聖誕祭に舞い降りる救世主










 真っ白な雪が舞い落ちる。

 全てを白に変えていくように、全てを白に包んでいくように。

 刹那の幻想を優しく忘却へと誘うように。

 雪が静かに降り積もる。









「クリスマスって素敵な名前ね」

 名前を名乗ったとき、初対面の彼女からそんな台詞を言われた。

 その時の彼女は微笑を浮かべていた。

 雪のような無垢さを、私はその微笑に感じた……。











 雪が降っている。

 ソファーにもたれながら窓に目をやると、外は白い世界に移り変わろうとしていた。視線を転じて小さいテーブルに置かれているデジタル時計を見る。

 十二月二十五日十七時十分。付け加えるならば、表示を目にしたときは三十五秒を回っていた。

 十二月二十五日。今日は世に言う「クリスマス」の日。しかも雪が降っているからホワイトクリスマスときたものだ。

 この日、親は子供に渡すプレゼントを脇に抱えて家路を急ぎ、子供は親のプレゼントを楽しみにしてはしゃぎまわって、恋人達は肩を寄せ合い甘ったるいロマンティックなひと時を過ごすのだろう。つまり、この日は誰もが本来の意味を深く考えずに浮かれるわけである。

 けれど、世の中には必ず多数派がいれば少数派というのが存在するわけで、クリスマスが嫌いな捻くれた人もいるものだ。

 私は、そんなヒネクレた人の一人である。

 別に私はイスラム教徒でもないし、不真面目なクリスマスを嘆く堅物なクリスチャンというわけでもない。

 理由、他人が聞いたら「そんなことか」と笑うだろうけど、私にとってはクリスマスを嫌うには充分な理由がある。それは……。

 私の名前が「クリスマス」というのだ。

 今でも私はなんでこんなおめでたい名前を付けたのかと、命名した両親の感性を疑いたくなる。私の生まれた日が十二月二十五日だったからなのか、はたまたもっと深い理由があってのことなのか。けれど、どんな理由があろうとも、名づけられた娘にとってはどうでもいい事だった。

「クリスマス?変った名前だね」

 今まで会ってきた人は殆ど例外なく、自己紹介をすると奇妙な顔で口の中で言葉を反芻した後こう言ってくる。「変わった名前」でなければ「おもしろい名前」「おめでたい名前」でもいい。私はこの名前の所為で小さい頃ちょっとしたイジメの対象にあった事もあるのだ。しかも、クリスマスプレゼントと誕生日プレゼントが一まとめになってしまうのは、子供心としては不満があった。

 だから、今現在の私は十二月二十五日が嫌いだった。

 自分の誕生日だろうと、聖なる日だろうとも、祝う気になんてなれなかった。

 セミロングの亜麻色の髪の毛先を指でいじりながら、私は小さく溜息を吐いた。

 私が昔の嫌な事を思い返して暗い気持ちになっているのとは裏腹に、テレビからは夕方のニュースが街の楽しげな様子を映し出していた。

 現実はそうである。寧ろ、彼氏どころかクリスマスケーキもツリーも御馳走も用意せずに飾り気のない2LDKのアパートの一室でおもしろくもないニュース番組を見ながら一人ボケッとしている方が珍奇なのだ。

 何かに逃避しようにも、こんな時に限って大学のレポートもバイトも友人からのパーティーの誘いも来ない。ああ、そう言えば友人達は今年のクリスマスは彼氏と過ごすとか言ってたっけな。

 灯りも点けていないので、部屋は薄暗くなっていた。テレビの灯りだけが、唯一の光明もうおうに、部屋の片隅を照らしていた。冬に入ってから殆ど休みなく稼動している暖房機の音が、静かな部屋に小さく響く。

 そんな所でソファーに放心したように座っている自分に不思議と可笑しさを感じた。思わず苦笑の表情を浮かべていた。

 親元を離れて早数年。何度も一人でこんな日を迎えているのに、この日は嫌いだというのに、何故だか胸に一抹の寂しさを感じる自分がいる。

 でもこの寂しさをどうやって言葉に表していいのかも分からない。深刻になるぐらいの孤独というわけではなく、ただなんとなくそう感じるからかもしれない。

「何でしんみりしちゃってるんだろう私……」

 ポツリと呟いた疑問の言葉も、反応もなく闇に消えていく。

 外の雪は、止むことなく降り続けている。

 私は、自分の隣に置かれているテレビのリモコンを手に取り、テレビに映るクリスマス模様を消した。テレビの光りが消えると、部屋には本格的な闇が降りた。

 外も中も暗かった。ただ雪の白さだけが真っ黒な中で鮮やかに映えていた。

 私は私が何をしたいのか解らなかった。暗い部屋の中で膝を抱えておもしろくなさそうに今日と言う日に愚痴を漏らす気なのか?なんだか引き篭もりにでもなったような気がする。私は名前を除けば比較的健全な有り触れた大学生だぞ。

