僕は唇に指を当ててためいきをついた。
ヘッドフォンはテーブルに置いたまま。
今は音楽を聴く気分じゃない。
それどころか軽く後悔までしている。
…あんなことするつもりじゃなかった。
いや、本当はしたかった?
…どっちなんだろう。
唇に触れたあの感触は、まだハッキリと僕の記憶に残っている。
僕は熊とキスをした。
一度目は熊から。
二度目は僕から。
僕も熊も、互いを拒んだりしなかった。
キスをした後、ひどく胸が苦しかった僕はすぐにトイレから出て、食堂車でコーヒーをもらった。
こいつで頭をしゃきっとさせよう。
そうおもっていたんだけど、コーヒーを見つめていると先ほどの行為が蘇ってくる。
僕は熊とキスをした。
良太郎もあの馬鹿モモとキスしたことあるのかな。

「…してるだろうな…」

僕は独り言を言ってカップの中のドロドロとした赤いものを混ぜた。
もしかしてこれがハバネロってやつ?
辛そうだなぁ。
なんて、そんな事を考えながら。

「…はぁー…」

僕はコーヒーから目を離して辺りを見回した。
さっきまでいちゃいちゃしていた2人組はどこにもいない。
目の前でいちゃつかれるのは嫌だから、ここにいないのは嬉しいけど。
どこに行ったのか気になる。
僕はおもむろに席から離れて亀の元へ近付いた。
亀はナンパに飽きたのか窓の外を見てコーヒーを啜っている。
けれど僕が近付いてくると愛想笑いを浮かべて言う。

「やあ。どうかした?…もしかして僕に気があるとか?」

「…良太郎はどこ行ったの」

僕の声は抑揚がない。
亀は苦笑気味に肩を竦めると、人差し指で僕の後ろを指した。
背ろには別の車両へ続く自動扉がある。

「…ありがと」

「あー…多分今は取り込み中だとおもうから子供はいかないほうが…」

亀の忠告なんか耳に入らない。
僕は自分でも気付かないくらい早歩きできびすを返した。
気になる。気になる。
あのふたりの事が。

「…ここ、かな?」

黙って自動扉を抜けると、人のいないがらんとした車両に出た。
なーんだ。誰もいないじゃないか。
聞こえるのは静かに揺れるデンライナーの音だけ。
窓を見やると、結構早いスピードで走っているのが分かった。
開けたらきもちいいんだろうなぁ、窓。
そんな事を考えながら食堂車に戻ろうと足を一歩引いたとき、本当に微かだけど小さな吐息が聞こえた。
掠れたようなその声は、次第に大きくなっていく。
僕は反射的に身を強張らせた。

「…あ…はっ、んん…ひ、良太郎っ…」

人格が変わったかのように甘ったるいその声のせいで、ソレが誰なのか全く分からなかったけれど。
でも何となくいやらしい感じがした。
空気を震わせて、2人分の吐息が混ざる。
僕は目を凝らしてあちこちを見やった。
すると、テーブルの下で何かが小さく動いているのが見てとれる。
床には下着のようなものが転がっていて。僕はすぐに声の正体を知った。

「モモタロス…すごいトロトロになってる…」

良太郎の声がした。
頭がズキンとするくらいに掠れて色っぽい声だ。
同時に、モモの上擦った声が聞こえた。
僕がここで聞いてるって分かってるのかな。
今、ここには僕がいるのに。
ふたりは体を絡めあって、濃厚な口付けを交わしている。

「…あぐっ…良太郎、俺…もう、や…限界…あっ、うぅ…!」

ガタガタ、と小刻みにテーブルが音を立てた。
その振動が僕の足にも伝わってくる。
いやだ、いやだ。
聞きたくない。
僕は慌ててヘッドフォンをつけようとするけど、ヘッドフォンは見当たらない。
ああ、そうだ…ヘッドフォンはコーヒーと一緒にテーブルの上に置いたまま、なんだ。
どうりで見つからないわけだ。

