一枚絵で書いてみm@ster

第5回『一枚絵で書いてみm@ster』参加作品
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【夏の訪れ】

 オカルト。
 神秘的なことや、超自然的なことと訳されたりする概念。
 心霊現象のような本当に神秘的なものから、歌を聞かせるとパンが美味しくなる、なんてちょっと微笑ましくなってしまうものまで多種多様に存在する。
 今、私の目に映っているのは『妖精』だ。
 妖精といっても写真で、しかも既に偽造されたものだということが分かっていた。
 『コティングリーの妖精写真』として、その筋では有名なもののようだ。
 『シャーロック・ホームズ』でおなじみのコナン・ドイルが信じていたという事実も興味深い。
 ぱっと見れば、偽造であることが分かりそうなものだけれど、そう単純な話ではないのかしら?
 そもそも、妖精というものがこの世の中に存在すると考えること自体ばかばかしいのでは。なんて、一瞬思ってしまう。でも……世の中、目に見えるものだけが全てと考える私の方がおこがましいのだと、すぐに思い返した。
 そうでなければ、わざわざお墓を参ったり、歌を届けようとはしないのだから。
 では、妖精を見たことがあるのか? と問われると、私は「NO」と答える。
 少なくとも、この妖精写真のような羽の生えたフェアリーには会ったことがない。
 ある説では、純真である子供にしか見えない、なんて言われているらしいけれど、私が子供の頃に見た羽が生えていたものは、大体が虫の類だった。
 子供の頃でさえこうなのだから、今となっては推して知るべし、ね。
 そうね……私の周りならば、亜美や真美、高槻さんに美希。あの子達なら、今でも見えて不思議はないと納得できるかしら。
 とりわけ美希は、私とそれほど歳が離れていないけれど、あの天真爛漫さならば妖精の方から寄って来るかも、なんて。
 美希ならば、「妖精を見た」と言われても、どこか納得してしまう雰囲気を持っていると思う。
 でも、今は私達が妖精だった。
 アイドルを妖精に例えたり、キャッチフレーズに妖精という言葉を使うのは、決して珍しいことではないのだから。
 さしずめ私は、「歌の妖精」かしら?

 その日は梅雨の晴れ間で、今までの鬱屈した気分を吹き飛ばすかのように、雲一つ無く晴れ渡っていた。
「今年も暑くなりそうね」
 どこまでも透き通る青を見上げつつ、そうひとりごちながら、私は今朝のニュースを思い出していた。
 この天気は明日も続くそうで、夏至に晴れるととても暑くなりそうですね、なんてお天気キャスターがしゃべっていたのを覚えている。
 これから本格的に訪れる夏に想いを馳せながら、私は事務所への道を歩いていた。
 今日は軽いミーティングだけなので、学校から直接事務所へ向かっていた。一度、家に寄って行くよりもその方が気が楽だ。
 それにしても……本当に暑いわね。
 残念なことに事務所へは、このコンクリートジャングルの中をまだ少し歩かなければいけない。
 しかし、このままでは干からびてしまうのではないだろうか。なんて、大袈裟だったかしら?
 約束の時間まではまだ余裕がある。
 私は路地を右に折れ、小さな公園へと足を向けた。
 途中で見かけた自動販売機で見たこともない名前のスポーツドリンクを買い、勢いよく喉を潤しながら公園へ入った。蒼々と茂った木々が目に優しい。
 入り口に程近いベンチへ腰を下ろし、一息つく。
 事務所の近くにはこういった公園が、大小合わせていくつもある。
 私が今いる近所の子供が遊ぶための小さな公園から、イベントを行うためのステージを構えた大きな公園まで。
 765プロのみんなもよく利用していて、歌の練習やダンスの練習、単にくつろぎに来たりと思い思いに過ごしていたりする。
 だから今日も、誰かしらいたりはしないかしら? なんて思ってき来たのだけれど、残念ながら私以外のお客さんはいなかった。
 平日の夕方の割には、近所の子供すら遊んでいないのね。
 たまにはこんな日もあるのかもしれない、とそれくらいにしか思っていなかったのだけれど、ふいに視界に男の子が入ってきた。
 なんだ、やっぱりいたんじゃない。
 あら? この子、どこかで……。うーん、思い出せないわ。
 単に似たような子を見かけたことがあっただけなのかしら。
 ここまで記憶が曖昧だと、そう考える方が自然に思えてくる。
「ねえ、ちーちゃん」
 ふいにその男の子に声を掛けられる。
 ちーちゃん、というのはやはり私のことだろう。何より、この公園には私とこの子しかいないのだから。
 しかし……ちーちゃんと呼ぶからには、やはり私の知っている子、なのだろうか?