 そうは思えども、なんとなく部屋の灯りを点ける気も、前向きにこの日を楽しもうと考えるということもする気が起きなかった。

 このまま寝てしまうか。私はそう考えた。まだ十八時にもなっていないだろうけど、何もすることないなら眠るに限る。夕食やお風呂がまだだったけれど、目覚めた後にでもすればいい。こういうときに一人暮らしの気楽さというのを実感する。

 そんな考えをしながら、私はソファーに身体を横たわらせた。クッションの柔らかな感触を頬に感じると、睡魔が素早く襲ってきた。

 瞼が段々と閉じられていき、意識も朦朧としてきて、さて眠るかと思ったときであった。

 玄関のチャイムが鳴った。

 暗く静かな部屋にチャイムの音は思ったよりも大きく響いた。そんな大きな音に私は無反応を決め込むほど神経は太くないので、ソファーから身を起こして玄関に目を向けた。

 何度かチャイムが鳴ったけど、私からの反応が得られないと悟ったのか、今度はドアを叩き始めた。普通ならチャイムで出ない時点で諦めそうだけど。

 ドンドンドン、と。乱暴にドアを乱打する……ことはなく、変な叩き方をしていた。耳を澄ませて聞いてみると、


 ドン、ドドドン、ドンドンドン〜♪ドンドンドン、ドンドンドン〜♪ドン、ドドドン、ドンドンドン〜♪ドン、ドンドーンドドン〜♪


「……」

 私は片手で額を押さえながら呻いた。呆れたことに、ドアの向こう側に居る人物はドアを普通に叩くのではなく、かの有名な「メリーさんの羊」をドア叩きでやっているのだ。

 このドア叩きだけで、私はこんな日に誰が来たのかすぐに察しがつけた。少なくとも私の知り合いでこんな馬鹿な事するのは一人しかいなかった。

 私はソファーから立ち上がり、玄関に向かった。ドア向こうの人は未だに「メリーさんの羊」をドア叩きで再現している。近所迷惑にならないうちに回収しなければ。

 ドアガードを外しドアを開けると、外から身を切るような冷気が流れ込んできて思わず身震いした。

 そんな私の視界に映ったのは、白い世界を背景にした栗色の髪を腰まで伸ばしているスラリとした長身の女性。

 アイボリーのロングコートや頭に少なからずの雪を降り積もらせている「メリーさんの羊」さんは、私の顔を見て、開口一番こんな事を言った。

「クリスマス、あなたこんな日に引き篭もりゴッコしてたの?他人の趣味をとやかく言うつもりはないけど、陰気よソレ」

 自分でもそう思っていたので反論できなかった。

 けれど言われっぱなしも癪なので、私は精々陰気そうな顔をして彼女に言い返した。

「近所迷惑な事するよりかマシよ。もう数分続けてたら大家さんから叩き出されていたわよ確実に。少しは考えなさいよマリア」

 私にそう言われたマリアは、肩を竦めながら微笑を浮かべた。

 舞い落ちる雪のような微笑を。

 雪はまだ止まない。





 マリアという人間を一言で喩えるなら「ネコ」であった。しかも野良猫の類。

 自由気ままで、どこか掴み所がなく、可愛げのあると思えば何だか可愛げがないとも思えるし、飄々としていて、陽気そうに見えてどこか冷めているし、気がついたらいなくなっていたり傍にいたりしている。何というか、こういうのを「浮世離れした」と言うのかもしれない。

 彼女は私の大学の知り合いでもなければバイト先の知り合いでもなかった。それどころか、彼女が一体何者なのかも私は未だに把握していないのだ。

 けれどマリアはそんな事もお構いなしに私の家にふらりと来て、何をするワケもなく数日間から数週間いたりして、そしてふらりとどこかへ消えていく。今回だって会うのは一ヶ月以上ぶりなのだ。

