてあった。
「形式上は僕のほうが兄弟子だけど、特に気づかいはいらないよ。僕もついこの間まで文殊様のところにいたから、ここではまだ一ヶ月しか生活してないんだ。言うならば同期ってとこかな」
なるべく明るい声で話す。少しでも彼の心を軽くできたらうれしい。
同年代の子なんて初めてだ。それも、一緒に暮らすようになるなんて。仲良くしたい。そしてできるなら、彼の傷を癒したい。
僕には親兄弟はいないけれど、家族を目の前で失ってしまう衝撃はおぼろげながら想像できた。
彼は無言でうなづくと、肩にかけた荷物をおろす。
「これからよろしくね、呂望」
僕はもう一度右手を差し出す。この崑崙が、つらい目にあった彼の、第二の故郷になるといい。
「……よろしく」
ぶっきらぼうな、だけど確かに彼の声が聞けて、僕は心が弾んだ。呂望はひたむきで、すごく真面目な子だった。厳しい修行も文句ひとつ言わず黙々とこなす。
下での重い過去のせいか、自分から人と触れ合うことはなかったけれど、声をかければ応えるし必要があれば手も貸してくれる。
何よりものすごく頭の回転が速い。打てば響くというのはきっとこんな感じなんだろう。僕も理解力はあるほうだと思っていたけれど、彼のカンの良さとひらめきの豊かさといったら舌を巻かずにいられない。
悲しげな瞳はあいかわらずだったけれど、崑崙での生活は肌に合うみたいで不平を言うことはなかった。最近では十二仙の師兄とも交流があるみたいだ。修行のほうも順調だし、ぼやぼやしてると追い抜かれかねない。
少しづつ彼の世界が広がっている。子どもっぽい嫉妬心がちょっとだけ僕に残念な思いをさせたけれど、それ以上に僕は彼の成長を喜んでいた。「よいしょっと」
呂望と一緒に暮らすようになって、今日で一年。
この日は絶対記念日にするって決めてた。食卓の上に花を飾って、普段より豪華な料理を並べてさ。と言っても仙界の食事だから質素なものだし、料理は彼のほうが得意なんだけどね。気のきいたことは言えない僕だけれど、気持ちが伝わったらうれしいな。
僕は花瓶に花を生けて、献立をもういちど頭の中で確認する。ああいけない、桃を冷やしてなかったな。外の清水につけてこよう。
聞き慣れた足音が聞こえて、僕はあわてて花瓶ごと隣の部屋に逃げ込んだ。
扉の開く音がした。やっぱり呂くんだ、もう帰ってきちゃったのか。参ったなあ、修行が終わる前に全部そろえて驚かせようと思ってたのに。
彼が大またに歩き、椅子を引いて腰をおろす気配がする。いらだたしげなため息が聞こえた。
「……ったく、話長いんだよジジイ」
薄い扉の向こうから聞こえてきた声に、僕は固まった。
「まわりくどいし、あちこち飛ぶし、最後は説教だしたまんねーっつの。
太乙は呼んでも出てきやがらねえし、何しに午前の予定つぶして乾元山まで行ったんだかわかんねーよ。道徳がどうしてもって言うから手紙任せたら、やたら熱血して盛り上がってやがったし、あいつマジ暑苦しい。
つーかジジイマジウゼェ、説明したじゃん、道徳が持ってったって。なのにお使いにならんとか言い出しやがって、任せたんだから後はしらねーよ。だいたい息臭いんだよ。頭長いし。つか、何入ってんだあの頭?」
あ、うん、僕も気になる。いや、そうじゃなくて。
……えーと、そこに居るのは呂くんだよね?あのおとなしくてマジメでがんばり屋の呂くんだよね?
「ま、いいや。かったるいし。寝よ寝よ」
あっというまに足音が近づいてきて目の前の扉があいて、僕は花瓶と桃の入った果物籠を抱えたまま逃げるひまもなく。
僕を見つけた呂くんの顔がひきつる。
いやな沈黙が落ちる。
「お、おかえり」
「……」
「じゃ、じゃあ、僕、午後も修行あるから!」
愛想笑いで彼の横を通りぬけようとした瞬間、襟首をつかまれた。
「聞いたな?聞いてたな、今の?」
「ききき聞いてません!なんにも聞いてません!」
「嘘つくなテメエエエエエエエエエ!」
「ひいいいい!」
なんなのこれ、どうなってるの?憂いに満ちてたはずの大きな瞳がむかっぱら全開で僕をにらんでいる。かなり、怖い。いつもうつむいてたからわからなかったけど、目つき悪かったんだね、キミ……。
「ちっ、おい普賢」
「は、はひ!」
いきなり呼び捨てされたよ、いままで普賢くんとかおまえとかだったのに。
「誰にも言うなよ。言ったらどうなるか、説明しなくてもわかるよな?」
彼がにやりと笑う。ネズミをいたぶる猫の目だ。
「いいか?俺は確かにジジイのスカウトにのったが仙人になりたいわけじゃない。一族の敵討ちをするためにここにいるんだ。ゆくゆくは崑崙をバックにつけて殷を倒しに行くつもりなんだよ。
だから『真面目でかわいそうな呂望くん』のほうがいろいろと都合がいいんだ。わかるか?」
襟首をさらに強くつかまれて、僕はこくこくうなづく。暑くもないのに汗がだらだら出てる。
「と。言うわけで」
呂くんが手を離し、僕は床にしりもちをつく。花瓶から水がこぼれ、籠から桃がひとつふたつ転がり落ちた。
「今日からおまえ、俺のこと『望ちゃん』って呼べ」
「はへ?」
間抜けな声が出た。
僕はぽかんとして呂くんを見上げる。
「だって俺たち親友だろ?こんな大事な秘密をわけあった仲だもんな!」
彼はにっこりと、ええ、それはもう、魅力的な笑顔で。
なんてこと!
伏目がちだったのも無口だったのも、無愛想に振舞ってたのも修行に打ち込んでたのも、すべて目的のための手段だったというのか。僕よりふたつも年下だってのに、なんてこと。開いた口がふさがらない。
「よろしくな普賢」
快活そうな極上の笑みを浮かべたまま、彼が左手をさしだす。左手握手って、決闘のサインだよね、たしか。ああでも、彼は、左が利き手だった。それを差し出してくれたってことは……。
少しは僕のこと、信用してくれてるんだろうか。
「望ちゃん、ね……」
新しい呼び名を試しに舌の上で転がしてみたら、しっくりとなじんだ。
なんてこと。
僕は今すっかり、確かに、彼に興味を持ってしまった。
年下の哀れな庇護すべき存在としてではなく。
だまされてた。そのはずなのに、僕の口元は何故か笑っている。
「……よろしくね、望ちゃん」
差し出された手を、僕はしっかりとつかんだ。
■ノヒト ... 2007/08/20(月)02:59 [編集・削除]
どうも太乙と道徳はケンカをしてたみたいです。たぶん太乙が一方的にわがまま言っただけです。