【ある奇妙な一日】
うーん、困ったなぁ……。明日までに何とかしないといけないのだけど、流石にお姉様は持ってないよねぇ……。となると頼れそうなのは……。
「やぁ、咲耶…………。どうしたんだい、そんな憂い顔で天を仰いでいるなんて…………」
隣りには、いつの間にか千影が座っていた。僕ったら、千影に気付かないほど、そんなに考えこんでいたのだろうか? まあとにかくグッドタイミング! 丁度千影に相談しようと思っていたところだし♪ とりあえず、僕の太ももの上に置かれた千影の手を払いのけて、千影に聞いてみることにした。
「なあ千影。化学史について書いてある本って持ってない?」
「フム…………確かあったと思うけれど、どうしたんだい急に…………」
「いや、実はね……」
僕が風邪で学校を休んでいる間に出された宿題が明日まででさ、それが化学史についてなんだけど、皆より出遅れちゃってるだろ? だから、学校の図書館にあった本はみんな借りられちゃってたし、近所の図書館は今週は蔵書整理とかで休みだったからね。でも、千影がその本を持っていてよかったよ。
「そうか…………そういうことだったら家に寄っていくといい…………」
そういえば、千影の家に行くのは久しぶりかな? 古めかしい洋館っぽい建物なんだけど、千影が1人で住むにはちょっと広いような感じなんだよね。
「上着はそこにかけておくといい…………。さぁ…………書庫はこっちだよ…………」
とりあえず、言われるままに上着を脱いで千影についていくと……うわぁ……この部屋全部本なのかい? もしかして。千影って読書家っていうイメージはあったんだけど、まさかここまでとはねぇ。
「別に、大したことじゃないさ…………。それに大抵の本は必要な時に出してきて読む程度だよ…………。…………ああ、確かこの辺りだ。好きな本を持っていくといい…………」
「えっ?」
もしかして、この一角全部化学史関係なのかい? はは……これはちょっと一苦労かもね。とりあえず、適当に2、3冊持ってリビングの方に戻ることにしようかな。
「今、お茶を淹れてこよう…………」
「あ、いいよ、そこまで気を遣ってくれなくても」
「フフッ…………偶にはいいじゃないか…………。それに、ティーポット達も、時々使ってあげないとうるさいからね…………」
「……うるさい?」
「…………こっちの話だよ」
……まあ、千影の不思議話は今に始まったことじゃないしね。千影がああ言うんだったら、そんなに気にすることでもないんだろう。とにかく、今は本を探さないとね。とりあえず、こっちの本から読んでみようかな。
千影の淹れてくれたお茶を時折すすりながら本を読んでいると、向かいに座っている千影が、「フフッ…………」と急に笑い出したんだ。
僕が真剣に本を読んでいるのが、そんなにおかしいって言うのかい?
「いや、すまない…………。確かに咲耶が真剣に読書をしているのは少し意外ではあったが、僕達がこうして2人でゆっくりと時間を共有するなんて久しぶりかもしれない、と思ってね…………」
「僕だってね、お姉様にふさわしい男性になるためには、外見だけじゃなくって内面も磨かないといけないな、って思ってるからさ、きっと千影が思っているより色んな本は読んでいると思うよ。
それと……確かに僕達がこうして2人でいるのも珍しいかもしれないなぁ。いつも側には、お姉様がいることが多いから……」
実際、小さい頃から僕達はお姉様と一緒にいることが多かった。それはもちろん、お姉様のことが大好きだからさ♪ 今もそれは変わらない。それでもお姉様が出かけている時なんかは、千影と一緒に遊ぶことも少なくなかったね。
「そういえば、昔はよく千影が本を読んでいるのを、僕が後ろから覗いていたっけ」
「…………フッ、そうだったね。そう、こんな風に…………」
いつの間にか僕の後ろに回っていた千影は、体重を僕に預けながら首に手を回してきた。
「なっ……千影、ちょっと苦しい……」
「小さい頃のお返しさ…………フフッ…………」
千影とじゃれあっていた頃を思い出して、ちょっぴり懐かしくなってしまった……。千影もそう思っているのだろうか?
