【光る風の向こう】
風が、呼んでいる…………。いつか聞いたこの声…………。
わずか数年の前にも…………そして、気が狂いそうになるほど遠い記憶の彼方でも…………。
気がつくと…………そこに広がっていたのは、湖と呼ぶにはやや小さな水鏡…………。
何かに誘われるままに、その水鏡を覗き込むと…………。
それは、まだ無邪気だった頃の小さな僕だった…………。
そこに辿りついたのは、全くの偶然だった…………。今にして思えば、それは全くの偶然ではなかったのだということが分かるのだけれど…………。
とても珍しい小鳥を見つけたんだ…………全てを覆い隠す漆黒に、絵の具の青を一滴垂らしたような羽の色…………そして、一点の曇りも無い鮮やかな黄色の嘴…………。それが太陽の光に反射して…………キラキラと黄金色に輝いて…………小さな僕をトリコにするのには十分だった…………。
僕はその小鳥を追いかけた…………。一緒にいた姉くんにも見てもらいたいという一心で…………。
草木を掻き分け、体のアチコチに小さな傷を作りながら…………視界が開けたその先には、大きな湖が広がっていたんだ…………。「こんなところにこんな大きな湖があるなんて!」 僕の小さな胸は高鳴った…………。辺りに人の気配は無く、「姉くんと二人だけの秘密の場所にしよう」と…………そう子供心に思ったんだ…………。
「そうだ、小鳥!」
はっと気が付いて辺りを見まわすと、あの小鳥は湖の上に立っていた…………。本当は、水面に浮かんでいた小さな木片の上にでも立っていたのだろうけれど…………あの小鳥なら水の上にも立てるに違いない、そう思わせるだけの何かがその小鳥にはあった…………。
そして、「小鳥が立っているなら、僕も水の上を歩いてあそこまで行ける」って、そう思ったんだ…………。フフッ…………今にして考えると実に滑稽な話だけれど、子供というのは目の前の事実が全て真実に見えるものさ…………。…………それどころか目の前の事実から、新たな真実を作ってしまうことさえ、ある…………。
僕は湖に歩を進めた…………。でも、結局水の上など歩けるはずもなく、腰まで水に浸かった時、急に怖くなってきたんだ…………。このまま進んで戻れなくなってしまったらどうしよう…………。一度芽吹いた不安の種は、もう元には戻らない…………。結局進むことも戻ることもできなくなった僕は、ただすくみあがるだけで…………ふいに湖底の水草に足を取られて、そのまま沈んでしまった…………。誰かが僕を呼ぶ声とともに…………。
…………少し目が覚めたときに感じたのは、姉くんの匂いだった…………。姉くんに抱かれて…………その温もりと鼻腔をくすぐる匂いと、そして安心感に包まれて…………僕は再び眠りについてしまったんだ…………。
それは、ただ無我夢中だった頃の未熟な僕だった…………。
あれは、わざとじゃなかったんだ…………。そう、きっとそうなんだ…………。
城に仕える騎士の見習いとして、その日の僕は訓練を兼ねた狩に出かけていた…………。しかし、野ウサギ一羽捕まえられず…………密かに想いを寄せている姉くんを喜ばせることができないだろうことを悔やみながら帰路についていた、その時だった…………。
黒く輝く小鳥が羽ばたいているのを見つけたのは…………。
…………黒い鳥というのでさえ珍しいのに、ましてやあんなに光輝いているなんて…………。特に狩の成果も無かったせいか、その鳥に魅せられた僕は、その小鳥を追いかけて、森を進んでいった…………。
しばらく追いかけていくと、目の前に光が広がっているのが見えた…………。こんな森の中に何があるというのだろう? 小鳥を追ってその光の中に入った僕の目の前に広がったのは…………それは湖と言っても過言ではないだろうほどの大きさの泉と…………。
「きゃあっ!!」
僕はすかさず泉から目を逸らした…………。…………まさかこんなところに泉があって、まさかこんなところで姉くんが沐浴をしているなんて…………!
「……なぁんだ、千影か」
姉くんの口からほっとしたような声が漏れる…………。姉くんは、僕のことなど全く気にかけていないのだろうか…………? 僕の心はこんなにも昂っているというのに…………。こんなにも、こんなにも想っているというのに…………。
僕はメデューサに睨まれてしまったかのように、固まって動けなくなってしまった…………。すぐにでもこの場を離れたほうがいい…………そうは思っていても足が動かない…………。決して結ばれてはいけないのだと分かっているから…………たとえどんな形でも、少しでも長くそばにいたかったんだ…………。
「くしゅん!」
そのくしゃみを合図に、僕の足は動き出した…………。姉くんも僕がいるから泉から出られなかったのだ…………。僕のせいで姉くんの体に大事があっては…………そう思うと気が狂いそうになる…………。とにかく姉くんを泉から上がらせよう、そう思って駆け出したのがまずかった…………。姉くんの姿を目にした僕は、やはりその動揺を抑えられず…………岸辺の濡れた草に足をとられて泉に飛び込む羽目になってしまったんだ…………。
狩のための軽装とはいえ、水を吸った服というのは重い…………。もがけばもがくほど沈みそうになる僕を…………姉くんはそっと抱きかかえてくれた…………。とても温かい…………。
「姉くん…………僕は…………僕は、いつまでもこの温もりを感じていたいと…………いつまでも共にありたいと、心から想い焦がれているんだ…………」
意外にも、姉くんは微笑みを浮かべたままで…………姉くん…………二人の永遠を誓おう…………。
…………ああ、そうか…………。この湖はいつの時代だって、姉くんとの二人だけの秘密…………。今宵も月の魔力に導かれて…………そしてまた何度も巡り会うというのだね…………。ああ、姉くん…………君は今どこでどうしているんだい? こうやって水面を漂っていると…………空虚なるセカイにただ一人浮かんでいるような気がして…………このまま沈んでしまいそうになるよ…………。
水は肌を刺すほど冷たく感じてくる…………やがて、視界には水面が広がっていき、湖水は容赦なく僕の肺を満たそうとする…………。何も見えない、何も聞こえない…………。五感を失ったセカイが広がっていく…………。
その時、風が…………姉くんが呼ぶ声が聞こえた…………。
気がつくと…………鳥かごの中で眠る、小鳥の姿が見えた…………。紛れも無い、いつもの僕の部屋…………。
…………夢? しかし、夢と現にどれほどの違いがあるというのか…………。この気持ちは永久に変わらないのだから…………。
「…………そうだろ? 僕の最愛なる姉くん…………」
傍らで寝息を立てている姉くんの顔を覗き込み…………「おやすみ…………そして、ありがとう…………姉くん…………」、そうつぶやいて…………温もりに包まれたまま、僕は再び眠りについた…………。