僕は、夢を見ていた。
甘くて、優しく…まだ無知だった自分に愛しい感情を教えてくれた少年の夢を。
「とーまぁ!サッカーしようぜ!」
横開きの戸を遠慮なく開けて元気はつらつと言った顔で笑った少年は声を張り上げた。
手にサッカーボールを持っている。
年の頃はまだ4つ。ひどく幼い。
遅れて、家の奥から子供の声が聞こえる。
起きたばかりなのか、袖で目元を擦りながらはちみつ色の少年がよたよたと顔を覗かせる。
年の頃は、サッカーボールを持った少年とおなじくらい。
「…まさる…ぼく、ねむいよぅ…」
「なんだよぉ、おれのいもうとなんかあかんぼうなのに7じにおきてんだぞ」
マサルと呼ばれた茶髪の少年は靴を脱いでトーマの腕を引っ張った。
トーマは、甘ったるい声で嫌々とかぶりをふる。
「おかあさんといっしょがいいの…」
「おかあさんといっしょじゃサッカーできねーじゃん」
「できるよぉ…」
呆れたようなマサルの声に、トーマは拗ねたのか唇を尖らせた。
ぶつぶつと文句を言っている金髪の少年は軽く舌を出してそっぽを向く。
「まさるなんかきらいっ」
「おれはとーまがすきだからあいにきたんだぞ」
「うそだもん。まさるはぼくのことをからかいたくてきたんでしょ?」
「えー、なんでそうなるんだぁ?」
お兄さんぶって笑ったマサルは、拗ねているトーマの肩を抱き寄せた。
その行為に戸惑いを見せるトーマだが、抵抗はしない。
眠気は覚めたものの機嫌を悪くしているトーマを見て、マサルは笑みを浮かべた。
「おれはとーまがだいすきだよ」
「…うそ、だもんっ」
トーマは小さな腕を伸ばしてマサルの胸を押した。
それでもすぐにマサルの腕に抱きしめられてしまう。
母親の甘ったるい匂いとは違うそれに、トーマは眉を寄せた。
生まれてから母親のぬくもりしか味わったことのないトーマには、マサルの父親に近い匂いが新鮮だった。
マサルの唇が小さく動く。
「じゃーさ…おっきくなったらけっこんしようぜ?まいにちだいすきっていってやるぞ」
まだ舌足らずなその囁きに、トーマは首をかしげた。
アイスブルーの大きな瞳が何度も瞬かれる。
結婚という未知なる響きに少なからず興味をもったようだ。
マサルは、パッと顔を輝かせて頷きを返す。
「おれのおくさんになってよ。んで、いっぱいこどもつくろうぜ?」
「…できるの?」
「ちゅーしたらこどもができるっておとうさんがいってたもん」
マサルは自信たっぷりに言い放つと、首をかしげたままのトーマを見て微笑みかけた。
キスをすれば子供ができるとの話をすっかり信じてしまったトーマは、遠慮がちに頷こうとしてやめた。
唇をまっすぐにむすんでマサルを見やる。
「じゃあ、ぼくにちゅーして。ほんとうにこどもができるのかみてみたい」
「え…?」
突然の言葉に、マサルは目を点にした。
4歳にしては少しばかりマセているマサルは、ちゃんとキスの意味を知っている。
だが、トーマは単純に真実を追究する為にキスを求めているのだ。
本当にキスをして子供ができるのか、と。
「はやく…ぼくにちゅーして。まさるぅ…して!ちゅー、して?」
黙っているマサルを見て、トーマはじれったそうにマサルの肩を掴んでかくかくと揺さぶった。
トーマの小さな唇がねだるようにマサルを呼ぶ。
その気がないとはいえ、かなりの大胆発言にマサルはすこし恥ずかしくなった。
まだマサルを呼んでいるトーマの胸を強く押して、睨むように見やる。
マサルに押されたトーマはその場で僅かによろけた。
驚いたような顔でマサルを見つめたはちみつ色の髪をした少年は、小さく口を開きかけた。
だが、トーマよりも先に口を開いたのはマサルのほうで。
「おまえみたいなやつにちゅーなんかしねーよっ、ばっかじゃねーの!」
乱暴な口調でそう言ったマサルは、赤くなってしまった顔を上げた。
だが、顔を上げたマサルの目に入ってきたトーマの瞳からは、うっすらと涙が浮かんでいる。
桃色の唇を生えかけた小さな歯で噛んで、大きなアイスブルーの瞳を揺らして。
トーマは泣いていた。
「……ごめ…」
「お、おれもうかえるっ!」
震えた声で呟いたトーマから逃げるように、マサルは足元に転げ落ちたサッカーボールもそのままに家を飛び出した。
それでも、ショックを受けたトーマの表情がマサルの目にハッキリと焼きついて離れない。
かぶりを振っても別の事を考えても、トーマの悲しそうな表情はマサルの胸をグッと抉った。
逃げるように自宅に帰ったマサルは、洗濯物を干している母親の腰に飛びついた。
「…あら、マサル…もう帰ってきたの?」
「おかあさん…おかあさん、どうしよう…おれっ…」
