Kaleido/m@ster 参加作品

【私の手、あなたの手】

 靴の底がフローリングをキュッと擦り、その音が部屋の中に響く。
 私の青いジャージと春香の赤いジャージが交錯し、お互いの場所が入れ替わる。
 時折感じる着地の衝撃が、徐々に足に応え始めていた。
 けれど動きを止めるわけにはいかない。進むべき道は先に見え、私達は順調かつ着実に歩いているのだから。
 それはさながら時計の針のようだった。
 私と春香。長針と短針。
 どちらが長針でどちらが短針かは分からないけれど、動き続ける秒針によって、私達は進んでいる。
 このダンスレッスン場の時計は、私はあまり見たことがない連続秒針だ。ステップ秒針だと、これだけ広い部屋の中でも秒針の音が聞こえてしまうことがある、という配慮かららしい。
 曲の合間に目に入ったその時計は、ちょうど11時を指していた。
 ただし、文字盤は裏返しだけれど。
 鏡越しに見る私の顔は、目に力があっても、顔にはやや力がなかった。少し疲れているかもしれない。昨日はあまり眠れなかったからだろう。
 今日は土曜日で世間的には休日だ。休日に早く目が覚めてしまうなんて、まるで子供みたいね、とつい自嘲的な考えが頭に浮かんでしまう。
 でも。
 アイドルとしては、今日こそが活動日に他ならなかった。そして、今日は今までの活動に一つの区切りをつける大事な日だからこそ、私もなかなか眠れず、そして早くに目が覚めてしまったのだろう。
 でも、気力は十分。そんなに体は重くない。
 大丈夫、まだまだ動くわ。
 そう思った矢先、
「わ、わわっ!」
 ドンガラガッシャーン!
 と、いつものように派手な音を立てて、春香がフローリングの上に転がっていた。
 春香が転ぶのはいつもののこととはいえ、さすがに今日ばかりは勘弁してほしかった。
 その感情が深い溜め息となって、体の外へと吐き出される。
「春香、今日はダンスレッスンの仕上げのはずよ」
「えへへ。ゴメンね、千早ちゃん。もう一回、いいかな?」
 仕方ないわね。
 そう思いながら、私は右足をさする春香に手を差し伸べた。
 ん……足をさする? まさか、足をひねった?
 そんな私の心配をよそに、春香は私の手をとって立ち上がり、右足のつま先をトントンとフローリングに軽く打ち付けて、足の具合を確認しているようだった。
 その様子を観察している限りは特に問題はなさそう。
 それにしても、ちょっと変な感じね。
 確かに春香はしょっちゅう転んではいるものの、それが原因で怪我をしたのを見たことがない。
 意外と丈夫だから、と本人は言っていたものの、普通の女の子はそんなに頑丈ではない、と思う。少なくとも、私から見た春香はいたって普通の女の子だった。
 どちらかというと、体が柔らかいおかげではないかと思っている。
 アイドル候補生になってから、春香はお風呂上りの柔軟体操を欠かしたことがないそうだ。そのため、春香は180度に脚を開くことができるのだけれど、事務所の中でも同じことができるのは半数に満たない。
 どちらかというと歌唱力の方を指摘されることが多い春香だけれど、裏を返すと身体的なことを指摘されることが少ないということでもある。
 ……よく転ぶこと以外は。
 だからこそ、さっき春香が転んだときに足をさすっているのを見て、少し不思議に思ったのだけれど……わたしの取り越し苦労だったみたいね。
 そう思い直し、再びダンスレッスンを続けた。
 けれど……。
 やっぱり、何かがおかしい。
 とにかく春香の動きが鈍いのだ。
 疲れてきたせいかとも思ったのだけれど、今日のレッスンを始めた頃にできていたものが、今は全くできていない。
 それどころか、昨日できていたところでさえ、ちっともタイミングが合わないのだ。
 今までも同じ量の、いやそれ以上のレッスンをこなしてきたことは多々あったのに、今日に限ってミスを連発するなんて、いったいどうしてしまったのか。
「なんで昨日より動きが悪いの?」
 私はダンスを途中でやめ、そんな言葉が口をついて出てしまっていた。
 春香の方を見ると、私が急に動きを止めてしまったことに驚いているようだった。
 そう、今日は大事な日なのだ。
 ダンスレッスンの成果が形になれば、週明けからは歌のレッスンに入るというのがプロデューサーとの約束だ。
 アイドルになってから数ヶ月も経った今となっては、私にもダンスがいかに大事かということは分かっていた。
 けれど、やはり私の体は歌を欲しているのだ。大袈裟に言うならば、歌欠乏症だ。
 歌うことこそが私を私たらしめているとさえ考える私にとって、週明けの歌のレッスンはとても待ち遠しいものだった。
 それゆえに、今ダンスのせいで足踏みしている状況が実に歯がゆい。ゴールはもう目の前に見えているというのに。
 そして、今日何度目かの溜め息がこぼれる。
 それに応えるように、春香の顔はどんどん曇っていった。
 春香、本当に大丈夫なの?
 さっき、本当に足を痛めてしまったのではないの?
 それとも、本当に踊れないだけなの?
「あなたにはプロ意識が足りないのよ!」
 私の中で渦巻いていた激しくも暗い感情は、理不尽な怒りの奔流となって春香にぶつけられた。
 そして、激しい感情が体の外へと流れてしまった私は冷静さを取り戻し、代わりに後悔の念が私の体を支配していった。
 そんな……そんなことを言いたかったわけじゃない。
 想いは言葉にならず、また言い訳にしか聞こえなかった。
 俯いた春香の顔は遠く、私は怖くなってその場から逃げ出した。