「モモタロス…僕も…イッちゃいそうだ。愛してるよ…」

良太郎の声は、聞いたことがないくらい甘かった。
怖い。
僕はその場から動けなくなって、いつの間にかきつく拳を握っている。
その間にも空気を震わす甘い吐息は僕の耳から離れてくれない。
やめて、やめてよ。
聞きたくないよ…。
僕は震える両手で耳を塞いだ。

「良太郎…んぁ…はぁっ、く…熱ィよォ…もっと、チンポ擦って…」

モモの声は良太郎以上に甘い。
いつものモモじゃないみたいだ。
鼻にかかった吐息を漏らして、ヒワイなことを口にしている。
僕も、もし良太郎に抱かれたらアイツとおなじようなことを言ったりするのかな。
あんなに恥ずかしい声を上げて、男のプライドなんか捨てたみたいに喘いで…馬鹿じゃないの。

「…っ…う…」

僕は口を押さえてしゃくりあげた。
必死に声を殺しながら涙を零す。
僕がここにいるって気づかれたらまずいんだ。
盗み聞きだとおもわれちゃう。
だから、僕はこの車両から動けないまま足を震わせていた。
何で僕はこんな事をしているんだろう。
良太郎はモモが大好きだって…分かってるはずなのに。
それでも期待してたのかな。
僕、馬鹿だからわからないや。
自分のきもちも、良太郎のきもちも、モモのきもちも。
それから、熊のきもちも。

「…熊…」

僕は涙に濡れた声で呟いた。
あいつは、さっき僕にキスをした。
ムカつくくらい乱暴で、それでもちょっと…ふわふわするような、そんなかんじのキス。
だから僕は熊にお返しをしてやったんだ。
そしたら熊が悲しそうな顔をして謝るから、僕は熊を突き飛ばして逃げた。
…どいつもこいつもサイテーだ。
こんな事なら最初から、本来の目的どおりに良太郎を殺しちゃえばよかった。
あんな奴と馴れ合わなければよかった…。

「ひっく…う…」

声が抑えられない。
僕は肩でしゃくり上げながら何とか歯を食いしばっていた。
その間にも良太郎とモモはきもちよさそうな声を上げて、互いの名を呼び合っている。
聞きたくないのに。
涙を拭おうとして袖で目尻を擦っても、それはぼろぼろとこぼれてくる。
何で止まらないんだろう。
別に悲しくなんてないのに。
むしろ、僕は怒ってる。腹が立ってるんだ。
何に?全部に!
僕の周りの人、全部に腹が立っている。
でも、憎めば憎むほど苦しいんだ。
このきもちをどうやって吐き出したらいいのか、全然分からない。
解らないから知りたい。教えて欲しいのに…。

「…っ!」

泣いている僕の後ろから、不意に手が伸びてきた。
その手は、乱暴に僕の口を塞ぐ。
振り返ろうとして身を捩る僕を、背中の人物は強引に押し留める。
身を堅くした僕を抱きしめたままその人は、ゆっくりと自動扉をくぐって良太郎たちのいる車両から抜け出した。
そのまま食堂車を通り抜けて、トイレの戸を開ける。
僕はずっと後ろ歩きのまま、その人に引きずられるように歩いていた。
トイレについた途端、おもむろに手を離された僕が振り返るとそこには熊、がいた。

「…何のつもり?」

僕の声は涙のせいか少しだけ上擦っている。
油断するとまた涙が零れてきそうだった。
そんな僕を見て、熊が困ったように笑う。
そうして懐から懐紙を取り出すと、やんわり僕の目尻を拭き取ってくれる。

「…何であんな所におったん?」

「良太郎が気になったから」

「それでも覗き見はあかんて〜。取り込み中やったしな…」

「…っ、そんなの熊に関係ない!」

僕は、涙を拭いてくれる熊の胸を押しのけようとした。
でも僕の腕より強い力で、熊が僕をきつく抱きしめる。
痛いくらいに。
…というか、痛い。

「…関係ある。大有りやで、リュウ」

熊は、びっくりするくらい低い声で言うと僕の耳元に口を近づける。
熱い吐息が耳にかかって、少しぞくぞくする。
良太郎とモモがいやらしい事をしていたのを見たときみたいに、ドキドキと不快感が重なり合うような、変な感じがした。
怖い。