 けれど、私のことを「ちーちゃん」と呼ぶ子なんて、やはり思い当たらない。
 ただ、頭の片隅に微かに何かが見えているよな気もするのだけれど……。そのもやもやの正体がなんなのかは分からなかった。
 よく考えてみれば、私はアイドルなのだから、メディアを通して私の顔と名前を知っていても不思議ではないのだと思い至った。
 ファンの間で私のことを「ちーちゃん」と呼ぶ人も全く居ないわけではないので、この子もそういうことなのかな、と考えると納得もできた。
「なにかしら?」
「……」
「?」
 男の子の呼びかけに答えたはいいけれど、男の子は返事をせず、私のことをただじっと見つめているだけだった。
 このままでは埒が明かないので、私の方から声を掛けることにした。
「ぼく、お名前は?」
「ぼくは『ぼく』じゃない。それに人に名前を聞くときは、自分から名乗るものだって、ちーちゃんが言った」
 一丁前に、とは思ったけれど、もっともな話でもある。しかし、私はそんなことまで言っていたのね。
 インタビューなどで答えた内容は、ある程度は覚えているものの、さすがに細かいところまではすっかり忘れてしまっている。
 たまたまテレビなんかで言ってしまったのだろうけれど、それにしても子供に変な印象を植え付けてしまったみたい。
 私はつい苦笑してしまった。
 アイドルなんだから、言葉を選ばないとダメよね。
「私の名前は、如月千早よ。君は?」
「そっかー。ちーちゃんって『きさらぎ』っていうんだー」
 てっきり私の名前を知っていると思っていたものだから、この反応はちょっと予想外だった。けれど、ニックネームだけを覚えている、なんていうのはこの業界に限らず珍しいことでもないので、それ以上のことは特に気にも留めなかった。
「それで、君の名前は? 私はこうして名乗ったのだから、君の名前も教えて欲しいわ」
 小さな子ではあったけれど、私はできるだけ対等に接するように心がけた。
 子供とはいえ、人格を持った一人の人間なのだ。それに、一丁前なのだし。なにより、傷つけるようなことがあってはいけない。
「おぼえてないの?」
 その言葉を聞いた瞬間、私の中を風が走り、心をざわつかせた。
 と同時に、頭の中のもやもやがその存在を増していった。
「え?」
 覚えていない、とはどういうことなのか?
 やはり私はこの子に会ったことがあるのだろうか?
 でも、いくら思い出そうとしても、霞がかかったように、頭の中には何も見えてこなかった。
「あの、ごめんなさい。どこかで会ったことがあるのかしら? どうにも思い出せなくて……」
「ぼくの名前、思い出して」
 そう言い残し、男の子は私の前から走り去っていった。
 あ、だめ!
 見失ってはいけない。咄嗟にそう思った私はその男の子を追いかけて公園を飛び出したのだけれど、視界に捕らえることはできなかった。
 男の子が走っていった方を、横道を覗きながら小走りで抜けていく。
 ここにもいない。
 こっちにも。
 そこにも。
「あ、千早さん! おはようございますなのー!」
 聞きなれた声に足を止めて、周囲の風景をゆっくりと確認する。
 だるい屋の看板やカラオケ教室の文字、そして窓ガラスに貼られた不恰好な『765』。
 間違いなくここは事務所の前だった。
「おはよう、美希。ところで、この辺に5歳くらいの男の子が来なかった?」
「ううん。見なかったよ? ところで千早さん、ミキこれからコンビニ行くんだけど、一緒に行かない?」
「そう、見なかったの……」
 やっぱりどこかの横道に入っていったのかしら。
 ……見失ってしまったものは仕方ないわね。
 それにしても、「名前を思い出して」か。全く会った覚えが無いのならば、きっと私もこんなに悩まないだろう。でも……確かに、心の奥に引っかかるものがある。
 何かきっかけでもあれば思い出せるのだけれど……。
 私は気持ちを切り替えて、日常へと戻ることにした。とりあえずは、美希の買い物に付き合うことにしましょうか。
 見失ってしまったものは、なんだかとても大切なもののように感じるけれど、きっとまた会える。
 そう信じていれば、きっと。

 翌日もやっぱり青空が見えていた。
 天気予報通り、今日もすっかり晴れたのね。いい天気だわ。
 今日は、私と春香、美希、伊織の4人でグラビア撮影を行うため、撮影スタジオまで来ていた。
 そのスタジオはビルの1階から7階までが全て撮影のためのスタジオで、色々なシチュエーションやロケーションで撮影できるようにと予めセットが組んである。
 例えばダイニングキッチン、例えばバー、例えば学校の教室。
 そう、今日はそのスタジオ内に設けられた学校の教室で撮影を行う。
 だから、みんなの衣装も制服だ。
 もちろん自分の学校の制服ではなくて、きちんと用意された衣装なのだけれど。でも、4人一緒に撮るのにみんなばらばらの服でいいのかしら?
