「退院おめでとう、隊長」
ぽんと軽く肩が叩かれた。
教科書を机の上で整えながら顔を上げると、黒髪の美少年が笑っていた。
4時間目も終わって、みんなが食堂に向かう中、君は僕を待っているようにも見えて。
5時間目の用意をしている僕を飽きずに見つめながら、今日初めて声をかけてきたのだ。
第一声が退院おめでとうとは。
僕は口元だけで笑おうか考えながら、だけども大袈裟に笑った。
「あっはっは…ありがとう、小島くん。嬉しいよ」
本当は笑えるほどの気分じゃないんだけどね。
今の戦況は前回の戦闘のせいで不利。
それもこれも、僕が指示間違いや機体点検のミスを繰り返したせいだった。
この入院も当然の結果だったのだ。
お陰で周りの隊員にも大きな傷を与えて、迷惑をかけた。
まだ入院している者もいるくらいだ。
彼もその1人だった。
僕の指示を信じて戦って、そして倒れた。
「岩崎くん、ちょっといい?」
礼だけ言って黙ってしまった僕を見て話しかけにくいと感じたのか、航は少しだけ遠慮がちに口を開いた。
彼は小島航。どうしてこうも僕につきまとうのか分からない部下の1人だ。
別に特別仲がいいわけでもないし、話すのはたまに…仕事の事や勉強のことだけだ。
それでも彼は僕の事をよくおもっているようだった。
隊長、隊長、と言って何かと世話を焼いてくれる。
傍から見ればそれは"頼んでもいないのに横から口を出してくるうるさい奴"なのだろう。
僕もそれはおもう。
けどそれがおかしくて、別に迷惑ではなかったから口には出さなかった。
「うんうん、何かな?お金は貸せないよ」
「か、借りないよ。俺は岩崎くんと違って潤ってるからね」
「あはは、だよねぇ」
短い冗談を交わすと、航はズボンのポケットに手を突っ込んでからそれをゆっくりと引き出した。
航の手の中にあるのは、最初は紙切れかと思ったが水族館のチケットだった。
僕の視線に気付いたのか、航は口の端を上げて勝気な笑みを見せてくれる。
「よかったら一緒に行かない?最近は戦闘続きで気持ちも参ってるだろうから気晴らしにでもなれば嬉しいんだ」
航は、チケットに映っているペンギンを指でなぞると僕の机の上に置いて言った。
僕に断る理由はないけど、遊びになんて行く気にはなれない。
今は遊んでいる場合でもなく、僕は名誉を挽回しなくてはいけないんだ。
隊員たちの信頼も取り戻さないといけないし、はしゃぐ気分になれなかった。
そんな僕の気持ちを察したのか、航は少しだけ綺麗な顔に影を落として笑った。
「…まだ気にしてるのか?前回の戦い。仕方なかったんだよ、岩崎くんは頑張ったじゃないか」
航はゆっくり屈むと、僕の机の上に腕を置いて慰めるように言った。
仕方なかった、なんて気休めにもならない。
そうおもったが、僕は航の手にあるチケットを取った。
「いつだい?水族館は」
「え?」
僕の発言に、航はきょとんとした顔をしている。
それでもすぐに、今週の日曜だと言って立ち上がった。
「行こうか、水族館デート」
僕はチケットを口に当てて軽くキスをすると、それを航に返す。
デートという言葉に航が吹き出している。
そんなにおかしな事を言った覚えは無いんだけどなぁ。
「ははっ、ずいぶん色気のないデートだね…了解。じゃあ朝の9時に市街地で待ってます。時間になったら岩崎くんの家に行くよ」
「いやいやいや、僕が小島王子の家にお迎えに上がりますよ」
「あははは…じゃあ間を取ってやっぱり市街地で待ち合わせしようか?」
航は、王子様と呼ぶにはどこか違う無邪気な笑みを浮かべて僕に提案した。
彼の容姿は女子達に王子と騒がれるけど、僕はどちらかと言うと王女という表現が合うんじゃないかとおもっている。
切れ長の瞳に肩まで長い漆黒の髪。
どこか暗い表情をしていて、色っぽくも見える。
体つきは華奢だから、後ろから見ると女の子にしか見えない彼がどうして王子と呼ばれるのか謎だった。
一度、谷口くんに航の容姿のことを話したことがあるけど、彼は苦い顔をして胃薬を飲みながら"性悪王子の間違いでは?"と言っていた気がする。
そんなに性格が悪いようには見えないけどねぇ。
「岩崎くん、聞いてる?遅刻は厳禁だからな」