一応滞在中の生活費は出すけれど、それも何をして稼いでいるのやら検討つかない。とにかく謎だらけの人物なのだ。

 そんな野良猫みたいな人と、何故か私はかれこれ三年越しの友達付き合いをしていた。

そして今もこうして彼女を室内へ上げていた。

「いやぁー、雪がすっごく降るもんだからさ、肩とか頭払っても払ってもキリがなかったよ。お陰で身体が芯まで冷え込んじゃった」

 口ではそう言いながらも、表情からは寒さとは無縁な陽気さを醸し出しているマリアはコートを脱いで私から手渡されたタオルで頭を拭いた。タオルを手渡し終えた私は、彼女の持ってきた荷物を見回す。

 ギターケースに、少し大きめの旅行鞄、それに白のビニールが三袋と、白くて小さな箱。幾ら身長が成人男性の平均ぐらいあるからって、女の身でこの大荷物を一人で持つのは辛そうだ。

 けど、ギターケースと鞄はまあよしとしよう。でもそれ以外はここに来る途中で購入したのだろう。

 何故に?

 いいや、中身とその目的は察しつくのだけど、つい疑問に思ってしまう。

 私は濡れた衣服を着替えてるマリアに声をかけた。

「マリア」

「なーにクリスマス?」

「このスーパーの袋と小さな箱は一体どういう事なのかしら?」

 私の問いに、マリアは鳶色の瞳に哀れみの色を浮かべて私を見つめた。

「おお、我が友よ。私のいない一月の間で知能が低下してるとは。若い身空でボケたくはないわね」

 芝居掛かった口調で芝居掛かった事を言う栗色の髪の友。半ば本気が混じっているので余計に腹が立つ。

 私は内心の怒りを押さえ、強いて冷ややかな態度を作った。

「袋の中身は小さいクリスマスツリーに、ファーストフードで購入してきたフライドチキンやポテトにピザ、さらにビールにワインも沢山入ってるわ。小さい箱はうちの近所にあるケーキ屋のデコレーションケーキでしょう」

 私が一気にまくし立てて言うと、その間に着替え終えたマリアは小さく拍手をした。

「ご明察。解ってるじゃんクリスマス」

「私が聞きたいのは、コレで何する気なのってことよ」

「言わなくても解ってるんでしょ?」

「解りたくないから聞いてるのよ」

 我ながら可愛げのない事を言っているけれど、マリアの方は気を悪くした風もなく、私の問いに応じた。

「クリスマスパーティーしましょう。さらに言うならあなたのお誕生日会も」

 予想通りの返答だったとはいえ、その言葉を聞いたとき、私は軽い眩暈を覚えた。

 彼女はどこをどうふらついていたのか知らないけれど、この街に、そして私の所に戻ってきた理由が、ただクリスマスパーティーをする為だけという何とも呆れた理由であったのもあるし、何より私が十二月二十五日という日が嫌いなのも知っているのに敢行しようとしてるのだ。だから去年も一昨年も来なかったのではなかったのか(まあ、私もバイトとかあったからのもあるけど)

 私が呆然と立ち尽くす中、マリアは勝手知ったるなんとやらで、食料の入ったビニールを持って台所へと向かった。

「冷めてるからレンジ使っていいよね?あとさ、ポテトがふやけててもクリスマス気にしないかったよね?まとめて入れるよ」

「ちょっ、マリア……」

「はいはい、突っ立ってないでケーキとかツリーとかお皿並べてよ。さっさと準備して始めましょう」

「……」

 結局、私はマリアの押しに負けた形となり、パーティーの準備の手伝いをするハメになった。






 ほんの数十分前まで暗く静かであった私の部屋は、今は人並みなクリスマス風景を形成するに至っていた。

 デーブルの隅に置かれた小さなクリスマスツリー、中央にケーキが置かれて、その周囲におかずやお酒が展開している。

「さぁさ、今日はめでたい日だし、パーッと食べて飲んで騒ぎませう」

 屈託なく陽気であるのか、無神経なのか判断しかねる発言に私は内心溜息を吐いたけれど、マリアは私にお構いなしにいっそ清々しいぐらいに明るい笑顔で私のコップに赤ワインを満たした。

