『トーマ、好きだよ』
普段はそういう言葉が似合わないくせに、こういうときだけ真剣な目で言った君は見ているこっちが恥ずかしくなるくらい真っ赤になって笑ってくれた。
平穏よりも低い体内温度が、いきなり上昇したような気がして僕は笑い返すことしかできなかったのだけど。
あの時"僕も、君が好きだ"と返していれば、何かが変わったんだろうか。
今となってはどうでもいいことだ。
僕は鈍い痛みを覚えてベッドから這い出した。
部屋中に煙草の匂いが蔓延している。
僕の部屋なのに…。
そうおもって眉を寄せると、頭の上から楽しそうな声が聞こえた。
「煙草は嫌いですか?トーマ博士」
肩に触れた手がそっと僕の体を引き寄せる。
僕は少しだけ躊躇ったあと、しばらくしてその胸へ顔を寄せる。
やっぱり煙草くさい。シーツも、髪も手も。
「嫌いです…肺が黒くなりますから」
「そうですか…ならやめておきます」
煙草を携帯灰皿に押し込んだその手は、乾いた指で僕の頬に触れた。
ゆっくりと顔を上げて、目の前にいる人間が誰なのかを再確認する僕に目の前の男はニヤリといやらしい笑みを浮かべる。
部屋の外から声が聞こえた。
「ねえガオモン、お兄様はどこへいったの?」
「さ…さあ、分かりません…」
「じゃあ…お兄様が帰ってくるまで私と遊んでくれる?」
「は、はい…!リリーナさま」
僕の妹とパートナーが話している声が遠ざかっていく。
男は大きくため息をついて僕を抱き寄せた。
煙草のにおいが苦しい。むせるようなにおいだ。
男の手が僕の体をシーツへ寝かせた。
「…それにしても綺麗な体ですねェ。私に抱かれた痕はまったくありませんよ…」
「倉田博士が残さなかっただけでしょう」
僕は細い息を吐いて顔を背けた。
楽しそうな声が体の上から聞こえる。
体を舐めるように見られた後、首筋に顔を寄せられた。
ざらざらとした肌が触れてくすぐったい。
同時に恐怖と悔しさのようなものが押し寄せてくる。
…今更何を怖がるというんだ。
僕は、この人に身も心も捧げたのに。
すでに僕の心は、倉田に売ったのに。
「…っふ…倉田博士、何を…?」
不意に首筋が熱く感じて身を竦めると、倉田博士が顔を上げてにやりとわらった。
それだけだった。
掛け布団を上げて着替え始めた博士を見ながら僕はぼんやりと煙草のにおいに包まれている。
倉田博士はおもむろに振り返って僕に布団をかけてくれた。
既にネクタイをつけてしまっている。
僕はぶら下がっているそれを軽く引っ張った。
「…おや?」
倉田博士の声が間近で聞こえる。
ネクタイを引っ張った僕は、そのまま倉田博士と唇を重ね合わせた。
ここで、僕の置かれている状況を再確認する。
唇の重なり合った音や、舌の擦れる感覚が妙にエロチックで、僕は小さく肩を震わせてしまう。
それでも続けたかった。
僕がこの人へ心を売ったことを、僕自身に認めさせたかったから。
「…はぁ…っ…んふ…倉田博士…好きです」
あいつにも言わなかった事を、初めて口にする。
心は痛まなかった。だって僕の心はもうこの人のものだから。
僕はそうおもっていた。おもいこんでいた。
「熱烈な愛の告白ですねェ…」
倉田博士は目を細めて笑うと僕の髪をやけにゆっくりと撫でて身を離した。
そうして再び着替えていく彼を僕は黙って見つめている。
何も言葉は交わさなかったけれど、何だか穏やかな時間だった。
着替え終えた博士は、白衣のポケットからピルケースを取り出して僕へ差し出す。
「煙草のにおいで酔ったでしょう?これ、飲んで良いですよ」
ケースを受け取った僕を確認して水差しでコップに水を注いでいった博士は、そのままコップを向けた。
僕はためらいなくケースからピンクの錠剤を取り出して口にほおる。
コップの水を口にすると、喉から食道まで勢いよく流れていく水の冷たさがよく分かった。
ずいぶん喉がカラカラだったみたいだ。
コップの水をすべて飲み干した僕を確認して、博士はもう一度僕の頭を撫でた。
そうして額に口付けるとベッドから起き上がって僕に背を向ける。
軽い挨拶を交わして僕の部屋から出て行く博士を確認したあと、僕も気だるい体をベッドから起こした。
シャツを身に着けて、ズボン、ネクタイ、それからベスト、靴下。
すべてを身に着けて巨大鏡の前へ立つと、首筋に小さな虫刺されが見えた。
「…ん…これは…?」
鏡に顔を寄せて首筋の髪を払った僕はその虫刺されをまじまじと見つめる。
ちょうど、博士が口付けを落とした部分だ。
僕は何だか恥ずかしくなってシャツのボタンを一番上までしっかりと閉めた。
髪を撫で付けると、口付けの痕は何とか隠せる。
これならガオモンたちの前に出ても大丈夫だろう。