「…すまん、急に…。痛くないか?」

「…痛いよ。死んじゃう…」

「いッ!?そんなに痛いんか!すまん!すぐ離れるわ…」

「バァカ…離れたら殺すよ」

僕は銃を持つ振りをして熊の背に指を当てた。
触れ合った部分はあったかくて安心する。
だからもう少し抱きしめていてほしかった。
そんなきもちも汲み取れないなんて、やっぱり熊は馬鹿だ。

「熊…質問、あるんだけど」

僕は自然と、熊の背に腕を回して抱き寄せた。
少しだけ、刺々しかったきもちがおさまっていく。
熊のお陰なのかな?

「どーした?言うてみ」

「熊は僕の、どんなところが好きなの?」

「ごほっ!」

また咳き込むんだ…。
僕は小さくため息をついて熊の肩に顔を預けた。
何度もむせながら、言葉を選ぶみたいに熊が言う。

「…そ、そーやな…子供っぽいところとか…ほっとけないところ、とか…素直すぎるところ…それから…」

熊は不意に、僕の頭を撫でた。
ぎこちなく頭を撫でて、おもむろに抱擁を解く。
熊の金色の目が僕をじっと見つめている。
その瞳がキュッと細められた。
同時に僕をきつく抱きしめて頭を乱暴に撫でる。

「だあーッ…おまえが良太郎に惚れとらんかったら俺が幸せにしたるのに!ぜーったい、世界一幸せなイマジンにしたるのになぁ…」

熊は僕の肩に顔を乗せて、心底悔しそうに言う。
変なの…。
変な奴。
どうしてそんなに悔しそうなんだろう。

「…俺は…リュウが好きや。俺のモンにしたい。だから俺のモンになれ。俺の…」

強気な声が途切れる。
熊は、自分の懐から懐紙を取り出して鼻を拭き始めた。
僕に背を向けて何度も「ちーん」を繰り返している。

「熊…泣いてるの?」

「泣いたらあかん!」

「えー…泣いてるのは熊だよ?」

僕の問いかけに、熊はおかしな返答しかしない。
熊らしいといえば熊らしいけど、僕も熊以上にあんまり頭で考えないからなぁ。
馬鹿なんじゃなくて頭で考えないだけだ。
きっと熊もそーゆー部類の生き物なんだろう。

「くーま、僕に拭かせて…」

おもむろに熊へ近寄った僕は、熊の懐から懐紙を取り出して笑った。
だらしない顔で泣いている熊が僕の申し出を断るようにかぶりを振る。

「リュウ、そんなん悪いて…」

「答えは聞いてない。ちーん、して?」

僕は問答無用で熊の鼻に懐紙を押し当てる。
僅かに熊が申し訳なさそうな顔をしたけど、すぐに「ちーん」をはじめた。
さっき、僕がトイレで泣いたときは熊が「ちーん」をさせてくれたっけ。
僕は、まだ涙の残っている頬も拭ってから笑った。

「…熊、またキスしていい?」

軽い調子でそう尋ねると、熊は眉を下げて笑った。
それを肯定の合図だと受け取った僕は、おもむろに熊の胸ぐらを掴んで目を伏せる。
ゆっくりと触れ合った唇は、少しだけ涙の味がするけど…悪くない。
僕はちょっとだけ大胆になった。
口を開いて、舌で熊の歯列をノックしてやる。
同時に僕の腰が強く抱き寄せられた。

「んんっ…!む…」

僕が熊の咥内に舌を差し入れるより先に、熊ががっつくようなキスを返してくる。
熱い舌に口の中をなぞられて背筋にびりびりとしたものが走った。
何だかとてもいやらしい事をしているような気分になる。
良太郎とモモみたいに?
僕はあのふたりとは違う。
それに、熊はあんな事したりしない。
僕は根拠もなしにそうおもった。