航は、いつのまにかメモ帳に何かを書きとめてからそれを僕に見せた。
"今週の日曜9時から、市街地でデート(笑)"
そう書いてあった。
僕は頷いて笑ってみせる。
「小島王子を待たせるなんて事しないよ、15分前には待ってるから」
「へえ…なら俺は20分前には待っていようかな」
「…うんうん、じゃあ僕は30分前に待ってるよ」
「じゃあ僕は40分前に…あはは、これじゃあキリがないな」
航は腹を押さえて笑うと、チケットをポケットにしまって笑った。
彼がご機嫌なのは僕の事を気遣っているのか、それとも本当に楽しんでいるんだろうか。
不思議におもったけど、僕は彼に合わせる事にした。
航はチケットをしまうと、軽く僕へ手を振った。
「じゃあ、今週の日曜は9時ぴったりに市街地で」
「…あれ…早退するのかい?」
見ると、航は通学用鞄を持っていた。
僕の問いに航の目が点になるが、すぐに僕の肩を叩いて笑う。
「やだなあ、今日は土曜…半日だよ?みんなだってもう帰ってるか訓練してるかのどっちかじゃないか」
入院生活が長引いて時間感覚狂っちゃった?と少しいたずらな事を言って航が笑う。
僕は拗ねたように唇を尖らせたけど、相手には全く通じてないようだ。
帰ろうとした航の足がふと立ち止まる。
そうしてくるりと僕に振り返ると、いきなり耳元に顔を寄せた。
髪の匂いだろうか、シャンプーの香りがどこか女の子みたいで変な気分になる。
航は僕の耳に唇を寄せると"デートの約束、忘れたら一週間俺の奴隷だからな"と、それだけ言った。
それが意外に低い声で、色っぽいなとおもう。
すぐに身を離した航は、僕の気持ちなんてお構いなしと言った風にひらひらと手を振って教室から出て行く。
谷口くんが、彼を性悪王子と呼ぶのも分かる気がするなぁ…。
僕は苦笑しながら机に伏せた。
けだるい意識の果てで目覚まし時計のけたたましい音が聞こえる。
僕は、どうしてこんな早くに時計が鳴るんだとおもいながら布団の中から手を伸ばす。
カチリと時計のスイッチを切ると、寒い空気から逃れるように布団をかぶった。
何で青森の冬はこうも寒いんだろう。
ああもう、クマみたいに冬眠したいよ。
そんな事を考えながら枕に頬擦りをすると、朧気ながら昨日の"王子"の姿が脳裏に蘇る。
デートだなんて言って嬉しそうに笑っていたっけな。
そうおもうと、だんだん意識がはっきりしてくる。
僕は掛け布団の甘い呪縛から逃れて立ち上がった。
今日は快晴で絶好のデート日和…なんてね。
洋服タンスの元に行って服を漁りながら、僕は自然と笑みを浮かべた。
何だかんだ行って僕は彼と羽を伸ばせるのを楽しみにしているのかもしれない。
僕は簡単な朝食を済ませてから家を出た。
世間はもう正月だと言っている。
今世紀最後のクリスマスは病院だったんだよなぁ…虚しいといえば虚しいかもしれない。
正月くらいは友達を誘ってどこかに出かけようか。
航でもいいかもしれない。
そんな事をおもいながら、僕は小走りで市街地への道を抜けた。
時計を見ると、時刻は8時45分…余裕で間に合う。
僕は道路を渡ろうとして、何歩か足を進みだした。
その時、うるさいくらいのクラクションの音がして体に衝撃が走る。
車?ぶつけられた?
僕が考えるまでもなく、どこからか人の声がする。
地面に叩きつけられたような気がして、全身の感覚がなかった。
血が目に入ったのか、目がちょっと痛い。
アスファルトが冷たくて、それがどこか心地よくて、僕は気持ち悪いくらい青い空を見上げながら目を閉じた。
入院していたときの傷も開いたような気がする。
せっかく傷がくっついたのに、また入院かなぁ。
正月も病院かとおもうと笑えてくる。
僕は、救急車の音を子守唄代わりに聞きながらゆっくりと意識を手放した。
ちゅ、と短い音がした。
唇に柔らかいものが触れた気がして目覚めたのは、白い部屋。
同時に翡翠の瞳に涙をいっぱい溜めて僕を見ている少年の姿が目に入る。
彼が小島航であることに気付くまで、少し時間がかかった。
航は普段の明るく、強かな表情からは想像もつかないくらい哀しそうな顔を僕に向けている。
目と鼻の先に、君がいる。
どうしたんだい?まさか僕は眠りの荊姫で君は王子様とか?
