ただ、どうしようもない気持ち悪さでいっぱいだった。
しばらく、辺りの空気が止まっていたようにおもう。
目の前の男はきょとんとした顔をしていて、アグモンたちは目を瞬かせていた。
俺は唇に手を当てたまま間抜けな顔をしていた。
セクハラしたり、耳に息かけてやったりするときはあんなに真っ赤になって反論してくるのにどうしてこういう時にだけ大胆になるのか。
無防備に笑って、何でもないような顔してキスしてきやがって。
それも、みんなが見てる前じゃねーか。
そう思うと頭に血がのぼってくる。
「…てんめェッ!!」
とりあえず、腹が立ったから殴っておいた。
そのまま1人で部屋を飛び出していく俺に背中から声がかかるけど耳に入るわけがない。
相変わらず収まらない熱を持て余したまま、俺は闇雲に走った。
「ま、マスター!しっかりしてください」
よろめいた僕の体を支えるパートナーは、心配そうな声を上げて顔を覗きこんできた。
奥歯がじんじんと痛む。
僕は、殴られた頬に手を当てたままうなだれた。
どうして殴られたのか分からない。
あいつは口より先に手が出る奴だと知ってはいるけど、これは不意打ちだった。
「…どうして」
ぽつりと言葉が漏れた。
背中から大きなため息が聞こえる。
淑乃がやれやれと言わんばかりに声を上げた。
「どうしてもこうしてもないでしょー。キスなんかしたら大抵の男は嫌がるわよ」
「…そうなのか?」
「当たり前じゃない」
僕の問いかけに、淑乃は眉間を押さえて言った。
すぐ傍ではガオモンが僕を労わるように見つめている。
そうしておずおずと口を開いた。
「日本では、口付けは恋人同士がするものだそうですよ」
「…コイビト」
僕はその言葉を復唱してから、全身に熱が回るのを感じた。
キスなんて単なる礼の表しだ。
僕もそのつもりであいつにキスをしたのに。
なのに、なのに。
誤解されてしまったというのか。
「…ぼ、僕は…」
「兄貴、怒ってたなァ」
アグモンが唐突に口を開いた。
まるで僕の行為を咎めるように。
僕は胸の奥にズキズキと突き刺さる針のようなものを感じながら、部屋から飛び出した。
ガオモンには"ここで待っていろ"とだけ言って。
僕はそのままDATS本部の建物から出ると、まずあいつが行きそうな場所を推理する。
飛び出したばかりだからそう簡単に遠くへはいかないはずだとおもった。
行きかう人々なんかには目もくれず、僕は走った。
誤解を解かないと。
僕はお前なんか好きじゃない。
コイビト同士というつもりでキスをしたんじゃないんだと。
その答えを口に出そうとするたび、胸のどこかがチクチクと痛む。
あいつは僕に好意を持っていてくれているのだと思ったのに。
そりゃ、嫌いだ嫌いだと罵ってはいたものの、どこかその悪態が心地よくて、あいつも僕の悪態を楽しんでいるようだった。
仲間というよりも友達のような仲、もしくはもっと深い仲だと思っていたのに。
時々、個室でいけない遊びをするほどなのだから。
「…マサル…一体どこに」
僕は、頭がマサルのことでいっぱいになってしまって注意不足だったんだとおもう。
突然曲がり角から現れた大柄な男にぶつかった。
大柄な男は、尻餅をついた僕を見て目を細めると好色そうに笑って言うのだ。
「いってェ…外人か。ほら、ぶつかったらちゃんと謝れよ」
男は下卑た声で笑って僕のおとがいを強く掴み上げた。
がさがさした指が唇に触れる。
その感触が気持ち悪くて、僕は男の手を掴んで捻り上げてやった。
それが気に障ったのか、男が僕の腕を振りほどいて圧し掛かってくる。
「ちょっ…何をするんですか!?うっ…」
酒の匂いがする。僕は眉を寄せた。
がさついた手が、前触れもなく僕の下腹部に触れる。
何をされているのかすぐに分かった。
この酔っ払いめ、張っ倒してやろうかと考えるが今の僕の頭はマサルのことでごちゃごちゃになっている。
僕は身を捩ってから男を蹴り上げる体勢に入った。その時。
どす、と鈍い音がして、ごろりと男が僕の体から横に転がった。
視線の先には、上着を肩にかけて荒い息をついたマサルの姿がある。
男は酔っ払って何を言っているのか分からない口調で文句を言っていたが、マサルは目を細めて男を見た。
「俺はなァ…今モーレツに腹が立ってんだ!ボッコボコに殴られて入院してェなら手加減しねーぞ!?」
喧嘩っ早い事を言って凄むような態度を取ったマサルに危険を感じたのか、男はすぐに逃げ出していく。
僕はぽかんと男を見送っていた。
だが、すぐに腕に痛みを感じてマサルへと目を向ける。
マサルは僕の腕を強く掴んで無理やり立たせると、そのまま引きずるように歩き出した。
「いッ…痛いじゃないか!離せッ!!」
「うるせーよ!」
ぴしゃりと怒鳴って言い切ったマサルは、強引に僕を引っ張ったまま歩いていく。
僕はその手を振りほどく権利もなくて、ただ後へ続いた。
子供がたむろしていそうな公園にたどり着いたとき、マサルは乱暴に手を離して僕を睨む。
僕はずっと握られていた腕を庇うように抱いて負けじと見つめ返した。