「みんな違う学校に通ってるって設定らしいから、いいんじゃないかな?」
 私がなんとなしに呟いた疑問に答えたのは春香だった。
「ねえねえ、千早さん? そんなの着てて暑くないの?」
「ええ、どちらかというとちょうどいいくらいだわ。それにあんまり体が冷えると、いざという時に動けなくなってしまうから」
 私は今の格好を美希に指摘された。
 撮影スタッフの準備が終わる間、私達は8階の控え室で待っているのだけれど、今日もかなりの暑さなので当然のように室内には冷房が効いていた。
 ともすれば、やや寒いくらい。
 だから私は、持参していたジャージの上着を着て、冷房から身を守っていた。
 やはり、寒さのせいで素早く動けないということでは困るからだ。
 みんなはよく寒くないものね。
「別にこれくらい大したこと無いわよ。千早が気にしすぎなのよ」
「あら、気にしすぎるくらいでちょうどいいのよ。こういうのはね」
 水瀬さんは、大したことないなんて言っていたけど、本当はちょっと強がりを言っているだけなんだって、私には分かっていた。
 さっきから冷房の当たらないところを探して移動しているのを、ずっと見ていたのだから。
 そういえば……少し、喉が渇いたわね。
「ちょっと飲み物を買ってくるわ」
「あれ? お茶、まだ残ってるよ?」
「別のが飲みたいの」
 お弁当と共に置かれていたペットボトルのお茶は確かにまだ残っていたけれど、ちょっと甘い飲み物を体が欲していた。
 ちょっとした気分転換みたいなものだ。
 私はロビーまで出て、3台置かれている自販機を見比べる。
 うーん……これがいいわ。
 コインを投入し、お目当てのジュースのボタンを押す。
 ゴトン、と音を立てて落ちてきた紙パックのジュースを、取り出し口から取り出す。
 数字が3つ揃うともう一本もらえる、という機種だったようで、しばらくデジタル音が鳴り響いていたけれど、案の定はずれていた。
 私はジュースのパッケージを見つめ、頬を緩めながら少しだけ頷いた。
 うん、やっぱりフルーツ牛乳よね。
 お風呂上がりには、普通の牛乳という人、コーヒー牛乳という人がいるけれど、断然私はフルーツ牛乳派だった。
 どうして? と言われると答えるのは難しいのだけれど、小さい頃から甘いフルーツ牛乳が好きだったのだ。
 フルーツ牛乳自体、あまり見かけないのだけれど、見かけたときはこうして買うようにしている。
 少し高揚しながら控え室へ戻ろうとした、その瞬間、
「ぼくの名前、思い出して」
 まさか!
 そう思って、辺りを素早く見回す。
 けれど、あの男の子の姿は見当たらなかった。
 幻聴……だったのかしら? それとも、やっぱりあの男の子は居て、どこかに隠れた?
「あ、いた! 千早さーん! そろそろ出番なのー!」
 美希の声が廊下に響く。
「今行くわー!」
 遠くに返事を投げかけて、私は小走りで美希達の方へ向かった。
 とりあえず、今はあの男の子のことは忘れよう。
 あ、そういえばジャージ着たままだったわ。それにフルーツ牛乳も。……まあ、これは現場に置いておくか、プロデューサーにでも預かってもらえば……。
「?」
 今、何かが心の中で引っかかった。
 何? 何が引っかかったの?