 春香から逃げ出した私は、レッスン場の廊下にあるベンチでぼーっとしていた。
 喉がからっからに渇いていたので自販機でミネラルウォーターでも買おうと思ったのだけれど、財布はロッカールームに置いてあることに気付き、取りに行く元気もなかったので、結局ベンチから動くことはしなかった。
 口からは乾いた溜め息しか出てこない。
 今日の私は溜め息を吐くためにここに来たみたいで、それがひどく滑稽だった。
「あ、いた! 千早さーん」
 ふいに私を呼ぶ声がして、私は反射的に顔を上げていた。
 私の知る限り、私を呼ぶような人が今日ここに来るとは思えなかったし、ましてや今の声で思い当たるような人なんて。
 そんな思いとは裏腹に、私の目に映ったのは、果たして美希だった。
「千早さん今日はレッスン午前だけで、午後フリーだよね?」
 まるで事務所で会ったみたいに、美希は話を続けた。そして、私が座っているベンチに一人分空いていたスペースに、勢いよく飛び込んだ。
「お昼食べに行こう! 美希ねー、千早さんの為に美味しいお蕎麦屋さん調べて来たの!」
 あまりの急展開に呆気にとられて声も出ない私だったけれど、「蕎麦」という単語が私に冷静さを取り戻させた。
 というのも、私は最近お蕎麦が気になっているという話をしたからだ。
 それも他愛のない話で、歌に関係あるとか、健康に良いからだとか、そういうことは一切なく、この間プロデューサーと入ったお蕎麦屋さんのお蕎麦がとても美味しかった、というのがきっかけになったに過ぎない。
 そして、その話をしたのは先日のトーク番組でだけ。
 なにより、そのトーク番組はまだオンエアされておらず、もちろん現場には美希は居なかった。
 つまり、美希が「私のために美味しいお蕎麦屋さんを調べてきた」という事実は、非常に不可解なことだった。
「美希……その話、誰から聞いたの? 私の今日のスケジュールは?」
 そうよ、スケジュールのことだっておかしい。
 このレッスン場が在る場所の関係で、春香は事務所に寄らず直行している。私もそれに合わせて、今日は事務所には寄っていない。
 それに、この話が決まったのは昨日のレッスン中のことだったから、やはり今日のスケジュールを知っている人は限られる。
 プロデューサーのことだから、音無さんくらいには予定を伝えているとは思うけれど……。
 今、目の前にある二つの事象を結びつけるな、という方が無理な話で、そして私の頭の中にはその二つの事象を結び付けている、とある人物の顔が浮かんでいるのだった。
 美希は、急に私の様子が変わってしまったことにきょとんとしているけれど、私はそれどころではない。
 もっともっと大切なことを、美希から聞かなければいけないのだから。


