「驚かせてごめんなさい。僕は起き上がりではないんです」
※ゾンビ普賢さん R15G
※オリキャラ視点
窓を閉めていても砂埃が入ってくる。
私は車にありったけの食糧と水を乗せて荒野を走っていた。
南にいけばまだ安全だと信じて。
3ヶ月前、突然始まった死者の起き上がりで世界は混乱の極みにあった。政府はあっさり壊滅し、原因は不明のままだ。
起き上がった死者はそこかしこで人間を襲い、鼠算式に同胞を増やしていく。水は死体で汚染され、農夫を失った田畑は荒れた。交通網はマヒし、都市部は略奪で混乱続き。昨日までぴんぴんしていた人が、今日は濁った目で太ったネズミを頭からバリバリかじる。そんな日々が続いている。ラジオも、とうに沈黙してしまった。
アクセルをベタ踏みしたまま私は考える。遠くにかすむあの山の向こうに、町は残っているのか。人は生きているのか。食料は、水は、弾薬は。先日、私はモーテルで化物となった住人を退け、トランクの水と食糧を確保した。代わりにショットガンが使い物にならなくなってしまった。取りまわしのよさと威力の高さに頼っていたツケだ。手持ちの武器はハンドガンが二丁とライフル。弾倉は片手の数、ライフルにいたってはあと三発しか撃てない。ガソリンの予備も手に入れなくては。
ふいに前方に影が見えた。片手を高く上げている、ヒッチハイクのポーズだ。こんなところに生存者がといぶかしみつつ、私は減速した。
少年のようだった。背丈から言ってハイスクールくらいか。さらに近づき、私はぎょっとする。
頭上に、あれはなんだ、まるで天使の輪だ。輝く光輪が土気色の顔をくっきりと見せた。片目はつぶれ、破れたTシャツには乾いた血ノリ。全身にむごい擦り傷があり、皮膚の下の組織が見えていた。
起き上がりだ。私は再度アクセルを踏む。しかし少年は、死体とは思えない速さで車の前に飛び出す。反射的にブレーキを踏んでしまい、車は少年のギリギリ手前で止まった。
「驚かせてごめんなさい。僕は起き上がりではないんです。あの山の向こうまで、僕を乗せていってください」
少年はなめらかに言葉をつむいだ。私の知る限り、化物にそんな知能はない。困惑する私を少年はじっと見つめている。
襲われた人間が、余命をつないで動いているのか。否、彼の顔面の半分はトマトでもつぶしたようにえぐれているし、添え木をくくりつけた左足からは骨が飛び出ている。麻薬をがぶ飲みしたとしても動きまわれる傷ではない。
一方、彼の言動は理性を宿しており、片方しかない瞳はふしぎに澄んでいた。その振る舞いも彼が、致命傷を負った死体にしか見えないという点を除けば、いたって穏やかだ。そのうえ頭上の光輪は見間違いでもなんでもなく、私は思わず神の名を呟いた。
「困っているんだね。こんな格好ならそれも当然だと思う。だけど僕、足が動かなくなってきて。お願いします、連れて行ってください。探してる人が居るんです」
少年の願いに、奥歯を噛み締めて低く息を吐く。常識的に考えて彼はキャリアだ。いつ発症し起き上がりと化すかわからない。今すぐアクセルを踏みしめ、物言わぬ肉塊に変えてやるのがせめてもの情けだろう。私の沈黙を否定と取ったのか、彼は道路脇に戻った。
「無理はいわないよ。あなたのためらいはもっともだ。僕のために時間を割いてくれてありがとう」
よい旅をと、彼は微笑んだ。車は再び走り出す。彼の姿がバックミラーの中、遠のいていく。その小さな影が足を引きずって歩き出したのを見て取り、私はあきらめてブレーキを踏んだ。「ありがとう、恩に着るよ」
彼は穴だらけのジャケットを助手席に敷いて座った。近くにいるとさすがに異臭が鼻を突く。乾燥した風が少年の血を乾かし皮膚を干からびさせていたけれど、内部で進む腐敗までは止められないようだった。
せめてもの保険にとダッシュボードにもハンドガンを置いておく。私の知る限り、キャリアが起き上がるには一度完全に死ななくてはならない。しかし物事には例外と言うものがある。彼が突然襲いかかってくる可能性は十分あった。