「ちょっと、コップにワインを並々注がないでよ」

「別にいいじゃない。飲めば一緒なんだし。私とあなたしかいないんだから変に上品ぶる必要もないじゃない」

 そう言って自分のコップにもジュースを満たすかのようにワインを注ぐマリア。注ぎ終わると、大仰な動作で私のコップに自分のコップを当てて乾杯をした。

 私もそれ以上何も言えなくなり、コップに注がれたワインを飲んだ。甘くて熱い紅い液体が空腹なお腹に染みる。

 そんな感じで始まったクリスマス兼私の誕生パーティーも、最初のうちは互いにロクにしゃべらずに空腹を満たす事を優先させた。一日中家でボケッとしてた私もお腹が空くのだから、大荷物抱えて雪の中を歩いてきたマリアもお腹が空くだろう。

 ある程度食欲が満たされた後は、飲むのが主体になった。私はまぁ弱くはないけれど、彼女はザルであった。飲むペースが私よりも早いのに、頬が少し赤くなった以外には酔いを感じさせるものがなかった。

 そんなマリアを見ていて、私は彼女のペースに乗せられてる事に今更ながら気づいた。いけないいけない、聖母の名をかたる野良猫のペースに完全に乗っかってたら何が起こるかわかったもんじゃないわ。

「クリスマス、どうしたのさー?」

 コップを片手にマリアが私の顔を覗き込んでくる。モデルばりの端整な顔立ちをしている。少し鼻ペチャな感じの私にとっては彼女の顔立ちは羨ましい限りだ。

鳶色のやや切れ長の目が私を射すくめる。

 美人に至近で見つめられてドキマキしない男はそんなにいないであろう。けれど私は女性である。幾らなんでも美人だからといって同性にドキッとすることは多分ない。

 なので私は恨めしげにマリアを見つめ返した。

「あれ?もしかして睨めっこするの?」

「なわけないでしょう」

 私はコップをテーブルに置き、お酒で熱くなった呼気を吐き出した。

「マリア、あなたは私が今日と言う日が嫌いなのを知ってる筈よ。いいや、寧ろ知らなかったとか言わせない。なのになんでわざわざ帰ってきてまでこんな事するの」

「さっきまで楽しんでたくせに」

「はぐらかさないで」

 私は目が据わっていて怒りの形相をしているのか、マリアは「おぉ怖い」と言った。けれど、彼女の様子からは全然恐怖の色が見受けられない。余裕か鈍感か、計り知れない。

 今それを考えても仕方がない。私は目の前に居る謎だらけの友に真意を問いただそうとしているのだから。

 しばらく沈黙が私達の間に流れたけど、それを破ったのはマリアの方からだった。

「クリスマスさぁ、まだ名前の所為で嫌な思いしたのが忘れられないの?」

 その一言に、お酒で少し心が緩んでいたのか、奥に澱んでいた鬱屈が噴出した。

「当然じゃない。子供の頃は十二月になると馬鹿な男子達にわざとらしくクリスマスソングを聞かされたりして嫌がらせされてきたのよ。しかも今でも皆私の名前を聞けば『変わった名前』とか『おめでたい名前』とか言ってくるのよ!」

 私は憤慨した。嫌な思い出がグルグルと頭の中で再生されて、不快感が募る。他人から見れば「その程度」でも、私にとっては「その程度」では済まされないのだ。誰が「おめでたい」とか言われて喜ぶ人間がいるのか、しかも名前だけ見てそう言われて。