僕は扉を開けてガオモンを探した。
玄関からは倉田博士と父の声が聞こえる。
何を話しているのか上手く聞き取れなくて玄関に近付こうとすると腰にふんわりとした手が触れた。
「お兄様!」
「…っ、リリーナ?ガオモンも…」
僕が慌てて振り返ると、そこには車椅子を押すガオモンと僕を見つけて嬉しそうなリリーナの顔があった。
ずきん。
母に似た妹の愛くるしい笑顔を見ると少しだけ胸が痛む。
僕は間違った事をしただろうかと、自問自答してしまいそうになる。
言葉を途切れさせた僕をリリーナが心配そうに見つめていた。
「…僕は…間違っているのかな」
誰に言うでもなくぽつりと呟くと、リリーナはやっぱり母に似た笑顔で微笑んでくれるのだ。
僕のシャツを引っ張って顔を寄せると、頬を白い手で撫でてくれる。
常人よりも冷たくて、それでもひんやりした妹の手。
リリーナは小さく咳き込むと、笑って言った。
「お兄様は…間違ってないわ。リリーナのお兄様だもの」
そう言って満面の笑顔を見せたリリーナは、母とダブる笑顔で僕を抱き寄せた。
ふと、母さんに諭されたような安心感を覚える。
僕はリリーナに抱き寄せられたまま目を閉じた。
母体にいるような感覚とはこんなかんじだろうか。
このまま眠りに落ちてしまいたいくらいの安堵感が僕を誘う。
けれど、それを振り切って立ち上がった僕をリリーナが見上げた。
「リリーナ、ありがとう…行って来るよ。いくぞ、ガオモン」
「イエス、マスター」
ガオモンは、僕が倉田と寝たことについて何も言ってこなかった。
僕も何も話さない。
それでもいつも隣へ来てくれるガオモンは深く僕を信頼してくれているのだとおもう。
僕とガオモンはヘリへと乗って、そのまま目的の地へ飛んだ。
すっかりあたりは真っ暗に染まりあがっている。
ヘリから降りた僕たちはゆっくりと声のするほうへと歩き出す。
頭上ではシャイングレイモンやロゼモンたちがギズモンを相手に戦っていた。
そして、僕の目の前にはあの男がいる。
「いけっ、シャイングレイモン!!」
久しく聞いていなかった声だ。
僕は暗がりの中からゆっくりとマサルへ近付いた。
僕の気配を感じたのかマサルが振り返る。
数刻ぶりに見た顔を見合わせても、何も感じない。感じるはずがない。
「トーマ…?何やってたんだよッ、今まで…」
「…ガオモン、いくぞ」
僕はマサルを見つめたままデジヴァイスを取り出して言った。
ただ事ではない雰囲気を感じたのか、マサルはつり目がちの瞳を瞬かせて困惑している。
そんな顔を見ると、唐突におもうんだ。
…きっと、僕は…。
「デジソウルチャージ!オーバードライブッ!!」
デジヴァイスへデジソウルを注ぎ込むと、ガオモンはミラージュガオガモンへと進化を遂げた。
そうして、そのままシャイングレイモンに突っ込んでいく。
さあ、戦いのはじまりだ。
暗い上空で散る火花が海に落ちていった。
季節はずれだけど綺麗な花火にも見える。
ぼうっと空を見つめている僕をマサルが怒鳴った。
「な…ッ、何やってんだよ、おまえ!?ミラージュガオガモンをとめろよ!」
まあ、普通はそう言うだろう。
僕はマサルへと視線を移した。
言うべきことは、ただひとつ。
「僕は君を倒す」
激しい戦いが繰り広げられているはずなのに、僕とマサルがいる場所だけは妙に音が澄み渡ってきこえた。
だから、声を張り上げなくても僕の声はマサルへしっかりと届く。
その気が強い瞳が困惑と、驚愕に見開かれていくのを確認した僕は口元を引き締めた。
倉田博士がのぞむもの、僕がのぞむもの。それを成し遂げるためには彼を消す必要がある。
…消すんだ、心から。
「てめェェェエッ!!!」
計算の読める単純な拳が僕に繰り出された。
それを片手で止めた僕は、間近でマサルの瞳を睨む。
僕の空気に圧倒された様子のマサルは、眉を寄せて小さく呟いた。
「…何でだよ。何で何も言わなかったんだよ…」
「君には理解できないからだ。僕は倉田博士と新しい世界をつくる」
そのためには、君が邪魔。
うっとおしい。めざわり。
僕の心をぐちゃぐちゃにかき乱していくから。
早く消さなきゃならないんだ。
僕は大きく息を吸い込んでマサルを殴り飛ばした。
派手に倒れこんだマサルを見下ろしても何も感じない。…そう、何も感じない。
僕は彼を倒す。僕が正しいのだと証明するためにだ。
心の中で熱く震えるものが喉から出かかったが、僕はそれを飲み込んだ。
今更こんなヤツにかける言葉なんてない。
「…君はここで死ぬんだ、大門マサル」
僕の言葉に、マサルは何も返さない。
よく見るとマサルの拳は小さく震えていた。
泣いているのか?