「ぷはっ…んく…くま…?あっ、う…んんっ…!」

でも熊は違ったみたいで。
僕を抱き寄せると強く壁に押し付けて貪るようなキスを始めた。
熱い。止まらない。
そのキスに促されるように、僕は懸命に熊と舌を絡めた。
やり方なんて知らない。
けど自分がきもちいいように舌を動かしただけだ。

「リュウ、俺な…おまえがさっき、便所でキスしてきたとき…自分に腹立ったんや」

熊はキスを続けながら言った。
さっき、とは…僕がナオミお姉ちゃんにコーヒーをもらう前の事だ。
トイレで慰めてもらって、それからキスをした時のこと。
僕は淋しさを紛らわすみたいに、熊にキスをした。
その時、熊が気まずそうな表情を浮かべていたのは知っている。
理由はまったく分からないけど。

「おまえとキスできて…えらい嬉しかった。けどな…キスされたとき、おまえの事…誰より独占したくなって…好きで好きでたまらなくて、そんな俺に腹立った」

おまえは良太郎が好きなのにな、と熊が笑う。
そうだ。僕は良太郎が好き。
モモなんか良太郎から離れちゃえばいいっていつもおもってる。
でも、そんな事したら良太郎が悲しむんだ。
僕も悲しいけど良太郎も悲しいんだ。
以前、そうやって亀に諭されたことがある。
難しい言葉を並べ立てられるよりずっと説得力のある言葉だった。
僕は良太郎の悲しい顔なんか見たくないから、ふたりの邪魔はしない。
…そう決めてたのに、仲の良さそうな良太郎とモモを見てたらすごく悔しくてムカついて悲しくて。
僕の頭の中はぐちゃぐちゃになりそうだった。
そんな僕を好きだと言ってくれる熊はあったかくて優しい。

「…僕、頭が悪いからよくわかんない…。どうすればいいの…?」

熊の言葉に上手く返せない事も、自分のきもちを言葉にできないこともすべて分からなくて、ぐちゃぐちゃで、意味不明で。
だから熊に聞いてみた。
僕のきもちを言葉にして教えて。
頭の悪い僕の代わりに、この熱くて優しいきもちの意味を教えてほしい。
おもったままを問いかけた僕を見て、熊が笑う。
僕の頭を優しく撫でながら、言うんだ。

「俺にも分からんわ。頭悪いからなぁ」

熊は良太郎みたいな顔をして笑う。
ドキッと胸が高鳴った。
僕は良太郎のほうが好きだった。熊よりずっと格好いいとおもってる。
今までも僕は良太郎が好きだったし、良太郎に勝る奴なんていないんだっておもってた。
それなのに、何でだろう?
今は、熊がすごく眩しく見える。
僕と同じで馬鹿なのに、格好よく見えるなんてウソだ。
絶対ウソだ。

「…っ、くま…」

そのきもちを自覚した途端、僕の行動は早かった。
熊の体に強くしがみついて、また押し付けるようなキスをする。
ちゅ、と軽く唇を吸い上げると熊が僕の唇を甘噛みした。
ぞくぞくした痺れが腰に集まってくる。

「んん…あ…はぁ、ふ…」

熊とのキスに夢中になりながらも、僕はゆっくり抱擁を解いた。
互いの唇に銀糸が伝う。
エッチだと感じたけど、悪い事をしているとはおもわなかった。
良太郎とモモもそうおもってるのかな?
僕は熊の後ろ髪を摘んでいじりながら、笑ってみせる。

「熊のこと、好きになってもいい…?」

「んなっ!?」

熊が裏返ったような声を上げる。
なんとなく恥ずかしいから、僕は熊の耳朶に唇を寄せてやった。
普段、僕が言うみたいに出来るだけ…軽い口調で。

「答えは聞いてないよ?熊…僕はきみを好きになる」

僕が囁くと、熊は大きく体をよろめかせてから気恥ずかしそうに僕を見た。
そんな顔で見つめられると僕まで恥ずかしくなっちゃうよ。
僕は帽子の鍔を掴んで目元を隠してから、口元だけで笑った。
頭の悪い恋人同士でも良いよ。
これから、ふたりで賢くなっていくんだから。

















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金竜の続き。これで一応できちゃった婚…じゃなくてカップル成立。