そんな冗談を言おうとして、やめた。
航がぎゅっと目をつぶる。
ぽたぽたと熱い涙が僕の頬に降って来た。
「…たいちょ…岩崎くん…岩崎くん…」
航は見慣れない私服を着ていた。
ああ、そうだ。今日は航と"デート"だったんだ。
僕は市街地に出かける途中で何かにはねられて、それから。
きっとここは病院なのだろう。薬の匂いがした。
航はボロボロと翡翠の瞳からとめどなく涙を流しながら僕の名前を呼んだ。
僕が起きたことに気付いていないらしい。
「…頼むから…誰か助けてください。誰でもいいから、隊長を助けてください」
航は、いつの間にか包帯だらけの僕の手を強く握って口の中で呟いていた。
良い部下を持ったなぁ、なんておもいながら僕は小さく指を動かした。
航の手の中で指を動かすと、それに気付いたのか航が泣きはらした目を僕に向ける。
「…あはは…ごめん、一週間奴隷決定かな?」
僕は、笑うだけしかできなかった。
手を握っている航が大きくかぶりを振る。
言葉も出ないのか、小さな嗚咽が聞こえた。
小さな肩が震えていて、そういう趣味はないはずなのに抱きしめたくなってしまう気持ちになる。
僕は航の頬に手を当てた。
おもったよりも小さな顔だ。柔らかい肌がしっとりと僕の手に吸い付く。
航は手の甲で涙を拭いながらしゃくりあげていた。
「…っく、…岩崎くんはいつも頑張ってたのに…だから俺、水族館…っう…」
途切れ途切れにそう言って、航が俯いた。
手が痺れてしまってゆっくりと頬から肩に手を落とすと、航の肩がびくんと震えた。
顔を上げた航の顔は痛ましいくらいほど、涙を流している。
僕のために。
「…君が泣く事はないよ」
僕は、航の背中に手をやって軽く引き寄せた。
細身の体が促されるように僕の顔の両側…つまり枕に両手を乗せて、僕を見下ろす。
航は、少しだけ僕の顔を見つめて目を瞑った。
僕の心の中で何かの力が働く。
目の前にいるのはクラスメートで、僕の部下で、友達で、男だ。
それなのに僕は、彼にキスをしたいとおもってしまった。
彼は僕を純粋に慕っているだけなのに。
「…航」
僕は、彼の後頭部に手を添えてから抵抗できるくらいゆっくりと顔を寄せた。
唇が触れ合いそうになった時、少しだけ航が動いた。
彼は自分から口付けるように顔を寄せて、僕の唇を塞ぐ。
唇から小さな心音を感じた。
ただ押し付けるような甘い口付けが愛しくて、僕は目を伏せる。
少しばかり口を開けた航につられるように舌を差し入れると、航は喉を鳴らして小さい声を上げた。
「…んっ…ふ…」
王子と呼ばれていた彼が、僕にキスをしている。
小さく身じろぎをするのが可愛いとおもった。
口の端から漏れる吐息も、控えめに求めてくる舌も。
「んん…岩崎、くん…あ…」
ゾク、と背筋に快感のようなものが走った。
低い少年の声が途切れ途切れに甘い音を奏でて、それを耳にするたびに僕の中の悪魔が囁きかけてくる。
航は、僕の体に負担をかけまいと両手で自分の体重を支えているようだったが、それがカクカクと震えていた。
抱きしめて僕の体に総てを預けてもらいたいとはおもうけど今の僕は怪我で重症だ。
さすがにそんなことはできない。
「はぁっ…」
不意に航が艶めいたため息を吐いて口を離した。
その顔は、困ったような恥ずかしがっているような、そんな表情。
僕は口を開いた。
「男の人とキスとか、したことあるのかい?」
「…そんなもの、あるわけないだろ。岩崎くんが初めてだ」
初めて、と言う言葉に疑問を感じる。
ならばどうして、こんなに抵抗無くキスなんかしたのだろう。
僕の疑問に答えるように、航が目を細めて笑った。
「…俺は…隊長が好きなんだ。言わなかったか…?」
さらりとした言葉だったが、好き、という部分だけ少し小さな声で言った辺り羞恥は感じているんだろう。
航の頬は少しだけ赤く染まっていた。
僕は彼の後頭部を掴んだまま、再度眠気が襲ってくるのを感じる。
視線の先で、航が笑った。
声が震えている。
「…大晦日はさ、ここに来てもいい?」
そりゃありがたい。
一人身の正月なんて嫌だから嬉しいくらいだよ。
僕は少しだけ笑った。
体の力がどんどん抜けていく。
視界が閉じていった。
うっすら開けたままの目の先で、君が涙を堪えた様子で僕を見ている。
唇に柔らかいものが触れた気がするなぁと感じたのを最後に、僕の意識は暗闇の中に沈んでいった。
体が軽くて気持ちいい。
僕はきっと、意識を手放したときに一回死んだんだ。
そうおもいながら、ただ笑った。
「岩崎くん、退院おめでとう…それと、あ・はっぴー・にゅー・いやー!…かな?」