日本一の喧嘩番長だと自称しているのに、こんな事で泣くなんて…。
…こんな事で。
「トーマ…倉田と手を組むって…どういうことだよ」
マサルの声は冷え切っていた。
もっともっと絶望させてしまえ。
僕はマサルの体に圧し掛かると、普段では言わないような事を口にした。
きっと、気が高ぶっていたのだとおもう。
「そのままの意味だよ。僕はもう博士と体の関係も持った。これがその証さ…」
僕はネクタイを緩めると、首筋の痕を見せてやった。
ゆっくりと顔を上げたマサルが僕の首筋を見つめる。
顔色は変わらなかった。
据わった目をして、僕をじっと見つめている。
マサルの拳に黒い炎がちらついた。
ゆらゆらと立ち上るオーラのようなものがマサルの体を取巻いていく。
何だ、この邪悪なデジソウルは。
僕が何かを言おうと口を開いた時、マサルの手が動いた。
常人とはおもえないほどの握力で僕の首元を掴んで、そのままアスファルトの地面に叩きつける。
額を強く打った僕は、衝撃でしばらく起き上がれなかった。
淑乃さんやイクトが駆け寄ってこようとするけれど、マサルにギロリと睨まれて立ちすくんでしまう。
ようやく顔を上げた僕が目にしたのは、真っ黒なデジソウルを身に纏ったマサルの姿だった。
見ているだけで焼けるように苦しい。
マサルは黙って僕の体の上にのしかかると、急に顔を寄せて言った。
「おまえが倉田と寝たって?アイツが好きなのか?好きって言ったのかよ」
感情をすっかりなくした声で問いかけられる。
僕はカラカラに乾いた喉をゴクリと鳴らした。
上空では黒い羽を生やしたシャイングレイモンがゆらりゆらりと炎をくすぶらせている。
悪魔のような姿だ。あんな進化、見たことがない。
僕はマサルに視線を合わせて引きつった笑みを浮かべた。
「…何回言えば分かるんだ。僕は倉田博士と関係を持っているんだ…好きって言葉くらいとっくに言ったさ」
僕は嘘をついた。
好きだなんて、一回しか言ってないのに。
嘘をついた僕に、マサルは口元を歪ませて笑った。
いつも、単純な馬鹿笑いしかしないマサルからは想像出来ないくらい、悪意に満ちた笑み。
僕は少しだけ身を捩じらせて後ずさる。
だが、マサルの手が僕の足首を掴んだ。
もう一方の手は僕のシャツを乱暴に掴み上げる。
ブチブチ、と嫌な音を立ててボタンがはじけ飛ぶ。
マサルが引きちぎったんだ。
「ぐっ…う…何をする気だ…」
上体を露にした僕は、シャツの合わせを掴んでマサルを睨む。
マサルは動じさえしなかった。
黙って、破れたシャツの合間から手を突っ込んで僕の乳首を痛いくらいに摘む。
ビリビリと、痺れたような快感がつま先から頭の上まで突き抜けていく。
「…あ…ああぁっ!!」
僕は身を捩らせたまま掠れた声を上げた。
倉田博士と寝ている時に散々声を出したせいだ。
それさえも気に入らないのか、マサルは舌を打って僕から目を離した。
仲間に向けた目は、凶器のようにギラギラしている。
「今からコイツを公開レイプすっから…てめーらちゃんと見るんだぞ」
マサルの声は、僕の冷えた心よりもずっと冷え切っていてドスのきいたものだった。
ドッと冷汗が出る。
相変わらずマサルを纏ったオーラは消えず、僕にまで纏わり付いてこようとする。
僕はかぶりを振ってそれを払った。
身悶えている僕に気付いたのか、マサルは僕の前髪を掴んで笑う。
「…トンマ、倉田に仕込まれた体はどんなモンか味見してやるよ」
マサルは僕をトンマと言った。
その名前は僕じゃない。
僕はトンマじゃない。
「僕は…」
「うるせェ!!」
マサルが拳を振り下ろす。
慌てて顔を背けると、アスファルトの地面がみしりと音を立てた。
デジソウルの力なのか、地面にひびを入れた拳は傷ひとつついていない。
僕はようやく恐怖を感じて顔を上げた。
重なった視線は、あの頃のように暖かくて甘酸っぱいものじゃない。
『トーマ、好きだよ』
そう言って精一杯の告白をくれた君は、もうここにはいないんだ。
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これは前編になります。後編は鬼畜マサルが色々してますので大丈夫な方は見てやってくださいませ。