上擦った声でそう言ったマサルは、既に涙を零しながら母親のエプロンをぬらしていた。
マサルと同じ目線になるように座り込んだ母親は、大粒の涙を零している息子を優しく抱き寄せる。
しっかりと母親の背に腕を回して、マサルは赤ん坊のようにしゃくりあげた。
「とーまにひどいこといっちゃった…!うぇええんっ…どうしようっ…どうしよっ…」
マサルが涙の訳を話しても、母親は何も言わずにただマサルを抱きしめていた。
彼の涙が止まるまでずっと。
キスの一件で、せっかく作った友達をなくしてしまった。
マサルはぽろぽろと涙を零しながらそんなことをおもった。
初めてトーマと出会ったのは母親に連れられて行った八百屋だ。
見慣れないはちみつ色の少年が、野菜をたっぷり両手に持って母親らしき女性と買い物をしているのを見たマサルは、すぐに少年へ声をかけた。
理由は「にんぎょうみたいでかわいかったから」。
声をかけられたトーマは、僅かに人見知りをするように母親の背に隠れたけれど、母親に促されるようにマサルの呼びかけに応えた。
「あの…ぼく、トーマです」
それが第一声。
どうやらトーマの近所は、トーマと同い年の子供がいないらしい。
母親の前では明るいトーマだが、母親以外の人間とあまり接することがないせいか、少し緊張しながらマサルに挨拶をした。
それでもすぐに打ち解けたふたりは、互いの家に泊まりに行ったり公園に行ったりと少しずつ親睦を深めていく。
それなのに、たった一言でふたりの縁はぷっつりと途切れた。
一日、二日、トーマと会わない日が続く。
マサルは、何度もトーマの家の前を通ったり、公園を覗いてみたがトーマの姿はない。
本当に嫌われてしまったんだろうか。
そんな事をおもいながらトーマの家を通りがかったマサルは、そこで大きな車を見つけた。
トーマの母親は車なんて持っていないはず。
家の前に止めてあるのはどこか高級そうな、黒い車だ。
車に見惚れていたマサルは、トーマの家から出てきた金髪の男を見て慌てたように電柱の影へ隠れた。
金髪の男は足早に車へと向かう。
遅れてトーマが家から出てきた。
トーマの目は赤く腫れてしまっている。
胸に母の遺影を抱えているが、幼いマサルには遺影が何を示すのかわからなかった。
「おとうさんっ!」
トーマの声が男を呼ぶ。
金髪の男はすぐさま振り返ったが、使用人らしき男を見やって何かを指示した。
指示を受けた男は、トーマに近付いて何事か言っている。
「トーマさま、私たちと共にオーストリアへ来て頂きます」
「おーすとりあ…?どこ?そこ…。なんで、ぼく…」
事情が飲み込めていないトーマは、不安そうに父と使用人を見つめて俯いた。
マサルにはオーストリアという場所がどこだか分からないが、トーマがどこかへ引っ越してしまうのだと言うことだけは分かる。
電柱の影に隠れたままのマサルは、慌てたように飛び出した。
「おまえっ、とーまをどこにつれていくつもりなんだよっ!?」
「まさる…!」
突然、電柱の影から現れたマサルを見て、トーマはアイスブルーの瞳を丸くした。
その表情が少しばかり嬉しそうな色に変わる。
だが、使用人の男がトーマを庇うように立ちはだかった。
マサルの胸ぐらを掴み上げて、いとも容易く持ち上げてしまう。
「なんだおまえは?トーマさまに無礼な口をきくな。このお方はノルシュタイン家の…」
「や、やめて!いくから…おーすとりあにいくから、まさるにひどいことしないで…」
男にしがみついたトーマは、アイスブルーの瞳を揺らしながら懇願する。
同時に、マサルは乱暴に地面に下ろされた。
トーマは男に庇われるように車へと誘導されていく。
「と、とーま…!」
マサルが上擦った声でトーマを呼ぶが、はちみつ色の髪をした少年は遺影を強く抱き抱えて俯いているだけだった。
それでも、すれ違いざまに微かな声を漏らす。
「…このまえはごめんね、まさる」
たったそれだけの短い謝罪をしたトーマは、すぐに車へ乗り込んだ。
排気ガスを吐いて去っていく車を見ながら、マサルは呆然とへたりこむ。
何もかも一瞬のできごとのようでうまく整理できない。
はっきりしていることは、もうトーマに会えないということ。
それだけがマサルの頭で理解できたことだった。
「今日はバレンタインかー…トーマにもらえるかなァ?」
「小百合にも知香にも淑乃にも貰っといて貪欲だぞーあにきぃ」
ジョギングをしながら恋人の家を目指す俺に、アグモンがたしなめるような声を上げる。
いーじゃん、俺は貪欲なんだよと言い返してみた。
せっかく恋人同士になったんだからチョコくらいくれるよな?