 小さい頃から悔しくて悲しい思いをしてきた。

 だから、私はどんなに崇高でもどんなに楽しかろうと、自分の名前の付くこの日が嫌いだった。

 聖誕祭(救世主の降誕する日)なのに、救世主なんて、私の前には現れなかった。肯定も救いもなかった。

 私は目尻に涙を滲ませながらマリアを睨んだ。彼女を目の仇と思わんばかりに。彼女に今までの怒りを向けるように。

 私の憤慨も、けれども目の前の彼女を怯ませる事は出来なかった。

 マリアは目を細め、空いているもう片方の手を私の髪に伸ばして置いた。そして、いきなり梳き始めた。

 置かれた手は暖かくて、亜麻色の髪を梳く指は心地よくて、梳かれる内に少し不快感が消えた。

 私の髪を梳きながら、マリアは微笑みながら言った。

「私はクリスマスっていう名前は素敵だと思うわ」

「……」

「響きが可愛い、名前の由来も可愛い、しかもなんだか幸せな気分になるし、私は大好きよ」

「皆が皆、マリアのように思わないわよ。殆どの人があなたとは逆の事考えるわ」

「クリスマスは物事後ろ向きに考えすぎ」

「トラウマ持ちだからね。前向きすぎな貴女と一緒にしないで」

「そっか、いきなり方向転換は無理かな」

「無理、絶対無理だから」

 ああ言えばこう言うとはこんな事を指すのだろう。私は彼女の言う事に反発しているようだ。けれど、自分で言うのも変だけど、自分のコレは子供が意地張って拗ねているような感じだし、マリアはそれを優しく宥める大人な感じだ。

 そう私に思わせる程に、マリアの表情も所作も優しかった。

 あぁ、そう考えると今目の前で自分の髪を梳いている友は何歳なのだろう。今までは同じ歳と思っていたけど、もしかしたら年上かもしれないし、逆に私より年下であるかもしれない。

 こうして私は、また一つ得体の知れない人物の謎を増やす事となった。

 思えば初めて出会ったときから彼女は不思議な存在だった。掴み所がなさそうで、飄々としていて、自由気ままそうで、謎だらけな猫のような人だった。

 三年前、あの時も今日のように雪が降っている冬の日だった。

 初めて経験する一人暮らしにも、大学にもようやく慣れてきた頃。私は特に何をするわけでもなく街中を歩いていた。

 雪の降る街を歩いていると、路地の片隅で彼女は歌っていた。ギターを弾きながら、透き通るような声で歌っていた。

 こんな雪が降っている中で酔狂な事をしてるなぁと思いながらその場を後にしようと思ったけど、何故か歌声に魅入られて、そして次に心配になって足を止めたのだ。歌は凄く上手いけれど、こんな雪の降る日じゃ皆足早にスルーしていくわ。そもそもこんな隅っこでだと通り過ぎる客も通り過ぎないじゃないの。この人はまさか今日を過ごすお金もないのかしら。だったらこのまま立ち去るのも夢見悪いわね、明日には凍死体で出てきたらって想像しちゃうと……。

 そんな事を考えてるうちに、彼女は演奏を終えていたのか、ギターを下ろして私の方をジッと見ていた。

 演奏中に立ち去ればよかったのに、立ち去れなかった私は、手袋に包んだ手で拍手しながら、幾らカンパしようかと思い悩んでいた。

 私の様子から何か察したのか、彼女は手を横に振ってこう言った。

「お金はいらないから。私はふと歌いたくなったから勝手に弾いて歌ってただけだし」

「えっ?」

 私は目を見開いた。目の前に居る女性はお金目当てで歌っていたわけでなく、歌いたかったから雪の降る中歌っていたという、真性に酔狂な人であった。

 私は呆れたように溜息を吐いた。初対面でこんな事言うのは失礼かもしれないけど、言わずにはいられなかった。

「あの、歌いたければ家かどこか暖かい場所とかで歌われたらどうです?こんな雪が降っている外で歌わなくても」

 私がそう言うと、彼女は首を横に振った。

「出来るならそうしたいんだけど、私この街の人じゃないから、家なんてないわ」

 それに今はホテルに泊まるお金もないからね、と。彼女はそう言った。

 深刻そうな事なのに、何でこの人はなんでもない風に言うのかな。私は再び目の前に居る女性に呆れた。

「雪、明日まで止まないそうですよ」

「へー、そうなんだ。まっ、なんとかなるでしょう」

 飄々とした態度でそう言った女性は、ギターをケースに仕舞い込み始めた。私はそんな彼女を呆然と見てるしかなかった。

何というか、この人、頭のネジが少し緩いんじゃないのかと疑ってしまう。何でそこまで余裕ぶってられるんだろう。聞いた感じでは知り合いもいないみたいだし。一体どうやって一夜を過ごすのだろう。そもそも女性が一人で深夜をうろつくのは危険じゃないのかしら。というか、何で私はつい数分前に会ったばかりの人の行く末を心配してるのか。