「千早さん! 早くってばー!」
「はっ。ごめんなさい! すぐ行くわ」
 気が付くと私は足を止めてしまっていた。美希達はエレベーターに既に乗っているようで、美希は顔だけ出して私のことを待っていた。
 だめよ、千早。これから臨む撮影のことだけを考えるの。
 私は小さく頭を振って、気持ちを切り替えた。
「ごめんなさい」
 私を待っていたエレベーターは私を吸い込むと、ぱっと扉を閉め、目的の階へと降り始めた。
 中に居たのは、美希達3人だけだったようで、美希と春香は笑顔で、水瀬さんは「遅いわよ!」といつもの仏頂面で私を出迎えてくれた。
 6……5……4……。
 どんどん数字が切り替わり、もうすぐ目的の階。
 その刹那。
 ブーンと音がして、エレベーターが停止し、明かりが消えた。
 な、なに?
「え? え?」
 と驚く春香の声。
 美希や水瀬さんもいったい何が起こったのか、いまいち事態を理解できていないようだった。
 程なくして、明るさが戻ってきた。とはいっても、さっきよりも少し暗いみたい。
 どうやら、非常灯が点灯したみたいだった。
 そう……事情が飲み込めてきたわ。
「ねえ、千早ちゃん! 止まっちゃったよう!」
「落ち着いて、春香。これは、多分停電ね」
「えー! 停電!」
 そう、停電。
 原因は分からないけれど、一度エレベーター内が暗くなったことから考えても、停電に間違いないと思う。
 停電になった際に、補助のバッテリーで最寄りの階まで移動してドアを開けるタイプもあるそうだけど、残念ながらこのエレベーターはそこまで気が利かなかったようね。
 ということは……。
「ねえ、ちょっと! 私達、閉じこめられたんじゃないの!」
「……そのようね」
「えー!」
「ミキ、せっかく今日の撮影は乗り気だったのに、いきなり出鼻をくじかれちゃったって感じ……」
 気の知れた4人しか乗っていなかったのは不幸中の幸いだろうか。知らない人が乗っていたら、また不安は大きかっただろな、と思う。
 とりあえず、パニックになるのだけは回避しなければ、と一度大きく深呼吸。
 ……そうよ! インターホン!
 私はエレベーターのボタンの前に立ち、外部連絡用のインターホンのボタンを押した。まさか自分がこの機能を使うことになるとは思わなかったけれど、これも経験と考えれば悪くないのかもしれない。
 すぐに管理会社の人と連絡が取れ、復旧作業を行ってくれるそうだ。ただ、復旧作業といっても、現在止まっているエレベーターに掛かっているロックを解除するくらいのもので、そもそも停電自体が回復しないとエレベーターを動かすことができないらしい。
 しかも、この停電は広範囲で起こっているらしく、この管理会社だけでも同様の連絡がいくつも入っているとのこと。
 余程長引くようであればレスキュー隊でも来るのかもしれないけれど、結局は停電が回復するのを待つしかないようだ。
 ふう……。
 一通りのことを終えてしまったら、急に疲れてしまったわ。
 私はエレベータの床にぺたんと座り、待つしかないこの状況をなんとか受け入れようと目を閉じた。
「あはっ。やっぱり千早さんって冷静で頼りになるの!」
 美希が嬉しそうに声を掛けてきた。こんなことでも、褒められるのは悪い気分じゃないわね。
「本当は私だって恐いわ。ただ、不安になってる春香や水瀬さんを見ていたら、かえって冷静になってしまった。それだけよ」
 そう。私一人だったらどうなっていたか分からないし、今日の仕事が歌でなかったことも心の余裕につながっていたのかもしれない。少し皮肉なことだけれど。
「誰が不安がってるって言うのよ!」
「ああ、もう、落ち着いて伊織。ね?」
「……ふん。春香にたしなめられるなんて、私も落ちたものね。……悔しいけれど千早の意見に同意よ」
 私の意見に同意? どういうことかしら。
「ねえねえデコちゃん、どういうこと?」
「春香の顔を見てたら、いやでも落ち着いてくるってこと。それから、デコちゃんって言うな!」
 なるほど。
 その言葉を受けて、春香は目に見えて凹んでいた。それもいつもの光景だった。
 いつもの光景が非常灯の下で繰り広げられている。これなら、しばらくは保ちそうね。
 そう思ったのは、果たして間違いだったのか……。

 どれくらい経ったのだろう。
 辺りに響くのは、私達の声くらいのもの。
 誰も携帯電話や時計を持っておらず、どれくらいの時間が経過したのかも分からない。非常灯の明かりは頼りないながらもエレベーター内を照らしているけれど、一体どれくらい持つものなのかしら?