そんな事をおもいながらトーマの家にたどり着くと、大きな扉を叩いて自慢の声を張り上げてみる。
「トーマァー!おっはよーーーーッ!!」
俺の声の後に、ゆっくりと扉の開く音が聞こえた。
顔を覗かせたのは、ガウンを着た恋人。
大きく開いた胸元がセクシーだった。
どこか暗い表情をしたトーマは、俺を一瞥して目を逸らす。
「近所迷惑だ、つまみ出せ」
トーマが指を鳴らしたのと同時に黒服の男たちがバラバラとどこからともなく現れる。
俺は慌てて群がってくる男たちを殴り倒した。
全員殴り倒した頃には、もう扉は完全に閉まっている。
「あっ、トーマの野郎…鍵までかけやがった」
扉に手をかけてみたけど引いても押してもビクともしない。
俺は一旦庭に出ると、トーマの部屋がある窓を睨んでしばし考えた。
壁上りなんで原始的だろうか。
いや、考えてる時間も惜しい。
「あ、あにき…なにやってんだよぉ」
「何って…決まってんだろ?」
俺はトーマの家の壁に足をかけて勢い良く登り始めた。
呆れたようなアグモンの声が聞こえるけど気にならない。
途中で、つるつるした壁に足をとられそうになりながらもトーマの部屋の窓へとたどり着いた。
おもむろに覗き込むと、案の定トーマが椅子に腰掛けてぼんやりしている。
俺は窓を思い切り開けて身を乗り出した。
「よっ、トーマ!」
「ひいっ!?なんて所から入ってくるんだ君は!」
窓から侵入した俺に相当驚いたのか、トーマは椅子から転げ落ちそうになっている。
俺は改めてトーマの部屋を見回した。
本、本、本。どこを見ても本だらけ。
「天才って早死にするんだって聞いたぞ」
「嫌味か?壁を登ってきたオサルに言われたくはないね」
トーマは俺に顔をグッと近づけて言ってのけると諦めたように机の引き出しを開けた。
巨大なベッドに腰掛けてスプリングのききすぎた感触を楽しんでいる俺を見下ろしてトーマがため息をつく。
手に持っているのは薄い茶色の包み紙だった。
「どうせこれがほしくてきたんだろう?」
トーマの声は、少し恥ずかしそうな色を含んでいる。
ポンと投げて俺に渡されたその包み紙の中は英語か何かで文字のかかれたチョコレート。
顔を上げてトーマを見やると、あいつは俺の視線から逃げるように顔を伏せる。
その顔は真っ赤だ。
好意バレバレのその表情で、難しい英語でも何て書かれてるのか、すぐに分かった。
「…俺のことが大好きって書いた?」
「……うるさい」
「俺のこと好きだろ?」
「うるさい」
「俺はおまえの事大好きだけどなー」
「……っ…」
いつもならここで、真っ赤になって何も言い返してこない恋人が見られるのに、今日は違った。
悲しそうな表情を浮かべて顔を背けている。
唇を噛んで、子供のようにアイスブルーの瞳を揺らしながら震える声で言うんだ。
「…僕のキスを拒むような男が…軽々しく好きだの愛してるだのと戯言をぬかすな」
憎々しげに言ったトーマは、すぐにハッと息を飲む。
俺にはトーマの言葉の意味が分からなかった。
トーマからのキスを拒むなんて恋人じゃねえ。
つか…トーマからキスをせがまれたことなんて一度もねえぞ。
「おい、誰と間違えてんだよ」
「ち…違う。すまない、夢の中の話なんだ…忘れてくれ」
トーマに掴みかかった俺は、そのままほっそりした恋人の体をベッドに押し倒す。
恋人は苦虫を噛み潰したような顔をして俺を見つめた。
手に持ったままのチョコをきつく握る。
トーマの体からはチョコの匂いが立ち上っていた。
全身、チョコの匂いにまみれながら俺宛のチョコを作ってくれたのか。
俺は黙ってトーマを見下ろしていた。
そんな視線に耐えかねたのか、トーマはたれ目がちの目を俺に向ける。
「…キス、して…くれ」
トーマの眉がきゅっと寄せられる。
同時に、白い腕が俺の背に伸びるから俺はそのままトーマに抱きしめられた。
「怖い夢を見たんだっ…だから、キスしてほしいんだっ!僕を…拒まないでほしいんだ…」
恋人の声は震えている。
何を言っているのか、俺には解らない。