 春香がまた転んでいる。
 仕方ないわね。
 遠目に見える春香は相当疲れてしまったのか、フローリングに座って前に足を放り出しながら、前のめりになる上半身を、両方の手をフローリングにつくことで支えていた。
 段々と春香に近づいていく。
 遠目からでは分からなかったけれど、春香の顔には玉のような汗が浮かんでいた。
 こちらには気付いていないのか、私の顔を見上げることはない。ならば、今の春香の瞳に映っているものはいったい何なのか。
 春香の目線の先を推測して追ってみた。投げ出された脚と足。つま先の向こうには、床か、鏡か。
 目線を上に遣ると、時計の針は12時をわずかに過ぎていた。長針と短針、重なった二つの針は、鏡で反転しても同じ位置で重なっていた。
 レッスン場の使用時間が過ぎたことを春香に伝えに来た私は、でも他に言うことがあったので、春香の側から逃げ出したことを恐れず、意を決して声を掛ける。
「明け方まで長電話なんて、ダメじゃない」
 ようやく私に気付いた春香は、私の顔を見た途端に複雑な顔になった。嬉しさと怖さと不安と、そういった感情がないまぜになったような。
 どこか、怯えているような気もする。
「今日はダンスレッスンだって知ってたのよね?」
「だって、美希が千早さん、千早さんって嬉しそうにしゃべるから……」
 そう、私の今日のスケジュールを教えたのも、トーク番組でお蕎麦の話をしたのを教えたのも、全部春香だった。
 今日が休日だったこともあり、美希は昨晩、春香に電話を掛けた。私のスケジュールなんかを聞くためだ。
 それならば私に直接聞いたほうが早いし、そもそもいつもの美希だったらそうするのではないかとも思ったのだけれど、最近の私はどこかピリピリしていたのだという。
 それでちょっと近づきがたかった美希は、私のパートナーである春香に電話を掛けたというわけ。
 そして、スケジュールと共に、私が喜ぶようなものを春香から聞き出したみたい。すなわち、お蕎麦。
 春香は子供のように半べそをかきながら、私を見上げていた。
 その涙は、私が怖いからなのか。
 それとも……。
「私だって……」
 そう呟く春香に、私はドキッとしてしまった。
 女性はみだりに泣いてはならない。なぜなら、女性の涙はとても重要な意味を持つのだから。
 そう言ったのは誰だったかしら。
 確かに、今の春香は女性の私でさえ心を持っていかれそうになるほど、魅力に溢れていた。
「今日の午後のオフ、無しだから」
「え?」
「今日中にダンスレッスン仕上げるの。16時から、レッスン再開よ」
 残念ながら、美希と優雅にお蕎麦でランチ、というわけにはいかなかった。
 美希の好意には申し訳なかったけれど、後日必ず埋め合わせをすると約束して、今日のところは帰ってもらった。
 美希の話を聞いた私がとるべき行動は一つ。
 私だって、春香のことを責められる立場ではなかったとはいえ、やはり、後ろを向くより前に進みたい。
 私はジャージのポケットから携帯電話を取り出し、少しだけ必要な操作を行った後、春香にディスプレイを向けた。
『予約できた。OK、頑張れ』
 プロデューサーからのメールは、いつも素っ気無い文面。
 私のメールも人のことを言えた義理ではないので、それについて文句を言ったことはないけれど。
 ……けれど、その素っ気無い文面が私達にどれだけのものを与えてくれることか。
 それを一言で言い表すのは難しいけれど……敢えて言うのならば、それは「幸せ」。
「そうだよね。へへ。私、頑張んなきゃ!」
「16時にはプロデューサーも来るわ。それまでは、自由時間よ」
 私の話を聞いて、「それじゃあ」と動き出す春香の腕を掴み、動きを止めた。
 そして、私はジャージのポケットから鍵を取り出し、春香に握らせた。
「このフロアのミーティングルームB室、16時まで使えるわ」
 春香はきょとんとしていた。
 その顔は、まるでさっきの美希のようだった。
 本当にこの子は……。
「仮眠しなさい。3時間でも眠れば、ずっと楽になるから」
 さっきまできょとんとしていた春香の顔が、みるみる緩んでいく。
 私はそんな春香の顔を見ているのが恥ずかしくなって、徐々に正視できなくなっていった。
 ダメ、顔が熱い。
 とにかく気恥ずかしいのと春香に全てを伝えて気まずさが戻ってきたのとで居たたまれなくなった私は、背中を向けて立ち去った。
 立ち去ろうとした、のだけれど……春香にジャージの袖を掴まれて、そのままの体勢で動けなくなってしまった。
「えっとね、千早ちゃん……」
 何かを言いかけた春香の言葉を遮って、私は言葉を重ねた。
 例え二人の心が離れてしまっても、必ず元通りになれる。秒針が進む限り、二つの針は重なり合う。
 そして、私達に明日は必ず訪れる。
 前を向いたまま、私は春香の手にそっと自分の手を重ねた。
「話の続きは、全部終わってから……ね」


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