「ねぇ」

 彼女が声をかけてきたので、私の思考はそこで中断した。

「な、なんでしょうか?」

「あなたの名前は何て言うのかしら?こんな雪の日に私の歌を聴いてくれた酔狂な人の名前が知りたくなってね」

 酔狂なのはどっちだ。私は喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。

 私は躊躇った。頭に浮かんだのは今まで自己紹介してきての反応の数々。容姿や年齢などは違えども、共通していたのは好奇の視線を向けて「変わった名前だね」と言ってくる事。その反応が嫌で、私は自己紹介というのは好きではなかった。

 数十秒程の葛藤の末、私は名乗る事に決めた。いつもみたいな反応を見るのは不愉快だけど、私も彼女の事を内心で「頭のネジが緩い」とか「酔狂」とか言ったし、これで差し引きゼロにしようと思った。

「私、クリスマスって言います」

 私は小さく白い息を吐き出した。彼女の次の反応を、予想して気分が憂鬱であった。

 けれど、彼女の口から出た言葉は。

「クリスマス?クリスマスって素敵な名前ね」

 その言葉に驚いて彼女を凝視してさらに驚いた。

 彼女は微笑を浮かべていた。

 舞い落ちる白い雪のように、無垢でどこか儚げで、優しい微笑み。
 その微笑に私は声を失った。綺麗な人とはこういう人の事を言うのかと思った。雪の白が、彼女の微笑を浮き立たせている。

 私の驚きも知らず、彼女はギターを納めたケースを肩に担いで立ち上がった。ちょっとした動作だけれども、機敏さを感じる。

「さて、私もそろそろどこかに行きますか。クリスマスも、早く家に帰った方がいいと思うよ。雪にまみれて風邪ひくかもしれないしね」

 自分の現状を忘れているかのような言葉を彼女は言って歩き出した。

 真っ白い道、暗い空。雪は衰える事も知らずに降り続けている。こんな場所で、彼女はどうするのだろうか。

 私の名前を素敵と言ってくれた初めての人はどこへ行こうとするのだろうか。

 そう思ったとき、私は無意識に彼女の後を追いながら声をかけていた。

「あ、あの……!」

 彼女が少し怪訝そうな顔で肩越しに振り返った。私は自分でも驚くぐらいに無意識に言葉が出ていた。

「も、もし行くアテがないなら、私の所に泊まりませんか?私、一人暮らししてるので大したもてなしは出来ないけれど、寒さ凌ぎぐらいなら出来ますよ。このまま凍死でもされたら夢見悪いですし、その……」

 私の申し出に、彼女は軽く目を見開いたぐらいしか驚きの表情を見せなかった。それでも、返答が来るまでに軽く一分は経過してたと思う。

「……クリスマス、じゃあ雪が止むまでお世話になろうかな」

 彼女の返答を聞いて、私は嬉しくなった。どちらかというと、あんまり他人との交友を結ぶのを嫌がる傾向にある私にしては大変珍しい事だった。しかも相手は初対面の一風変わった女性であった。

 彼女は全身を振り向かせて私の目の前まで戻ってきた。鳶色の瞳が私を見下ろしている。

 彼女は手を差し出してきた。

「私はマリアっていうんだ。よろしくねクリスマス」

 私は手を握り返した。マリアは微笑んでいた。

 雪のように白く綺麗だと思った。

 それが、私とマリアの出会いであった。






 そして今はこうしてマリアとは奇妙な友人関係で結ばれてる。ほんの数日だけの関係がいまや三年も経過している。故郷の友人達を除けば、一番関係の長い部類に居る。

 彼女の離れすぎずくっつきすぎずな行動がそうさせてるのだろうか、それとも私が彼女と離れたくないと思ってるのだろうか。

 自分の名前を、自分を受け止めてくれる人との関係を消したくなかったのか。






 どれぐらい時間が経過しただろうか、いつしかお互い会話をしなくなり、動きもなかった。ただ、マリアが私の髪を梳く動作だけが続いていた。

 優しく髪の毛を梳かれ続けているうちに、自分の気持ちが落ち着いてきているのが解った。撫でられてると落ち着くだなんて、私もマリアの事を猫呼ばわりする立場じゃないわね。