私は眠るとき、彼を地面におろし三キロ先まで車を走らせた。そして日が昇るたびに、私は無駄になるガソリンのことも忘れて彼を迎えに行くのだった。
そうして、私と少年の二人旅は続いた。彼は陽気でおしゃべりだった。腐臭をのがすため、開け放した窓から外を眺めながら、彼は意味不明でたわいもないことをしゃべった。
「今、軸が調整中らしくてね。僕らのほうもだいぶやられちゃってさ、どうにもならないからやめにすることにしたんだ。発展的解消ってやつだよ」
私には訳がわからなかったけれど、ラジオ番組のDJくらいの役には立ったから放置していた。それに、自分以外の誰かの声を聞くのは久しぶりで、いつのまにか己の輪郭がぼやけてにじんでいた事にも気づいていた。
話から察するに、彼は幼馴染を探しているらしかった。もうずいぶん長いこと会ってないのだそうだ。特にやることもなくなってしまったので『せっかくだから』その人を探しているのだという。
「この体は起き上がってまた転んだ人のを借りてるんだ。僕は魂魄体のままさすらい過ぎて、死体でないと受肉できなかったんだ。体って重いんだね。すっかり重量ゼロに慣れていたから、最初は指一本動かすのも大変だったよ」
彼はよく笑った。心から楽しそうに笑うので、花が咲いたようだった。そして、私はそんな風に笑える彼が少し疎ましかった。嫉妬だったのかもしれない。私はうつむきたくなるような思い出しか持っていなかったから。正直にそう告げると、彼は静かに笑んだ。
「そうかもね……けど、怒ったり、悲しんだり、それもきっと大事」
息を吸って、息を吐く。そのたびに腐りきった肺の悪臭が漂った。彼は懸命に呼吸をくりかえしていた。心臓は止まっているし、気管も穴だらけで。負荷を与えるたびに肺胞だったものはぷちぷちとかすかな音を立ててつぶれ透明な汁をこぼしていたけれど、なお彼は呼吸を忘れようとしなかった、義務のように。
「僕にはもう、希望しかないんだ。あの山を越えたらきっと望ちゃんに会えると。もう、それだけになっちゃったんだよ」
私はそのとき初めて彼の幼馴染の名を知った。何日たっただろう。山もずいぶん近づいてきた。
その日は妙に空が重く、彼は朝から口をつぐんだきり何かをうかがうように息を殺していた。昼、なまぬるい風が吹き始め、荒野がざわめいた。夕暮れ、よろめく太陽が地平にへばりつき空を濡らす。妖しい気配に大気が脈動していた。
「止めて、止めてください、降ろして」
彼は東の地平線を凝視していた。車が静止しきる前にドアを開け、不自由な足で外へ出ようとする。思わず手を伸ばした私は、彼の左肩をむしりとってしまった。パニくった頭でとにかく連れて行くから車に残れと言った気がする。彼は大人しく席におさまり、私はハンドルを切った。進むにつれ風は強くなり、頭が重くなってきた。砂埃が入り込んだようにざらざらした頭痛が溜まり思考がまとまらない。隣に居る彼は、緊張のあまり唇を噛みしめている。そんな顔をするのは初めてだった。
不意に自分が煉獄への道を分け入っている気がした。恐怖が神経にからみつき脊椎を駆け上る。全身から冷や汗が吹き出した。
「大丈夫、僕が相手をするから。あなたは無事に帰れる。信じて」
その言葉だけを頼りにまっすぐ進んだ。外はまるで嵐のようだ。時折吹く突風に横からさらわれそうになる。ひときわ強い風が来た。正面から、まるで押し戻そうとするように。叩きつける砂に視界が奪われる。
「お願い、もう少しだから」
私は必死でアクセルを踏む。音を立てきしみながら、車は唸りを上げ風の壁へ突進する。強烈な浮遊感に襲われたかと思うと、強い衝撃が私たちを迎えた。閉じていた目を開けると風の壁の向こうには、黒いTシャツの少年がひとり、こちらに背を向けてうずくまっていた。
見回すと嵐は嘘のように消え去り、あたりはいつもの無味乾燥な荒野だ。なごりが枯れ草を撫でていく。彼が車を降りようとしたので、私はあわてて外に出てドアを開けてやった。