紙袋と大きな花束を持った君が可愛く小首を傾げた。
時はもう2000年。
新しい年の始まりだ。
案外早くに完治した僕の怪我は小島先生の計らいによりちょっといい所の病院で診てもらえることになった。
だから治りも早かったってわけ。
本当なら治療に2週間くらいかかるそうだけど僕の場合は5日で済んだ。
その代わり、お金はすごく高かったっていうのは別の話。
君は僕に花束を渡してはにかむ。
彼は小島航。
僕の部下であり、コイビトだ。
もちろん、コイビトだと口に出したことはない。
けど病院でキスをしてから、お互いの中にはどこか友情とは違う気持ちが宿り始めていた。
「元旦に退院できてよかったな。体…鈍ってない?」
「ははは、すごく鈍ってる」
「じゃあ沢山体力作りしないといけないね。訓練メニュー作っておいたから」
夜の街を歩きながら、僕たちは他愛の無い話をする。
航は、あの日から一日も欠かさず僕の見舞いに来てくれた。
看護婦が見ていないところでこっそりと、僕らは隠れてキスをした。
そのたびにはにかむ航が可愛くて、僕の心の中はだんだんと小島航と言う少年でいっぱいになっていく。
彼もきっと、そうだとおもった。
「…ああ、結局クリスマスケーキ食べられなかったな」
僕が小さい声でそう言うと、航は不思議そうな顔をしてから手にもっていた紙袋から包みを取り出した。
そうして、僕に突き出す。
彼の顔は笑ってたけど、その頬は赤くなっていた。
「元旦にケーキっていうのも変かもしれないけど…よかったら食べる?」
ぐるぐるとギンガムチェックの包みにくるまっているそれは食べ物らしい。
僕は好意に甘える事にした。
僕の笑顔を了承の意味と取ったのか、航は先を歩き出しながら公園を指差す。
「あそこで座って食べようか」
僕の体を気遣ってか、航はゆっくりと歩き始めた。
公園に入ると、さすがに夜だからか誰もいない。
カップルくらいはいるとおもったけど、それさえもいなかった。
航はベンチの砂を払ってから僕を促すようにしてから座る。
何だかデートみたいだな…と今更思った。
航が包みからイチゴのケーキを取り出す。
市販のものではないらしく、どこか手作りのような感があった。
「小島くん、ケーキなんて作れるのかい?」
「え?あ、ああ…」
僕の問いに、航は照れくさそうに笑ってから目を逸らした。
当てて欲しくなかったらしい。
差し出されたままの柔らかそうなケーキを口にいれると、口の中にクリームの甘い味が広がった。
僕が食べる様子を見ながら航がホッと息をつく。
「…よかった、食べられるんだ。…ああ、でも腐った弁当が入る胃なんだから食べられて当然か…」
「何だい何だい、嫌味だなぁ。毒薬でも入っているとか?」
「失礼だな…」
航は楽しそうに言いながら、ケーキを食べる僕を見て口元を綻ばせた。
ケーキの上に乗ったイチゴを取って航に差し出すと、彼は翡翠の瞳を丸くして不思議そうな顔をしている。
そのまま、航の唇にイチゴを当てると彼はイチゴを口にくわえて照れくさそうに僕を見た。
赤いイチゴが僕の事を誘っているように見えて仕方ない。
僕がイチゴを見つめていると、彼もそれに気付いたのかゆっくりと顔を寄せて僕の唇を塞ぐ。
ちゅ、と乾いた音が聞こえた。
片手で余るくらいキスを交わしてきた僕ら。
キスばっかりして、唇が腫れてしまうんじゃないかとか、おもわないわけじゃない。
航はイチゴをやんわりと噛みながら唇を重ねた。
甘い、キスだ。
「…ん、岩崎くん…もっとしよう?」
腰がとろけそうなキスをして、君はそう言った。
翡翠の瞳は優しくて恥らうような色をしている。
僕は、航の体を強く抱いた。
病院の中ではできなかった事だ。
びりびりと痺れていた腕も、しっかりと君を抱きしめられる。
僕は花束を地面に置いてから航の体をベンチの上に寝かせた。
暗くてよく分からないけど、赤く染まった肌が見える。
僕はもう一度、その体を覆うようにして航にキスをした。
「…っん、岩崎くん…」
そっと僕が彼の体に被さると、背中に腕が伸びた。
小さな衣擦れの音が聞こえる。
僕は何度もキスをしながら、航の吐息を耳にした。
男の吐息でこんなにドキドキするなんて、不思議だ。
乾いた水のような音を立てて、服をゆっくりと地面に落としていく。
冬の空気は寒いからなかなか素肌なんか晒せない。
僕は着ているコートで航の体を覆うように体を伏せた。
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岩航です。初えっちだったんだとおもいたい(爆)