「…ッ…どういうつもりだ!?」
「そりゃこっちの台詞だ」
普段はぎゃあぎゃあと激昂するマサルが、不気味なくらい落ち着いた声で言った。
マサルの言いたいことがわからなくて、僕はしばし押し黙る。
春の生温い風が僕らの間を通り過ぎていった。
マサルがどうして怒っているのか、それは多分さっきの"キス"のことだ。
キスひとつくらいで騒ぐなと怒鳴ってやりたいが、日本人は感性が違うからキスひとつでも敏感なんだろう。
こんな、神経の太そうな男でも。
「先ほどは…悪かった。もうしない」
「それだけか?」
マサルがつり目がちの目で僕を見た。
刺さるような視線。
謝っただけでは足らないとでも言いたいのか、マサルの目は僕を責めるようだった。
できればさっさとこの話を終わらせて何事もなかったかのようにみんなの所に戻りたいんだが。
僕は、少し強く吹いてきた風のせいで乱れた髪をかきあげながらマサルを見つめた。
「君はどんな言葉を望んでいるんだ?」
それだけ言うと、マサルは表情も変えずに黙っていたが少しばかり子供っぽい拗ねたような顔をした。
腰に手を当てて少し背の高い僕を見やる。
「お前さ、礼のつもりだけであんなことしたのかよ」
「…どういう意味だ」
だけ、と言う言葉が妙に引っかかる。
僕は声を低めた。
マサルの長い髪が風に揺られていて、年相応の子供のように見える。
もっと分かりやすく言えと眉を寄せると、マサルは自分の髪をぐしゃぐしゃかきまわして不機嫌そうに言い放った。
「…だからー、俺の事が好きだからあんなことしたんじゃねーの?」
マサルの言葉に胸が強く締め付けられた。
すき。
スキ。
好き。
まさか。
君が僕の事を好いているんじゃないのか?
僕は妙にうるさい自分の息に気付きながらも、次第に怒りを覚えていた。
拳を振り上げてマサルの頬を張ると、口の中が切れたのかマサルが血の混じった唾液を地面に吐き出す。
「何しやがんだよ!!」
「ぐッ…う…」
ヒュウ、と空気が唸った。
腹部に痛みが走る。
膝を付くのだけは嫌だった。
僕は腹を押さえて、再度マサルに殴りかかる。
「うるさいッ!どうして僕が!どうして僕が君なんかを!!」
僕の事を好いているのは君だろうが。
僕の事を良くおもっているのは君だろうが。
頭の中で、そう唱えながらマサルを殴った。
喧嘩番長と自称するだけはあるのか、マサルは怯まなかった。
僕の拳を受けてのけぞるけど、すぐに大きく腕を振って僕の頬を殴る。
その力が思いのほか強くて、僕は仰向けに倒れた。
マサルが僕の腰にのしかかる。
何度か頬を殴られた。
「好きじゃねえならキスなんかすんなよ!好きじゃねえなら嫌いって言えよ!オイ!?」
一通り僕の頬を殴ると、マサルは息を乱して僕の胸ぐらを強く掴んだ。
口の中に鉄の味が広がっていく。
僕はその手を振りほどこうとマサルの手を掴む。
マサルの手はがっちりと僕の胸ぐらを掴み上げていたから、そう簡単には離れない。
僕はマサルの手に爪を立てた。
「ぐっ…ごほっ…君が言えば良いだろう!僕の事を嫌悪していると!!」
爪を立てていた手を離して、僕はマサルを殴った。
マサルは僕の拳を受けると、何度か咳き込んでから僕をギロリと睨みつける。
僕は怯まずにマサルを見つめ返した。
殺意にも似た感情が沸上がってくる。
マサルが不意に掴んだままの胸ぐらを引き寄せた。
そうして至近距離で荒い息をついた後に僕の唇に優しいキスをして、低い声で一言。
「…好きだ、トーマ」
それだけ言って、胸ぐらを乱暴に離した。
いきなり服を離された衝撃で倒れこむ僕を見下ろして、マサルが立ち上がる。
ぽつぽつと春雨が降り始めた。
しっとりと濡れ始める制服に気付けないほど、僕は脱力してしまっている。
マサルはしばらく僕を見下ろしていたけど、完全に公園の砂が雨で濡れてしまった頃にゆっくりと立ち去った。
足音が遠ざかっていく。
視界の隅にマサルが見えたけど、どうもぼやけて。
目の前が歪んでしまって何もみえない。
何もみえない。
「…っ…ううっ…」
僕は、地面を強くかいて嗚咽した。
同時に、すさまじい吐き気に襲われて胃の中のものを嘔吐する。
喉の奥が焼けるようだ。裂けるようだ。
あいつは僕を好いていた。
それは事実だった。
それなのにどうしてこんなに苦しいのか、僕にはわからない。
どうして涙が止まらないのか、僕にはわからない。
今まで、奴と体を重ね合っていたのは何故だったんだろう。
自分の気持ちが分からない。
答えが見つからない。
「…僕は…マサル、が…」
ざぁ、と音を立て始めた雨にかき消されて僕の声が地面を叩きつける音に消えていく。
僕は涙なのか雨なのかよくわからないもので頬を濡らしながら、妙に熱い自分の体を感じて目を伏せた。
ただ、どうしようもない気持ち悪さでいっぱいだった。
=====================================================================
はじめての健全マサトマ(汗)続き物かも。