足を引きずり、彼は人影へ近寄った。
「望ちゃん」
そっと呼びかけると、相手はうずくまったまま視線を上げた。その顔立ちには幼なさが残っていたが、目は老人のように倦み疲れている。唇の端にうすく侮蔑を浮かべた。
「無様だな、普賢真人。肉の檻に自ら囚われ後は消滅を待つばかりとは」
彼は立ち止まらなかった。喜色をにじませたまま相手に近寄り、倒れかけながらもその隣へ座った。私からはただ二人の背中が見えるだけだった。
「望ちゃん、久しぶりだね。会えてうれしいよ」
探し人が嘆息する。
「そんなことを言いに来たのかわざわざ。転生の権利を蹴り、無意味に地上をさすらい魂魄をすりきらせてまで」
「僕のこと、見ていてくれてたの?」
ややあって、相手は再び口を開いた。
「何か伝えたいことでもあって来たのではないのか」
「ううん」
彼はくすくすと笑った。顔は見えなかったけれど、楽しそうにしているのがわかる。
「そんなものはないよ。何かあったのかも知れないけど思い出せないし、思い出せないってことはたいしたことじゃなかったんだろう。僕はただ望ちゃんに会いたかったんだ。もうそれ以外何もなくなってしまったのは確かだけれど、あの頃みたいに望ちゃんのことしか考えられないのはなつかしくて、うれしい」
沈黙が返ってきた。
「それに生まれ変われてもなくても、同じことだよ。だって僕、キミのこと忘れてしまうんだから。僕は僕が僕でいるうちにキミの横に行きたかったんだ」
会いたかったんだ。本当に、それだけなんだよ。彼はそうつけくわえた、独り言のように。
「けど、もう終わり。幽霊は消えなくちゃ。最後まで僕はずるいね、でも謝らないよ。さよなら、ありがとう」
語尾が細り、最後に何か一言つぶやいたようだったけれど、私には聞こえなかった。相手は微動だにしない。彼は立ち上がり、私を振り向いた。その光輪が色褪せはじめていた。
「それじゃあこのへんで。ライフルを貸してください、弾丸も。どうもありがとう、お世話になりました。あなたが山の向こうへ往けることを祈ってます。お大事に」
銃を受け取り、彼は私の隣を通り抜けた。乾いた音が響き、肉塊が地に倒れ伏す気配がした。私はのろのろとライフルを拾い、惰性で十字をきった。たぶん彼は幸せだったのだろう、笑っていたのだから。他に幸福の表現方法を私は知らない。
さっきまで彼であった死体は、もはや微塵も彼ではなかった。そこに転がっていたのは知らない誰かだった。手に持ったライフルがやけに重く感じられた。
後ろから呼び止められ、私はその人に体を向ける。彼の探し人だったその人は、濁った目を地平に向けたまま無愛想に語った。
「軸の調整は終わりつつあるそうだ。一ヶ月もすれば新しい世界がやってくる、せいぜい生き延びろ」
そうですかとしか返せなかった。言葉の意味はわからなかったが、私に出来ることなど何もないのだと、それだけは理解できた。
「一ヶ月ですか。途方もなく感じられます」
「それでも往け」
「あなたは誰なのですか」
「誰でもなくなった。わしの名を知る最後の一人は、今死に絶えた」
「長く生きてこられたのですか」
「そうだ」
「これからも生きていくのですか」
「義務だからな」
「義務なのですか」
「そうだとも」
「わかりました、私のこれも義務なのですね。やるだけやってみましょう」
返事はなかった。
彼はまた彫像に戻り、無言で私を拒んでいた。私は車に戻り、運転席に座りドアを閉めた。窓からちらりとその人を見やる。小さな背中が見えた、かさかさに干からびた死体のような。助手席に招待しようかとも思ったが、てこでも動かなさそうだ。それに放っておいてもこの程度の異変、彼にはどうということもないのだろう。
だけど私はそうではない。南へ行かなければ。生き延びるために。私はアクセルを踏む、最後にもう一度だけ彼を振り向き別れの挨拶をした。
「お大事に」
■ノヒト ... 2013/04/13(土)01:51 [編集・削除]
頭痛が痛いなう