「……もういいわよ。あんまり撫でられてると子供扱いされてるようで腹が立つから」

 私がそう言うのを予期していたのか、マリアはあっさりと私の髪から手を離した。

 代わりに、私の手に先程テーブルに置いたコップを握らせた。

「じゃ、クリスマスの機嫌も直った事だし続きやろうか」

 そう言って、再びお酒をコップに注ぐマリアに、私は肩を落とした。

「何が悲しくて女二人でお酒ガバガバと飲むことに」

「なに?クリスマスったらもしかして彼氏いたの?」

「居たら今頃一人で引き篭りゴッコなんてしてないわよ」

 言っててなんだか悲しくなったので、誤魔化す様にコップのワインの残りを一気に飲み干した。けれどこれは無謀だった。飲み干したはいいけど思いっきりむせてしまった。それを見てマリアが笑うものだから、余計に情けない気持ちになった。

 それを逸らす為、むせびが収まった後、私は直前の事をなかったかのように話題を戻した。

「ここには聖母(マリア)も聖誕祭(クリスマス)も存在しているのに、肝心の彼氏(救世主)はいないなんてね」

 この後二人揃って声を上げて笑う筈だったけど、笑い声は一人、私しかなかった。

「あれ、ここは笑うところなんだけど……」

 私はそう言ってマリアを見ると、マリアは笑みを納めて真顔で私を見つめていた。

「マリア?」

「だったら、私があなたの救世主(キリスト)になってあげようか?」

 マリアは空になったコップをテーブルに置くと、私のすぐ隣に寄ってきて、思いっきり顔を近づけてきた。私は思わずのけぞったけど、彼女はその分距離を縮めた。

「ちょっとまって、もしかして酔ってるの?」

「私がこの程度のお酒で酔わないの知ってるでしょう」

「あー、なら……私、そんな偏見とか持たない方だけど、そのケはないわよ」

「私もないわよ。私はそういうの気にしないだけで」

「き、気にしないだけって……」

「理解したならさっそく」

「どうしてそうなるわけ!?」

「嫌なの?」

「嫌っていうか……」

 そもそも同性に迫られた事のない私としてはどう対応していいか判らない。確かにいまどきはふざけてキスするぐらいはやってそうだけど、実際の所私はそんな経験ないし、しかも雰囲気からしてそれ以上のコトを求められてそうだし、というよりもマリアが両刀というのも驚いた。一体何人の男女と付き合ったことがあるのだ。と、こんな状況の中でも疑問に思ってしまったわ。

 マリアはついに私をソファーの上に押し倒した。私に馬乗りになり、マウンドポジションをとった体勢。当然ながら私は身動きがとれない。

「誰かが誰かの救世主(キリスト)になれる。聖母(マリア)が救世主になる事だって出来るのよ」

 妖艶な笑みを浮かべてマリアは囁く。その笑みは、同性でも思わず見惚れてしまうぐらいに美しかった。

 マリアの顔が近づいてくる。何をされるのか想像して私は無意識に身を強張らせた。

「あなたを救ってあげる。あなたの寂しさを癒してあげる」

 マリアの吐息が唇に触れている。あと数cmもないだろう。このまま流されるに流されてしまい、後戻りできない禁断の園に足を踏み入れる事になるのだろうか。

(助けて……!)

 唇が、重なった。

 いや、正確にはマリアの唇と自分の唇が触れ合った。ただそれだけ。

(へっ?)

 予想していた感触が来なかった事に肩透かしを喰らった気分の中、マリアは私の身体から離れた。それがさらに私を混乱させた。

「えっ、その……マリア、サン?」

 私の呆然とした顔を、マリアは喉を鳴らして笑っていた。その笑みを見て、私は、かつがれた事に気づいた。

 気づいたと同時に、私はソファーにあったミニクッションをマリアに投げつけた。

「この馬鹿マリア!洒落にならない冗談よしてよね!私思わず覚悟しちゃったじゃないのよ!!」

 私は半ばキレかけていたけど、クッションを投げつけられた方はというと、今度はお腹を抱えて笑い出した。

「べ、別に私は行くとこまで行くだなんて一言も言ってないよ。クリスマスったら何を想像してたのかなぁ?うわぁ〜いやらしい〜」

「うるさいわね、身包み剥がして外に放り出すわよ!」

 今鏡を覗いていたら、私はトマトのように顔を真っ赤にしてたに違いない。それほどまでに恥ずかしさと怒りが心頭していた。

 だけど、しばらくマリアを感情のまま罵ったり手近な小物を投げつけたりしてるうちに、なんだか可笑しくなってきた。気の抜けた反動なのかもしれない。ついには、私も笑っていた。