 そして何より……。
「暑いのー……」
 停電と共に冷房が効かなくなるのは当たり前だった。そして、今日は真夏日近い暑さだ。
 美希は既にシャツの襟元を緩めていたけれど、それくらいでは焼け石に水のようだ。
 既にみんなの顔からは笑顔が消えていた。
「千早ちゃんはその格好でよく暑くないね……」
 春香が私の格好に突っ込んできた。控え室から出るときに着ていたジャージを、私はまだ脱いでいないのだ。
「確かに暑いけれど、耐えられない程ではないわ」
「うそっ?」
 嘘ではない。じっとしている分にはそれほど問題はなかった。
 春香があからさまに驚いていた。まだそれくらい元気は残っているみたい。けれど、その元気もいつまで続くのか……。
 自力で扉を開けて脱出しよう、という案も持ち上がったのだけれど、階と階の間で停止していたら危険だ、ということで却下されていた。
 そもそも、自力で開くようにできているのかしら? それに、幸いにも通気性は十分確保されているようで、窒息するような事態は避けられているようだ。
「千早はきっと鍛え方が違うのよ。私はもう暑くてかなわないわよ……。それに、喉もからからだし」
 暑いのは多少我慢できるとしても、確かに喉の渇きまでは我慢するのが難しかった。
 ……もちろん、私が今フルーツ牛乳をジャージのポケットに入れているのは分かっていたけれど、もしもの場合、これに望みをつなぐしかないのだ。だから、なるべく温存していたのだけれど、それももう限界なのかもしれない……。
 そう思い、ポケットからフルーツ牛乳を取り出そうとすると、
「ぼくの名前、思い出して」
 ! また!
 やはり、はっきりと聞こえた。これは幻聴なんかではない。
 けれど、このタイミングで? いったい、どこから?
 考えられるのは扉の向こうから……だけれど、この扉の向こうにあの男の子がいるというの?
「ぼくの名前、思い出して」
 もう一度、男の子の声が聞こえてきた。
 どこか遠くの方から聞こえてくるような気もするけれど、やはり考えられるのは扉の向こうだろう。
「ど、どうしたの千早ちゃん。急に立ったりして」
「どうしたのって、今聞こえたでしょう? 男の子の声が」
「男の子の声? 美希、伊織、聞こえた?」
「ううん。ミキにはなーんにも聞こえなかったよ?」
「私だって聞こえなかったわ。千早ったら、暑さで幻聴でも聞いたんじゃないの?」
 そんな! 幻聴なんかじゃない!
 ……しかし、この状況ではどう考えても私の方が分が悪かった。
 私は扉をじっと見つめた。
 幻聴か、幻聴でないか。この扉が開けばはっきりすること。
「私よ! 如月千早よ! 聞こえるんでしょう? 返事をして!」
「ぼくの名前、思い出して」
 質問が繰り返される。どうしても、その問に答えなければいけないみたい。
 今の私にできることといえば、待つことではない。あの男の子の名前を思い出すことよ。
 なぜだか私は、思い出さなければいけないような気がしていた。
 ふと、ポケットに突っ込んだ手が固いものに当たる。
 ああ、そういえばみんな喉が渇いたって言ってたっけ。
「春香、スタンダップ」
「へ? あ、うん」
 一体何事かと呆ける春香だったけれど、素直に立ち上がってくれた。
 そんな春香にご褒美よ。
「むぐ」
 私はポケットから取り出したフルーツ牛乳にストローを刺し、春香の口に押し込んだ。
「あ! 春香だけずるいの!」
「何? 千早ったら、そんなもの隠し持ってたわけ? 私にも寄越しなさいよ!」
 当然のように発生するフルーツ牛乳争奪戦。春香を一番に選んだのは、たまたま近くにいたからで、それ以上の意味はないわ。
 ただ、今は一人で集中していたかっただけ。
「ねえねえ、春香ー。次、ミキの番だよ? ね?」
「ちょっと千早! 春香ばっかりひいきしてずるいわよ! まずは伊織ちゃんが先でしょうに!」
「むぐー!」
 美希に詰め寄られた春香は逃れるように私に抱きついてきた。もう、そんなに近寄ってきたら、ストローが喉の奥に刺さってしまうわよ?