けどトーマは悪夢に怯えている。
助けてほしいと、俺を呼んでいる。
だったら俺は…。
「んっ…ふ、ぁ…」
おもむろに唇を重ねると、トーマの上擦った声が漏れた。
ちゅ、と音を立てて大好きな唇を吸う。
咥内もチョコの味がした。
「おまえ、チョコ食べたろ」
「味見が必要だったのだから…仕方ないじゃないか…」
指摘を受けて、トーマは頬を真っ赤に染めた。
ぺろりと俺の舌を舐めて、猫のように口付けを求める恋人は俺の手の中にあるチョコの包装紙を完全に解いて綺麗な文字が彫られたチョコを口にくわえて親指くらいの大きさに折った。
トーマはチョコをくわえて、ねだるように俺を見つめている。
「キス、ほしい…。君がしないなら僕が…」
小悪魔のようなアイスブルーの瞳が妖艶に細められる。
俺は唇を奪われるより先に、トーマの唇を乱暴に奪った。
チョコと一緒に小さな舌を吸い上げると、甘ったるい吐息を感じた。
「んん、ふぅ…んく…キス、すると子供ができるんだよな…。僕の子供ができたら、どうする?」
トーマは独り言のような声でぽつりと漏らした。
何か含みのある言葉。
俺が首を傾げると、トーマは少し悲しそうに笑って言う。
「夢の話だよ」
夢という言葉を繰り返して、恋人は顔を伏せた。
細い肩は小さく震えていてどこか頼りない。
「どんな夢だったんだ?」
俺が問うと、トーマはもう一度チョコをかじって顔を上げる。
きゅっと眉を寄せて、どこか悩ましげな顔をしながら俺の唇に口付けるんだ。
トーマの体を抱きとめるとくぐもった吐息が聞こえた。
くちゅ。
チョコが溶けて、淫猥な響きになる。
つうっと、溶けたそれが俺の顎を伝う。
けれどすぐにトーマの舌が俺を舐めた。
長い睫毛が伏せられていて、色っぽくて…でもどこか悲しげな表情だ。
「…小さい頃に、僕とマサルが友達だった、っていう夢を見たんだ…」
友達だったはず、ないのに。と付け足してトーマが笑う。
俺もつられて笑った。
だけど、トーマは口付けをやめて俺を見つめている。
その瞳は、真剣そのもの。
だから笑えなかった。
トーマが続ける。
「僕は幼いマサルに、結婚しようって…キスをすれば子供ができるって言われた。僕はそれを信じて…ならキスしてごらん?と言うんだけど、君は…」
アイスブルーの瞳が揺らぐ。
赤くなった目にじわりと涙が浮かんでいた。
同時に、トーマの瞳から大粒の涙が零れる。
「…おまえなんかにキスはしないと…言った。そのあとすぐに親に不幸があって…」
怖い夢だった。
トーマはそう呟いて俺の体をきつくきつく抱きしめる。
少しだけ俺の胸がちくんと痛む。
夢の中の出来事とは言え、俺はトーマを傷つけたんだろう。
だから今日のトーマはそっけないんだ。
どこか悲しそうで、不安な色を含んでいる。
俺はトーマの頬を撫でた。
「キス、しよう。トーマ…おまえが落ち着くまで何回でもしてやる」
俺がそういうと、恋人は目を瞬いて戸惑うような表情を見せた。
それでも、ほんの少し体の力を抜いて肯定の笑みを浮かべる。
パキンと音を立てて再びチョコのカケラをくわえると、トーマは口付けを求めるように顔を上げた。
「…今度は僕から逃げないでくれ。マサル…」
トーマの唇が、そっと俺のものに吸い付く。甘い甘い香りだ。
今度は、という言葉が夢の事を指しているのか現実のことを指しているのか解らない。
けど記憶の片隅で何か大事なことがあったような、トーマと良く似た少年とじゃれあったような気がした。
…ただのデジャブ、なのかな。
そうおもいながらも目の前の口付けに酔いしれている俺はすぐにその考えを打ち消した。
まるで、嫌なおもいでを記憶の片隅に押し戻すみたいに。
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子供時代に出会ってた〜という話。パラレル…です(汗)
ホワイトデーの時にこのお話の続きを書きます〜。
仔トーマと仔マサルのラブラブなども書く予定。