「ホントに驚いたんだから……」

 私とマリアは声をあげて笑った。久々に声を上げて笑ったような気がする。さらには十二月二十五日にこうして喜怒哀楽を出したのは何年ぶりだろうか。とても、気持ち良い。

 ひとしきり笑いあった後、マリアは笑いすぎて出た涙を拭いながら去年一昨年とやらなかった事を何故今年やろうとしたかを説明した。

 説明と言っても、彼女はただ一言告げただけ。

「何となくあなたが寂しそうにしてるんじゃないかなぁって思ったから」

 猫みたいにきまぐれな所がある謎に満ちた彼女らしい理由と言えば理由であった。

「でもね、あの時の台詞に嘘はなかったわ」

「え?」

「あなただけの救世主になってもいいわ」

「……」

 やっぱりこの人全然判らない。謎だらけな分、猫どころか宇宙人の領域に居るかもしれない。

 でも、そう言われても不思議と嫌ではなかった。寧ろ嬉しかった。やっぱりコレはファーストコンタクトで名前を素敵と言われたのとその時の微笑みが焼きついている所為かもしれない。というよりも、私は自分の精神衛生上そう思わないとやってられなかった。

「雪止まないわね」

 マリアは窓から外を眺めてそう言った。私も窓に目をやると、確かに雪は勢い衰えずに降り続けている。この調子で降り続けていたら交通が麻痺してしまうのではないか。ロマンティックさとは無縁な事を私は考えた。

 その事をマリアに話すと、マリアは栗色の髪を軽く掻き揚げながら曰く、

「ホワイトクリスマス素敵だね。だとか言ってるカップルがイチャイチャしてるうちに街中で遭難してたらおもしろそうね」

 私と似たり寄ったりな事をのたもうた。

 しばらく雪景色を眺めていたけど、マリアが不意に立ちあがって自分の荷物の置いている所に向かった。そして、ギターケースからギターを取り出した。

「こういう日は歌でも歌うに限る」

 歌手気取りでいるけれど。彼女はミュージシャン志望ではないという。ただ単に趣味の一つとしてギターを弾いて歌っていたのだという。詳しくは知らないけれど、マリアは他にも趣味や特技があるらしい。多芸で結構な事だと思う。

 ギターを手に取ると、早速マリアは弾き始めた。アパートなので音量に気をつけながら、歌も歌い始めた。

 とても趣味の一つとは思えなかった。美しい音律、音色。透き通るような綺麗な声。あの日、初めて出会った頃を思い出す。誰に聞かせるわけでもなく、自分の赴くままに歌っていたマリアの歌声。

 マリアの歌を聴きながら、私は思う。

 十二月二十五日は嫌いだ。いい思い出よりも悪い思い出の方が多いから。誰も私を悪い思い出から救ってくれなかったから。その思いは今でも消えない。

 けれど、今なら少しだけなら好きになって良いと思った。

 傍に居てくれる人が存在してる、自分を救ってくれようとしてる人がいる。現金なものだけど、ただそれだけで少しは好きになれそうな気がした。

 もっともっと好きになるにはどうすればいいのか。それは、自分だけの救世主の事をよく知っておかなければならないのだと思う。

 だから私は……。

「私、あなたの事もっと知りたいわ。謎だらけなあなたの事」

 ポツリと呟いた私の言葉が聞こえたのか、マリアは歌うのをやめ、ギターを弾き続けながら私の呟きに返答をした。

「まっ、クリスマスがそう言うのなら頑張って謎を暴いてみるんだね。私だって人の子だからいつかは謎も謎じゃなくなるだろうさ」

 他人事のようにそう言って、彼女は再び歌い始めた。彼女のらしい態度に、私は自然と笑みがこぼれた。

 彼女の微笑みは白い雪のように無垢で無邪気で、とても綺麗に思えた。

 十二月二十五日の夜はこうして更けていく。

 私達が初めて出会ったときのような雪を降り積もらせながら。




 完









あとがき


白い世界の聖なる日……そんな舞台で繰り広げられた、クリスマス嫌いな平凡な大学生クリスマス嬢と、謎だらけの野良猫(byクリスマス)美女マリアの織り成す友情以上愛情未満の微妙な関係の物語、如何だったでしょうか?

二人の今後の関係は………謎です。見たい方は作者にリクエストをお送りくださいませ(笑)

これを読んで、少しでも冬という季節、クリスマスへ心躍らせてくれたらと思います。それでは。

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