 そう思った刹那、春香を心配していた私の頭の中に閃くものがあった。
 今、私が手に持っている紙パックのフルーツ牛乳……もっと昔にもこんなことが。
 ……そう。そうだったのね。
 今、はっきりと思い出したわ。
「ぼくの名前、思い出して」
「あなたの名前は『パック』よ!」
 私がそう叫んだ瞬間、非常灯とは別の光がエレベーター内に差し込んできた。
 扉が開いたのだ。
 開いた扉の先に見えたのは、プロデューサーを初めとした多くの人達。そして、あの男の子。いや……もう思い出したのだから、こう呼ぶべきだろう。
 パック、と。

 あれはいつ頃のことだっただろうか。
 まだ弟と二人で仲良く遊んでいた頃のことなのは確かで。
 あの日は公園で遊んでいたのだけれど少し遅くなってしまって、日が沈む前には帰らないと行けないと思えば思うほど焦ってしまって、いつの間にか知らない道に迷い込んでしまっていた。
 実は家からはそんなに離れていなかったのだけれど、子供にとって知らない道は物凄く遠い場所だった。
 弟はとても不安そうに私の手を握りしめていて、私は私で不安だったのだけれど、弟の手前、なんとかダムが決壊する直前で踏みとどまっていた。
 もう片方の手には、公園で近所のお婆さんにもらった紙パックのフルーツ牛乳が握られていた。
 そのフルーツ牛乳を、飲みたいとせがむ弟に飲ませながら、とぼとぼとと歩いていた。
 とにかく帰らなきゃ、そう思いながら闇雲に歩いていた時、あの男の子に出会った。
 どうやらその子は自分についてきてほしいらしく、私達も自分たち以外の人物が現れたことで安堵し、3人で楽しくどんどん進んでいった。
 そうだったわ。確か、この時にお互い名乗ったのよね。
「人になまえをきくときは、じぶんから先に言うんだよ?」
 ああ、そういえば確かにそんなこと言ったわね。
「ぼく、そんなの知らないよ」
「じゃあいい。わたしがお手本を見せてあげる」
 そう言って、私は自分の名前を名乗ったの。そういえば、下の名前しか言わなかったわね。
「ちはやだから、ちーちゃんだ」
 男の子が私のことをそう呼んだ。
 弟にも「ちはや」と呼ばれていた私は、そう呼ばれるのがなんだか照れくさかったけれど、とても嬉しかったのを覚えている。
 反対にその子の名前を聞いたとき、その男の子は私が持っていた紙パックを指差した。
「フルーツぎゅうにゅう?」
「ちがうよ」
 ははは、とその子はお腹の底から大笑いして、それに釣られた私達も顔がくしゃくしゃになるほど笑い合った。
「あ、おうち!」
「ほんとだ!」
 気が付けば、私達の家がすぐ目の前まで迫っていた。その男の子が連れてきてくれたんだと、私達は大喜びではしゃいだ。
「じゃあ、ぼくはここでお別れだね」
「またあえる?」
「ぼくのことをおぼえていたら」
「なまえは?」
 男の子はもう一度、紙パックを指差した。
「フルーツぎゅうにゅう?」
「だから、ちがうよ。外側のほう」
「かみパック?」
「おしい」
「パック?」
「うん!」
 その時のパックの笑顔を私は忘れない。人は、あれだけ幸せに笑うことができるのだと、ずっと心の中に染みついていた。
 ただ、今の私はその笑顔とパックが結びつかなかったのだけれど……。
 なぜ、こんな大事なこと、忘れてしまっていたのだろう。
 そのことだけは、本当に後悔している。

 私が妖精写真を見た雑誌の別のページには、他の妖精のことが載っていた。パックも妖精の仲間だった。
 それで思い出したのだけれど、パックとはシェイクスピアの戯曲『夏の夜の夢』に登場するいたずら好きの妖精の名前なのだ。
 不思議なことにパックの姿はあの頃とちっとも変わっていなかったけれど、私の知っているパックが、その妖精パックかどうかは分からない。
 ただ、あの日と同じように私を助けてくれたのは間違いないだろう。少なくとも、エレベーターの扉が開いたのは、パックの名前を思い出したからだと、どうしても考えてしまう。
 ちょっとロマンチックすぎるかしら?
 エレベーターを降りた後、すぐにパックの姿は見えなくなってしまったけれど、きっとまた会えるに違いない。
 もう名前を忘れたりはしないと思うから。
 それに、妖精パックは夏至の日になると力が強まるらしい。
 今から、来年の夏至が楽しみだわ。
 そうね、来年はまた3人で会いたいものね。きっと、弟も再会を喜んでくれるわ。
 見上げる空は、今日も青く澄み渡っていた。



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