そのせいもあってか、「まあたまにはいいか……」と思って、しばらくそのままの体勢でいたのだけど、よくよく考えると肝心の本が読めないじゃないか! 小さい頃の千影は、よくこの体勢で本を読めていたなぁ……。少し感心してしまうよ。とにかく千影を振りほどいて……あれ?
「……なあ千影。この家に、僕達のほかに誰かいるのかい?」
「いや…………。…………咲耶には見えるのかい?」
「見える? 何が?」
「いや、いい…………。大丈夫、今この家には僕と咲耶の2人きりさ…………。今なら、何をしても誰に迷惑をかけるわけでもないし、何も心配することはないよ…………」
ふーん、千影が言うのなら気のせいだったのかな。そうだよなぁ……千影の家に、あんな小さな女の子なんているはずないもんなぁ……。
持ってきた本はとりあえず置いておいて、もう少し別の本を見てみることにした。どうもお客さんが来たようで千影は行ってしまったけど、まあ勝手に見ていいって言われてるしね。
そうやって、棚の中から本を吟味していると……やっぱり人の気配がする……。誰かいる……?
その気配に後ろを向くと……さっきの女の子だ……。
「やぁ」
声をかけてみたけれど、笑顔を返してはくれたものの、しゃべってはくれなかった。……おかしいなぁ。さっき千影は誰もいないって言っていたのに……。
「僕の名前は咲耶、って言うんだ。君は? ……あっ!」
女の子の口から名前を聞く代わりに、その女の子は本棚をすり抜けて消えてしまったんだ! えっ? えっ? どうなってるんだ?
いやな考えが僕の頭をよぎった。と、とりあえずここから出た方がいいかな……。おーい、千影ー!
「……また、きてね……」
……!!
その声を聞いたと同時に、僕は駆け出していた。
リビングに戻ると、そこには千影とお姉様がいて――お客さんって、お姉様だったんだ――お姉様の顔を見た僕は、堰を切ったように泣き出してしまったんだ……。
小さい頃、お姉様と一緒にお化け屋敷に入ったことがあって。「お姉様は僕が守るよ!」なんて張り切ってはいたけれど、お姉様とつないだ手を強く握っていたのは僕の方だったんだよね……。
それなのに、途中お化けに驚いた僕はお姉様の手を離してしまって……独りぼっちになってしまったんだ……。
「男の子は泣いちゃいけないんだ」って涙をこらえながら、なんとかお姉様と出口で会えた時は、緊張の糸が切れてしまったからか翌日まで目が真っ赤になるくらいに泣いちゃったんだ。
そのトラウマなのかな、幽霊とかそういう類のものは苦手になっちゃって……。
「……ゴメン、お姉様。恥ずかしいところ、見せちゃったね……」
「いいのよ、姉弟なんだから」って、お姉様は優しく僕を包んでくれた。今はただ、お姉様の弟でよかったって……素直にそう思える……。
……それにしても、いったいあれはなんだったのだろうか? 千影の方に疑問の視線を向けると……
「…………あれは司書みたいなものさ、悪いものじゃない…………。怖かったら、今度からは僕が一緒についていってあげよう…………フフフッ…………」
「結構!」
さっきのは突然のことだから、少し驚いただけさ。悪いものじゃなきゃ、大丈夫……だと思うんだけどなぁ。
あっ、お姉様! 笑わなくてもいいじゃないか! もう、千影まで!
……結局僕もおかしくなってきて、一緒に笑ってしまった。お姉様がいると、どんな沈んだ時も明るく空気が変わるんだ♪ やっぱり、お姉様には敵わないや。
僕たちの他にも笑い声が聞こえていたような気がするんだけど……それは気にしない。気にしないんだってば!